映画批評.藤村隆史
映画館で見た映画についての批評コーナー。『グッズ』とは映画館その他でグッズを売っているかどうか。『評価』は作品の点数、『照明』は光の採点。
2010年封切館(2024年7月5日再出)
評価 | 照明 | ||
ノルウェイの森(2010日) | 監督脚本トラン・アン・ユン撮影リー・ピンビン たき火のあと、女がギターを「室内で」弾き出したところで帰る。45分くらいか。何も始まらないので。 最近は日本製シネコン映画を見ていて鼻から息が出てしまってしょうがない。フンッっと鼻から、リチャード・ギアみたいに「ふんっ」って。思わず出ちゃう。あまりの低俗さに思わず「ふんっ」と。 リー・ピンビンのような一流を、それにそぐわない者たちが使えてしまうことの恥ずかしさ、成金趣味。 |
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シングルマン(2009米) | 監督トム・フォード 4分で出ようと思ったが、よもやと思って7分ほど待ち、どうにもならないのでもう15分ほど映画研究塾の将来のことを考えてから出た。外は豪雨で傘を吹き飛ばされた。 |
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ペルシャ猫を誰も知らない(2009イラン) | 80 | 80 | 監督バフマン・ゴバディ撮影テゥラジ・アスラニー バイクで街中を疾走するシーンなど、長回しで撮ってよさそうなものだが、それがふと途切れてしまう、その分断の連続に「命を懸けて撮ること」が露呈している。イランで無許可でゲリラ撮影をすることとは、「長回しで撮りたくても撮れないこと」を意味するのだ。だからこそその細切れが愛おしいほどの力でもって画面を揺らしてくる。 フィルムがその都度更新されてゆく、その度に人間が画面を埋め尽くしている。屋上の窮屈なプレパブ小屋の中で演奏をしているミュージシャンたちのあの弛まない運動感というのは何処から来るのか。 取調室のあの男の言い訳マシンガントークの香りというのは、おそらくアメリカ映画的なものだろう。まるで「何も変えてはならない」(2009)だ。捕まった男がひたすらバカバカしい弁解を繰り返す。フレームの中にはその男しか映し出されておらず、取調官はその声しか聞こえてこない。それを扉の陰から友人が盗み見する。一見何の変哲もないショットの連なりの中に、幾つの「ずれ」が生じているか数えてみよう。 地下のあの偽造屋の老人。どこまでほんとなのかサッパリ分からない「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の「子供」を一方に置いたとき、人間を描く、撮る、というのはまさに人間力なのだということを残酷にも露呈させてしまっている。さらにまた、この地下室で順番待ちをして座っている婦人の「顔」というのが実に素晴らしい。どうやったらああいう顔になるのか。 最後にみんなでローソクに火を灯し、みんなで歌う。こういうことが、ゴバディにとっては重要な出来事であったはず。 |
SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010)
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40 | 40 | 監督山崎貴 このところの日本製シネコン映画の代表ということでワーストテン入り。それが別にどうというわけでもないが。 映画の記憶として、部分部分で褒めることも不可能ではないが、同情抜きに褒めることはできない、ということは、褒めるべきではない。 日活ロマンポルノなどを見ていても、「猥褻さ」というものを感じたことはめったにないが、最近の日本製シネコン映画は、露骨なまでの「猥褻さ」を露呈させ続けている。木村と黒木が向かい合ってキスをするシーンなど「猥褻」さ。感傷的なシーンであれば何をやってもいいという甘ったれた動物性に支配されている。役者たちが「内輪乗り」でグロテスクな感傷に浸って号泣し、見ている者は蚊帳の外へ。「ヤマト」にしても「雷桜」にしても、まさかここで口移しで水を飲ましたり人工呼吸をするなどということはあるまいと信じて見ていると、アッサリしてしまう。何の葛藤もなしに。こういうのは「サービス」ではなくただの下種である。見ている者たちをして安直にある一定の方向へと駆り立てるためだけの空虚なショットだ。それがために照明にもアングルにもカッティングにもなにひとつ心を砕くことなくばっと始まりだらしなく終わる。そして何よりも「てれ」がない。「てれ」とは撮る者のそれである。ラブシーンなるものを「てれ」なしに撮れてしまうことの「健全さ」こそ「猥褻さ」への一本道に他ならない。といっても通じないが。 脚本が悪い、いいや監督だ、キャメラマンだ、プロデューサーだ、というレベルを遥か超えている。 これは「子供向け映画」ではない。「ガキ向け映画」でもまたない。日本人向けの睡眠薬である。 役者はもう少し作品を選びなさい、と言ってもそもそも日本製シネコン映画の場合「選択肢」がないので選びようもない。「アマルフィ 女神の報酬」(2009)のような「宝くじ」にはめったに当たらない。その「宝くじ」に当たったところで批評家は払い戻してくれないのだからどうしようもない。ヤケにもなる。 しかし現にトム・クルーズのように、バカなフリしてちゃんと作品を選んでいるスターもいる。 ヤマトが人類を救うなどという夢物語は、せいぜい1990年代前半までが限度の限度であって、それを「尖閣」の後に出してしまうというのはタイミングとして最悪というべき運の悪さだが、今の時代なら、地球全体が核に汚染され、さぁヤマトはどうするか、アメリカに頼るか、中国と和解するか、、、ヤマトひとりでは何もできない、、そうして、ハッっと周囲を見渡したら、ほかの国はすべて他の惑星へ避難していた、、、という設定こそドンピシャの「日本的状況」なのであって、それをヤマトが人類を救うなどという夢遊病は、どんな寓話をこじつけたところで50年古い。どうでもいいけど。 こんなガキどもに守ってもらうくらいなら、滅びるのが人類の誇りではないのか、、という究極の選択を「映画の外で」迫ってくる。あくまでも「外部」であるが。 VFXが光の前にしゃしゃり出て、王様のごとくに振る舞っている。アメリカやヨーロッパのキャメラマンたちが盛り返している今このときに、日本のそれは恥ずかしい限り。こうしたレベルの差は最早「金がない」などという一言で片づけられるオハナシではない。ただ端的に情熱を欠いている。批評家も同じだが。 |
キス&キル(2010米) | 50 | 50 | 監督ロバート・ルケティック 「ナイト&デイ」(2010)と同じように見えて映画の力がまったく異質だ。何も分かっていない。そもそもが品性を欠いている。 女優の肌を撮り方がなっていない。シミ、そばかすのオンパレード。隠そうとして映ってしまっているところが恥ずかしいのだ。 それでいながら、物語の体裁上、いつか映画が動くだろうと思って見ていると、それなりに動いてくれる。これが動くわけがないものばかりを撮っている日本製シネコン映画と決定的に異なるところ。 グッズなし |
ボローニャの夕暮れ(2008伊) | 73 | 87 | 監督プピ・アヴァティ撮影パスクァーレ・ラキーニ 画面の色の出方が抜群。どうやったらこんな画面になるのか。娘が逮捕された後、母親が家でアイロンをかけているショットは、背後の窓の向こうに降り注ぐ雨が遠近法を破壊するほど際立っている。 あと一つ、何かが足りない、というのは現代の映画病だが、どこかの国のシネコン映画のように、「何もない」よりは「足りない」方が幾らかましである。 |
武士の家計簿(2010日本) | 監督森田芳光 40分で出る。 よく恥ずかしげもなくこういう映画が撮れるなと。おじいちゃん、おばぁちゃんに媚を売って関心を買い、既成事実を積み重ねて行けば屑も道になるという。それはある種のポピュリズムだが。 |
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メッセージ そして愛が残る(2008独、仏、カナダ) | 78 | 88 | 監督ジル・ブルドス撮影リー・ピンビン俳優ロマン・デュリス、ジョン・マルコビッチ 荒唐無稽な物語はその源が余りにも単純であるが故に物語から自由でいられる。「瞳の奥の秘密」とこの作品は何かしら似ているのではないか。シネモンドはいつもながら実に面白い作品を並べて来る。 リー・ピンビンが余りにも素晴らしいが、それだけでは映画にならないということは「空気人形」と「ノルウェイの森」が証明している。 ジョン・マルコビッチ。この人が出てくると、私はいつもその映画がどの国の制作した作品か分からなくなってしまうのだ。 |
瞳の奥の秘密(2009スペイン、アルゼンチン) | 76 | 60 | 監督フアン・ホセ・カンパネラ俳優リカルド・ダリン だめなところは徹底してダメだが、底知れぬノー天気さに支配されている。物語への興味が画面を引っ張っているのか。照明は全然だめ、語り方もほとんど下手くそだが、楽しめてしまうのは何故だろう。実に単純な物語のはずなのに。 ハリウッド的な物語ツルギーからの自由。物語ではなく、画面の予想がはずれる。バカなのか、才能なのか。一見の価値あり。 |
雷桜(2010日) | 監督廣木隆一 50分で出る。 序盤、一行が山へ向かう直前のお屋敷のショットで、さお竹屋だか廃品回収だかの拡声器の音が入ってはいなかったか。明らかに違和感のあるおかしな音が入っていたはず。 ロングショットを多用しながら、蒼井優等、俳優たちの出のショットをちゃんとカッティング・イン・アクションで撮ったりしてはいるのだが(振り向きざまの蒼井優のクローズアップ、うなされて布団から起き上がった瞬間の岡田将生のクローズアップ)、シネコン映画が本質的に持っている「幼児性」に対してはまったくの無力。何もできない。 装置が最低。何かに光が当たる、ということをまったく考えて配置されていない。あの土間を見ただけで泣けてくる。美術家とキャメラマンとの連携が取れていない=製作者のこころざしのおはなし。 |
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12/17更新 | |||
ハリーポッターと死の秘宝1(2010英米) | 一時間チョイで出る。 才能がない人間に競って映画を撮らせたがるシステムみたいなものが世界中に存在するのだろう。今に始まったことでもないが。 グッズ 売るに決まっている。 |
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何も変えてはならない(2009ポルトガル) | 100 | 100 | 監督ペドロ・コスタ俳優ジャンヌ・バリバール 批評を書く予定。 三回見たが、見れば見るほど良く見える。 いつものように猫をさり気なく使ってくる。猫が眠っているところを物凄いクローズアップで撮ったショットが存在するのだが、このショットは「ヴァンダの部屋」(2000)からの借用ではないか? 比較すべきものではないが、ゴダールの「ワン・プラス・ワン」(1968)よりこちらが上ではないか、、、といっても「ワン・プラス・ワン」が存在しなければこちらもまた存在しない。撮り方について色々と面白い相違があるので、批評の方で書くことにする。 ジャンヌ・バリバールが日本のライブで腰をくねらせ「ジョニー・ギター」(「大砂塵」挿入歌)を歌うシーンは何よりも大人の気品でありかつ過激だ。あれを日本の女優に出せるか。 ちなみにそこが「日本」であると分かるのは、喫茶店でエプロンをした初老の女性が立ち去った後のテーブルに「予約席」と書いた白いプレートが置かれているのと、ジャンヌ・バリバールの佇んでいる楽屋らしき空間に、みずからのライブの音声がアフレコで被せられ、その最後に彼女の「サヨナラ」という声がかすかに入っていたからに過ぎない。何という大きな省略なのか。 パンフレットでペドロ・コスタは、マルセイユの映画祭で、審査員のジャンヌ・バリバールと『二人でたくさんの映画を観ましたが、残念ながら観た映画はそれほど面白くなかった、はっきり言って大変つまらなかったので、だいたい途中で出てしまって二人でカフェに行っていました』。と書いてある。以前からこの「中途退席」というものを実行し続けていた私は、ああ、コスタもそうなんだ、、と、少しだけ孤独から解放された気分になる。 ジャンヌ・バリバールの相棒であるギタリストのロドルフ・ビュルジェの存在は不気味だ。明らかにキャメラを意識したような過剰な仕草が反映画的に画面へ切りかかってくる。指を鳴らしては次のパートの人物を大きな仕草で指示し、みずからは恍惚と何度も口元に手をやりながら体全体でリズムを取って、たまにチラチラとキャメラを見たりしている。このオヤジ、キャメラを意識している!、そう思って苦々しく見ていたのだが、何度も見続けていると、どうもこれは「地」なのかとも見えてくる。そういえば、こういう人間が私の友達にもいる。今ではこのロドルフ・ビュルジェ抜きにしてこの作品はあり得ない。 構図が素晴らしい、と言ってしまえばそれまでだが、このローキイの暗闇のやや歪んだ空間は、あくまでも「機械」というテクノロジーによって作られた光学的空間であって、決して「リアリズム」なるものではない。おそらく現場はもっと明るかったはず。暗闇は「光」によって創られる、それが映画の法則なのだから。 余りにも細部が豊かで底が知れない。 |
ヤギと男と男と壁と(2009米) | 40 | 65 | 監督グラント・ヘスロフ ちょっと寝て、はっ!と気付いたら終わった。 グッズ× |
ぼくのエリ、200歳の少女(2008スウェーデン) | 75 | 90 | 監督 トーマス・アルフレッドソン撮影ホイテ・ヴァン・ホイテマ 上映方式はDVDだと思うけれども、35ミリと書いてあるから、撮影はフィルムということになる。フィルムでこのようなな色がでるのか。色だけでなく、遠近感にしても、例えば父親が運ばれた病院の、看護婦が座っている受付のテーブルの丸みを帯びたデスクのせり出し方などというものは、その物質的な部分がまさに露呈し「デスク」から遊離している。用途としての道具連関からはみ出しているのだ。夜の、少女が立っているジャングルジムを、アパートを背景にグルリと回って撮ったあの事物感覚、あるいはまた、学校で、先生の朗読が終わって少年がひとり教室から出るときの、横から捉えた椅子たちのあの事物感覚。いったいどういうレンズを使えばああいう事物感覚が出てくるのだろう。かなり小さなレンズで撮っていると見えるが、記憶としては日本映画の30年代のあの浅いレンズ、例えるなら清水宏「按摩と女」(1938)の、あの時代の小さなレンズの感覚とでも言えばよいのだろうか。焦点が一点に集中し、周囲が微妙にボヤけたあの感覚である。 |
シルビアのいる街で(2010スペイン、フランス) | 75 | 90 | 監督脚本ホセ・ルイス・ゲリン もう一度見に行くと放言したが、シネモンドで競合した「ペドロ・コスタ特集」を選択したため、この作品の再見は断念した。失礼。 |
ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う(2010日) | 80 | 85 | 監督脚本石井隆、俳優竹中直人、佐藤寛子、東風万智子、大竹しのぶ、井上晴美、宍戸錠 一般論として 役者という種族は監督を見るようなところがあり、分かりやすく言うと、監督が弱いと分かると好き勝手に演技をする傾向が顕著にある。監督なり現場にやる気がないときも同様である。良い悪いではない、それが役者というひとつの種の生存のあり方であり、システムなのだ。役者がみずからの存在意義を公に発揮する機会は、素人同然の批評家が審査員を務めるマスコミ絡みの賞しかなく、そこで賞をもらうためには、まるでNHKの大河ドラマのような幼児向けの演技をしなければならない。このような、力を萎えさせるような傾向が映画のシステムには充満しており、日々映画を蝕んでいるというわけである。自分の撮っている映画で役者の顔が感傷的に大きく歪んだとき、それはその監督が「バカである」という役者からの合図かもしれない。気を付けよう。 各論として 「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」においては、役者の本能を監督の石井隆が「人間力=映画力」でもって制御しつつ発揮させている。佐藤寛子の迫力は涙なくして見ることができず、歌舞伎町を隠し撮りで彷徨う竹中直人は若いおねーちゃんが惚れてしまうほどいなせであり、東風万智子は見事に脱皮している。宍戸錠は宍戸錠である。役者の根性とは現場の力が引き出すものであることを教えてくれる映画である。 石井隆はカッティングに凝る。この作品ならば、竹中直人の倉庫の事務所にやってきた佐藤寛子と、帰り際、階段を降りてゆく東風万智子とがすれ違うシーンのカッティングなどにおいて、ズレているというのか、露呈しているというのか、そういう驚きを感じ取ることができる。「花と蛇2」などになると、そうした技巧的な傾向が余りに勝ち過ぎてどうかなと思っていたのだが、この作品の場合、映画との関係を保っている。 石井隆といえばビニール傘であり、「GONIN」でビニール傘をさしながらあっけらかんと銃をぶっ放したあのビートたけしの姿をして映画史に残ると確信している者としては、今回のビニール傘の在り方はそれなりに大人しいとも思えるが、1993年の余貴美子のオリジナル版よりもファム・ファタル性が強く撮られており、竹中直人の住まい(なんという倉庫か)も果然大きくなっており、殺人の方法も過激になっている。それだけ石井隆の怒りも大きくなってきたということか。そうあって欲しい。 石井隆は「お尻」が好きなのかも知れない。 ラストシーンの猫の演技は心理的ではなく実に制御されている。 グッズ× 売って欲しい。血だらけのロレックスとか。 |
ザ・ラストメッセージ海猿(2010日) | 25分で出る。 | ||
パリ20区、僕たちのクラス(2008) | 60 | 50 | 監督ローラン・カンテ原作脚本フランソワ・ベゴドーほか 2008年カンヌ映画祭パルムドールらしい。 子供たちを共同生活させたあと、マルチカメラの手持ちを微妙に揺らしながらドキュメンタリータッチで駆り立てるように撮る。おそらくこういう手法のマニュアルが今後出回って定着してゆくのではないか。ひょっとすると既に映画学校などではこういう撮り方を教えているのかも知れない。編集や切り返しを含めて非常に上手だ。悪く言うと「巧妙」である。 一見その場で本当に喧嘩をしているように見える子供たちだが、所々では、カットを割ったカッティング・イン・アクションで撮らている。見た目のショットも多用されている。「よーい、スタート!」の掛け声で「演技」を始めるというスタンスである。見る者が見れば「うそ」だと分かるように撮っているということでもある。それをどう評価するか。音声もシンクロとアフレコを使い分けているように見える。人相学的にも実に「巧妙」である。 こういう手法を全否定はしない。ただこの作品に限って言えば、はっきりと凡庸である。 |
11/21更新 | |||
クロッシング(2009米) | 75 | 90 | 監督アントワーン・フークア撮影パトリック・ムルギア俳優レチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードル 黒が出ていて照明が見事。このパトリック・ムルギアというキャメラマンは要チェック。といってもそれは照明だけの仕事ではなく、現像とかフィルムとか、美術とか衣装とか、複雑なものの絡まりなのだろう。 まるで「バックトゥザフューチャー」のように、とは言わないまでも、かなりほどよく持続する映画であって、リチャード・ギアとドン・チードルが店の前でぶつかる時のように、持続(長回し)の終わりの方で難易度の高い運動を目指すという性向はどこから来るのか。多くのシーンが「長回し」という堅苦しい定義のものではなしに、さり気なく持続している。そうしたフライシャー的傾向が、ラストシーンの、ロングショットからキャメラへと向かって歩いてくるショットへと繋がっている。これは、「アマルフィ」の批評でも書いた「ショット内モンタージュ」という方法で、ハリウッド映画でこれをやる人は昔から今にかけてまずいない。ハリウッド映画はロングショットからクローズアップへと移行する時は必ずカットを割る。どうしてかと言うと、それはひとつの習性だから、と言ってしまうのが最適なような気もするが、一言でいえばそれが「心理的」だからであり、人物の考えをショットのサイズの変換によって外面的に表す「ことにする」という一つのお約束事として成り立つからである。古典的デクパージュともいう。 リチャード・ギアはいつものように「フンっ」と鼻から息を吐いて笑っているが、これはどう見ても映画的ではないのだ。だがそれがどうしてかを書くとなると簡単ではない。 大きな事件は、オープニングの射殺から何からすべてが唐突に、あっけらかんと惹起してそのまま説明なしに終わっている。こういうのはタランティーノ的なのか。 グッズなし |
インシテミル(2010日) | 45 | 50 | 監督中田秀夫 こういう「子供向け」の脚本に手をつけることができない環境の薄情が悲しい。期待して見に行く自分をばかばかしくさせてくれる。 片平なぎさなどが手に取って読んでいる本は、まったく映画的な「本」ではない。私は「軽蔑」や「ジョーズ」で、ゴダールやスピルバーグがどうやって「本」を撮ったかを見てしまっているので、片平なぎさの手に取ったあれを「本」などとはどうしても言えない。何かまったく違ったスカスカの物体、としか言いようがない。 同情抜きにして見ることができない。 |
君に届け(2010日) | 監督熊澤尚人 届かない。 「窃視」が多い。確かに成瀬的な目の伏せ方など、ドキッとするのもあるが、使い方のメリハリを欠いている。 三浦春馬は青春期をとっくの昔に通過した「老人」であり、道徳的なオブラートによって幾重にも包まれた虚無人である。露呈するものといえばひたすら「隠される」ことである点において北朝鮮の宣伝映画と変わらない。今、世の中がどう動いているのか、どうして人が悩んでいるのか、そんなことはどうでもいいという感覚で超然と撮られている。それが日本のシネコン映画であるといってしまえばそれまでだが。 技術はあるがハートがない。 |
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SR サイタマノラッパー(2008日) | 60 | 65 | 監督入江悠 多くはアフレコで撮られているが、それがまるでアニメ映画の声優のように響いている。意図してそうなっているのか、そうでないのか。シンクロの録音は言葉が聞き取れない。意図的なのか。そうでないのか。倉庫での長回しの時、遠景のドアの隙間に差し込む影が動いてドアの向こうに役者が待機していることが見えてしまうのだが、それは意図的なのか、そうでないのか。 ラストシーンの乗りは、「ナイト&デイ」に書いたジェームズ・マンゴールド的メロドラマと通底している。周囲に人々がいて、その人々を巻き込んでメロドラマをやりたがる性向とは紛れもなく「反イーストウッド的なるもの」であり、それは反ジョン・フォードであり、反ルノワールであり、反小津であり、反D・W・グリフィスであり、反、、、、、、である。先日ここで書いた「カケラ」という映画で満島ひかりと中村映里子が大喧嘩するシーンもまた同様の性向であり、居酒屋の客の前で行われている。それか゜殴り合いの喧嘩ならいざ知らず、心理の吐露に終始している。それがどういうことなのか、理解していないことが重要である。 みひろ、という女優が出てくると妙に画面が生き生きと引き締まってくる。 |
ナイト&デイ(2010米) | 85 | 82 | 監督ジェームズ・マンゴールド撮影フェドン・パパマイケル俳優トム・クルーズ、キャメロン・ディアス 批評あり 話は逸れるが、この監督には「衆人観衆の前でメロドラマをやりたがる」という欠点がある。「3時10分、決断の時」において終盤、ホテルにやってきた子供と抱擁するシーンなどがその典型で、二人はラッセル・クロウの目の前でメロドラマを演じている。見ていた私は思わず「ばか!」と声を出しそうになったが、仮にデルマー・デイヴィスをリメイクするのであれば、ここはズラさなければならないし、デルマー・デイヴィスはちゃんとずらして撮っている。元ネタのデルマー・デイヴィスがずらして撮っているからジェームズ・マンゴールドもまたずらさなければならないのではない。ずらさなければならないからずらさなければならないのである。こうしたレベルの話が批評家には通じないのが痛ましい限りだが、ジョン・フォードやハワード・ホークスなら決して「撮れない」ものが撮れてしまうことに関する感覚の問題である。例えばイーストウッドの「チェンジリング」ならば、帰ってきた子供と両親が取調室で抱き合った瞬間、刑事のマイケル・ケリーは即座に取調室から出て行って席をはずしている。その性向はデルマー・デイヴィスと同じである。 「ニューヨークの恋人」で、過去からタイムスリップしてやってきた貴族のヒュー・ジャックマンが、まるでハワード・ホークスのようなスキンヘッドの監督の演出でテレビのコマーシャルに出るシーンがあるのだが、ここでジェームズ・マンゴールドは、ジャックマンがしゃべりだすと、それを見ていたスタッフたちが恍惚となるシーンを撮って「しまって」いる。つまり、貴族の高貴な物腰やしゃべりを見て人々が「こいつはいける」とびっくりするというシーンなのだが、これは本来「撮れないショット」の筈である。イングリッシュが分かるわからないではない、映画的に「撮れない」はずなのだ。撮るなら何かをズラすべき。 「17歳のカルテ」において、中盤、傷ついた女性の患者が閉じこもった部屋の前の廊下で、ウィノナ・ライダーが座りながら「素晴らしい歌」をギターで歌って慰める、というシーンはもっと分かりやすいだろう。ここで「素晴らしい歌」というのは歌の題名ではなく、価値の話としてあるのだが、さて、その「素晴らしいとされる歌」を、果たして映画は撮ることができるのか。映画では、周囲の者たちがライダーの歌を聴いて恍惚とする、という演出がなされている。「ニューヨークの恋人」と同じだが、私はこうしたショットは撮るべきではないと思っている。否、これは「撮れない」筈のショットなのだ。仮に撮るのなら、逆から撮るべきである。 「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」でもことは同じである。最後の方でホアキン・フェニックスがリーズ・ウィザスプーンに結婚を申し込むシーンがあるのだが、これをどこでやったかというと、舞台の上で=衆人観衆の前でやっている。どうもジェームズ・マンゴールドにはこういう傾向がある。仮にそれが実話だとしても、こうしたショットは撮れないはずなのだが撮れてしまう。ここが私には極めて大きな違和感となって直撃するのだ。実に些細な演出の差異ではあるものの、こうしたシーンを絶対に撮れない人と、簡単に撮れてしまう人が存在する。それは確かである。 黒沢清の「トウキヨウソナタ」のラストシーンと比べてみると、ここでは井之脇海が両親の見守る中でピアノをアフレコで弾くシーンがある。これとどう違うかというと、ここでは「上手に弾くこと」がまずもって条件とはされていない。されているのは「黙ってピアノを弾くこと」という運動を「黙って見ること」という運動である。第二に、両親は遅れて会場にやって来ている。これは極めて重要である。そうすることで井之脇海は両親に「見られていることを知らない」状態であることを映画的に決定付けることができる。おそらく黒沢清は本能的に二人を遅刻させて「ずらす」ことでメロドラマを拒絶したのである。それが性向というものだ。 すべてを衆人観衆の前でやってはならないのではない。ただ、やってはならないことは、やってはならないのであり、映画にはある時と場所においてそうしたルールが存在している。そしてどういうわけか、そのルールを知っている人たちは限られている。ジェームズ・マンゴールドという人は非常に実力のある監督だが、どうしたわけか、このルールだけは知らないのである。 「ナイト&デイ」においてはこうしたメロドラマ的傾向は排除されている。 グッズなし |
11/3更新 | |||
クレイジー・ハート(2009米) | 79 | 80 | 監督スコット・クーパー撮影バリー・マーコウィッツ俳優ジェフ・ブリッジス、マギー・ギレンホール、コリン・ファレル、ロバート・デュバル ジェフ・ブリッジスという名前は何故か私をして映画館へと足を運ばせるに十分な記号であり、それは兄のボー・ブリッジスとは違った不思議な感覚である。眉毛と目との距離が接近している、といった点において、ブリッジス兄弟と、ここにたまたま競演しているコリン・ファレルは共通している。みな、眉毛と目のあいだの距離が近く、かつ、目の窪みが大きいのである。それでいながら、何故にジェフ・ブリッジスだけが映画的であり、他の二者はそうでないのか、というのが私の好奇心である。そうして考えたとき、おそらくコリン・ファレルの場合、あの眉毛の濃さ、その眉毛を大きく動かしすぎるという点も確かにあるのだが、それだけではなく、「目が濃い」のである。ボー・ブリッジスも同じであり、目が心を語りしめてしまう。それに対して弟のジェフの場合、ひたすら目が薄いのだ。 自動車事故の後、マギー・ギレンホールの家の夕日と影に包まれたベッドルームの中で撮られたマギー・ギレンホールのクローズアップとか、窓ガラスをバックに撮ったマギー・ギレンホールのクローズアップとか、びっくりするようなショットが撮れてしまう人だけに、今後の動向が気になったりする。バカな連中と付き合わなければいいが。 監督のスコット・クーパーみずから書いた脚本の練りが今ひとつ甘く、この本の僅かな甘さというものが、実は決定的であることからするならば、悲観的になる。まずもってこのジェフ・ブリッジスという男が「変化球を打てない男」としてみずから公言するのならば、アル中を克服してしまっては洒落にならない。変化球が打ててしまっているわけである。それにまた、子供が迷子になった程度のトラウマは、実生活ではイザ知らず、映画界ではそれだけではトラウマにはなりえない。特にここで文句を言いたくなるのは、子供を見失うときのジェフ・ブリッジスを、それほど落ち度のあるものとして描いていないことである。別に彼は酔いつぶれていたわけではない、という「良い人感」を描いてしまっているのだ。ハワード・ホークスやイーストウッドならどう間違ってもこういう腑抜けた本は書かない。どうしてかと言うと、「彼はいい人」などというつまらないものは、あくまで映画の運動を通じて我々の想像力に投げかけるべきものであって、画面の中でそのまま見せるべきものではないからである。こういうところが最近の脚本の弱いところ。手っ取り早く種明かしをしてしまう。 グッズ× |
トイ・ストーリー3(2010米) | 80 | 80 | 監督リー・アンクリッチ 「借りぐらしのアリエッティ」と何となく共通する感じにで撮られていて、それは、大きくいえば「反遠近法」ということだであるが、これまで見た3D映画の中で、この「トイストーリー3」が一番いいと感じたのは、「奥」という空間を隠しがちであったそれまでの3Dとは打って変わって、まさに反遠近法的な「奥」を大胆に取り込みながらメタ(人間のように動く人形)とベタ(動かない人形)とを行き来し、それでいてハリウッド的な古典的デクパージュでもってサラリと撮れてしまうこの作品の性向に基づいている。「遠近法を破壊すること」とは、それまで空間の中に奴隷のようにして補足されていた事物を「そのもの」として露呈させてしまうところの視点の転換である。「借りぐらしのアリエッティ」も「トイ・ストーリー3」も、我々がそれまで事物を見つめる時に用いていた尺度(遠近法)を取り壊し、まったく違ったものとして露呈させているのだ。息もせず、動きもしない人形を見つめる我々のまなざしが、それまでの遠近法とは違った有り方として解放されるのである。 主人公のカウボーイ、ウッディが、ふとしたことから緊迫していた表情を緩める瞬間が幾度かあるのだが、その「表情の緩め方」がジョン・ウェインそのものである。 みんなで手を握るときの、あの「間」の撮り方というのは、憎らしいほどアメリカ的である。 |
モダン・ライフ(2008仏) | 60 | 75 | 監督撮影レイモン・ドゥパルドン 暗い。フランスの農家の人々とはかくも暗いものか。 農家の三男坊がなんとも辛いかたちで映画に入ってくる。彼はインタビューの最中に飼い犬に手を噛まれそうになるのだが、それがなんというか、まさに飼い犬に手を噛まれそうな農民なのである。こういうのを見ていると、フランスは大丈夫なのかと考えてしまう。農民たちはほんとうに辛そうである。アンシャンレジーム以来の中央集権がジワジワと根底から効いてきている。 序盤の、老兄弟を同一の画面に捉えながらのキッチンでのインタビューがたまらない葛藤を呈していて笑ってしまったが、このシーンはまさに、人間の不確定な本質を画面に捉えた傑作である。「いいたいこと」など存在せず、仮に存在したところで言葉としては出てこない。出てきたところでかき消される。仮に私が検事だとすれば、とにかく容疑者を落とすのなら、徹底して「心の中」を問いただし続けるだろう。どうしてこんなことした、なぜだ、動機はなんなんだ。そうすれば人間は必ず違うことを言って「ボロ」を出す。確固たる動機などないのだから、ボロでもないボロを出してボロボロになる。それを取調室ではなく映画の中でやる。すると映画はボロボロではなくエモーションとなる。人間とは何とも面白い動物なのだ。 |
特攻野郎Aチーム THE MOVIE(2010米) | 45 | 70 | 監督ジョー・カーナハン 序盤の20分の嘘のような出来栄えが、その後の20分で消え去り二度と巡り合えない。具体的にどうダメになったかと言うと、画面が物語を説明し始めた、ということに尽きている。画面の力が弱くなり、添え物と化した。あとはひたすら物語を追いかけてゆくだけとなり、見るべきものがないので瞳が徒労し死ぬのである。 グッズ× |
バイオハザードⅣアフターライフ(2010米英独) | 30 | 70 | 監督ポール・W・S・アンダーソン 我々の「アフターライフ」も考えて欲しい。 グッズ 忘れた、、、多分売ってなかったような、、 |
アルゼンチンタンゴ伝説のマエストロたち(2008アルゼンチン) | 70 | 50 | 監督ミゲル・コアン 撮り方は実に下手だが、被写体が余りにも映画的過ぎて映画になってしまっている。コンサートでは、現在の若い演奏者たちの表情がひたすら心理的に「濃い」のに対して、マエストロたちの顔は「薄く」、反心理的である。 |
10/5更新 | |||
キャタピラー(2010日) | 60 | 78 | 監督若松孝二、俳優寺島しのぶ 予告編を何度も見せられて、、だめなのかな、、と思っていたのだが、最初の寺島しのぶのクローズアップの照明を見て杞憂だと。~若松孝二には、「いいたいこと」があるらしい。それは「戦争をしてはならない」とか「人の命は尊い」とかかも知れない。だが若松孝二はその「いいたいこと」を表現するとき「映画」というメディアを必要としている」~ということ。 「着太りすること」というのは女優が映画的に成功するひとつの大きな要素だが、寺島しのぶは母、藤純子同様、着太りする性質を持っている。沢尻エリカ、満島ひかりなども。着太りすると光に映える。スターでは原節子。オードリー・ヘップバーンはその点「スター」ではない。 政治的・心理的にかかっている。ということは、もっと引いて撮ったほうが良かったのではないだろうか。でもそうすると、寺島しのぶは賞をもらえない。その代わり若松孝二孝二が賞をもらい、そして、、、 |
カケラ(2009日) | 50 | 70 | 監督安藤モモ子、撮影石井浩一、俳優満島ひかり、中村映里子 汗の一歩手前、といった感じのメーキャップの肌の湿り気が、肌の映画としての光線の感度を引き上げている。ただし、中村映里子の仕事場の照明は最低。あそこだけ急におかしくなる。 満島ひかりの使い方、というのがほぼ統一されてきた感があるが、余りにも無防備に使い使われすぎではいないか。 居酒屋の客の前で満島ひかりと中村映里子が喧嘩するシーンは、あんな風=感傷的に撮ってはならない。あれではまるで「24時間テレビ」だ。 映画は「言いたいこと」を伝えるメディアではない。 今、日本では、おやじが撮るような映画を女性監督が撮り始めている。しかしそれが豊かさとして露呈する時とは大抵、運動のエモーションーに愛された瞬間に限られることになる。中村映里子が男の急所を蹴り上げる、ペットボトルを二人で投げッコする。 |
ケンタとジュンとカヨちゃんの国(2010日) | 50 | 70 | 監督大森立嗣、俳優松田翔太、高良健吾、安藤サクラ トラックがエンコして、雨が降って、喧嘩して、バイクがあった、、という流れの時、画面が一度切れて晴れ間の光線に変化してしまってために運動のエモーションがストップしている。 ラストシーンに入る歌の入り方ひとつにしても、基本的に、画面が思想的につながれているのでエモーションーが生じない。 胴口依子の使い方が極めて面白くない。 船で安藤さくらと再会して「タイタニック」のマネをするシーンだが、あれを「横」から撮ってしまっては元も子もない。 二人で海の中に入ってゆくシーンは、どうして海面を撮らないのか。 |
ローラーガールズ・ダイアリー(2009米) | 100 | 87 | 監督ドリュー・バリモア俳優エレン・ペイジ、 批評あり エレン・ペイジが恋人を「おんぶ」するのだが、アメリカ映画でおんぶ、ということ自体、珍しい現象である。アメリカ人は「おんぶ」ではなく「かつぐ」はずなのだが、、、今後の研究課題。ちなみにこれもまた「重力」の文脈に入ること可能。 ドリュー・バリモアは次に「オズの魔法使い」(1939)の続編を撮るらしい。どんどん遡って行って、いつかは「ニューヨークの帽子」(1912)のリメイクでも撮ってしまうのではないか、と思わせてしまう映画の香りをしたためている。 中心、という凡庸な位置からその都度周辺部分へと逃亡している。どうしてハナからこんな映画が撮れてしまうのか不思議だが、物語的には現在から反動しながら画面においてその都度ポストモダンを更新していく凄い映画だ。イーストウッド的な透明感とは反対の画面的亀裂を生じさせている。 照明をひとつひとつちゃんと計算している。 |
アニエスの浜辺 | 85 | 85 | 監督アニエス・ヴァルダ 何を撮っても映画になるものはなるのだと教えてくれる。 |
17歳の肖像(2009英) | 50 | 70 | 監督ロネ・シェルフィグ俳優キャリー・マリガン とてつもなく素晴らしい出足がそのまま一本調子で減速して行く。仮にそうした現象をして「ポストモダン的だ」とするとき、それはただの凡庸さを意味するに過ぎないが、ポストモダンとはそもそも凡庸さを意味する現象ではなく、したがってこの作品はポストモダンではない。 |
ソルト(2010米) | 80 | 80 | 監督フィリップ・ノイス俳優アンジェリーナ・ジョリー フィリップ・ノイスは「セイント」「ボーン・コレクター」は活劇の人であり、この「ソルト」もまた物語の先に優位する運動がアンジェリーナ・ジョリーに具現されながら突っ走る。 |
借りぐらしのアリエッティ(2010ジブリ) | 100 | 95 | 監督米林宏昌、脚本宮崎駿 新しい題材であってもひたすら古臭い「サマー・ウォーズ」の凡庸がある半面、古臭そうな題材でひたすら現在を撮れてしまう「借りぐらしのアリエッティ」がある。 この映画の「借り」とは何か。まさか「角砂糖」や「ティッシュペーパー」という物質的なものではないはず。脚本は宮崎駿であり、カッティングひとつとってもこの作品はどんなバカが見たところで「宮崎駿じるし」を見出すことが簡単にできるように作ってあり、つまりそれは、今の若者たちが逆立ちしても書くことができない脚本である、という簡単な事実であるが、その宮崎駿が「角砂糖」なり「ティッシュペーパー」なるものを「借り」として描くような、そんなバカな脚本を書くわけがないことからするならば、同じようにしてまたここにおけるアリエッティの「借り」とは、「少年に優しくしてもらった」とか「助けてもらった」とかいう、先進国の小学生が満点をもらえそうな絵日記的な読みが可能にする物語的な「借り」でもないことは明らかである。必ずやこの映画の中には、「借り」を描いた映画的な運動による単純な細部が視覚的に露呈していたはず。「~すること」「~してもらったこと」。それは何か。アニメは実写と違って意図したものしか画面の中には現れ出てこない。その「明らかに作り手が意図して視覚的に描き込んだ『借り』」とは何か。気乗りしないので書かない。各自自分の目で見て確認せよ。 |
9/7更新 | |||
エアベンダー(2010米) | 監督ナイト・シャマラン 70分あたりで出る 2Dで見たが、これで画面が前に飛び出すと良くなるというレベルを遥か超えている。すべの画面が均質化されひたすらから馴致されてゆく。70分全部同じショットである、と言い切ってしまいたくなる。3D依存症。シャマランも終わりか、、否、そもそも始まっていたか。 グッズ× |
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ザ・コーヴ(2009米) | 50 | 50 | 監督ルイ・シホヨス フリッパーの調教をしたことの自責の念をすべて太地町にぶつけることでアイデンティティを保ち続けているリチャード・ウィドマークのような顔をした男が、せめて「リチャード・ウィドマーク」のように悪ぶってくれれば映画になったのだが、福島瑞穂のようなイイコちゃんになりたがるものだからネオコン的二元論となってしまい、脱構築もされずに現前してしまった。現前するはずの無いものを恐れもなく現前した「ことにする」。これが傾向映画のつまらなさ。 海へ潜ってイルカに触り、イルカの「人間性」を訴えて泣いている娘がいたが、彼女が海へ潜り、「人間的なイルカ」に触れることそれ自体が既に「フリッパー」の需要を呼び込んでいることに気付いていない。、、という解釈は「映像を読む」批評の部類に入るので書かない。 こういうレベルならば、映画館でなくNHKで放映すれば良いではないかと思うのだが、最後の「赤」ですべては変わってしまった。首尾一貫したペラペラのテレビ的画面の連続が、最後の最後で「映画」になってしまったのだ。ひとつの「行政」のあり方として、あの俯瞰のポジションを規制できなかった役人の感性の反映画的乏しさが日本的地方行政の凡庸さとして映画の力を押し下げている。それにしても、あの覆い被さるような山肌に囲まれたちっぽけな海岸を正面あたりから捉えた終盤のロングショットの恐ろしさはただ事ではない。 |
インセプション(2010米) | 40 | 60 | 監督クリストファー・ノーラン 「ダークナイト」よりマシといった程度か。 デカプリオの眉間にまたしても終始「二本の縦ジワ」が入っている。スピルバーグの「キャッチミーイフユーキャン」などと見比べてみるといいのだが、そんな感性は今の批評にはないだろう。 渡辺謙に「演技」をさせてはならない、という簡単なことが分かっていない。「硫黄島からの手紙」の渡辺謙でさえ既にギリギリの線であるというのに。 端的に監督が三流である、と言ってしまえば身も蓋も無いので言わない。 グッズ× |
必死剣 鳥刺し(2010) | 監督平山秀幸 25分で出る。 「そろそろ出てください」、、という画面に「はい、わかりました」と出る。親切な映画。 |
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プレデターズ(2010米) | 50 | 70 | 監督ニムロッド・アーントル これほどまで「エイリアン」シリーズに、特に「エイリアン2」にリスペクトしている割には、「エイリアン2」ですらない。 風に揺れる草の中での決闘は、まさかクロサワの「姿三四郎」ではないだろうが、あの揺れ方は「草」ではなく「海藻」である。 グッズ× |
倫敦から来た男 | 20 | 50 | 怒りを通り越して見ていたが、ラストシーンでスクリーンを引き裂いてやりたい衝動に駆られる。自分では新しいことをしているつもりなのだろうが、やることなすことすべてが古く、かつ傲慢である。ベルイマンに心酔していそうな画面に苛立つ。 デジタルのように画面が波を打っているが、モノクロームが機械的で黒も出ていない。 おそらく「~旬報」のベストテン入り。 |
エルム街の悪夢2010米 | 30 | 50 | どうしてこんなお堅い監督が「エルム街の悪夢」なんかを撮りたがるのだろう。「ハート・ロッカー」でも撮って喜んでいればよろしいものを。 グッズ× |
クロッシング(2008韓) | 監督キム・テギュン 中途で出る。 画面が物語の上をひたすらあとからすまなそうになぞり続けている。余りにも映画が古い。 |
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アイアンマン2(2010米) | 450円 |
少し寝て、腹が減ったので1時間チョイで出て吉野家でうな丼を食う。450円。割引券つきで。 グッズ× |
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ザ・ウォーカー(2010米) | 70 | 80 | 監督アレン・ヒューズ、アルバート・ヒューズ脚本ゲイリー・ウィッター 始まってすぐ猫を弓で撃つ時、デンゼル・ワシントンは「ヒーフーミー(いち、に、さん)」と確かに口にしたはず。一度しか見ていないので幻聴の可能性も高いが、どちらにせよ、妖しげな「B」的西部劇の香りをしたためている。 廃墟から廃墟へ、強盗団撃破、修理屋のエピソード、酒場の乱闘、牢獄の聖書のエピソード、牢を破り街を出る、銃撃、女あとを追う、女を閉じ込める、女が強盗団に襲われる、助ける、老親夫婦の家に立て篭もる、やられる、車爆発、、、というように、まるでヒッチコック「三十九夜」のごとくにスラスラと出来事を思い出すことができるのは、どちらも断片的なエピソードを並べて撮っているからにほかならない。 ミラ・クニュスの最初のショット(出のショット)は、バーのカウンターの奥の暗い部分から光の中へ出て来る瞬間を捉えたものだが、さり気ないところでいい感じを出している。と書いても通じないだろう。 グッズ× |
「アウトレイジ」(2010) | 85 | 75 | 監督脚本編集北野武 批評あり 照明の力が少し落ちている。 椎名桔平は渡辺謙よりもよっぽどハリウッド向きだ。 北野武も成瀬と同じように、映画を逆から撮っているようなところが多々見受けられる。例えば石橋蓮司が歯医者で痛い目に遭うシーンは、まず歯医者の責めシーンとその後の石橋の包帯姿が北野の頭に浮かび、そこでクスリと北野は笑い、そのあとになって、ではどうして石橋蓮司はこんなひどい目に遭わなければならないのかを考える、という思考の流れで撮られたと思って間違いない。 北野武は「風の作家」である筈なのに、出て来ない、出て来ない、、風が一向に出て来ない、と思いながら見ていたが、椎名桔平が車でリンチされる海岸の奥の画面に、しっかりと白い風車が何台も回っていたので一安心。この監督は「風」に対する特別の感情を持っているのだから。 オープニングの幹部会の待機シーンで、いきなりビートたけしがネクタイをして出てきたが、おそらくビートたけしのネクタイ姿というのは、処女作「その男、凶暴につき」(1989)の、刑事退職前以来ではないか、、、 余りにも瞬間的に終わってしまうカーチェイスは、才能とは無慈悲な不平等をそのまま保存することのできる厚かましさであることを教えてくれる。今のこの時代に、あれだけテレビに出続けて、こういう「ずれ」た映画が撮れてしまうというのは、まったくもって規格外、想像を超えている。 |
2010/7/24更新 | |||
抱擁のかけら(2009スペイン) | 40 | 40 | 監督アルモドバル 今の時代はどうやったところでまともな映画は撮れません、というふうになっている。 最後の編集しなおされた、あの映画内映画の凡庸さは考慮内事項なのか、そうではなく、編集という行為の映画的感動を真に示したということなのか。よくわからない。 映画の中で脚本家によって話されるアーサー・ミラーの隠し子の物語が、ただそれだけでロメール的に感動的だ。 |
エンター・ザ・ボイド(2009仏) | 監督ギャスパー・ノエ 第二話の中途で出る。 |
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告白(2010日) | 55 | 78 | 監督脚本中島哲也、撮影阿藤正一、尾澤篤史、美術桑島十和子、原作湊かなえ 俳優松たか子 『嫌われ松子の一生』と同じように、説明しないと画面が進行しない、という病気を内包しており、それはこの映画が結局のところ、物語の順序でもって撮られていることの悲しみとでもいうべきものだが、スタッフの優秀な仕事は添え物にされ、その都度制度としての物語の渦の中へと画面を引き戻されている。 楽しめないことはないが、薄っぺらい。 |
ヒーローショー(2009日) | 78 | 88 | 監督井筒和幸、撮影木村信也、照明尾下英治 艶々したメーキャップが役者たちの頬や額に反射し、役者の表情の変化によって強度を変化させながら、刻々と変化する光線を反射している。メーキャップの観点から語るならば、メーキャップがキャメラの位置と照明の強度を定義し、さらにまた場所を決定している。それぞれのスタッフの細部がお互いの関係なくしてあり得ない状況に達した時、ショットは満たされる。一見編集によって連続するショットとショットの関係が、ひとつひとつのショットの強さによって露呈しながらつながれて行く。「スイートリトルライズ」のショットとショットがその「ずれ」をひときわ際立たせながら時間を作り上げていたのに対しこの「ヒーローショー」は、一段階「ずれ」の強度を弱めつつ、さも物語を語ることを主とするかの如き無頓着さを装いながらその「ずれ」を絶えず貯え進行していく。古典的で斬新、野性的で繊細。 暴力に歯止めがかからず、そのまま進行して行くに任せている。「告白」(2010)が、あらゆる暴力に大衆的な動機を見出すのに対して「ヒーローショー」に動機は不在である。ひたすら暴力がさらなる暴力へと連鎖し、増大して行くに任せられ、説明は暴力の進行そのものの中へと解消されていく。 井筒監督にしては30分ほど長めだが、サービスだろう。頓着しない人だから。それにしても役者が雰囲気を出している。バックを通り過ぎるエキストラ一人とっても物語がある。撮影現場の雰囲気が伝わって来る。 後藤淳平のお腹が鳴る音だけれども、あれはどういうのか、脚本に書いてあるのだろうか。 |
息もできない(2008韓) | 69 | 80 | 監督脚本編集ヤン・イクチュン 悪いショットと、「ずれ」を生じた稀有のショットが別離し、同一の人格たることを拒絶している。「孤児」としての特典が、そのままでは吉と出ないのは映画に限らない。ヒリヒリと凝縮したこの作品が、どうしてこんなバカみたいな感傷物語になって終わるのか、その理由は、「映画的な無知」にほかならない。例えばアメリカの50年代の「B」を見ていない、知らない、というのが画面に露呈していて、そうした「無知」が、良い方向に出るというのは、ビギナーズラックとしてすら難しいというのが、人類の歴史ではなかったか。北野にしろ、「その男凶暴につき」を撮った時、決して「無知」ではなかったのである(却ってプロのスタッフが「無知」だった)。 編集など、北野的な「ずれ」を生じている。下手なのではなく、「ずれ」ている。そもそも自分で編集をやる、という行動が非凡である。 「孤児」というのはつまり、「参照対象物がダサい」、ということを意味して書いているのだが。 やたらと韓国映画を傑作に仕立て上げたがる勢力を目にするが、韓国に借金でもあるのか。いいものはよく、そうでないものはそうではない、それを書くべきが批評であるはず。 |
隣の家の少女(2007米) | 40 | 50 | 監督グレゴリー・M・ウィルソン 余りに凡庸なので中途で出ようと思ったが、見ておけば何かの「得」になるかもしれないという浅ましい消費者根性が私をして席を立つことを躊躇させ座席に佇ませた。 |
誰がため(2008デンマーク他) | 40 | 78 | 監督オーレ・クリスチャン・マセン 静止している時はいい画面を作るが動くと凡庸になる。「ゴッドファーザー」とか、、アメリカン・ニューシネマを愛しているのはそれとなく分かるけれども、グリフィスを知りません、という感じがダサイ。 |
6/16更新 | |||
グリーン・ゾーン(2010仏米西英)) | 66 | 78 | 監督ポール・ク゜リーングラス撮影バーリー・アクロイド俳優マット・デイモン グリーングラスの作品の中では一番楽しめた。微妙に撮り方が違っている。画面の肌触りが良好で、テクニカラーかな、と思ってエンドロールを見ていたら、フジカラーのマークが出て来たのだけれども、照明にしても気を使っているし、どういう風の吹き回しかなと。 バリー・アクロイドは「ハート・ロッカー」のキャメラマンでもあるが、キャメラの揺らし方にも上手い下手、好き嫌い、などというものがあるのだろう。しかしまた「キャメラの揺らし方が上手」というのは、なんとも虚しいけれども、 グッズ× |
牛の鈴音(2008韓国) | 80 | 70 | 監督イ・チュンニョル 老人が牛に荷馬車を引かれて病院へ行き始めたその時から笑いが止まらず、狂牛病反対のデモの前を死にそうな牛がロングショットで通り過ぎるロングショットを見て腹を抱えて笑ったのだが、その他のショットの連結を含めて、相当にモンタージュの「うそ」をついている。今年見た韓国映画の中ではこれが最高。牛の涙をクローズアップで撮るなどという極めてバカバカしいショットなどがあって評価は分かれるだろうが、私は泣けた。よくこのような「つまらない」題材を我慢して映画にしたなと。 お盆に都会から子供たちが孫を連れて帰ってきて、庭先にござを引いて焼肉のバーベキューをするシークエンスは、その場違いさというのか、一見可愛い孫までもが、極めて場違いで居場所を失っている。都会からやって来た肉親たちがみなモンスターのように浮遊し、収まっていない、そうした現象を、そのまま「収まっていないもの」として撮っている。イ・チュンニョルはこのシーンを「収まっていない」と意識して撮っているのである。都会人は里帰りなどという行為を感傷的に捉えたがるものだが、このシーンをひとたび見たならば、帰省ラッシュはなくなるだろう。 衣服や住居を見ると、韓国もまた相当に均一化、画一化が進んでいる。 |
パリより愛を込めて | 65 | 70 | 監督ピエール・モレル 前作の「96時間」は見ていないが、95分という上映時間のハリウッド映画を見逃すわけにもいかず慌てて見に行った。 余りの下手糞さに呆れ果てながらも、トラボルタがバズーカ砲を抱えて車外へ乗り出し、訳がわからなくなったあたりで「やるな、、」とニヤリと笑う。敢えて物語に頓着することなく立ち止まらずに最後まで突っ走るのではなく、そもそも立ち止まる技術がないのである。一度止まったら二度とエンジンのかからない車に乗っている感覚を呼び覚ますこうした映画をして今後「C」と呼ぼう。映画研究塾に新しい映画用語をもたらしてくれたことに感謝。 グッズ× 売っているわけがない。 |
海角7号(2008台) | 監督脚本ウェイ・ダーション 45分で出る。 フィルムの感じが70年代にしか見えず、いったいどういうフィルムを使っているのだろうと、考えながら、この映画を130分見るのは辛いなと、考えながら、この撮り方のどこが「エドワード・ヤン」なのだと、まるでテレビのような当たり障りのないカッティングに眠気を催し、静かに席を立つ。 テレビと映画の区別がつかない現象は、日本も台湾も韓国もみな同じ。 |
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乾き(2009韓) | 監督パク・チャヌク 45分で出る。 映画の撮り方を忘れました、という撮り方で、なんともはや。あのクローズアップの入り方というのは、、、照明がどうと言うよりも、美術を含めたセンスが余りにもひどすぎる。 |
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イエローキッド(2009日) | 80 | 85 | 監督真利子哲也、撮影青木穣、照明後閑健太、録音金地宏晃、俳優遠藤要、岩瀬亮、町田マリー、波岡一喜、玉井英棋、でんでん、小野敦子 「スイートリトルライズ」に続いてこちらもまた「ずれ」ている。今、「ずれ」ている映画を撮ることができる、というのがどれだけ難しいことか。 「ずれ」ている、とは間違っても物語が突飛であるとか、役者の演技が過剰であるとかではない。映画が「ずれ」ているのである。ひとつ例を挙げると、序盤、アパートで波岡一喜とやりあって怒って出て行った岩瀬亮を町田マリーが夜の街の隠し撮りのような感じで追いかけながら居酒屋へ入ったあとの二人の構図=逆構図による切返しだが、これが「ずれ」ている。「おかしい」と言っても良い。見ていて明らかにここは「おかしい」のだ。特に町田マリーへと切り返されるクローズアップのショットが「ずれ」ている。岩瀬亮の背景の調理場へと続く敷居で風に揺れている暖簾の妖しさ、などというのも是非監督に聞いてみたいのだけれども、それ以上に町田マリーのあのクローズアップが「ずれ」ている。 ■どうして「ずれ」るのか 今回私が成瀬巳喜男の論文第二弾で書いたことも結局この「ずれ」=「過剰」のお話であって、それを延々と書いたわけだけれども、どうしたら「ずれ」るのか。まず基本的に有り得ないのは、2台のキャメラで同時に岩瀬亮と町田マリーの会話をクローズアップで撮って、あとから編集してつなげる、という撮り方。これはない。可能性としてはあり得るけれども、実際には有り得ない。こうした撮り方では映画は「ずれ」ない。 考えられる第一の方法は「中抜き」という撮り方。例えば町田マリーの会話だけをまず最初に全部撮ってしまって、次に岩瀬亮の会話を撮る。これは撮影所全盛時代に撮られた早撮りの手法なのだけれども、これがどうして「ずれ」るかというと、役者さんが「物語」の流れから飛ばされるから。加えて言うと、目の前で実際に会話していると想定されている人物が不在であるということも加味される。こうなると、役者もスタッフもみな「物語」から解放されるので、「そのもの」に集中できやすくなる。第二の方法は、「中抜き」ではなく、順撮りで撮ってゆくのだけれども、ひとこと役者がしゃべる度に丁寧にカットしていって、照明を決めなおして、メークを調整して、というやり方。晩年の増村保造がやったような。そんなの当たり前だと言われそうだが、当たり前ではない。今の手抜き映画はそういうことをいちいちしない。殆ど連続的に、ベルトコンベアーみたいに撮っている。結局のところ、この二つの手法に共通するのは、「物語」から「ずれ」るということ。 私、映画学校に入っていません、という撮り方をしている。もちろんその「映画学校」というのは、入る事で、入った者の個性と可能性をすべてカラにしてしまうような一般の映画学校のことを指しているわけであるけれども、そうした、「映画学校」が好んで教えるような手法から自由である。 音声が剥き出し。テレビでは流せないコードで録っている。 |
スイートリトルライズ(2010日) | 75 | 85 | 監督矢崎仁司、撮影石井勲、照明大坂章夫、俳優中谷美紀、大森南朋、池脇千鶴、小林十市 どうしてこう「ずれ」るんだろうと。殆どの構図=逆構図による切返しが「ずれ」ている。おそらく小津的に多くを真正面から撮っているからこうなる、というのはわかるんだけれども、しかしこうまで「ずれ」るというのは、当人達が「ずら」そうと意図しているとしか考えられない。 私はいつも情報なしに映画を見るのだが、まったくもって正体を掴ませようとしない。倦怠期ものなのか、サスペンスなのか、、、いつ殺人事件が起こってもまったく不思議でない、真っ白の狂気に包まれている。ギリギリのローキイの世界。そこにある光(アベイラブルライト)でそのまま撮っているのか。実際はどうなのだろう。自動販売機などを含めて、光源に興味を抱かせてくれる。 女優を美しく撮る、という意図にはっきりと包まれている。幾つかの中谷美紀のクローズアップ、例えば小林十市とレンタルショップで別れる階段の振り向き様だとか、小林十市とキスをしてそのまま別れる時とか、「ずれ」ながら、且つ「過剰」な光に包まれている。小林十市のアパートの暗い中でもしかり。 |
5/26更新 | |||
アリス・イン・ワンダーランド(2010米) | 50 | 40 | 監督ティム・バートン撮影ダリウス・ウォルスキー俳優ミア・ワシコウスカ、アン・ハサウェイ 批評あり グッズのあり方一つにしても、駄目なんだなと。要するに、そういう背景によって撮られている、ということだけれども。 「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」(2007)は、「黒」が良く出ていて、カッティングのリズムも良く、二回見て楽しんではいるものの、しかし「視点」という観点からは「後退」している。どうして一度「ここ」から撮ったものを、次の瞬間「あそこ」から撮る必要があるのかと。そういうのが余りにも多すぎる。そしてまた、どうもこの、ダリウス・ウォルスキーというキャメラマンが好きになれないのだけれども、「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」では、暗い部分や遠景ではそれなりの画面を作るのだが、明るい場所で寄るとどうしようもなくなる。 グッズ◎封切前からグッズを売りまくっている。 |
フローズン・リバー(2008米) | 65 | 50 | 監督脚本コートニー・リバー ヘタだけれども、ハートがある。行動を生む要素が、理屈ではなく葛藤と衝突によって撮られているので、拡散しエモーションを生み出す。脚本として優秀。名前が売れて、大きな映画を撮らされるようになると、ダメになるだろうけれども。 |
第九地区(2009米、ニュージーランド) | 30 | 30 | 監督ニール・ブロンカンプ 結局のところ、どうしてこういう映画が受けるのか、ということで、それを指摘する、というのがこれからの批評に必要になってきているのだなと、感じさせてくれるような映画ではある。受けるには受ける理由がちゃんとあるんですよと。「いかに駆り立て、読ませ、共感させるか」ということなのだけれども。言い方を換えるならば、『この映画を「見ること」とは、「見ないこと」によってのみ可能である、』というような映画を、そうとは悟らせずに撮ればよいのかなと。 才能どうこう言う以前にそもそも、才能を出す暇すら与えられないシステムがあり、しかしそのシステムを逸脱することが才能であるとするならば、この監督には才能が欠けている。 終盤の30分になって初めて「人間」らしきものが現われて、映画はそれなりに終わるのだが、 グッズ× |
シャッターアイランド(2009米) | 50 | 70 | 監督スコセッシ デカプリオが顔をしかめ眉をひそめると眉間に縦のシワが二本でき、眉を吊り上げるとオデコに横のシワが五本ほどできる。私はそこばかりを見ていたのだが、彼の出現シーンの98%くらいにおいて、彼の眉間には二本の縦ジワができっぱなしである。デカプリオはずっと「顔を作っている」というわけである。ベビーフェイスからの脱却という意志が、最近のデカプリオの演技からは痛ましいほど露呈しているのだが、それが「顔を作る」という、所謂大根役者的な演技へと彼をして走らせていることについて、助言する人間が不在であるとすれば彼の不幸である。「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」のジュニー・デップの眉間にも終始二本の縦ジワが通りっぱなしであったが、ニコルソンなどの悪い部分の影響が露骨にデカプリオやジョニー・デップを襲っている。 視点が存在しない。人が倒れた瞬間、カッティング・イン・アクションで真上の俯瞰へとキャメラを引き、次の瞬間クローズアップを撮る。視点がない。ワイズマンの映画など、一台に決まっているにも拘らず、ひょっとしてマルチカメラで撮っているのではないかと思わずにはいられない豊かさに充ちているのだが、こういう映画の場合、10台くらいのキャメラを使っているといわれても、べつにその通りと言うだけで、なんということもない。そうなのでしょう。 グッズ× |
ユキとニナ | 75 | 70 | 監督、脚本諏訪敦彦、イポリット・ジラルド 二回目に見たときに気付いたのだが、ユキは決して大人と目を合わせない。それが演技指導でないとすると、本人の意志ということになるのだろうが、例えばニナは、母との討論においてもキッパリと母の眼を見ながら自分の意見を話している。しかしユキは、大人たちが他のことに熱中している時にはじっと大人の目を見つめているのだが(母が号泣していたり、大人たちが喧嘩をしていたりする時)、しかし注意が自分に向けられそうになったり、さらにその後目が合ったりすると、すぐに目を逸らしてしまって、何処ともない空白の場所を見つめている。あの空虚な視線がなんとも健気で意地らしい。 ★ずれること キャリーバッグを引きずりながら母が東京へ行く日、階下から母が「ユキ!」と呼ぶと、二階のユキは縦の構図で窓へと振り向いて母と目を合わせるのだが、すぐ目を逸らしてこちらを向いてしまい、すると母も向き直って歩き始めると、まるでそのスキを突いたようにユキは振り向いて母の後ろ姿を見つめ、またすぐこちらへ向き直った瞬間、今度は母が振り向いてユキの後ろ姿を見つめる。視線の一方通行。これは「演技指導」なのだろうか。パンフレットを読んだところ、多くは即興で演出したと書かれているが、これが即興でできるだろうか。否、おそらく即興なのだろう。つまりこの映画は、そういうレベルまで役者と一体化しているというわけである。 音声についてもこの映画は徹底的に「ずれ」ている。ユキと、ユキの両親との「関係」において「ずれ」ている。手前のベッドにユキがいて、奥の洗面所の両親が喧嘩を始めるというシーンで場所的な「ずれ」を演出しているように、夫婦喧嘩はすべてフレームの関係からしてユキからみて「オフ空間」から聞こえて来るように演出されている。こんな演出がイポリット・ジラルドにできるか、というと、できないわけで、「2/デュオ」のラストシーンで階段を上がってくる柳愛里の足音が「オフから」聞こえてきた記憶を想起しさえすれば、或いは「2/デュオ」という作品の剥き出しの音声を想起しさえすれば、これは諏訪敦彦が演出したことに疑うべき要素は何もない。音声というものは、直接耳にするのと、間接的に耳にするのとでは、まったく別物として現われる。もちろん視覚もそうだけれども。 ★おんぶ イポリット・ジラルドが森でユキをおんぶするシーンがあるのだが、、、「おんぶ」という動作をフランス人はするだろうか。良く判らないのだが、何か違和感がある。悪い意味ではなくて。確か以前、どこかの本で、西洋人は「おんぶ」をしない、と書かれていた記憶があり、また実際、欧米の映画でも人が人をおんぶする、というシーンを見たことがないもので。あれは「日本人の光景」そのものなのだ。 コダックのフィルムで撮っているのだろうか、今ひとつ、コダックの力を引き出せていないように見える。 物語として、これは私なりの勝手な解釈だけれども、ユキは森で遭難して死んだのだと。あの「おんぶ」の場面を始めとして、この映画には死者の香りが漂っている。監督さんに聞いても答えはないだろうけれども、既にユキとニナが森の中を歩いているところを捉えた横移動のトラッキングのロングショットの気配などからして、なにか怖ろしい。 |
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ライブテープ(2009日 | 40 | 50 | 監督松江哲明、出演前野健太 最初の神社の光線の感じからそれを仮に「4時の光」として、最後の公園の木の間から差し込む光線を仮に「5時15分の光」とすると、この映画は「4時の光」と「5時15分の光」という「端っこ」しかない。この両端が最初から計算によって目的として決められているために、「なか」は手段となる。どうして手段になるかというと、では仮に、通行人が前野健太に興味を持ち、立ち止まり、曲の合間に話しかけてきて、そこでコミュニケーションが始まったら松江哲明はどうするつもりであったのだろう。「5時15分の光」は待ってくれないわけだから、そこで支障が生ずることになる。野外コンサート場には警備員まで待機しているのだから。そうした時に、「5時15分の光」を犠牲にしてまでも、今、そこにある通行人とのコミュニケーションを撮りましょう、という豊かさを果たして持ち合わせているのか。仮に通行人が「邪魔」をした時、松江哲明はそれを排除するのではないか。そうしないと「5時15分の光」に間に合わなくなってしまうから。そのためにキャメラがあり、ここでキャメラは、スタッフは、通行人を排除するために存在している。通行人の視線を見てみると、まず前野健太を見て好奇心を示すものの、そのすぐ後に決まってキャメラとスタッフを見てたじろぎ、立ち去ってしまう。そこには入って行ける雰囲気が不在である。キャメラとスタッフは言わば「防波堤」として存在しており、被写体を包み込んではいない。キャメラの存在、ということに関して松江哲明はどう感じているのだろうか。そもそも松江哲明にとって、被写体はさしたる重要な地位を占めてはいないのではないか。被写体は自分の決めた計画通りに動いてくれる「駒」であって、最後はすべて自分が決めるのだと。被写体に対する好奇心がまったく存在しないのである。だから被写体の前野健太は輝かずに萎縮している。結局のところ「あんにょん由美香」にしても、この作品にしても、「何故これがテレビではなく、映画なのか」という問いに対して答えられていない。違うのはコードに過ぎないからである。テレビでは男根を出してオナニーをしているところを放映できないし、テレビでは75分の長回しを放映できない、というコードの問題に過ぎず、本質的には、前日にすべてリハーサルして決めたことをさも知らない顔をしてインタビューするNHKのドキュメンタリーと質的には何ら変わりは無い。 中途、松江哲明がキャメラの前に出て来て、前野健太に父親の死についてインタビューを始め、前野がサングラスを取り、涙ぐむような感じになると、すかさずキャメラを寄ってその涙を撮ろうとする。こういうのがテレビではないのか。 松江哲明の声がオフから聞こえてくるたびに、映画が死んで行く。 |
あんにょん由美香(2009日) | 50 | 50 | 監督松江哲明 たまてばこに書いたので、そちらに譲る。 |
ハート・ロッカー(2008米) | 40 | 50 | 監督キャスリン・ビグロー 成瀬の「あにいもうと」(1953)で浦辺粂子が京マチ子に「あんたは、おそろしい女におなりだねぇ、、」というセリフがあったが、アメリカもまた、おそろしい国におなりになられた。これにアカデミー賞を差し上げるのか、と言ったところで、「劔岳 点の記」に差し上げた国民の発言に説得力はない。 所謂「駆り立てる」という撮り方で、それは「この映画はほんとうです」という撮り方を差すのだけれども、嘘に決まっているものを「ほんとうです」と言いたがる人種の虚しさというのか、怖さというのか、そういう現象がこれからさらに加速するだろうけれども、キネマ旬報のベストテンには間違いなく入るだろう。 グッズ× |
NINE/ナイン(2009米) | 40 | 50 | 監督ロブ・マーシャル撮影ディオン・ビーブ 何かにオマージュを捧げているらしいが、水が油にリスペクトしてるので元ネタが思い浮かばない。「恐竜100万年」か?、、 編集している方は楽しいんだろうけれども、音楽の切れ目に合わせで「ドン!」とカッティング・イン・アクションでバカみたいに寄って、しかし、余りにも「ドン寄り」を安売りするので、スペシウム光線の安売りと同じで、画面が消えて無くなっていって、リズムしか残らない。「山の音」(1954)の原節子が100回振り向いたところで映画にはならんわけで。 ■照明 石畳の夜の路地だとか、夜の噴水だとか、舞台だとか、暗い場所ではそれなりに黒を出しているんだけれども、昼のドラマになるとダメになる。ディオン・ビーブが泣いている。多分、やる気がなかったのだろう。結局のところ、撮影現場の雰囲気が最低で、役者たちがちっともいい顔をしていない。しかし何と言うか、ここまで女優を下品に撮るかと。 このあとに家でリタ・ヘイワースの「カバーガール」(1944)を見て、進歩史観は間違いであることを悟る。 グッズ◎サントラを売っている。 |
噂のモーガン夫妻(2009米) | 50 | 45 | 監督脚本マーク・ローレンス 終盤、殺し屋を翻弄する道具立てとして熊と牛と馬が絡んでくれば許してやる、と思いながら見ていると、熊と牛と馬が出て来て驚く。そうした映画的な記憶を持っていながら、どうしてこうまでつまらなくなってしまうのかといっても始まらない。 ラブコメというジャンルは、韓流や演歌や大衆演劇と同じで、極めて狭い客層へと向けたお約束に支配されているために何と言うか、やっぱり女性客が付くんだろうなと、、、その女性客がなんというか、、、 グッズ× |
インビクタス/負けざる者たち(2009米) | 80 | 70 | 監督クリント・イーストウッド どうしてアメフトでなくラグビーなのかと。結局のところ、Aが走って行ってタックルされて、後方のBへパスして、またBが少しだけAの前まで走ってタックルされて、また後方のCへパスを出す。そしてまてCが少しだけBの前まで走って、、、というような運動が、アメリカのフロンティア精神と視覚的に一致したからではないか。 イーストウッドという人は、視覚的なものが主題に出て来ないと映画を撮らないようなところがあって、「グラン・トリノ」なら、まさに「隣人愛」という視覚的なものが見えていたし、「チェンジリング」には、帰郷というアメリカ的な出来事が視覚的に現われていた。アメリカという国の成り立ちは、アメフトのような、一発大逆転のタッチダウンではなくて、ラグビーのパスを繋げていくような、ああいう小刻みな感じなのだと、多分イーストウッドは感じていたはずである。それが「作ること」に関するイーストウッドのイメージであり、イーストウッドはそこから映画を撮って行くのであって、間違っても偉人の伝記なるものの物語に感動して映画を撮り始めるような人ではない。必ずや「映画になるか否か」をまず視覚的に、或いは主題的に考える人である。南アフリカの改革は、ラグビーという競技を含めて「作ること」に関するイーストウッドのイメージにマッチしたのだと。そんな感じがする。 グッズ× |
4/5更新 | |||
恋するベーカリー(2009米) | 監督ナンシー・マイヤーズ 40分で出る 一瞬たりとも笑えない映画に出演している役者たちが30分笑い続けているので『あと10分だけ我慢しよう。その間に笑いを止めなければハイ、さよならだ」と呟き、10分経って出る。 グッズ× |
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脳内ニューヨーク(2008米) | 監督チャーリー・カウフマン 一時間チョイで出る。これまたシーモア・ホフマンの眉吊り上げ笑いが「賞をくれ」と脅かしてくる。 |
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キャピタリズム・マネーの誘惑(2009米) | 60 | 60 | 監督マイケル・ムーア フルショフのモンタージュに忠実。 |
ゴールデンスランバー(2009日) | 1時間弱で出る ヒッチコックの名前は知ってます、見たことはありませんが、という映画。 |
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ピリベンコさんの手づくりの潜水艦(2006ドイツ) | 70 | 70 | 監督ヤン・ヒンリック・ドレーフス、レネー・ハルダー カッティング・イン・アクションなどの演出が随所に見られて、これは果たして「ドキュメンタリー映画」なのか「フィクション映画」なのかしばらく分からなかったのだが、どうやら前者であったらしい。これが日本の作品なら、日本人の素人は演技が下手だから、すぐにドキュメンタリーかどうかは判るのだが、あっちの人というのは、イタリア人を典型に、役者なのか素人なのかの境界線が極めて曖昧である。 |
バレンタインデー(2010米) | 監督ゲイリー・マーシャル 40分で出る。 5分でだめだと分かる映画との虚しい関係。もともとラブコメディというジャンルは、ハリウッドでは50年代から既に照明力の低下が現われていた。手っ取り早く照明を見極めたいのなら、壁に落ちた影を見ていればよい。ダメな照明は、輪郭のないぼやけた人物の影が壁に幾重にも重なって映っている。 グッズ× |
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Dr.パルナサスの鏡(2009米) | 監督テリー・ギリアム 一時間で出る。 何も始まらず、始まる気配すらない。 グッズ× |
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サロゲート(2009米) | 80 | 75 | 監督ジョナサン・モストゥ撮影オリヴァー・ウッド俳優ブルース・ウィルス、ロザムンド・パイク 批評あり あくまでも簡略に、説明を省いて書いた。 ちょっと巷の批評を幾つか読んでみたのだが、「傷」に関して言及しているものは皆無であった。 グッズ× |
パラノーマル・アクティビティ(2007米) | 60 | 60 | 監督オーレン・ベリ おそらくこういう映画だろうと思った。「クローバーフィールド」とか「ダイアリーオブザデッド」よりこっちが先ということか。 キャメラがベッドルームに固定してあって、その時、少なくとも設定上はキャメラマンは存在しない。馬鹿馬鹿しいほど単純な設定だが、画面右下のデジタル表示が止まる度、思わず目を見開いて何が起こるか集中してしまう。その感覚は「発見してやる、」なのだ。それはおそらく、キャメラが置きっぱなし、という、監督としてのキャメラマンが不在(という設定)から来ている。フレームやサイズにおける人間の主観的な所与の選択が不在の時、画面を見つめる我々は、自分の意志で映像を制御・選択できているような錯覚に囚われてしまうのである。 グッズ× |
アンナと過ごした四日間(2008ポーランド、フランス) | 85 | 85 | 監督イェジー・スコリモフスキ スコリモフスキの頭の中には「街の灯」(1931)があったのだろうか。「街の灯」という映画における盲目という要素をひとつのマクガフィンと見るならば、要は、女が男の好意を知らないということが重要となるわけで、別段それが盲目であろうが睡眠であろうが構わないという事になる。笑えないようで笑えてしまうギリギリの線におけるコメディとして、男はチャーリーと重ねられている。 西欧的な「盗み見」というのは、基本的には主体と客体とが分裂していて、みずからは安全地帯としての主体(外部)に留まり、客体を対象として見つめる行為としてよく現われる。そこには多くの場合「窓」という、時間を停止させる枠組みとしての壁が取り入られている。しかし盗み見をしていた人々はいたたまれず、遂にはみずから「窓」を抜け出て、対象の内部へと侵入してしまう。すると時間が導入され、物語が始まる。「裏窓」(1954)でもあり、チャーリーでもあるこの作品が投げかけてくるものは、内的な人々が外部という世界内存在へと飛翔したとき、何かが起こる、というサスペンスである。 |
ラブリーボーン(米英ニュージーランド) | 70 | 70 | 監督ピーター・ジャクソン 予告編を見たときに、やけに画面が落ち着いていて、どうしちゃったのかと、びっくりしていたのだが、よもやベストテン入りか、という出だしで何度も泣かされたが、最後はちゃんと帳尻を合わせてくれる。そもそもこんな、「昨日初めて『国民の創生』を見ました」という感じの初々しい映画を撮れてしまうとは、よっぽど純粋なのか、無邪気なのか。 「ロードオブザリング」「キングコング」と違ってこの映画には奥もあれば画面の外もあり、またニュージーランド時代とも違ってショットが落ち着いている。ロングショットなんてのが沢山入っている。この変貌振りはいったいなんなのだろうか。ショット数も全然少なくなっている。 娘が学校へ行く朝、母の編んだ毛糸の帽子をいやいや被り、家を出て行く。手前には娘の姿がいつものジャクソン映画のように近景で映し出されている。しかし良く見てみると、画面の遥か奥に、家のポーチのあたりで娘を見送っている母の姿がロングショットの縦の構図で映し出されている。ピーター・ジャクソンの映画に縦の構図、、、、まさかと思いながら、母は、まるでジョン・フォードの映画の母たちのように、真っ白なエプロンをして娘を見送っている。どうしてかこの瞬間、この縦の構図と真っ白なエプロンを前後に見た時、これが、この母と娘との最後の瞬間であることをひっそりと告げていることが分かるのだ。ここには「奥」という空間が見事に露呈し、均質性を免れながら、母という存在がロングショットの真っ白なエプロンによって紛れもなく存在を輝かせ、娘との距離を打ち破るように露呈している。「ロードオブザリング」シリーズにおいては、ただの一瞬たりとも存在を許されていなかった「奥」という空間が、映画の中で躍動し生き生きと撮られている。 グッズ× |
パンドラの匣(2009日) | 監督富永昌敬、俳優川上未映子 50分ほどで出る。 物語の順番どおりに映画を撮るからこうなるのだが、言わば物語への過信、言葉の妄信ということで、それはすなわち映画の敗北である。 洗濯物は風に揺らさないのなら乾す必要はない。 |
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パリ・オペラ座のすべて(2009仏米) | 95 | 100 | 監督音声編集フレデリック・ワイズマン 『監督音声編集フレデリック・ワイズマン』と書いたが、そこに是非「脚本」という文字を加えたくなる衝動を引き起こさせてくれるのがワイズマンというドキュメンタリー映画作家の画面の摩訶不思議である。 そこに或るのは確かに人間への探求かも知れないが、しかし、ただ人間を撮りたいのであれば、ああまでわざわざ鏡と鏡の境目で歪曲し、分裂したダンサー達を執拗に追い掛け回す必要はないわけで、また、ああまでわざわざ編集という行為を誇示してまで画面と音声とをずらす必要もないわけで、明らかにワイズマンという人は、ある種のうそをつく事で、「ほんとう」が暴き出されるとする性向のようなものを本来的に持ち合わせている。 オープニングは、まるでロメールやジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレの映画のように、パリの雑踏の呻き出すような騒音で開始されたかと思うと、キャメラはすぐにオペラ座の階段、廊下、そして地下室の不気味な装置群へと展開し、まるで蛇がどくろを巻いたように渦巻状になって置かれているロープが画面の中にこれでもかと映し出され、そこへ黒人の掃除負やペンキ塗りや、誰もいない階段などが映し出されたとき、画面に露呈するのは決して「パリオペラ座バレエ団の舞台裏」などという物語的な真実ではなく、オペラ座という建築物と、そこに住みつく人間たちの「関係=オペラ座の怪人」であることが、露呈してくる。「オペラの怪人」とは、あくまでも「オペラ座の怪人」であって、オペラ座以外の怪人ではない。オペラ座に住み着いているからこそ「オペラ座の怪人」であり、この映画はまさしく「オペラ座の怪人」を撮った映画なのだ。この作品は、「オペラ座」という建築物と、そこに住み着く人間たちの「関係」なくしては決して有り得ないのであり、ワイズマンはそういう撮り方をしている。「関係」ではなく「対象」そのものとして撮るのならば、オペラ座の堂々とした外景であるとか、オペラ座を離れたダンサー達の日常のショットを撮るはずである。 病院であれ屠殺工場であれ刑務所であれ劇団であれ、ワイズマンの映画には必ずや「経営」という資本主義的な光景が撮られている。恐らくそうしたものの中に、人間、というものがより強く露呈する、というような感じを持っているのかも知れない。 本番の舞台であろうと思われるシーンにおいて、決して画面の中に視覚的に観客が撮られることのなく、また音声的に観客の拍手も歓声も感嘆も取り除かれ、決して本番の舞台であることを証拠立てるショットを挿入しない。いったいどうして本番の晴れ舞台を晴れ舞台として撮ろうとしないのだろう、と、そうして私は、本番と稽古とのあいだに宙吊りにされ、オペラ座という建築の中で剥き出しとなったダンサーたちと、直接向き合わざるを得なくなる。そこに現前するのは、過剰ともいえるダンサーたちの運動と、それをひたすら静止した構図の画面の中へと収めんとする過剰なキャメラワークとの衝突によって露呈する、オペラ座と人間との剥き出しの関係である。 「照明100」としたが、おそらくそこにある光をそのまま使い続けたのだろう、序盤の稽古風景の光線など、殺風景な光線に終始しながら、少しずつ少しずつ凄くなって来る。才能というものは残酷である。 |
ボヴァリー夫人(1989=2009ソ連・ロシア) | 80 | 85 | 監督アレクサンドル・ソクーロフ ギリギリの線で撮っているというのか、ベストテンとワーストテンとの狭間を綱渡りする快感に震えているような、そんな感覚に囚われる。つまらない、つまらないと思いながら見ていてもちっとも時間の経過を感じさせないのは、この映画が紛れもなく画面の力によって先導されていることの証であるだろう。 アフレコやレンズによる遠近法の「ずれ」ひとつとってみても、文学史上に残るとされている原作から撮られたこの映画を、間違っても物語によって消費してくれるな、というような強い意志に導かれた細部によって画面が際立っている。あらゆる瞬間が「映画」でなければならない、だからこそ、見ていてすこし疲れる。それくらい画面が露呈している。 |
3/5更新 | |||
アバター(2009米。英) | 40 | 60 | 監督ジェームズ・キャメロン 批評あり 案外楽しめたが、書くべきことは書いておいたので物好きな方は批評を読んで頂きたい。 グッズ◎ |
母なる証明(2009韓) | 40 | 50 | 監督ポン・ジュノ 予告編を見た時に「あっ、だめだ」と直感し、その確信は実際の鑑賞後まで一瞬たりとも揺らぐことなく終始したのだが、そもそもこういう骨格をし、こういう表情をする女優さんを主演に使うこと自体が踏み込みの甘さを露呈させている。こういう演技が「演技派」という言葉で賞賛されるステレオタイプの典型である。 顔というものは、観相学的に「顔の背後を読む対象」とされた時、ステレオタイプの均質化した共同体のコードというものに簡単に吸収されてしまう。だからこそ、こういう心理的な顔をすると、同質の共同体の者たちは喜ぶ。ああ、わかる、わかる、と。そうそう、あるある、というわけである。そこにあるのは共同主観的な共感ではあっても決して未知なものに対する驚きではない。今、多くの映画批評はこうした共感に基づいて為されている。だからこそ彼らは驚きの少ない作品から順番にベストテンに入れて行く。彼らは「驚いた」と思って実は「納得した=共感できた」に過ぎない自分に気付いていない。世の中がひっくり返るというのはこういうことである。 キネマ旬報のベストテンを飾りそうなタイプの典型である。 |
ロボゲイシャ(2009日) | 50 | 50 | 監督井口昇 バカなと思いながら少し泣いてしまったのでどうしようもないのだが、なんというか、ひと言で言えばしゃべり過ぎである。桁外れに台詞が多すぎる。セリフを500分の一くらいに削ってもまだ多いくらいよくしゃべる。しゃべりっ放しではないか。敢えてそうしているのだろうけれども、、自分自身の行動や状態を全部口で説明するというのはいったい「何流」なのだろう?、これは日本流なのか、、、まぁ、こう、多神教的というか、母性的というのか、間違っても一神教の国では上映できないだろうと思わせてくれる凄さは尊敬に値するが、案外今はこういうのがそういう国々で受けたりするのか。 |
パブリック・エネミーズ(2009米) | 80 | 70 | 監督マイケル・マン俳優ジョニー・デップ、マリオン・コティヤール 私は以前から『マイケル・マンのあらゆる映画はジョン・フォードの「駅馬車」である』と断言してきたが、古い者たちが総死し、残された新しい者たちに時代を託す、という構造はジョン・フォードの「三悪人」(あるいはこの系統の映画)ではないか。 「駅馬車」とはどういう映画かというと、『紳士は紳士であり、淑女は淑女であり、医者は医者であり、保安官は保安官であり、娼婦は娼婦であり、セールスマンはセールスマンであり、御者は御者であり、銀行家は銀行家であり、ガンマンはガンマンである』という映画にほかならない。彼らはひたすらみずからの性向に忠実であり、決してそれに逆らうことはしない。ジョン・ウェインはどうして最後、みずからの幸せを危険に晒してまで決闘に向ったかといえば、それは彼が「ガンマン」だったからにほかならない。馬車がインディアンに囲まれた時、ジョン・キャラダインが淑女のルイーズ・プラットへと銃を向けたのは、彼が「紳士」だからにほかならない。それぞれが性向に見合った行為をし、ひたすらその運動を続けて行くというのが「駅馬車」という映画である。マイケル・マンの登場人物はすべてこの「駅馬車」から来ている。ランナーが走るのは彼がランナーだからであり(ジェリコマイル)、殺し屋がどうして人を殺すかといえば、彼が殺し屋だからである(「コラテラル」)。デリンジャーが何故銀行を襲い、女を見定めたか、それは彼がデリンジャーだからだ、以上の理由をマイケル・マンは決して画面に散りばめようとはしない。新聞記者はひたすら新聞記者であり(インサイダー)、刑事は刑事であり、アウトローはアウトローである(ヒート)。逃げようと思えば逃げられたものを、わざわざ裏切り者を処分するために舞い戻ったロバート・デニーロこそ、マイケル・マンの映画の典型的な人物に外ならない。何故かれは舞い戻り、みずからの手で相棒を消したのか、それは彼がアウトローだからだ。初期のホラー映画で「ザ・キープ」(1983)という作品がある。どこからともなく出て来た怪物が、ナチの軍隊を全滅させてしまうという映画なのだが、ここでナチの将校が怪物に「お前はどこから来たんだ」と尋ねると、怪物は「お前の中から来た」と答える。既にこの時点からマイケル・マンは、人間の「なか」に潜んでいる動かし難い性向のようなものを、描いていたのである。 ■バイバイ、ブラックバード ラストの白いタイルの部屋で、チャーリー・ウィンステッドからマリオン・コティヤールへ向けられて「バイバイ、ブラックバード」という言葉が伝えられる。おそらくこのセリフは映画史に残ると思われるが、この瞬間チャーリー・ウィンステッドの頬に一気に涙が溢れ出し、見ていた私たちも涙を抑えられずに泣くしかないという状況に追い込まれてしまう。 刑法の犯罪論に「間接正犯」というのがある。当人(A)が実際に手を下さなくとも、例えば年端もいかない子供に商店の品物を取って来させたり、心神喪失の者を「道具」として使う事でみずからの犯罪を実現する、それが「間接正犯」という犯罪類型なのであるが、ここで実際に行為をした者(B)は行為の意味を分かっていないので、その行為はAの意志の因果の流れの中に埋没し、結局のところこの犯罪はAの意志がストレートに実現したことになり、Aは共犯ではなく正犯となる。Bはみずからの行為の意味を知らないがために、Bの行為にはAの意志がそのまま露呈しているのだ。 「Bye Bye Blackbird」という遺言の伝達は、まさに「Bye Bye Blackbird」という言葉の意味を知らないチャーリー・ウィンステッドという「道具」を介して伝えられたがゆえに、まるでジョニー・デップの声そのものとして直接マリオン・コティヤールに直撃してしまったのである。 仮に伝え役の刑事、チャーリー・ウィンステッドがこの『バイバイ、ブラックバード』の意味を知っていたと仮定して想像してみよう。おそらく安っぽいメロドラマに成り下がるだろう。このシーンは、刑事のチャーリー・ウィンステッドが『バイバイ、ブラックバード』の意味を知らないこと=「道具」であることが決定的な意味を持っている。そうすることでチャーリー・ウィンステッドの発する『バイバイ、ブラックバード』という言葉の意味が二人だけの思い出として守られ、抱かれて行く、そして女は、思い出の橋をビビアン・リーのあの瞳を求めて生涯彷徨い続ける「哀愁」(1940)のロバート・テイラーのように、生涯、男の瞳を求めて思い出の場所を彷徨い続けるのである。それがメロドラマの余韻である。メロドラマとは、断じて「二人の思い出」を第三者に知られてはならない。マイケル・マンはその鉄則を知っているのである。 「ずれ」というものの発する力を知り尽くした素晴らしい脚本の書き方である。真正のメロドラマに必要なのものとはこうした「ずれ」なのだ。それが「B」の資質でもある。 グッズ× |
のんちゃんのり弁(2009日) | 70 | 70 | 監督脚本緒方明、脚本鈴木卓爾、俳優小西真奈美 「いつか読書する日」は楽しめなかったが、この作品は大いに楽しめる。エンドロールで脚本に「私は猫ストーカー」の鈴木卓爾が絡んでいるのを見て、なるほど、と思ったのだが、ここまで人々が「振り向く」映画を久々に見た。中盤、初恋の相手(村上淳)と再会した晩、居酒屋で二人が向かい合って携帯の番号を教えあうシーンがある。そこで携帯に「集中」している村上を、正面の小西真奈美がさり気なく「盗み見」するのだ。映画館で久しぶりにこうしたメロドラマ的「窃視」を見たのだが、緒方明が成瀬映画を見ているかどうかは別にして、今時、このような繊細な演出を重ねていったところで、批評家はまったく見ようともせずにやり過ごしてしまうのがオチなのだが、そこで妥協して「シネコン映画」を撮る作家と、妥協せず「映画」を撮る作家とに人は分かれる。 ちなみに「シネコン映画」とは、括弧「」が指示しているように、具体的なシネコン映画の総体ではない。ある抽象的なコードないし現象のことを言っている。仮に黒沢清のある映画がシネコンに具体的に乗ろうが乗るまいが、その映画が何週間シネコンにかかったのか(金沢では「叫び」は一週間で打ち切られた)、そうした現象を含めての「シネコン映画」というわけである。 「空気人形」のように、安易に映画の「外部」の力に直接甘えることなく、あくまで映画の「内部」の力で映画を撮りながら、「内部」と混沌と交じり合い「内部」と密接不可分に交叉する「外部」を抉り出している。それは同じように見えて全然違うことなのである。 緒方明については、私と同世代の人間のはずである、ということだけは何となく伝わってくる。石立鉄男のホームドラマなんかを見て育っているのではないか、、。 メイクがしっかりしているから照明が映えて見える。 |
クリーン(2004カナダ・英・仏)) | 65 | 75 | 監督オリヴィエ・アサイヤス 俳優マギー・チャン 主人公の突進型性質というのか、男っぽさというのか、とにかくこのマギー・チャンは女でありながら決して自分の髪に触れない。たくし上げたり、乱れを直したり、決して髪に触れない女なのだ。中盤からはボサボサ頭の髪を後ろで結ってオデコを出してみたり、かと思えばワッチを被って覆ってみたりして、徹底して髪との交渉を拒否している。外の女たちがすぐ髪に触れるのと比して、人物として決して髪に触れない女として撮られている。私としては、どこか決定的な場面で髪に触れるのかと見ていたのだが、そういうわけでもまたなさそうで、最後まで女は髪に触れることなく映画は終わる。そういうものか。 脚本がどうもよろしくない。どうしてこう下手糞に書いてしまうのか。意図的なのか。 |
空気人形(2009日) | 監督是枝裕和、撮影リー・ビンピン 「スタンドバイミー」という言葉が聞こえて来た瞬間もう我慢の限界に達し席を立つ。ひたすら大衆の善意に媚びを売った作品にリー・ビンピンを使いたがる精神が好きにはなれない。 最初の四つの素晴らしいショットの連なり、日が暮れた屋上と遠景を走り去る黄色い電車の見事な風情、、どれもこれもリー・ビンピンの力に見えてしまう。どんなにキャメラマンその他スタッフが映画を「内へ、内へ」引き入れようとしたところで、監督が「外へ、外へ」と媚びを売る。レンタルショップの店員がしゃべる度に映画が壊れて行く。ヌードの撮り方にしても呆れ果てるほど下品の極地で、見ていてペ・ドゥナが可哀想になってしまい、代わりに謝罪しようかと思ったくらいだが、「テレ」というものがないものだから、ズボン!とあられもないショットで裸を見せてしまう。 これまたキネマ旬報ベストテン入り決定、という感じの作品。 |
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2012(2009米) | 80 | 70 | 監督ローランド・エメリッヒ 屠られそうになっている鶏が振り向いて「コケっ」と鳴いたショットに大爆笑。なんと鶏を構図=逆構図で切り返すとは、、、、ハリウッドの古き良き精神に呆れ果てるほど忠実に撮られていて笑いっぱなしの3時間。映画のような映画である。 |
2010/1/10更新 |
映画研究塾