藤村隆史論文ヒッチコック・ホークス主義
第二章~ゴダール
ヒッチコックの映画を見てゆくと、その運動の有様がジョン・フォードやハワード・ホークスのそれとは大きく違ったものとして見えてくる。ジョン・フォードやホークスその他多くの映画の基本的な運動は、探偵が人を探したり、騎兵隊がインディアンをやっつけたり、ガンマンが決闘したり、刑事が犯人を捕まえたり、飛行機乗りが飛行機を操縦したりというように、職業と運動が接近している。彼ら主人公たちは基本的にみずからの職業的スキルを利用しながら映画の中で職業的運動を進めてゆくのであって、西部劇であれ探偵映画であれ時代劇であれ、基本的に職業と運動が一致しているのが常態である。ジョン・フォード●「駅馬車」(1939)であれば馬車の中に9種の職業に分かれた人々が同乗し、それぞれが職業に見合った運動を続けてゆく。医者は医者の運動を、保安官は保安官の運動を、紳士は紳士の運動をひたすら続けている。ところがヒッチコックはそうしたスキル運動を撮ると途端に映画を主体化させてしまい現在の瑞々しい運動を撮ることができなくなる。
★ゴダールはこんなことを書いている。
「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う。しかもそれは、どんな意図によるものでもない」という原則を●「勝手にしやがれ」で立てました。映画というものはもともとは探偵映画のことだからです」(映画史Ⅰ32
密告者は密告する。●「勝手にしやがれ」(1959)のジーン・セバーグは恋人で殺人犯のジャン=ポール・ベルモンドを警察に密告をする。密告者は密告をする。探偵が探偵をし、刑事が殺人事件を捜査する。運動と属性(職業)が合致している。「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う」。イコールそれが「映画」である、ということになるのなら、カナダ人旅行者や広告会社の宣伝部長が国家機密を守り、キャメラマンが殺人事件を捜査し、プレイガールが鳥に襲われ、テニスプレイヤーがメリーゴーランドで格闘し、タクシーの運転手が探偵をし、、と、ことごとく運動と職業とが分裂しているヒッチコック的巻き込まれ映画は「映画」でないことになる。
「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う」という言葉のあとに「しかもそれは、どんな意図によるものでもない」と続いている。密告者は密告する。通常ならば、賞金が入るから、憎かったから、市民の義務だから、、といった密告の理由があるはずのところが「どんな意図によるものではない」のだから、密告者は密告する理由なしに密告していることになり、あなたは何故密告をするのかと尋ねられた彼は『私が密告者だからだ』と答えるしかない。理由を欠いた「密告をする」という運動がトートロジーとなって自己回帰している。
★運動するのに理由がない~①「心理的ほんとうらしさ」
人間とは物語的動物であり物語によって制度に取り込まれ社会的人間として経済的なシステムの中へと取り込まれている。物語によって創造された「もうひとつの起源」をルーツとして社会の中へと主体的に組み込まれてゆくことで我々は社会的動物として生きていくことができる。仮に人間が物語を失ってしまう時、ひとはみずからのアイデンティティを決定づけていた「起源」を喪失し、社会から放り出されて原子化し、公的な領域を喪失して動物化してしまう。そのような怖ろしいことを商業映画はその画面の中に滑り込ませてはならない。そもそも人間の脳は世界を因果的に解釈するようにできており、原因と結果が結びつかないと人は「わかった」と安堵できない。だからどうしても人間は行動に理由を探し求めてしまう。そしてこれは人間だけでなく生物そのものの基本原理らしい(橘玲「かっこにっぽんじん・日本人」68頁。ジェシー・ベリング「ヒトはなぜ神を信じるのか」174頁)。人間は起承転結に則った物語を欲せずにはいられない。それをもたらすのが文明であり文明とは人々に不安を抱かせないようにするための装置である。だがそれが映画という運動のメディアにそのまま適用されるとき運動に動機という「心理的ほんとうらしさ」が付着することになる。思考によって運動に形を与えることで限定し、閉塞させる制度的な脆弱さであるところの「らしさ」なるものが、複雑性の極致であるところの運動を「納得のできるもの」へと平準化させていく。『ストーリーの辻褄を合わせることばかり考えて、「らしさ」などにこだわる批評家というのは想像力を欠いた鈍感なやつだと思うね』(映画術88)というヒッチコックの発言は、また『芸術的均衡は、物語のうえの均衡でなければならないという考え方にはどうしても納得がいかない』(「作家主義」78頁)というジャン・ルノワールの言説は、はたまた『「われ思わぬ、故に我あり」のほうが私は好きだ。すべての思考は行動を麻痺させる。また、映画は行動のつらなりである。思考は行為の足をひっぱり、気取った鼻持ちならない文体で行為を飾り立てる。』(「映画について」175頁)とジャン・コクトーが主張するように、これらの言説は複雑であるが故に豊かである運動が「らしさ」というステレオタイプによって凡庸へと堕してゆくことへの苛立ちを表している。物語という限定を受け容れつつも作り手すらコントロールできない映像という複雑なうごめきとその運動を肯定して解き放つこと、そのために映画人たちは「心理的ほんとうらしさ」と戦い続けている(詳しくは論文「心理的ほんとうらしさと映画史」)。
★②演技
第一章では登場人物の身体性と役者の主体的な演技との関係について検討したが、演技は役者の主体性だけでなく運動の起動面についても影響を及ぼしてくる。●「引き裂かれたカーテン」を回顧して『ポール・ニューマンは何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった』とヒッチコックが語るのは、アクターズ・スタジオの俳優の演技は言葉では本来表現不可能な運動という混沌の両端に言語的・心理的な理由を付着させ「わかりやすさ」へと分節化させてしまうことを意味しているが、それは端的に理由を求めて納得せずにはいられない観客の弱さから来るわかりやすさと共感への欲望に答えたものであり、『登場人物の心理なるものをでっちあげてしまうたぐいの俳優がすべき本質的な仕事は、自分を適応させ直すということだ(「ゴダール全発言Ⅱ」122)』とゴダールが語り、リリアン・ギッシュがD・W・グリフィスの演技論について『顔をゆがめないで表情を作りなさい。しかめ面をしないでしかめる表情を出すのです』(「リリアン・ギッシュ自伝」120)と語るように、D・W・グリフィスからカール・ドライヤー、ジャン・ルノワール、ハワード・ホークス、ロベール・ブレッソン、ゴダール、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男等あらゆる映画人たちが共通して吐いてきた言葉が「演技をするな」であり、ヒッチコックもまた彼ら映画人の一人にすぎない。●「北北西に進路を取れ」でトウモロコシ畑の農道に放り込まれたケーリー・グラントの運動に「らしさ」は見出されない。広告会社の宣伝部長が国家機密のスパイ活動に巻き込まれ土地勘のない見知らぬ土地に足を踏み入れてしまい主体性をとことん剥ぎ取られてしまったケーリー・グラントだからこそ、ちょっとしたきっかけにも動揺し、疑い、ただひたすらリアクションで駒のように弾かれることができる。そこには「こういう時に人間はこういう行動をする」というアクターズ・スタジオばりの「らしさ=限定」など微塵も存在せず、それとはまったく違った反射的運動が志向されている。心理や動機から解き放たれ、荒唐無稽で形のない跳梁として無定形に生成されてゆくダイナミックな出来事、それを解き放つために運動の最初と終わりから「心理的ほんとうらしさ」を駆逐しなければならない。こういった現象はゴダールの映画に出てくる主人公たちに容易に見出すことができ、『アンナ・カリーナは人物の心理を追うような演技をしない(映画史Ⅰ171)とゴダールが語るように、ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=ピエール・レオといったゴダール映画の登場人物は行動から主体性を極限まで剥ぎ取られることで不断に変化する幼稚な不確実性を惜しげもなく露呈させ続けている。
★再帰的~運動の起動に理由がない
「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う。しかもそれは、どんな意図によるものでもない」と続くゴダールの言説は、密告者が密告という運動をすることには「どんな意図によるものではない」こと=「心理的ほんとうらしさの不在」を端的に表している。密告者は密告者であるから密告をするのではない。そもそも「密告者」など先にもあとにも存在しない。密告者が密告者であるから密告という運動をするのならば、その運動には密告者「であるから」という理由=「心理的ほんとうらしさ」が付着する。密告者「であること」という形而上学的で不動の一者が運動に理由を付与し、運動を失速させる。『ぼくの興味をひくのは、事をおこなう人についてよりも事について語るということ、そしてそのあとではじめて、その事をおこなう人について語るということだ』(「ゴダール全評論・全発言Ⅲ」16頁)というゴダールの発言は、映画において「人」=「であること」は「事」の「あと」からやってくることを指し示している。蓮實重彦はゴダールについてこう書いている。
『「勝手にしやがれ」は、密告とは何か、という形而上学的な疑問ではないし、密告がよくないことだという倫理的な結論でもない。人は、ただ、殺人者は殺人を犯すという命題を一つの運動として目にするのみである。殺人者であるが故に人を殺すのだと、人が納得するのでもない。人を殺した以上は殺人者たらざるをえないと納得するのではない。~理由によっても結果によっても説明しがたい事態が、そこに生起していることの呆気ない唐突さに戸惑うほかはないのである。』
密告者は密告者だから密告するのでもなければ、密告者は密告したところで密告者になるのでもない。「あと」からやってくるように見える「密告者であること」は、やって来るように見えてやって来ない。「あと」にも「さき」にも、いつになっても密告者は姿を現さない。姿を現しているのは徹頭徹尾「密告をすること」という剥き出しの運動である。したがって「密告者は密告をする」のではなく「密告をする者は密告をする」とした方がよりゴダールの言説を的確に表すことになる。どうして君は密告をするのか→「なぜなら私は密告者だからだ」ではなく、「なぜなら私は密告をしているからだ」と書くのが正しい。こうした堂々巡りの神経症的運動は「はしっこ」という「らしさ」を濾過した「なか」によってのみ可能となる極めて近代的な自己撞着現象としてある。
宮台真司はこう書いている。
『流動性と複雑性の増大で自明性が失われた結果、何事につけ「するも選択、せざるも選択」と諒解せざるを得なくなった社会を、近代一般から区別して「再帰的近代」という』(日本の難点117
身分、神、真理、理性など、それまでは不動のものとして存在していた自明性が崩壊し「であること」を維持することができなくなった人間たちは、ひたすらみずからの「すること=選択」を更新し続けることによって失われた「であること」を求め続けてゆくしかない。だが自明性の失われた再帰的な近代において「であること」など存在するはずもなく、人々は「すること」をその都度更新し続けることで「ありもしないであること」を追い求めてひたすら神経症的に走り続けていく。●「駅馬車」のトーマス・ミッチェルは医者であるからルイーズ・プラットの出産に立ち会ったのではない。出産に立ち会うという運動・選択をしたから医者なのだ。だが彼が「であること」として到達したはずの医者という身分は届く間もなく逃げ去ってしまい、彼はその後も「医者をすること」という運動を持続させることでしかみずからの医者としてのアイデンティティを自認することはできない。「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う」というゴダールの言説は、映画が近代的メディアである現実と共鳴している。主体性を喪失した再帰的近代において密告をする者は「密告者である」から密告するのではなく、かといって密告をすることで密告者になれるのでもなく、延々と「密告者=自己」を求めて走り続けるしかない。この人を食ったような堂々巡りの手触りこそゴダールの言説の性質を指し示している。ここで生じているのは運動の理由は運動の中にしか存在しないという極めて神経症的不安に包まれた荒唐無稽な有様である。運動の動機が自己準拠的に回帰しているのだ。蓮實重彦がゴダールについて『彼の単純極まりない断言命題(「女は女である」等)は、いつでも、どうしてとだってを排したかたちで、そのいずれにも触れることなくその中間に形成されるものなのだ。』(ゴダール革命20頁)と書いているのはまさにゴダールの映画が「心理的ほんとうらしさ」=「はしっこ」から隔絶されている「中間=なか=すること」の運動として自己回帰していることを表している。●「ゴダールのマリア」(1984)のミリアム・ルーセルをして、いったい誰が静止した彼女を見つめただけで彼女を「マリアである」と識別するだろうか。現代の街のガソリンスタンドの娘として登場するミリアム・ルーセルはマリアを「すること」でしかマリアたりえていない。延々と逃げ続けてゆくみずからの尻尾をひたすら追い続けてゆくことでしかみずからを確認できないような回帰的時代、底の抜けた時代、それが再帰的近代であり、映画はそうした時代に生まれた「運動」という出来事をさらけ出すメディアとして出現している。『小津は、できごとの始まりや終わりの瞬間を描くのをことあるごとに避けているように見える。実際●「東京物語」の終幕の葬儀や●「彼岸花」の冒頭の披露宴も、人びとが目にするときにはすでに始まっている』という蓮實重彦の言説は、小津の映画にはできごとの始めと終わりに付着する「心理的ほんとうらしさ」=「はしっこ」が不在であることを端的に指摘している。こうして「はしっこ」を欠いた運動はひたすら自己の中に運動の原因を追い求めて無限ループをすることになる。
■巻き込まれ運動を起動させる
再帰的に運動が回帰してゆくのがゴダール的探偵映画であった。ではヒッチコック的巻き込まれ運動はどうか。
★マクガフィン
マクガフィンという言葉が使われたのはヒッチコックにトリュフォーがインタビューをした「映画術」の中においてであり、そこでマクガフィンとは運動を起動させるところのきっかけのようなものとして理解されている(「映画術126頁等」)。●「三十九夜」●「バルカン超特急」●「海外特派員」●「逃走迷路」●「汚名」●「北北西に進路を取れ」等における国家機密などがマクガフィンの典型で、その場合、国家機密は主人公を運動の中へ巻き込むためのきっかけとしてのみ存在しその中身はどうでもよい。『マクガフィンにそれ以上の意味はない。だからヘンに理屈っぽい奴が「マクガフィン」の真相や内容を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ』、とヒッチコックはトリュフォーのインタビューに答えて語っているように (「映画術126」)、マクガフィンに意味はないのだからマクガフィンの内容について吟味することは意味をなさず、その中身は●「三十九夜」ではラストシーンにおいてミスター・メモリーの口から意味不明のデータが用途済みのように吐露されるにすぎず●「北北西に進路を取れ」においてもまた国家機密の中身は最後まで明かされることはない。マクガフィンとはそもそも追求されるべきものではなく運動を起動させるきっかけであり、一度運動を起動させてしまえば跡形もなく消え去るべき出来事である。ある男が汽車の中でギャングのカバンを取り違えて持ってきてしまいそれがために組織から命を狙われるとする。これを物語として読むとすると「男は~の入っているカバンを間違って持ってきてしまったがゆえに組織から狙われる」ということになる。そこでは「カバンの中身」という物語が重要になり、その中身があるために彼は組織から命を狙われるという流れが生じてくる。ところがマクガフィンは運動を引き起こすきっかけに過ぎずカバンの中身に意味はないのだから、それはカバンでも靴でも帽子でも、運動さえ引き起こしてくれれば何でもよい。あくまでマクガフィンは男が組織に狙われるための方便に過ぎないのだから運動の流れは、カバンの中身→組織に狙われるという関係ではなく、組織に狙われる→カバンの中身という関係となり、組織に狙われるという運動の理由は「さき」ではなく「あと」にくっつくことになる。『原因は結果の後に来るべきであり、それに伴走したり、それに先んじたりするべきではない』(シネマトグラフ覚書139というロベール・ブレッソンの言説はまさにここを突いているのだが、そもそも「あと」からやってくるものが原因であるわけがなく、ここで「組織に狙われる」という運動の発端には理由が無いことになる。理由がなくなることで運動は思考による限定を免れ複雑性を維持したまま開始されマクガフィンはそのまま運動の内部に埋没することで運動は再帰性を帯びることになる。運動に理由・動機を付着したがるのは物語を欲せずにはいられない人間の弱さであり、運動を平凡化させ死滅させていく。生命とはあらゆる瞬間に襲ってくる死への誘導=「運動が物語に収束されてゆく働き」=に対抗する反発力であり、マクガフィンとはまさに運動に理由を付着させることなく始動させることのできる生命力の発露である。
★マクガフィンの歴史~「暗殺者の家」(1934)
ヒッチコック的巻き込まれ運動においてマクガフィンが初めてそれらしい物体として出現したのは●「暗殺者の家」であり、そこでイングランドの外務省の特殊任務に就いていたピエール・フレネーが何者かに撃たれたあと『英国領事館へ持って行ってくれ』とエドナ・ベストに託したブラシこそ、そのみすぼらしい形態から「マクガフィン」に相応しい無意味な物体そのものとしてあるものの、そのブラシを解体すると中には暗殺団のアジトや銃撃場所が書かれていて、意味がないはずのマクガフィンの中身に意味があってしまっている。●「暗殺者の家」はヒッチコック的巻き込まれ映画の原点であり、翌年撮られたヒッチコック初の「巻き込まれ型」映画●「三十九夜」を準備した重要な作品でもあるものの、この時点で未だマクガフィンは未完成なものとして提示されている。
★マクガフィンの使い間違い~「引き裂かれたカーテン」(1966)
物理学者でアメリカ人のポール・ニューマンは迎撃ミサイルの数式を解くためにドイツに二重スパイとして亡命しドイツの博士に罠をかけて数式の中身を聞き出すことに成功するのだが迎撃ミサイルの数式はポール・ニューマンの運動を始動させるためのマクガフィンであり、それによって始動し始めたニューマンはマクガフィンを忘れて運動の過程の中に身を投げ込まなければならないはずが彼は迎撃ミサイルの数式を探ることを任務としているのであり、マクガフィンという「あと」から来る出来事を「さき」に追求している彼の運動は現在の「すること」ではなく過去という知的で理性的な領域へと遡ることになる。戦争映画の場合戦争の勃発は戦争映画を起動させるマクガフィンだがジャンル映画としての戦争映画は「何故戦争をするのか」を思考することを放棄してひたすら戦争という運動をし続けることの結果として「あと」から戦争することの理由が見えてきたりするのだが(実は見えない)、その「何故戦争をするのか」を思考する映画はジャンル映画としての戦争映画ではなく多くの左翼映画のようなメロドラマになる(メロドラマについては後述)。
★マクガフィンは運動を露呈させる
マクガフィンとは運動を起動させるきっかけなのだから、ヒッチコックの「巻き込まれ型」映画における主人公の「巻き込まれること」という運動を引き起こすきっかけとしては国家機密の外にも殺人事件の惹起、容疑者として疑われる状況などがマクガフィンとして抽出することができる。そしてマクガフィンには意味がないのだから「殺人事件の惹起」そのものについても意味はない。●「三十九夜」で背中にナイフを刺されて殺された女スパイ●「第3逃亡者」で浜辺に打ち上げられた女の死体●「逃走迷路」の兵器工場で火だるまになった同僚、●「北北西に進路を取れ」の国連ビルで背中にナイフを突き立てて死んだ男●「フレンジー」で首にネクタイを巻いたままテムズ川に浮いた無名の裸体、その後殺されたバーバラ・リー=ハント(元妻)やアンナ・マッシー(ウエイトレス)、そして●「サイコ」のシャワールームで襲われたジャネット・リー、、彼や彼女たちの人となりがその後ストーリーに絡んでくることはない。あくまでも彼ら、彼女たちは殺されるために存在するマクガフィンだからであり、だからこそ彼女たちの殺され方は「殺されるために」存在しているがゆえに強烈な描写となって露呈する。上述の被害者たちの殺され方や死体の有り様が忘れがたき生々しさによって撮られているのは、その殺害行為が意味の剥ぎ取られた「なまもの」だからにほかならない。それはあたかも成瀬巳喜男映画における「雨」という出来事が男と女を密室へと追いやるためのマクガフィンであるがために上から下への生々しい重力のエロスとして露呈していたように、意味を剥ぎ取られた現象は「であること=背後」という不可視の思考へ逃避することを許されず、そのことゆえに剥き出しの「すること」として露呈するのである。
★ヒッチコック的巻き込まれ運動におけるマクガフィンを抽出する
「巻き込まれ型」の作品においては「殺人の嫌疑を受けて追われる」という外部的に明白な巻き込まれ運動が露呈していることからマクガフィンをある程度抽出し易い。だが明白な巻き込まれ運動が露呈していないそれ以外のヒッチコック的巻き込まれ運動においてマクガフィンはより繊細な細部となって姿を消してしまいその抽出には困難を伴うことになる。マクガフィンとは運動を起動させるきっかけなのだから、そもそもそれを特定の一者に限定することには無理がある。ここでは一見みずからの積極的な意志=主体性によって運動を開始したかに見える巻き込まれ作品の細部について見ていきながら、ヒッチコック映画の巻き込まれ運動がどうやって起動してゆくかを検討する。
★「レベッカ」(1940)と●「断崖」(1941)~知らないうちに巻き込まれる女
これらの作品で映画開始後に結婚するジョーン・フォンテインは、その後の結婚生活で男たちの理解不能な行動によって「柔らかく」なってしまって巻き込まれていくのだが、彼女が理解不能なのは結婚前の交際がほとんどなく男たちをまったく知らなかったからであり、ということはすでにマクガフィンとして検討した結婚という制度のみならず、彼女に結婚を急がせた出来事もまたマクガフィンということになる。●「レベッカ」ではジョーン・フォンテインの女主人フローレンス・ベイツの娘の結婚が急に決まって南仏のホテルをすぐに経たなければならなくなったこと、彼らがアメリカからの旅行者であること、フォンテインが相手に押し切られてしまう気弱な性格であること(ひ弱さをイメージさせるカーディガン、スケッチブックなど)、ローレンス・オリヴィエと身分が違うこと等であり●「断崖」では彼女が婚期を逸したオールドミスであるということをイメージさせるフォンテインのメガネや男勝りの乗馬、教養などがマクガフィンということになる。そうすることで彼女は「結婚を焦る女」となりろくに知りもしない男たちと結婚することを余儀なくされているのであり、従ってフォンテインはみずからの意志で結婚したように見えて実は巻き込まれていることになる。●「レベッカ」では『住む世界が違いすぎます』と一度は断るフォンテインにオリヴィエが『愛していないのか?』と尋ね→フォンテイン『愛しています、心から』→オリヴィエ『話は決まった』という流れになっていて、結婚することにおける熟慮という主体的な出来事が意図的に排除されているし●「断崖」においても両親が自分の婚期について話しているのを盗み聞きしてショックを受けているフォンテインの前に突然現れたケーリー・グラントにいきなり抱き着いてキスをしてそのまま結婚まで雪崩れこんでいくのであり、そこには冷静に思考し主体的に結婚について考量する光景は微塵も撮られていない。細微なマクガフィンを配置しながら「巻き込まれ型」とは違った次元でフォンテインは巻き込まれているように細部が配置されている。だがこれがあらすじに書かれると●「レベッカ」の場合なら「(主人のフローレンス・ベイツを)強引に押し切り、結婚の登記をすませた二人は、、」となり、また●「断崖」は「両親が結婚に激しく反対したためリナは駆け落ちして彼と結婚した」となってしまう(「ヒッチコックを読む」84、102頁)。あらすじには必ずや因果関係を求める思考が働くことからマクガフィンによって運動が始動するという事態=理由なき運動開始=に耐えることができず「強引に押し切る」、「反対されたので駆け落ちした」いう実際にはありもしない主体性が因果として語られることになり巻き込まれたという細部は深層のかなたに葬り去られてしまう。
★「疑惑の影」(1943)~知らないうちに巻き込まれる娘
サンタローザの家にやって来た大好きな叔父さんが実は未亡人連続殺人事件の犯人かもしれないという疑惑にかられた多感な少女の孤独な運動を捉えたこの作品は、人生に退屈していた少女のテレサ・ライトが大好きな叔父を呼び寄せようとサンタローザの郵便局に電報を打ちに行っていることから、彼女はみずからの意志で叔父を呼び寄せたようにも見える。だがここで映画は偶然叔父から届いた『サンタローザへ行く』という電報を郵便局で交差させ「チャーリー」という同じ名前を持つ似た者同士の叔父と姪がテレパシーで通じ合ったということにして、テレサ・ライトが自らの意志で叔父を呼び寄せることを微妙に緩和させるという実に繊細な演出によって彼女が事件に巻き込まれてゆくニュアンスを醸し出している。
★「裏窓」(1954)~知らないうちに巻き込まれる男
●「裏窓」のジェームズ・スチュワートは一見みずからの意志で積極的に向かいのアパートの住人たちを覗き見るという運動を開始したように見える。だがジェームズ・スチュワートの額から噴き出す汗を画面に映し出しながら始まるこの作品は真夏のニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジを舞台としており、寒暖計は極めて多湿のじめじめとした空気を指し示し部屋の中にクーラーがあるようにも撮られておらず独身で結婚適齢期をとうに過ぎているように見える彼は仕事中に左脚を骨折していて動くことができずに悶々としており、一見主体的に覗き見を開始したように見えながら、高温多湿、骨折、婚期を逸した独身といったマクガフィンを積み重ねることによって覗き見をすることに巻き込まれている。ところがそれがあらすじに書かれるとスチュワートは「退屈しのぎに」覗き見を始めたと書かれることになり(「ヒッチコックを読む」170頁)、そこには「退屈しのぎ」という主体的な動機が読み込まれ、彼が巻き込まれている(余儀なくされている)という細部については何も言及されていない。
★「めまい」(1958)~知らないうちに巻き込まれる男・その2
元刑事のジェームズ・スチュワートが久方ぶりに会った大学時代の友人(トム・ヘルモア)にその妻(キム・ノヴァク)の尾行を依頼され、追跡してゆくうちに彼女の魅力の虜となってしまうというこの作品にもまた、ジェームズ・スチュワートが尾行という任務を引き受けるにあたって彼に選択の余地が与えられており「ヒッチコックを読む」のあらすじの箇所には「この仕事をひきうけたスコッティ(スチュワートの役名)は」と書かれていて(「ヒッチコックを読む」202頁)、スチュワートはあたかも積極的にキム・ノヴァクの尾行という運動を積極的に引き受けたかのように書かれている。だが彼はトム・ヘルモアの依頼に『しかし尾行・探偵は俺の専門(line)ではない。もう辞めたんだ。面倒はごめんだ』と断っていて、それでも『今日オペラに行く。アーニーで食事をする。そこで妻を見ろ』と執拗に誘ってくるトム・ヘルモアに『アーニーね、、』と気乗りしない顔で答えただけで、どこにも任務を引き受ける主体的な意志もセリフも表情も撮られてはおらず、それどころかアーニーでキム・ノヴァクを見たジェームズ・スチュワートの次のショットは翌朝、既に車で尾行を開始しているところから始まるのであり、ここにはスチュワートが尾行を引き受けることを決断する動機の部分のショットが撮られていない。スチュワートはみずから決断したのではなく、事件の渦中に放り込まれたのだ。「巻き込まれ型」の作品とは違い、ここで検討しているのはいわば「隠れ巻き込まれ型」ともいうべき一連の作品であり、キム・ノヴァクの眼を渦巻のようにくるくる回転させながら始まる●「めまい」は主人公が巻き込まれてゆく過程の描写に実に繊細な細部が施されていて、自殺をした曾祖母の魂がキム・ノヴァクに乗り移っているという「親玉マクガフィン」を配置しながら、花屋、墓地、美術館、海といった場所的属性をその本来の機能から徹底的に分離させ、曾祖母の肖像画、その中に描かれた渦巻状に結われた髪の円形の形状などによってジェームズ・スチュワートを少しずつ「柔らかく」させながら「知らない内に引きずり込まれていた」というように撮られている。ジェームズ・スチュワートは巻き込まれたからこそ「めまい」を惹き起こすのでありそれを「引き受けた」と撮ってしまってはすべてが瓦解する。
★「サイコ」(1960)~知らないうちに巻き込まれる女その2
この作品はジャネット・リーが会社の金をみずからの意思で主体的に持ち逃げすることによって事件は開始されていることから、あらすじなどには彼女は決して「巻き込まれた」とは書かれないはずである。だがまずもってジャネット・リーが会社の金を持ち逃げしようと決意する瞬間のショットが撮られてない。彼女の横領行為は既にジャネット・リーがアパートでカバンに荷物を大部分積み終っている「最中」=過程からいきなり始まっていて彼女が横領を決意する時のショットや荷造りをする最初のショットが撮られていない。「できごとの始まり」がここでもまた撮られていないことで彼女の横領行為の動機の部分を消し去りながらあたかも結婚願望や貧困等によって横領行為に「巻き込まれた」ように撮られている。そこへ『蒸し風呂だな。クーラーをつけてもらえ。』と不動産屋の事務所で顧客のサイモン・オークランドが言ったような高温多湿のじめじめとした気候、パトカーによる検問と中古車センターでの警官の監視、夜の雨とまぶしいヘッドライトによる視界不良といった細部=マクガフィンが押し寄せるようにジャネット・リーに降りかかり翻弄された彼女は、ふと気づいてみると裏街道へ迷い込みベイツモテルにたどり着いていた、、という風に映画は撮られている。彼女はベイツモテルに行ったのではない。引きずり込まれたのだ。
★「ファミリープロット」(1976)~知らないうちに巻き込まれる男女
(イカサマ?)占い師であり降霊術師のバーバラ・ハリスと彼女の恋人でタクシーの運転手のブルース・ダーンの2人組がある資産家の行方不明の相続人を探し出すことを任務とするこの作品において2人は主体的に任務を引き受けている。降霊術を施して資産家の老婆から1万ドルの報酬で相続人を探す仕事を引き出した彼らは、みずからの占いや降霊術がイカサマなのか本物なのか、少なくとも自分では本物だと信じているようにも見えるバーバラ・ハリスにしても、悠々とパイプをふかして弁護士に化け探偵をしている役者志望のブルース・ダーンにしても、あくまでも自分たちは主体的に相続人探しをしているつもりであり、まさか連続誘拐事件の凶悪犯を追い詰めているとはまったく気づいてはおらず、主人公たちの主観的な運動と、実際になされている客観的な運動とがずれていることで、彼らは主体的に運動しているように見えながら実は巻き込まれているという二重の構造によって撮られている。実際ここまで見てきた作品にしても、ふとしたことから覗き行為を始めたところ殺人事件に巻き込まれていく●「裏窓」、探偵行為をしながら犯罪行為に巻き込まれてゆく●「めまい」、そして横領行為で逃亡しながら猟奇殺人の被害者になってしまう●「サイコ」と、それぞれ主人公が主体的にやっていると自分で思っていることと、実際に生じる巻き込まれ運動とに「ずれ」が生じており、この「ずれ」が、通常の「巻き込まれ型」とは違った「知らないうちに巻き込まれていた」というしなやかな運動を起動させてゆくことにもなるのだが、その「ずれ」が最大限に到達したのがこの●「ファミリープロット」で、ここで誘拐犯ウィリアム・ディヴェインの家のガレージに乗り込んだバーバラ・ハリスは「相続人を見つけた」のであって「凶悪犯を見つけた」のではない。資産家の老婆の死んだ妹の降霊を「親玉マクガフィン」としながら、恋人たちという反ヒッチコック的人物を社会的信頼ゼロのカップルに設定し「柔らかく」なるまでスキルを削ぎ落とされた彼らの運動は主体的であろうとすればあろうとするほど「巻き込まれている」という厚みのある運動として遂げられてゆくのであり、ヒッチコックの遺作である●「ファミリープロット」は巻き込まれているにもかかわらず巻き込まれている者が巻き込まれていることに気づかないまま進んでゆく「隠れ巻き込まれ型」の究極として撮られている。
こうして見てみると●「三十九夜」●「第3逃亡者」●「逃走迷路」●「北北西に進路を取れ」といった典型的な「巻き込まれ型」作品に加えて●「バルカン超特急」●「海外特派員」●「見知らぬ乗客」●「知りすぎていた男」●「間違えられた男」、そして●「鳥」●「フレンジー」といった作品は物理的に事件に遭遇していることからあらすじにおいて巻き込まれていることを抽出し易いのに対して●「汚名」●「疑惑の影」●「裏窓」●「めまい」●「サイコ」●「ファミリープロット」 、それに加えて●「レベッカ」●「断崖」といった作品は、所謂「巻き込まれ型」映画とは違って主人公たちは少なくとも主観的には主体的に行動を開始しているように見えることから、彼らが実は巻き込まれていることはストーリーの過程から消えてしまい細部の露呈に委ねられることになる。だからこそそのあらすじにおいては行動開始の動機を明示できず●「めまい」のあらすじのように「引き受けた」と書かれてしまう事態にすらなるのだが、実際には行動開始の動機=心理的ほんとうらしさを消すために実に豊富な細部=マクガフィンが配置されている。
★「巻き込まれる」ように映画を撮るには
こうして「隠れ巻き込まれ型」ともいうべき作品を検討してゆくと、映画において主人公が「巻き込まれる」とは、みずからの意志に依らず周囲の環境に押し流されるように運動の開始を余儀なくされることであり、それを映画に撮る場合、運動を起動させる主体的な動機を消し去るためにマクガフィンが配置されることになる。ヒッチコックがしきりにマクガフィンという言葉を使うのはヒッチコック的巻き込まれ運動を撮る場合、マクガフィンは必須の細部として存在しているからである。
★運動は映画が始まった後に開始される
従ってヒッチコック的巻き込まれ運動は、それまで何もしていなかった主人公がマクガフィンによって弾かれて初めて起動されるのであり、例えばハワード・ホークス「ハタリ!」(1961)のように、映画が始まった時点で既に主たるハンターの任務が開始しているようなことは運動論的にあり得ない。●「三十九夜」でロバート・ドーナットが警官から逃げている場面からいきなり映画を始めることも物理的には可能だが、運動論的に彼の「逃げる」という行動は「国家機密」というマクガフィンによって起動したことに変わりはなく、ただそれが映画の中で省略されるに過ぎないのに対して、ハワード・ホークス作品の運動はマクガフィンによって起動するものではないことから映画開始時点で既に主人公たちの任務が始まっていたとしても運動論的には当然のこととなる(詳しくは第三章ハワード・ホークスの検討に譲る)。どちらにしたところでヒッチコック的巻き込まれ運動はマクガフィンによって弾かれて開始する運動であることに変わりはない。
★ヒッチコック的スキル運動を起動させる
次にヒッチコックのスキル運動の起動面について検討する。●「間諜最後の日」の偽装の葬式によって死者にされたジョン・ギールグッドは愛国心から任務を積極的に引き受け、マデリーン・キャロルも『周囲の反対を押し切ってここまで来たのよ』と極めて主体的に任務を引き受け●「白い恐怖」のバーグマンは自らの積極的意志によってグレゴリー・ペックを追いかけ精神分析を駆使して事件の解決に力を注ぎ●「マーニー」のショーン・コネリーは半ば脅迫気味にティッピ・ヘドレンと結婚し精神分析の手腕を主体的に発揮して事件解決へ導いている。犯罪者が犯罪を犯す●「ロープ」と●「ダイヤルMを廻せ!」にしてもそれぞれ「完全犯罪実現のため」「浮気した妻を殺して金を相続するため」という明確な動機のもとに主体的に犯罪に及んでいるし、役者が役を演じる●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマンは殺人の嫌疑をかけられた演劇学校の同僚リチャード・トッドを助けることをみずからの意志によって理性的に決意して行動を開始し●「パラダイン夫人の恋」のグレゴリー・ペックは愛のために積極的に弁護を引き受け●「私は告白する」は神父の義務として自らの意志で進んで守秘義務を守り通し●「泥棒成金」は自分の模倣犯を排除するため●「引き裂かれたカーテン」は物理学者のポール・ニューマンがみずからの解けない数式を解くために積極的にドイツへ二重スパイとして潜入し●「トパーズ」においてフレデリック・スタフォードはキューバを危機から救うためにみずからの意志で積極的にキューバへ旅立っており、これらのスキル型運動においては任務を引き受ける動機がはっきりしていて、任務を引き受けることをマクガフィンによって「余儀なくされる」ということがなく心理的ほんとうらしさによって複雑さを限定された状態で任務が開始させることで共通しており、彼らは周到な計画や準備期間を与えられスキルに溢れた協力者の主体的な協力を得ながら極めて知的に事を進めていくことになる。警察に追われて自らの模倣犯を探すことになる●「泥棒成金」のケーリー・グラントと「守秘義務」という義務によって任務を開始する●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフトは任務開始を「余儀なくされている」ようにも見えるが既に検討したように●「泥棒成金」のケーリー・グラントは模倣犯追跡に巻き込まれたにしては余りに知的であり、●「私は告白する」にしても守秘義務の遵守は道徳的な義務であってそれに反したとしても法律的に罰せられるわけではなく、敢えてそれを選択するモンゴメリー・クリフトの選択は巻き込まれるどころか道徳的で知的な主体性に包まれている。運動の起点の動機を消し去るのがマクガフィンであるならば、ヒッチコック的スキル運動はマクガフィン無しに、主人公の内部から発する知性の判断をもとになされる内発的な動機によって主体的に起動されている。
★「汚名」(1946)
①スキル
ここで●「汚名」について検討したい。この作品は形式的にはスパイがスパイをするというスキル運動だが、他のヒッチコック的スキル運動とは質的に異なっている。アメリカを売ってドイツのスパイとなったバーグマンの父親が裁判所で有罪判決を受けるシーンから始まるこの作品は、父親と関係のあったリオのスパイ組織をマークしているFBIのケーリー・グラントがバーグマンをスパイとしてスカウトするのだが、ケーリー・グラントはFBIの捜査官であり情報その他任務に関するスキルを有している公務員であるが、対するバーグマンはケーリー・グラントが上司に対して『彼女には経験がない、すぐに見破られます』というように、スカウトされて公務員になったものの実質的に彼女はスキルの乏しい民間人に過ぎず、加えてアルコール依存症とケーリー・グラントに対する愛の疑念から「柔らかく」なっているのであり、形式的には公務員だが実質的にはヒッチコック的巻き込まれ運動の身体性に接近している。
②「汚名」を起動させる
ケーリー・グラントがバーグマンにスパイになるかの打診をしたとき、バーグマンにその任務を引き受けるか否かの選択の自由が与えられている。身に覚えのない犯罪の嫌疑をかけられ否応なしに逃走という運動を余儀なくさせられる「巻き込まれ型」とは違い●「汚名」のバーグマンにはスパイ活動を引き受けるかどうかについて選択の余地が残されている。ケーリー・グラントとの深夜のドライブの後二日酔いのベッドの中で目覚めたバーグマンはFBIのケーリー・グラントに『君にも愛国心があるんだろう?』とスパイの仕事を依頼されるがバーグマンは『愛国心なんて聞いただけで胸が悪くなるわ。ノーサンキューよ』と答え、父親との会話を盗聴されたたレコードに録音されている『愛国心が私にはあるわ』というみずからの言葉を聞かされた後もなお『警察の手先になんかならないわ』と任務を引き受けることを拒絶している。ところがその後、やってきた前夜のパーティ客にクルージングの誘いを受けた彼女はその直後グラントに『どうする?』と聞かれて『わかったわ(オーライ)』と答え、次のシークエンスでは既にリオ行のジェット機に乗っている。ここで確かに彼女は『オーライ』と任務を引き受けてはいるもののその動機が周到に消されている。それまで頑なに拒絶をしていた彼女が掌を返したように任務を引き受けることに翻意したところの当の動機が撮られていない。ただ、前夜のパーティ客と約束したクルージングの誘いを受けるという何の関係もない出来事がきっかけとなって任務承諾が遂行されていてそこには「心理的ほんとうらしさ」がすっぽり抜けている。父親の汚名をそそぐため、あるいは飲んだくれの彼女が生まれ変わるため、あるいはケーリー・グラントに対して芽生え始めた愛のため、、こうした動機ならぬ動機の数々がある程度の遊びをもって配置されることで彼女の「任務を引き受ける」という運動の発端から確固たる動機が消されることになる。これまで検討したヒッチコックのスキル型運動の作品には任務を引き受けたり始動させたりする動機=主体性がはっきりしているのに対して●「汚名」のバーグマンは任務を引き受けていながらその動機がはっきりしない。だがこれがあらすじとして書かれると「最初アリシアはとりあわなかったが、デヴリンの執拗な説得についに根負けしてしまった」と書かれることになるのだが(「ヒッチコックを読む」127頁)、映画の中にはバーグマンが「根負けした」というセリフも表情も何も撮られてはおらず彼女は「根負け」という消極的動機すら持ち合わせてはおらずあるのはただ端的に(理由なしに)承諾をした、という無動機運動に過ぎない。加えてこの作品はFBIのケーリー・グラントとバーグマンの2人が任務を引き受けたあとリオ到着後の待期期間に恋に落ち、その後2人は初めて具体的任務が「バーグマンに昔恋をしていた敵スパイを誘惑し屋敷に潜入する」であることを知らされ、ここでバーグマンは任務を受諾するかどうかの二度目の選択を迫られるのだが、ケーリー・グラントがこの任務に対して上司に異を唱えなかったこと、またケーリー・グラントが敵スパイとバーグマンとの関係に疑念(焼きもち)を持ち始めて煮え切らず「やめろ」と言ってくれなかったこと、そこでバーグマンはしばらくやめていた酒を注ぎながら『いつから始めるの?』と聞き『明日の朝からだ』とグラントが答える、それだけでバーグマンの潜入任務は開始されている。ここにもまた任務を引き受けるというバーグマンの主体的な行為が周到に排除され、またケーリー・グラントにしても任務を主体的に肯定してはおらず、二人はお互いへの疑念と愛とに引き裂かれながら任務へと巻き込まれていくのであり、スキルへと向けられたヒッチコック映画の中でこの作品は主人公たちが「柔らかく」なることでスキル運動でありながら巻き込まれるという実に繊細な細部によってしなやかな運動を遂げてゆく。
■「駅馬車」(1939)
ジョン・フォードの●「駅馬車」を検討する。●「駅馬車」には紳士(ギャンブラー)、淑女、娼婦、医者、保安官、セールスマン、御者、銀行家、ガンマン、、と多彩な「職業」を有する人々が乗り込み、医者は医者を、紳士は紳士的行動を、ガンマンは決闘を、というようにみずからの「職業」へ向けてのスキル運動を撮った作品である。
★「駅馬車」を起動させる
ヒッチコックは巻き込まれ運動の起点から「心理的ほんとうらしさ」を除去するためにマクガフィンという無意味の方便を利用する。マクガフィンは無意味ゆえ運動に動機を付与することなく運動を起動させることができる。マクガフィンはヒッチコックの専売特許のように理解されて来たが果たしてジョン・フォードはどうか。ここで実際に●「駅馬車」の運動を起動させてみる。映画の冒頭、アリゾナのトントの街に到着した駅馬車から乗客が降りた後の、空っぽになった駅馬車に人々が乗り込む運動の発端に「心理的ほんとうらしさ」が付着しているか否かを検討する。
★クレア・トレヴァー・トーマス・ミッチェル
娼婦のクレア・トレヴァーは街の婦人たちから成る矯風会によって風紀を乱す存在として追い立てられ駅馬車に乗り街を出ることを余儀なくされている。飲んだくれの医者トーマス・ミッチェルは家賃滞納で家主から診療所を追い立てられ、これまた駅馬車に乗り街を出ることを余儀なくされている。矯風会、家賃滞納といったマクガフィンによってどちらの「駅馬車に乗る」という運動の発端にも自由意志=「心理的ほんとうらしさ」が欠如している。
★アンディ・ディバインとドナルド・ミーク
御者のアンディ・ディバインはアパッチのジェロニモ出現の報を聞き恐怖から鞍上を拒否するが保安官のヴィクター・マクラグレンに聞いてもらえず無理やり馬車に乗せられてしまう。酒のセールスマンであるドナルド・ミークもまたアパッチ怖さに馬車から降りようとするが彼の酒が目当ての飲んだくれの医者トーマス・ミッチェルに言いくるまれて同乗を断るチャンスを逃している。どちらの「駅馬車に乗る」という運動の端緒にも自由意志=「心理的ほんとうらしさ」が存在しない。
★バートン・チャーチル
中途から馬車に乗り込んだ銀行家のバートン・チャーチルは銀行の金を横領して逃げるために駅馬車に乗り込まざるを得ない境遇にある。彼の「駅馬車に乗る」という運動の端緒には「横領」というマクガフィンによって自由意志は存在しない。
★ヴィクター・マクラグレン
保安官のヴィクター・マクラグレンはかつての牧童仲間の息子であるジョン・ウェインが兄弟の仇を討つために脱獄したという情報を既に得ていたが、そこへやってきた御者アンディ・ディバインからの情報でジョン・ウェインの仇が駅馬車の行き先であるローズバーグにいることを聞いて駅馬車に乗り込んでいる。ここで彼は「お尋ね者を逮捕する」という保安官の任務と「ジョン・ウェインを逮捕することでジョン・ウェインが人殺しをしないですむように助ける」という友情とが絡み合って「駅馬車に乗る」という行動へと駆り立てられている。彼の「駅馬車に乗る」という運動の端緒は「ジョン・ウェインの脱獄」等のマクガフィンによってまったき主体性によるものではなく任務と友情の狭間で揺れ動いている。
★ジョン・ウェイン
お尋ね者のジョン・ウェインは兄弟を殺した仇であるプラマー兄弟のいるローズバーグへ行く途中に馬が怪我をしたので通りがかった駅馬車に乗せてもらおうとしたのであり、馬の怪我によって駅馬車に乗ることを余儀なくさせられている。さらにその駅馬車を止めてみたところ御者のアンディ・ディバインの横に座っている保安官のジョージ・バンクロフトに「逮捕する」と銃を突き付けられ、そこへ護衛の騎兵隊までが登場し、観念したジョン・ウェインは馬車に乗り込んで「収監された」のであり、ここでもまた「駅馬車に乗る」というジョン・ウェインの運動について「馬の怪我」「保安官の存在」等のマクガフィンによって自由意志が周到に排除されている。
★ルイーズ・プラットとジョン・キャラダイン
淑女のルイーズ・プラットは夫の騎兵隊長を追いかけるために馬車に乗り込み、紳士のジョン・キャラダインは淑女のルイーズ・プラットが馬車に乗り込んだのを見て彼女をエスコートするために馬車に乗り込んでいる。「馬車に乗る」という二人の運動は「夫を追う」「淑女をエスコートする」という紳士淑女の義務としてのマクガフィンによって起動している。この二人の行動は一見自由意志によるもののように見えるがそのような心理的なものではないことは後に検討する。
こうして●「駅馬車」の人物たちの「馬車に乗ること」という運動の発端を調べてゆくと、すべての人物たちに駅馬車に乗り込むことについての積極的な自由意志が欠如するような細部=マクガフィンが配置されている。クレア・トレヴァーやトーマス・ミッチェル、アンディ・ディバイン、ドナルド・ミーク、バートン・チャーチルといった面々にははっきりと自由意志が欠如するような構成がなされており、また一見自由意志によっているように見える保安官のジョージ・バンクロフトにしても、例えば「買い物のためにローズバーグの街へ行く」という人間に比べて著しく自由意志が制御されている。こうして●「駅馬車」に登場する9人もの人物たちは揃いも揃って馬車に乗り込むことを「余儀なく」されているかそれに近い状態で運動を開始しており、その運動の発端から自由意思=「心理的ほんとうらしさ」が排除されている。運動の起動面にマクガフィンが配置されているとは人物がマクガフィンという外部的力によって運動をすることを「余儀なくされている」=「巻き込まれている」ことであり、その点で●「駅馬車」は運動の起動面においてヒッチコック的巻き込まれ運動と通底している。
★運動の遂行
●「駅馬車」の人物の在り方と運動の起点について見てきたが、ここからはいったん起動した運動の遂行について検討する。●「駅馬車」の運動はそれぞれの「職業」へと向けられている。御者のアンディ・ディバインは馬車を御し、保安官のジョージ・バンクロフトはジョン・ウェインを逮捕し、ジョン・ウェインはガンマンとしての任務=復讐を果たし、紳士と淑女のジョン・キャラダインとルイーズ・プラットは紳士と淑女を更新し続け、医者のトーマス・ミッチェルはルイーズ・プラットの赤ん坊を取り上げている。娼婦のクレア・トレヴァーは積極的に「娼婦をすること」はしていないものの常に「娼婦」という職業を意識させられるような否定的な扱いを受けていながら、それに対して反抗する姿勢を見せないこととの葛藤において消極的に娼婦を「している」。
★遂行の停滞
だが●「駅馬車」において自らの「職業」を快活にし続けている者は一人もいない。みなそれとなく息苦しそうにしている。トーマス・ミッチェルの医療活動は出産における一度だけに過ぎず、ジョン・ウェインは「職業(ガンマンとしての復讐)」を放り出して逃げようとしているし、御者のアンディ・ディバインは渋々御者をし、ジョージ・バンクロフトは最後は保安官の任務を放り出して容疑者を逃がしてしまっている。またジョン・キャラダインの紳士行動については中途で殺されてしまうので成し遂げることはできず、ルイーズ・プラットの淑女行為にしても息苦しそうにされている。
★時代と時代のあいだを撮る
●「駅馬車」は1885年のアリゾナからニューメキシコを舞台にしている。映画の中で駅馬車を襲うジェロニモが降伏するのが翌1886年、フロンティアの終焉宣言が出されるのが1890年であることから●「駅馬車」はフロンティアの終わり頃を撮っていることになる。駅馬車に乗り込んでくる多くの者たちはフロンティア時代に全盛を迎えた者たちであり、彼らはフロンティアを支え、フロンティアを主導してきた。だがフロンティアが終わりに近づくにつれ時代に適応できなくなった彼らは古き良き時代の産物で今や町の新しい支配者に追い立てられて駅馬車に乗り込んでいる。飲んだくれの医者トーマス・ミッチェルが周囲から医者として見られるのはたまたま駅馬車に乗り合わせたルイーズ・プラットの出産という医者としての任務を遂行したからにほかならず、決して医者という肩書きによるものではない。ことある度に人々から「医者であること」に疑いを挟まれている彼が「医者である」ためにはひたすら「医者をすること」しかなく、だが「医者であること」の揺らいだ時代に生きている彼はいくら「医者をすること」を反復しても医者「であること」を掴み取ることはできず彼の「すること」はある種の葛藤に包まれてゆくことになる。こうして時代と時代の「あいだ」に時代を設定しそれまでの時代を支えながらも新しい時代に適応できず揺らぎはじめた者=「古い者」を主人公とすることで「であること」が不動の「であること」から「ありもしないであること」へと転化され、「ありもしないであること」を追い求めてひたすら「すること」を反復する人間たちの運動をフィルムに収めることができる。(この点についてはマイケル・マン考察のところで掘り下げてゆく)。
★葛藤
「であること」と「すること」との「あいだ」の時代を撮っている●「駅馬車」は、おぼろげながらも「であること」の記憶が残影しているために「すること」が純化されず「であること」への回帰と「すること」とのあいだの葛藤に包まれることなる。それによって「職業」的運動が滑らかな反復性を帯びてゆくことを妨害しながら葛藤によるエモーションを露呈させる運動を撮ることができる(この点がジョン・フォードとハワード・ホークスの違いでありのちに検討する)。
■端的に肯定すること~ジョン・キャラダインとルイーズ・プラット
ここでジョン・キャラダインとルイーズ・プラットという非常に興味深い二人の人物を検討する。この2人は他の乗客たちとは一階級上の「紳士と淑女」であり、そのせいか他の乗客たちに対して冷酷とも取れる態度を取り続け、特に娼婦のクレア・トレヴァーに対しては休憩地点のテーブルでの同席を拒絶し、水筒を飲むにあたってグラスを貸さず、こうした二人の差別的言動は、映画を物語的に読むならば、ルイーズ・プラットは最後、後悔してクレア・トレヴァーに謝罪し、ジョン・キャラダインは天罰を受けて死んでしまった、そんな見方がなされていてもおかしくはない。とするなら当然ながら彼らに対するジョン・フォードの演出も悪役にふさわしいそれなりの否定的なものになるはずである。
★ところが、、、
序盤、アリゾナのトントの街で馬車に乗り込んだルイーズ・プラットが窓枠の中にすっと顔を出す。帽子をかぶった彼女の顔にはしっとりと艶のある光線がしなやかな影を落とし活き活きとしている。次に画面は窓ガラス越しに酒場でポーカーをしているジョン・キャラダインに切り返され、2人は映画的に見つめ合う。次に再び画面は馬車の窓枠の中のルイーズ・プラットのクローズアップへと切り返されると、彼女は幾度か思慮深げな瞬きをしながら馬車の奥へと消えてゆく。ひとつのセリフも存在しないこの切り返しは、その言語的欠如が画面の分節化を否定しながらそこに投射されたしなやかな光線によって運動そのものを肯定しエモーションを惹起させている。そのエモーションが愛なのか別れなのかは重要ではない。重要なのはルイーズ・プラットとジョン・キャラダインとのあいだになされた切り返しによって映し出された画面が言語の不在としなやかな光線によって端的に肯定されていることに尽きている。この画面に意味はない。あるのはただひたすらの肯定でしかない。その後、第一の中継地点であるドライフォードを出発した馬車の窓からルイーズ・プラットが顔を出し後方を振り返る。画面は荒野の分岐地点で馬を止め、同じく振り返りながら帽子を取り笑顔でルイーズ・プラットに別れを告げる騎兵隊のティム・ホルトへ切り返される。続いて画面は振り返ったままはち切れそうな笑顔で真っ白なハンカチーフを振っているルイーズ・プラットへと切り返され、最後にもう一度ティム・ホルトに切り返される。ティム・ホルトの真っ白なネッカチーフとルイーズ・プラットの真っ白なハンカチーフと帽子の花が、風に揺れること、振り向くこと、快活な笑顔において共鳴している。ここでもまたひとつのセリフも存在しない。ひとつのセリフも存在しない画面が二人のあいだに切り返されることで運動そのものが肯定されている。そもそもルイーズ・プラットとティム・ホルトとは恋愛関係にあるわけでもなく、まして騎兵隊のホルトはルイーズ・プラットたちをいわば見殺しにして引き返してしまうのであって、物語的に画面を「読む」ならば、ここでこうした美しい画面が出現することは明らかにおかしい。さらに加えてルイーズ・プラットやジョン・キャラダインは他の乗客たちを見下すような態度を取り続けた「悪役」でありながら、どうしてこのような美しい瞬間が何度も撮られてしまうのか。これはジョン・フォードの気まぐれなのか。ジョン・キャラダインもおかしい。彼がインディアンに撃たれて息を引き取る瞬間、物語的には決して友好関係にはなかったはずのトーマス・ミッチェルが何のためらいもなく彼を抱きしめ、次に画面は馬車の外のジョン・ウェインへ切り返されている。ここでジョン・ウェインはジョン・キャラダインの最期の様子を微動だにせずじっと見つめている。時間にして8秒、その間ひとこともしゃべらず、ただひたすら彼はジョン・キャラダインの最期を見つめている。●「駅馬車」のショット数は90分で約650ショット、1ショットに換算すると8秒少しとなるので、ここでジョン・フォードは1ショットまるまる何もしゃべらない男の静止したショットを撮っていることになる。物語的に読むならばこれは「悪役」の最期を撮ったにしては明らかに異常事態にあたる。最初の休憩地点であるドライフォードの砦のテーブルに座っているルイーズ・プラットとジョン・キャラダインにキャメラがすっと寄って行くと、この映画で初めて抒情的なメロディが流れ始める。二人はその直前、娼婦のクレア・トレヴァーとの同席を拒否して窓際の席に移ったばかりであり、そのような差別的な態度を取る者たちの会話のバックに流れるメロディとしてこのメロディは余りにも美しすぎる。ここで『どうして私に親切にするのですか?』と尋ねるルイーズ・プラットに対してキャラダインは『レディに会うのは珍しいから』と答えている。
★古い者
ロンティアも終わりに近づき工業生産高が農業生産高を超えようとする時代において南部の牧歌的な紳士・淑女なる存在はジョン・ウェインの演じたガンマンやトーマス・ミッチェルの演じた飲んだくれの医者と同じように時代の辺境へと追いやられている。同じくジョン・フォードによって撮られた●「リバティ・バランスを射った男」(1962)では「古い者」と「新しい者」とが明確に区別され、古い時代のジャーナリストや医者はみな飲んだくれなのに対して新しい時代のジャーナリストたちはみな酒も飲まずに洗練されているのは「飲んだくれていること」とはこの作品のジョン・フォードにとって「古い者」の証であることを指し示している。「古い者」の映画とは「であること」の記憶を残しつつそれを求めてひたすら「すること」に打ち込もうともがく人間たちの運動であり「であること」が「ありもしない」ことで「心理的ほんとうらしさ」を排除しつつ葛藤の中で「すること」をし続ける者たちのエモーションをフィルムに焼き付ける映画である(これこそがジョン・フォードの真骨頂なのだが)。『レディに会うのは珍しいから』という●「駅馬車」のジョン・キャラダインの台詞は淑女のルイーズ・プラットが時代と時代の「あいだ」を生きている「古い者」であることを暗示している。身重に加えてアパッチの襲撃が予想される駅馬車の中でルイーズ・プラットは『危険は夫と共有します』とあくまでも夫を追いかけることでレディを「している」ものの、強張った表情で自分に言い聞かせるように吐露させているその言葉は何かしら息苦しそうでもある。ただですら「であること」であることのできない「古い者」のルイーズ・プラットは妊娠・出産という出来事とジェロニモの出現によって「であること」の遂行に支障を生じながらも必死に淑女「であろう」と毅然としながら「すること」の運動を更新し続けており、もはや「であること」のできない時代にひたすら「淑女をしよう」としている彼女の運動を美しい光線とメロディがずっと包み込んでいる。そんな彼女を護衛(エスコート)するために馬車に乗り込むのだと公言するジョン・キャラダインは常に彼女と行動を共にし、椅子を引いて座らせ、水筒を飲む時にはコップを差し出している。映画開始直後のトントの茶屋で『あの紳士は誰?』と尋ねたルイーズ・プラットに対して『紳士なものか』、『彼は悪名高きギャンブラーよ』と居合わせた大尉の夫婦が答えたように、今ではギャンブラーに身をやつし紳士「であること」から遠い所にあるジョン・キャラダインはルイーズ・プラットをレディとしてエスコートし続けることでその都度紳士を「すること」を更新するしかない。最初の休憩地点において騎兵隊の援助がなくなる時、駅馬車の運行を続行するかどうかの投票時にトランプ占いで不吉なスペードのエースを引き当て、すでに滅びゆく「紳士であること」の運命に自覚的ですらあるジョン・キャラダインは、馬車をアパッチに襲撃され男たちが応戦したものの弾も尽き為す術を失った時、横にいるルイーズ・プラットの頭部に銃を突きつけ撃とうとしている。これはジョン・フォードの師匠にあたる映画の父、D・W・グリフィスの●『エルダーブッシュ峡谷の戦い』(1913)●「國民の創生」(1915)等において反復される紳士の行為にほかならず、そこで一軒家をインディアンに囲まれ万策尽きた男たちは、女たちがインディアンに襲われるのを阻止するための紳士の行動としてメェ・マーシュやミリアム・クーパーといった若い女たちをみずからの銃で撃ち殺そうとしたり撲殺しようとしたりするのであり、間一髪のところで救援隊が駆けつけて女たちは事なきを得るのだが、D・W・グリフィスはそれを紳士の身に染みついた義務として反復させている。ところが●「駅馬車」のジョン・キャラダインはルイーズ・プラットを銃殺しようとしたところでインディアンに撃たれ紳士としての義務を遂行できずに果てている。名高い判事の息子であるらしい彼はおそらく勘当でもされていたのだろう。死に際に父親への伝言をルイーズ・プラットに託している。
『父に会ったら伝えてほしい、、あなたの息子は、、』、、
ここでジョン・キャラダインは息絶えている。この言葉はおそらくこう続くはずである。
『あなたの息子は、最後まで紳士だったと、、』
ここでトーマス・ミッチェルは彼を思い切り抱きしめ、そこにジョン・ウェインの「8秒ショット」が続いている。ここには「ありもしないであること」を駆り立てられるように追い求めて果てていく「古い者」の最期を目撃した少数の者たちがそのスピリットを密かに受け継いでゆくという映画史が刻まれている。ルイーズ・プラットとジョン・キャラダインの「古い者」たちは「駆り立てられるように」馬車に乗り込んだのでありそこに自由意志なるものが存在しないことは言うまでもない(第三章でさらに検討する)。
★肯定すること
●「駅馬車」は「であること」の終わりと「すること」の始まりの「あいだ」を生きる「古い者」を撮っている映画であり、紳士、淑女、ガンマン、保安官、飲んだくれの医者といった者たちはもとより、娼婦のクレア・トレヴァーもまた街の婦人たちから成る矯風会という新興の風紀運動によって街を追い出される「古い者」であり、「であること」の失われた時代に、それでもなおかつ「ありもしないであること」を追い求めて「すること」をし続ける者たち=「古い者」たちの始まりも終わりもない運動を●「駅馬車」はひたすら肯定しているのであり、そこには善も悪も存在せずひたすら無色透明な「すること」のエモーションが露呈している。
★銀行家とセールスマン
●「駅馬車」の9人の搭乗人物の中で銀行家のバートン・チャーチルとセールスマンのドナルド・ミークは「すること」をしない。バートン・チャーチルはちっとも銀行家としての運動をしておらず、ドナルド・ミークはトーマス・ミッチェルにタダ酒を飲まれてしまうだけでちっとも酒をセールスしようとしていない。御者のアンディ・ディバインは馬車を御し、保安官のジョージ・バンクロフトはジョン・ウェインを逮捕し、ジョン・ウェインはガンマンとしての任務=復讐を果たし、紳士と淑女のジョン・キャラダインとルイーズ・プラットは紳士と淑女を更新し続け、医者のトーマス・ミッチェルはルイーズ・プラットの赤ん坊を取り上げている。娼婦のクレア・トレヴァーは積極的に「娼婦をすること」はしていないものの常に「娼婦」という職業を意識させられるような否定的な扱いを受けていながら、それに対して反抗する姿勢を見せないこととの葛藤において消極的に娼婦を「している」。それとは裏腹にバートン・チャーチルとドナルド・ミークのふたりはその職業を積極的に意識されることはない。せいぜいドナルド・ミークがトーマス・ミッチェルにタダ酒を飲まれることくらいであり、バートン・チャーチルに至っては持ち逃げした金を御所大事に抱え込んでいるだけでちっとも銀行家としての職務を遂行しておらず、職務における葛藤も存在していない。むしろドナルド・ミークはインディアンの矢を体で受け止めたりトーマス・ミッチェルに酒を只飲みされるためのマクガフィンと見た方がすっきりする。
★「新しい者」は「すること」をしない
●「駅馬車」は時代と時代の「あいだ」の運動を撮った映画であり時代という時間性そのものが「古い者」たちの主体性を引き裂く最大の要因としてあることから、「あいだ」の運動としてエモーションを惹き起こすのは時間的に「であること」を喪失した「古い者」たちの運動に限定されることになる。これに対してバートン・チャーチルの銀行家と「ピーコック」という名のドナルド・ミーク扮するセールスマンは時間的に希望に満ちた新しい職業であり「新しい者」である彼らには「であること」が確固としてあることから「ありもしないであること」をひたすら「すること」によって追い求めていくというエモーションを惹き起こすことができず、時間的な浮遊状態におかれてしまう。だからこそ彼らは「すること」をしない。バートン・チャーチルは銀行家の職務を一切遂行せず、ドナルド・ミークは一度たりとも酒を売ろうとはしない。
→「新しい者」と「古い者」「リバティ・バランスを射った男」(1962)~ジョン・フォード
ジョン・フォードの撮ったこの作品は「古い者」と「新しい者」とを明確に区別しながら「古い者」であるジョン・ウェインが「新しい者」であるジェームズ・スチュワートを陰で助けてヒーローにしたあと静かに去ってゆく物語である。ここでガンマンのジョン・ウェインはジェームズ・スチュワートに射撃を教えたり、敵のリー・マーヴィンとレストランで睨みあい最後は撃ち殺したり等ガンマンの運動を反復させ、飲んだくれのジャーナリストのエドモンド・オブライエンはひたすら飲んだくれながらジャーナリストの運動をし続けている。対して「新しい者」である弁護士のジェームズ・スチュワートは皿洗いをしたり給仕をしたり教師になったりエプロン姿で銃を撃ったり上院議員に立候補したりしていながらちっとも弁護活動をしてはおらず、エドモンド・オブライエンの事務所を借りて弁護士事務所の看板を出してはいるものの弁護士の活動は一度もしていない。「であること」のまったき現前している「新しい者」のジェームズ・スチュワートは考えることはできても運動することができず、彼の職業的運動は弁護士、皿洗い、ガンマン、教師、議員と一貫することはなくその内容も禁欲性を欠いたものにならざるを得ない。「新しい者」のジェームズ・スチュワートには「古い者」の醸し出す「お前はバカなやつさ、、だがお前みたいなやつにはもうお目にかかれないだろう、」というエモーションを露呈させることは決してない。
★差別問題
●「駅馬車」のルイーズ・プラットとジョン・キャラダインが他の者たち、とくにクレア・トレヴァーに対して「差別的」にふるまったのは、彼らはひたすら「ありもしないであること」を「すること」をしているからに過ぎない。彼らがしているのは「差別」ではなく、失われた「であること」を追い求めての「すること」であり、その結果として誰かを差別することになったとしてもそれは彼らが紳士や淑女を「すること」の結果=「あと」からやってくる出来事であり彼らが望んだことではない。これは同じなようでまったく違う出来事である。
「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う。しかもそれは、どんな意図によるものでもない」。
ゴダールの言説が響きをもって伝わり始めてくる。ジョン・フォードが肯定するのは思想ではなく運動である。「どんな意図によるものではない」運動を、そのこととして肯定しフィルムに焼き付けることができる、それがジョン・フォードである。『私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思われようとしてきた』(映画史Ⅱ254)というゴダールの言説は「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う。しかもそれは、どんな意図によるものでもない」という言説を違った面から言い換えたところの端的な運動の肯定論にほかならない。
★アパッチ
●「駅馬車」の二番目の砦アパッチ・ウェルズでは、ジェロニモの一族の女でこの砦の宿屋に嫁に来ているインディアンの女が夜、突然、歌を歌い始める。宿屋の男たちの伴奏に乗せ、うっすらとした月明かりの照明に照らされて紅潮する頬の彼女は、故郷の男の想い出を揺れるような声帯で切々と歌い上げ、歌い終わった彼女は亭主を置き去りにしてジェロニモのもとへ逃げ帰る。この余りにも唐突で脈略のない運動は、始まりも終わりもない跳梁として美しく撮られている。●「駅馬車」の舞台は1885年。ジェロニモの降伏は翌1886年。フロンティア終結が1900年。駅馬車において最後の瞬間を生きているのは白人たちだけではない。アパッチも最後の一瞬を生きている。唐突に歌を唄い、突如逃げ出すというアパッチの女の荒唐無稽な運動は、はじまりと終わりを欠いた白人たちの運動となんら変わることなく、ひたすら「ありもしないアパッチ」を「すること」において端的に肯定されている。運動が肯定される時「あと」からくる物語は必然的に荒唐無稽となって我々に襲いかかる。
▲ところで
●「駅馬車」でインディアンに対して差別的な発言をした者はドナルド・ミークとバートン・チャーチルの二人しかいない。ドナルド・ミークはアパッチ・ウェルズの宿屋の女房がアパッチなのを見て『野蛮人だ!』と罵り、その横ではバートン・チャーチルが『なにかおかしい、あの女はアパッチだぞ!』と怒鳴っている。アパッチを意図的に差別したのはドナルド・ミークとバートン・チャーチルという「新しい者」に限られており、その場に唯一居合わせた「古い者」のジョン・キャラダインは奥の空間でルイーズ・プラットの容態を気にしてオロオロうろついているだけでこの会話にはまったく参加していない。冒頭のトントの町でジョン・キャラダインを『いかさまギャンブラー』と蔑んだのはルイーズ・プラットではなく彼女の友人の大佐であり、その後馬車に乗ろうとするクレア・トレヴァーの友人に『あんな野獣(クレア・トレヴァー)と一緒に行かせるのか?』と言ったのは矯風会の夫人であってルイーズ・プラットではない。最初の休憩地点であるドライフォークの砦のテーブルで自分たちの近くに座ったクレア・トレヴァーにルイーズ・プラットとジョン・キャラダインは驚いたもののクレア・トレヴァーに対して差別的な発言はひとこともすることはなく、ただジョン・キャラダインが『窓際の席に移りませんか?』と紳士を「すること」によってルイーズ・プラットを促し2人で移動したに過ぎない。仮にここで『あなたたちのような野蛮人とは同席できません!』という思想を吐露した後に窓際に移動していたとするならば、まず差別するという意図が存在し、その結果として運動があることになるので、運動はまさしく「心理的ほんとうらしさ」に包まれた差別的行為となるだろうがジョン・キャラダインとルイーズ・プラットは「ありもしないであること」を求めて「すること」をしているのであり、まず運動=「すること」があり、思想=「であること」は「あと」からくる。しかし「であること」は「ありもしない」のだから実際は「あと」からやってくるように見えるだけで、結果としてそれが差別に「読めた」としても彼らの「すること」は「どんな意図によるものではない」のだから、仮にそれらを「悪」とするならば「ありもしないであること」を無理矢理「さき」に読み込んだ誤読となる。だからこそルイーズ・プラットの出産後見事な照明に包み込まれながら赤ん坊を抱いて部屋から出てきたクレア・トレヴァーを取り囲む男たちの美しいサークルの中にジョン・キャラダインは仲間入りしバートン・チャーチルは除外される。ドナルド・ミークは矢に刺さってあっけなく姿を消しバートン・チャーチルもまたあっけなく御用となって姿を消している。「新しい者」は「であること」がまったき存在してしまうがために「であること」が「先」に来て「すること」が「あと」から来るので「すること」は「であること」による限定を施された「すること」となり、それが差別意識に満ちていれば差別行動となって現れるのである。
★善悪から遠ざかる
「ありもしないであること」を追い求める「古い者」たちの「すること」は善悪・動機・意図といった「心理的ほんとうらしさ」の領域=「であること」へとめがけられているもののそれが「ありもしない」ことから運動は善悪等から自由な「すること」へと透明化されそのまま端的に肯定されることになる。彼らは「良いことをしよう」、「悪いことをしよう」と意図して運動しているのではない。「ありもしないであること」をめがけて行動しているに過ぎない。物語的な「読み」に支配された批評は運動を「見ること」ができず、あたかも●「駅馬車」のルイーズ・プラットとジョン・キャラダインの運動の「あと」から来る「差別」を「先」に読み込み映画の優劣を決めてしまうという致命的な欠点から自由になることはできない。「見ること」をしないインテリは必ずやこの過ちを犯すのでありインテリに批評家適格を与えること自体が完全に間違っている。
★運動の遂行面におけるヒッチコックとの違いと共鳴。
●「駅馬車」はスキル運動でありその運動は「ありもしないであること」すら存在しない「すること」オンリーのヒッチコック的巻き込まれ映画とは違っている。しかし●「駅馬車」は多くの人物においてマクガフィンという外部的力によって運動が起動していることから、その運動はみずからの意志ではなく「余儀なく開始されている」=巻き込まれていることにおいてヒッチコック的巻き込まれ運動と通底し、さらにスキル運動の主人公たちが「巻き込まれる」ように撮られている点で●「汚名」と共鳴している。
■マイケル・マン
●「駅馬車」と似た運動を継承している監督にマイケル・マンがいる。マイケル・マンの人物たちは禁欲的に任務を遂行し続けている。マラソンランナーはひたすら走り続け (●「ジェリコ・マイル/獄中のランナー」(1979)、泥棒はひたすら盗み続けている(●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」(1981)●「ヒート」(1995)。テレビプロデューサはひたすら情報提供者と交わした約束を守り続け(●「インサイダー」(1999))、ボクサーはひたすら闘い(●「ALI アリ」(2001))、殺し屋はひたすら人を殺し続け●「コラテラル」(2004))、強盗はひたすら銀行を襲っている(●「パブリック・エネミーズ」(2009)。「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う」。彼らは自らの任務に関して徹底的に禁欲的であり●「駅馬車」のトーマス・ミッチェルのように飲んだくれて職務に支障をきたしたりみずからの任務を居心地悪そうに遂行する者など誰もいない。スキルに長けた彼らは予め計画を練り、あらゆる可能性に対処しながらみずからの任務を禁欲的に遂行し続けている。●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」のジェームズ・カーンが金庫破りに『4週間から8週間は準備にかかる』とボスのロバート・プロスキーに語ったように、あるいは●「ヒート」の最初のシークエンスが事件の前日病院に救急車を予め盗みに行ったロバート・デニーロから始まったように、あるいはあらゆるトレーニングをこなして試合に臨む●「ALI アリ」のウィル・スミスのように、あるいは手入れの行き届いた武器を準備しまるで予行演習を行ったかのごとき手際の良さで刑務所に乗り込み仲間を脱獄させた●「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップのように、はたまた『科学捜査が武器だ』と報道陣に語り猟犬のようにジョニー・デップを追い続けるFBIのクリスチャン・ベイルのように、彼らの運動は極めて計画的・科学的かつ周到になされていてよどみがない。ヒッチコック的スキル運動なら即座に運動に支障をもたらすであろうところのスキルに包まれた計画的運動は決して知的に停滞することなく進行してゆく。
★マイケル・マンを起動させる~ヒッチコックとの違い
我々はマイケル・マン映画の主人公の運動(任務)の起動の瞬間を見ることはできない。我々が彼らの運動を瞳に焼き付ける時、既に彼らの運動は始まっているからである。●「ジェリコ・マイル/獄中のランナー」はランナーのピーター・ストラウスが刑務所のトラックを走っているところから映画が始まり、●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」では窃盗団のジェームズ・カーンが盗みのターゲットに向かうために車に乗り込むところから、ホラー映画●「ザ・キープ」ではドイツの国防軍の兵士たちがルーマニアの拠点の山道を守る任務へ向かっているシーンから、●「ヒート」は強盗団のボスのロバート・デニーロが翌日の現金輸送車襲撃のために救急車を盗みに向かっているところから、●「インサイダー」ではテレビプロデューサのアル・パチーノがイスラム原理主義の長老の極秘取材へ向かっているところから、●「ALI アリ」はサム・クックのコンサートに並行してボクサーのウィル・スミスがロードワークをしているところから、●「コラテラル」は殺し屋のトム・クルーズがロスの空港で依頼人の使いのジェイソン・ステイサムからターゲットの情報の入ったバッグをもらうところから、●「マイアミ・バイス」(2006)は刑事のコリン・ファレルとジェイミー・フォックスのコンビがディスコで売春組織の張り込みをしているところから、●「パブリック・エネミーズ」は強盗のジョニー・デップが仲間たちを脱獄させるために刑務所へ入ってゆくところから、時代劇の●「ラスト・オブ・モヒカン」(1992)ではモヒカン族のダニエル・デイ=ルイスが鹿狩りのために森の中を駆け抜けているところから(鹿狩りはモヒカン族の神聖な儀式である)、●「刑事グラハム/凍りついた欲望」(1986)は連続猟奇殺人トム・ヌーナンによる殺害行為の最中から始まっている。任務の遂行過程から映画が始まらないのは刑事のスコット・プランク夫婦の朝のベッドシーンから始まる●「メイド・イン・L.A.」(1989)の1本しかなく、そのリメイク版の●「ヒート」では最初のシークエンスはロバート・デニーロが強盗に使うための救急車を盗みに向かっているところに変更されており、その次のシークエンスもまた強盗団のヴァル・キルマーが火薬を買いに向かっているシーンが新たに追加され、任務と関係のないアル・パチーノのベッドシーンはわざわざ3番目のシークエンスに移行されているように、マイケル・マンの映画における運動は実質的には12本中11本が映画開始時点において既に起動している。スキル運動の極致ともいうべきマイケル・マン的任務はヒッチコックのスキル運動が主体的な意志決定において開始させられるのとは違い、またヒッチコック的巻き込まれ運動が「国家機密」や「指名手配」といったマクガフィンを当てて初めて起動するのとも違い、すでに起動している過程から始まっている。ヒッチコックの場合既に主人公が任務を開始しているところから始まるのは●「サボタージュ」の破壊活動、●「ロープ」の殺人、●「舞台恐怖症」の逃走、●「ファミリープロット」の霊媒くらいであるのに対して(ただしこの作品の主たる任務は老婆の相続人を探すことであり霊媒行為ではない)、マイケル・マンの場合は職業と任務とを一致させスキルを徹底して磨きこむことで運動の起動地点を物理的に除去しマクガフィン不在で運動を起動させることができてしまう。
★遂行
ひとたび起動したマイケル・マンの運動は既に検討したように停滞することなく反復され続けている。ランナーはひたすら走り続け(●「ジェリコ・マイル/獄中のランナー」)、殺し屋はひたすら殺し続けている(●「コラテラル」)。泥棒は盗み続け(●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」、強盗はひたすら強盗をし(●「ヒート」、●「パブリック・エネミーズ」)、刑事は彼らを追い続け(●「ヒート」)、ボクサーはひたすら戦い続け(●「ALI アリ」、)、テレビのプロデューサは情報提供者と交わした約束を守り続けている(●「インサイダー」)。マイケル・マンの人物には●「駅馬車」のトーマス・ミッチェルのようにただの一度しか任務を遂行しないような「怠け者」は一人も存在しない。
★起源
マイケル・マン映画の主人公は●「駅馬車」のそれと比べて余りにも「起源」を喪失している。みずからの遂行する任務に就いた動機がまったく語られていないのである。●「駅馬車」ならば、ジョン・ウェインがガンマンとなって復讐をするのは親兄弟が殺されたからという理由が見出されるし、クレア・トレヴァーが娼婦になったのは幼少時両親をインディアンに殺されて貧困だったという動機が見えている。こうして失われつつあるみずからの「であること」=「起源」をおぼろげながら記憶している●「駅馬車」の主人公たちに対してマイケル・マンの主人公たちは基本的に「起源」を喪失している。マクガフィンすら存在せずに既に起動している彼らの運動は徹頭徹尾動機を欠いたまま突き進みそのまま終わってしまう。ドイツ国防軍とナチ親衛隊が地下から湧いてきた悪魔に殲滅させられる●「ザ・キープ」ではドイツ国防軍のユルゲン・プロフノウがナチの親衛隊員に向かって『ドイツの汚染された精神が壁の中の怪物を解き放ったのだ』と非難しているが、そもそもあの悪魔はなぜ生まれたのかについてはまったく撮られてはおらず、またどうしてドイツが戦争をしているかについてもまったく言及されていないし、救世主的役割をはたして怪物と共に果ててゆくスコット・グレンにしてもアルバータ・ワトソンの『誰なの?』という問いかけに『旅人だ』と答え『どこから来たの?』という問いに『あらゆる所から』『奴を滅ぼすために来た』と答えただけでなぜ彼が怪物を滅ぼすのかについては一切答えず●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」のジェームズ・カーンは妻と子供のために泥棒としての最後の仕事を引き受けるのだがそもそも彼がどうして泥棒をするのかの理由はどこにも撮られておらず●「ALI アリ」において『私の敬虔なムスリムの夫がなぜ連中(ドン・キング等)のために磔になるの?』という妻の質問にアリ(ウィル・スミス)はまったく答えなかったようになぜアリは戦うのかについての言及はなく●「ヒート」●「マイアミ・バイス」においても彼らが何故刑事をしていることの理由がまったく語られてはいない。●なるほど「ジェリコ・マイル/獄中のランナー」で走り続けるランナー、ピーター・ストラウスは刑務所長のジェフリー・ルイスに『気分がいいから走るのか?』と聞かれて『そうだ』と答えているものの、あらゆる欲求の解放が気分の良いものであることからしてこの返答は答えになってはおらず、またピーター・ストラウスは父殺しの終身犯であり、それが彼をして「走ること」へと駆り立てたと想像することは可能だが社会通念上「父殺し」と「走ること」とは心理的に連結せず、それは●「駅馬車」における復讐→ガンマン、貧困→娼婦という社会通念上ありがちな因果からはかけ離れている。テレビプロデューサがタバコ業者の不正を暴く番組を制作する●「インサイダー」においては日本料理の店でプロデューサのアル・パチーノと内部告発者のラッセル・クロウとが差し向かいで話すシーンが撮られているが『自分はマルクーゼに師事し新左翼からも影響を受けた』と語るパチーノが『だからジャーナリストになったのか?』とラッセル・クロウ聞かれて何も答えず、さらに『そしてもっぱら質問するのか?』と突っ込まれて『嫌なのか?』と逆にパチーノは聞き返し『話をもどそう』とはぐらかしており、マイケル・マンは実に細かい演出で主人公による「起源」への言及を回避し続けている。●「コラテラル」の殺し屋トム・クルーズもまた『父親は俺を嫌い酔っては俺を殴り何度も里子に出された。12の時父親を殺した』とタクシーの運転手のジェイミー・フォックスに告白たりしているが、その直後にそれはジョークであり、おやじは肝臓病で病死したのだと笑いながら話しており、こうした一連の掴み所のない告白が冷酷無比な「殺し屋」へと因果的につながるには余りに弱く●「ラスト・オブ・モヒカン」のダニエル・デイ=ルイスに至っては『小さい頃両親と姉妹を殺されモヒカン族のチンガチェックに育てられた。俺は何も覚えていないが、、』と「起源」を覚えていないと言及している。●「刑事グラハム/凍りついた欲望」では猟奇殺人犯トム・ヌーナンが幼少時、父親に殴られて育ったことが彼をして猟奇殺人へ駆り立てた原因であると説明されているが、それについて語ったのはトム・ヌーナンではなく主人公のウィリアム・ピーターセンでありトム・ヌーナン自身は「起源」を喪失したまま運動をし続けている。マイケル・マンの作品において「起源」が詳細に示されるのは●「刑事グラハム/凍りついた欲望」の主人公ウィリアム・ピーターセンについてであり、彼についてはレクター博士逮捕の壮絶な体験から精神疾患を患うという「起源」が重要な細部として語られている。そうした例外を除いてマイケル・マン的人物たちは「起源」=みずからのアイデンティティを決定づける過去を想起することを頑なに禁じられている。ヒッチコック的巻き込まれ運動にはそもそも最初から「であること」などありはしないのだからその主人公たちが「であること」の領域である「起源」についての言及をしないのは当然にしてもヒッチコック的スキル型運動においては既に検討したようにことごとくその「職業」(犯罪も含む)を開始する動機が撮られているのに対してみずからの職業的運動を常に遂行し「であること」を追い続けているはずのマイケル・マンの主人公たちは徹底的に「起源」についての想起・言及を禁じられている。
★リメイク
●「メイド・イン・L.A.」で路上の売春婦の死体を見た後帰宅した刑事のスコット・プランクは、妻エリ・プージェに対して『小さなことでもいい、この町を良くしたいんだ。』と語り、その後彼はバーで妻を『商売女だろ』と揶揄した男を殴った後、路上の妻との口論で『16歳の少女が犯されている。使い捨てにして殺される、それが問題なんだ。君は俺とずっと一緒にいるんだから世の中でどんなひどいことが起きているか知ってるだろう!』と語っており、このどちらもが、実際には話されていない部分としての『だから俺は刑事になった』と社会通念上続きうるところの「起源」の吐露とも見ることができる。『小さなことでもいい、この町を良くしたいんだ。』→『だから俺は刑事になった』。『世の中ではひどいことが起きている』→『だから俺は刑事になった』。加えてこの動機には世のため人のためという「おおやけ」の領域が付着している。だがこの作品をセルフリメイクした●「ヒート」にはこのふたつのセリフはスッポリ抜けていて、その代わりに『どうして家で仕事の話をしてくれないの』と迫る妻に対してアル・パチーノが『泣き止まない赤ん坊を電子レンジで父親が焼き殺した話をすればいいのか』とやり返すシーンが入っているだけで、刑事のアル・パチーノにしてもギャングのロバート・デニーロにしても、なぜ彼らが刑事やギャングになったかの動機について映画全般に亘ってまったく言及されておらず、リメイクにおいてなされているこれらの変更は決して偶然によるものではない。
★実話
●「パブリック・エネミーズ」は実在する銀行強盗のデリンジャーを撮った作品であり、彼を演じたジョニー・デップは初めて会った女マリオン・コティヤールに『3歳で母が死に父に殴られ育った。野球、映画、高級服、速い車、ウイスキー、それに君が好きだ。約束を守る。君の面倒は俺が見る。』とみずからの経歴や嗜好についてあれこれと話しており、●「メイド・イン・L.A.」の刑事スコット・プランクの告白と同じように→『『3歳で母が死に父に殴られ育った』→『だから俺は銀行強盗になった』と社会通念上続きうるところの「起源」の吐露とも見ることができる言葉であり「実話」という領域においてはそれが「事実」に基づくという観点から「起源」その他、運動論的には弱点となる細部が撮られることと無関係ではない。
★「マイアミ・バイス」(2006)と断片性~
テレビのシリーズを映画化したこの作品においてコリン・ファレルとジェイミー・フォックスの2人の刑事にはなぜ刑事になりどうして任務を遂行しているかはまったく語られていない。標的の麻薬王が逃げたままで終わってしまうこの作品は、まるで続き物シリーズの「第10~話」くらいの感じで撮られていて「任務就任の動機など第一話で語っただろう」とでも言わんばかりのあっけらかんさで「すること」の運動へと集中している。論文「心理的ほんとうらしさと映画史」で書いたように(後日投稿)映画を断片的に撮ることは「らしさ」を排除する有効な方法となるが『表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。存在や事物を、その分離可能な諸部分において見ること。それら諸部分を一つ一つ切り離すこと。それらの間に、新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものにすること(「シネマトグラフ覚書」126』というロベール・ブレッソンの言葉は、Aという運動とBという運動を「断片化」させることで、AとBとのあいだの因果関係=「心理的ほんとうらしさ」を払拭し、それぞれの運動から理由を排除して赴くままの運動へと解き放つことへの試みとしてある。『先ず豪華絢爛な見世場や、アッっと思わせる仕掛場面を三つほど設定します。決して主役の動きを追って筋立てはいたしません。登場人物の性格やら話の筋はあとまわしです。~あとは見せ場と見せ場をつなぐ筋立てと登場人物の設定で、多少話のつじつまは合わなくても、見せ場が面白く固唾を呑むよう筋をもってゆけばいい訳です(ユリイカ鈴木清順115』という鈴木清順の言説もまた、まず最初に幾つかの断片的な運動があり、運動と運動のあいだをつなぐ理由は「あと」からやってくることを端的に書いている。簡単に言えばハワード・ホークス●「リオ・ブラボー」でジィーン・マーティン、リッキー・ネルソン、ウォルター・ブレナン、そして彼らを囲むジョン・ウェインによるジャムセッションのような印象的なシーンを5つほど構想し、その5つをどうやってつなげるかは「あと」から考えるという方法で、それを突き詰めるとハワード・ホークスの『良いシーンが5つあり、観客を苛つかせなければ良い』(「ハワード・ホークス映画を語る」61頁)ということに行き着くことになる。『原因は結果の後に来るべきであり、それに伴走したり、それに先んじたりするべきではない』というブレッソンの言説は、あるいは『ぼくの興味をひくのは、事をおこなう人についてよりも事について語るということ、そしてそのあとではじめて、その事をおこなう人について語るということだ』というゴダールの発言もまさにこれを語っている。断片と断片がつながる理由=原因は「あと」からやってくるのであり、当然ながら運動と運動との因果性はそもそもそれを目的として作られるものではないのだからはじめから目的としてある場合と比べて異質なものとして出現しギクシャクすることになる。そうして生まれるものは先ほどのブレッソンの言葉における『(部分と部分との)新たな依存関係』となって因果を超えて露呈し「らしさ」や動機、理由といった心理的因果関係とはかけ離れた裸性の関係となる。『日本におけるハワード・ホークス評価の信じ難い低さは、難解さを通俗性ととり違える錯覚によるものである』と蓮實重彦(「シネマの記憶装置」31)は書いているが、ホークスの映画が難解に見えるのは、シークエンスとシークエンス、部分と部分との関係が「あと」からやってくるので、そこで生まれた『新たな依存関係』が我々の慣れ親しんだ心理的な因果性とは異質だからであり、その異質さを「通俗性」として読んでしまうとモーションピクチャーそのものを否定することになる。ヒッチコックは●「三十九夜」について『「ひとつひとつのシーンの中身が充実していて、それだけで一本の小さな映画になりうるような、そんな心づもりで脚本を書いた(「映画術」82)』と語っているが、そもそも運動とは持続することで「心理的ほんとうらしさ」の先行を許し、「あと」から来るはずの理由が「先」に回って心理化する危険を常時孕んでいることから、それを回避するために運動は常に起動され直さなければならず、そのためにマクガフィンと並んでこの「断片化」という方法は映画に「シークエンス」という現象が存する如くに極めて重要な映画的出来事としてある。●「マイアミ・バイス」は連鎖するシリーズの中からひとつの断片を取り出しそれをさらに映画のシークエンスへと断片化させて撮られており、もともとの断片をさらに断片化して撮られたこの作品は「心理的ほんとうらしさ」を決定的に放逐させている。
★起源喪失と禁欲
マイケル・マンの映画には●「駅馬車」における時代と時代の「あいだ」という時間性はより希薄になってきている。「フロンティアの終わり」や「ジェロニモ降伏」といった「であること」と「すること」の「あいだ」が明確に引かれている●「駅馬車」の人々は、時に苦痛に顔を曇らせながらみずからの「であること」を遂行しようと葛藤を続けているのに対してマイケル・マンの映画では、新聞記者や刑事、銀行強盗「であること」は遠い過去へ葬られて無意識の領域へ押しやられ、人々の意識はより「すること」へと純化されており●「駅馬車」のトーマス・ミッチェルのように飲んだくれて任務に支障を来す者もいなければジョン・ウェインのようにガンマンをやめて牧童に復帰する者も、ジョージ・バンクロフトのように保安官の任務を放棄して容疑者を逃がしてしまう者もいない。彼らは徹底した禁欲さと合目的性において任務を忠実に遂行し続け、殺されでもしない限り彼らの運動は決して停滞することはない。「であること」という「起源」を遠い過去に喪失したマイケル・マンの運動は「起源」を追い求める意識が無意識下に押しやられることで逆に駆り立てられる強度が増していき、刑事が刑事をするにしても、泥棒が泥棒をするにしても、もはやマクガフィンという起動因すら必要にしない「すること」がより強度の再帰性を得て禁欲的かつ目的合理的に遂行されてゆくのである。
★救いの確証と禁欲的労働
マイケル・マンの運動はマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」で書いたところの資本主義の精神と似ている。人間は神の被造物であり、最後の審判で神が具体的にどの人間を救済してくれるかは被造物の人間などにわかるはずはない(予定説)。救いの確証が欲しい人間はひたすら禁欲的に労働し、神の合理性を地上に実現することで救いの確証を得ようとする。だが人間がいくら救いの確証を得ようとしたところで被造物に過ぎない人間に神の選択などわかるはずもなく、救いの確証を得ようとする人々の労働はより禁欲性と目的合理性を強めてゆく。それが資本主義の精神となり、資本主義はこうした精神によって始まったというのがマックス・ウェーバーの見解である。『資本主義の精神とは労働を救いの証だとみなす精神である。ゆえに、労働それ自身が尊いのであって、労働によって生活の資が得られるから尊いのではない。(「韓国の崩壊134』」と小室直樹が語るように、資本主義の精神とは「労働の自己目的化」にある。労働の目的は労働の中にあり、労働をすることが労働の理由となる。いちいち労働の理由など考えていたのなら資本主義は回って行かない。労働から理由を剥ぎ取ることで労働を自己目的化させダイナミックな回帰運動の坩堝の過程へ放り込んでしまえば労働はひたすら回転し続けてゆく。私は労働をする、なぜなら私は労働をしているからだ。こうした資本主義の精神は「運動の目的は運動の中にある」という映画の運動論とよく似ており、また再帰的な近代とも通底している。実際プロテスタンティズムの精神が資本主義の精神を導いたのではないことは今やあらゆるところで言われているが、面白いのは「救いの確証」が人間の手の届かない「神」という絶対的存在に委ねられることで却って労働は禁欲的に滑らかに遂行されるという点である。ここで「救いの確証」を「であること」に、「禁欲的労働」を「すること」に置き換えてマイケル・マンの運動を見てみると、任務を遂行している最中からいきなり始まり、映画を通じてただの一度もみずからの「起源」について語られることも表現されることもないマイケル・マン的運動はまさに運動の自己目的化としての「資本主義の精神」に接近している。決して手の届くことのない「であること」を禁欲的に追い求めれば求めるほど彼らの運動は「すること」へと自己目的化され研ぎ澄まされてゆくという逆説が引き起こされている。「であること」を禁欲的に遂行する彼らの運動は一見理性的で主体的運動でありながら「であること」が「ありもしない」ことによって主体性から切り離され「すること」へと翻弄されてゆく。彼らがスキルを磨けば磨くほど、禁欲的になればなるほど、計画的であればあるほど「ありもしないであること」を追いかけてゆく運動性は底を抜けて病的になり、それがマイケル・マンの映画の能動性とヒッチコック的巻き込まれ運動の受動性となって現れて来る。「起源」を喪失したマイケル・マンの運動は「ありもしないであること」へと向けられるスキルに満ちた能動的、禁欲的、計画的運動となり、「であること」など一切存在しないヒッチコック的巻き込まれ運動はとことんスキルを引き剥がされた受動的、非合理、無計画の跳梁となる。マイケル・マンは追い求め、ヒッチコックは巻き込まれる。運動を起動するにしても、仮に仮想であれめがける領域としての「であること」があるとないとではまったく質の違った運動になることを忘れてはならない。
★回想なし
マイケル・マンの12本の作品の中に回想シーンは1シークエンスしか存在しない。●「ALI アリ」のオープニングでウィル・スミス(モハメッド・アリ)の幼少時と最近の映像がほん一瞬、オーヴァーラップも特殊なキャメラ技術もなく唐突に数秒ずつ映し出されるだけで、かつはっきりとこれが回想だと分かるのは最近のボクシングの試合後リング上に上がったウィル・スミスが相手ボクサーと睨み合っているシーンだけで、幼少時の映像はそれがウィル・スミスだという決め手は撮られておらず、極めてボカした方法でマイケル・マンは彼自身唯一の回想シーンを撮っている。「起源」を喪失したマイケル・マン的主人公に回想という「起源」への回帰が存在しないのは当然であり●「マイアミ・バイス」のラストシーンでコリン・ファレルとの別れ際にコン・リーが『TIMES IS LUCK・今があるのは幸せ。』とつぶやき●「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップが『今日が最高なら明日は考えない』と語り●「メイド・イン・L.A.」のギャングのボス、アレック・マッコーエンが『出身はどこなの?』と尋ねるローラ・ハリントンに対して『過去を詮索しても意味はない』と答えるのは、マイケル・マン的運動にとって現在こそがその舞台であり「すること」オンリーへと純化されてゆくヒッチコック的巻き込まれ運動と現在の運動である点で通底している。ただその中でも唯一回想のある作品が●「ALI アリ」という実在する人物を撮った作品であり「起源」について語られた●「パブリック・エネミーズ」同様、回想、「起源」という過去へと遡ってゆく傾向は「実話」という領域に現れる運動論的弱点となって露呈している。
■マイケル・マンVSヒッチコック
●「救命艇」(1943)
ヒッチコックによって戦争中に撮られた作品であり、第二次大戦中、ドイツのUボートの攻撃で破壊された輸送船の乗組員たちとUボートの船長が一隻の救命艇に救助されサバイバルを図るというこの作品は、さながらマイケル・マン的ドイツ人船長とヒッチコック的スキル喪失人間集団である連合国の一騎打ち的様相を呈している。救命艇の乗組員は以下のとおりである(★→女■→男)
①連合国側・8人。
★タルラ・バンクヘッド(記者)
■ウィリアム・ベンディックス(船員)
★メアリー・アンダースン(従軍看護婦)
■ジョン・ボディアク(機関士)
■ヘンリー・ハル(造船所社長)
★ヘザー・エンジェル(母親)
■ヒューム・クローニン(通信技師)
■カナダ・リー(コック・元スリ)
②ドイツ側・1人
ヴァルター・シュレザーク(船長)
「連合国側」の職業を見てみると、機関士、通信技師、コック、富豪、看護婦、記者はいるものの、船を航行させて生き延びることに決定的に重要な船長というスキルを有する人材を欠いている。船長気取りで指図をする富豪のヘンリー・ハルはスキル不足で信頼されず、多数決で船長に指名されたジョン・ボディアクも船長としてのスキルはまるでなくまたその傲慢な性格と「女たらし」の軽薄さにより誰からも信頼されていない。さらにまた記者というスキルを持つことから事件を記録することで間接的ながらも航行に寄与しうるタルラ・バンクヘッドはそのカメラとタイプライターを海の中へと落としてしまい「連合国側」のスキルが生かされることはヒッチコックによって徹底的に禁止されている。せいぜい彼らが生かしたスキルと言えば元スリのカナダ・リーがドイツ人のヴァルター・シュレザークのポケットの中から羅針盤を盗み取るか、看護婦のメアリー・アンダースンが脚を怪我したウィリアム・ベンディックスの看病をするくらいで、その後の脚の切断については元医師のスキルを有するドイツ人のヴァルター・シュレザークに任せっ切りで、結局のところ何もできない「連合国側」はトランプに明け暮れ、ドイツ人をこき使い、主権者のように振る舞っている。ところが暴風雨という緊急事態になって彼らのスキル不足が抜き差しならない欠落となって一気に露呈したその時、Uボートの船長で捕虜になっていたドイツ人ヴァルター・シュレザークが大声で指示を出して暴風雨を乗り切ってしまい、ついに彼は舵取りを任されることになる。「主権とは緊急事態になって初めて露呈する、」というカール・シュミットの思想を地で行くような展開の中でシュレザークは声高にベートーベンを歌い、羅針盤を活用し「連合国側」をドイツの補給船まで導き捕虜にしようと画策する。加えて『万一に備えて嵐の前に水を確保しておいた』『私の先を読む能力に感謝しろ』『要は計画性だ』というマイケル・マン的言葉で侮辱された「連合国側」は逆上し集団リンチでシュレザークを殺して海に棄て去ってしまう。だがその瞬間自分たちの船長を失ったことに気付いたヘンリー・ハルは『奴に代わる漕ぎ手はいない、、』とうなだれ、タルラ・バンクヘッドは『「超人」がいなくなったらあとは死ぬだけよ』と諦めの心境に陥っている。この作品はアメリカの批評家を相当に怒らせたらしいが「連合国側」はヒッチコック的巻き込まれ型のへなちょこ人間、ドイツ側はマイケル・マン的スキル人間に撮られているこの作品は、実はヒッチコック的巻き込まれ映画における主人公と悪役との関係における典型を指し示している。
■悪役
ヒッチコック的巻き込まれ運動は基本的に「ヒッチコック対マイケル・マン」の対決によって進んでいく。主人公の運動が「すること」の過程で動物的に翻弄されてゆくのに対し、悪役は悪役である以上、その運動は犯罪者「であること」を求めてなされることになり、仮に●「救命艇」のヴァルター・シュレザーク(船長→殺人)●「サイコのアンソニー・パーキンス(宿屋の主人→殺人)、●「めまい」トム・ヘルモア(造船の社長→殺人)●「裏窓」のレイモンド・バー(セールスマン→殺人)●「フレンジー」のバリー・フォスター(果物屋→殺人)のように職業と運動(殺人)のあいだにずれが生じていることがあるとしても、彼らの「であること」を実際なされた運動=「犯罪を犯すこと」に統一すれば、彼らの運動は「犯罪者は犯罪を犯す」というスキル運動となる。そして不思議なことにヒッチコック映画の犯罪者には魅力的な人物が多い。
★魅力
ヒッチコック映画における魅力のある悪役としてトリュフォーは『とくに(●「汚名」の)クロード・レインズは、ロバート・ウォーカー(●「見知らぬ乗客」)、ジョセフ・コットン(●「疑惑の影」)とともに、おそらく最もヒッチコック的な「悪役」ではないかと思うのです。つまり、きわめて人間的な悪役なのです』と語っている(「映画術」164頁)。彼らはみな禁欲的に任務を実行し、紳士でありながら病的であり、犯罪遂行の動機が希薄である。それぞれ国家を守るため、父親を殺して欲しいから、未亡人は寄生虫だから、という理由はあるように見えても、クロード・レインズの口から「国家を守るため」などというセリフは一度も出てこないし、ロバート・ウォーカーは余りにも病的でみずからの行動の責任能力において確固たる動機をもって犯罪遂行しているようには見えず、ジョセフ・コットンの「未亡人は寄生虫だから」という犯行の動機もまた多分に病的であり彼の理性に依るものではない。魅力的な悪役はみな病的であり、それがトリュフォーに言わせると「人間的」ということになるのだが、その外の印象的な悪役として●「サイコ」のアンソニー・パーキンスはマザコンの精神疾患であり●「第3逃亡者」の「まばたきの男」ジョージ・カーズンは顔面神経痛の発作に薬で対処しており●「フレンジー」のバリー・フォスターは変態的なネクタイ殺人狂で分裂症を曝け出し、ヒッチコック、トリュフォー共に『いい俳優だ』(「映画術」135)と褒めている●「逃走迷路」のノーマン・ロイドもまた偏執的な完璧主義者の雰囲気を醸し出している。こうしたヒッチコック的悪役の精神疾患的な系譜は、みずからの性的不能を隠すために殺しを行った●「殺人!」(1930)のエスメ・パーシー、さらには熱病に犯されて妻を殺しそうになった処女作のサイレント映画●「快楽の園」(1925)のマイルズ・マンダーにまで遡ることができる。精神疾患に犯されている彼らの運動はみずからの運動の「起源」=「であること」を喪失している(忘れている)がゆえに「ありもしないであること」へと向けられた「すること」の執拗なまでの禁欲性によって駆り立てられてゆく点でマイケル・マン的主人公たちと接近している。病的な犯罪者の彼らはなぜ犯罪者であるのか、どうして罪を犯すのかについての葛藤を欠いているのだ。
■常習犯と初犯
ヒッチコック的巻き込まれ運動における病的な犯罪者たちは多くの場合何度も犯罪を積み重ねてきた常習犯としてある。●「暗殺者の家」のピーター・ローレに始まり●「疑惑の影」のジョセフ・コットン●「海外特派員」のハーバート・マーシャル●「汚名」のクロード・レインズ●「北北西に進路を取れ」のジェイムズ・メイスン●「サイコ」のアンソニー・パーキンス●「フレンジー」のバリー・フォスター等みな犯罪を常習的に重ねている常習犯であり、遥か昔に犯罪を開始した彼らはみずからの犯罪行為の始まりの時点における動機=「起源(なぜ自分は犯罪を犯すのか)」を喪失しているのでいちいち動機へと遡ることがなく手馴れていてそつがない。対して初犯とはこれからまさに第一回目の犯罪を成し遂げんとする者であるのでそこには犯罪の動機が存在し、多かれ少なかれ善悪、道徳との葛藤、スキル不足による犯罪の成否へ向けた不安と恐怖がつきまとうことから、その運動はその都度それらの「起源」を参照されながらのぎこちないものとなる。だが彼らの犯罪運動も2度目、3度目と重ねられるにつれ「起源」や善悪、道徳といったものから遠のくことで熟練化・活発化し自己目的化してゆく。パチンコの初心者と「常習犯」とはコインの挿入ひとつとってもその運動の円滑さにおいて雲泥の差があるように常習犯は「起源」を喪失していることから善悪やスキルの葛藤に苛まれることなく犯罪を遂行することが可能となる。2度の殺人事件を起こして現在も服役中の美達大和は『殺人という行為に対して人は心理的抵抗を持つ筈ですが、2回目の時は、初めての時に比べ、その抵抗が著しく低くなっている』(「死刑絶対肯定論」)と語り、臨床教育学の岡本茂樹は『1回目は、覚悟を決めて、殺害に及んだ。もう2度と人を殺すことはないと思っていたのに、2回目の方が簡単に(殺人を)してしまった。自分でもなぜだか分からない』と語る受刑者の話を紹介しているが(「反省させると犯罪者になります」89頁)、上述したヒッチコック的悪役の常習犯の中でみずからどうして犯罪者になったのかの理由を明かす者はひとりもいないし犯している犯罪に関して罪の意識に苛まれている者もいない。こうした常習犯的傾向とは基本的に病的であり、常習犯は「起源」を喪失していることにおいて病的疾患による犯罪者と重複しており、精神疾患に犯されている犯罪者の運動も常習犯の運動もその病的な性質のために「起源」を忘却しひたすら現在の運動へと病的=禁欲的に集約されることになる。●「疑惑の影」で昔起こした自転車事故が原因であなたは変わったと姉のパトリシア・コリンジに言われたジョセフ・コットンが怒ったように『僕に懐古趣味はない。今日を有効に生きる。それが僕の哲学だ』と言い返したのは彼の病的な性向が現在へと向けられている証左である。
→「暗殺者の家」(1934)~ピーター・ローレ
スイスの観光先で高官暗殺計画を偶然知ってしまったために娘(ノヴァ・ピルビーム)を誘拐されてしまった夫婦(レスリー・バンクス・エドナ・ベスト)が娘を取り戻すために奮闘するこの作品はのちに●「知りすぎていた男」としてヒッチコック自身によってリメイクされる作品であるが、ここで暗殺団のボスであるピーター・ローレは偏執的なまでの完璧主義者としての暗殺者を演じている。反抗するレスリー・バンクスの頬を思わず殴っておきながら『すまない、許してくれ』と慇懃無礼に詫びる彼は、レスリー・バンクスとその娘、ノヴァ・ピルビームを殺すことに関しては何らの葛藤も罪の意識も見せない冷酷さを併せ持ち合わせながら、自らの連れの女が死ぬと思わず抱きしめて抱擁するといった分裂症状を惜しげもなく晒け出している。こうして殺人の美学に酔いしれて駆り立てられるように滅びてゆく完璧主義者としてのピーター・ローレこそ、ヒッチコック映画において心理的な動機から隔てられ内側から突き動かされること、駆り立てられることによって運動を展開してゆく禁欲的犯罪者の嚆矢にほかならない。病的性質や常習性によって「暗殺者であること」の起源を無意識下に隠蔽してしまった彼は映画の中ではただの一度たりともなぜ自分が暗殺者になったかの「起源」を語らぬまま自己目的的な運動を反復してゆく。常習犯に見える●「三十九夜」のゴッドフリー・ティアール(小指のない男)●「バルカン超特急」の敵側の医者ドクター、ポール・ルーカス●「逃走迷路」の敵のボス・オットー・クルーガーなどに今ひとつ魅力欠けているのは、彼らが余りにも主体的=知的に過ぎて常習犯特有の病的さを欠いているからである。●「三十九夜」の敵スパイを演じたゴッドフリー・ティアールはスパイの常習犯のようでありながらミスター・メモリーに情報を暗誦させてそのまま戸外へ持ち出すという極めて回りくどい手法を使う知能犯であり●「ファミリープロット」のウィリアム・ディヴェインにしても誘拐の常習犯でありかつ宝石への病的執着癖に犯されている「常習犯」であるはずがその犯罪は単純な宝石泥棒ではなく誘拐して監禁し身代金の代わりに宝石を奪ってから人質を解放するという実に回りくどく知的なものであって、彼らはその知的さにおいてヒッチコック映画史の記憶に残ることはない。
★常習犯から「常習犯」へ 初犯から「初犯」へ
常習犯も初犯も犯罪者に限られない。「起源」から遠く離れて運動する者たちはみな「常習犯」であり、「起源」と重なるように善悪の領域で行動する者は「初犯」である。強盗であれランナーであれ刑事であれボクサーであれジャーナリストであれ、マイケル・マンの主人公たちは映画開始当時既に幾度もみずからの職業的運動を反復し続けている「常習犯」であり彼らはその後もひたすらみずからの任務を反復し続けている。●「ALI アリ」の映画開始地点がアリのデビュー戦ではなく既に何度も試合を積み重ねてきた時点に設定されているのはマイケル・マンが撮る主人公は「常習犯」であることのひとつの細部であり彼の映画がすべて運動の「最中」から始まるのもこうした常習性と無関係ではない。みずからの「起源」についての言及を一切排除しひたすら駆り立てられるようにみずからの職業的運動を反復してゆくマイケル・マン的主人公こそ「常習犯」の典型としてある。
→「常習犯」の撮り方~「ヒート」(1995)の車線変更のように撮れ
●「ヒート」において終盤、逃亡するために車で飛行場へ向かっているロバート・デニーロに仲間のジョン・ヴォイトから『裏切者の居場所がわかった』と電話が入る。ボイトとしてはこのままデニーロに逃げて欲しいと『もう(裏切った奴は)関係ないだろう?』と念を押しデニーロも『そうだ』と答えてそのまま運転を続けている。そこからキャメラはしばらくデニーロを正面から撮り続けるのだが、突然デニーロは車を車線変更させて街へ引き返している。この時マイケル・マンは、デニーロがみずからの意志で主体的にハンドルを切っているというようにではなく、突如、みずからの内部に潜む何物かに突き上げられるようにハンドルを切らされている、というように運動を撮っている。●「ヒート」のオリジナルである●「メイド・イン・L.A.」でも同じシーンが撮られているが、そこでロバート・デニーロの役を演じたアレックス・マッカーサーは運転中に仲間からの電話で裏切り者の居場所を聞き『飛行機に乗るんだぞ』と言われて『もちろんだ』と答えた後、薄ら笑いを浮かべながら指を鳴らし車をUターンさせ引き返しており、ここでは考えずに行動に移す通常の「常習犯」が撮られているのに対してリメイクの●「ヒート」でマイケル・マンは恋人のエイミー・ブレネマンを未だロバート・デニーロの助手席に同行させることで(●「メイド・イン・L.A.」ではこの時点ですでに女ローラ・ハリントンはアレックス・マッカーサーのもとを去っている)、裏切り者を処分しないで2人で逃亡するというという状況をより強めさせておきながら、突如内から突き上げられたような衝動的運動によってデニーロにハンドルを切らせ裏切者のいるホテルへ向かわせることで彼の「常習性」をより強めて撮り直している。刑事のアル・パチーノにしても、娘のナタリー・ポートマンが手首を切った後の病院のロビーで妻のダイアン・ヴェノーラから『仕事に行っていいのよ』と言われた途端衝動的に走り出し病院の階段を駆け下りているように「起源」を喪失した者たちは一見主体的でありながらも実は病的であり参照すべき「であること」が「ありもしない」無意識の彼方からやって来ることから主体的に考える前に衝動的に行動をさせられているのであり、それが彼らの運動をして自己目的化という禁欲的、神経症的なものへと走らせながらしなやかにさせている。
★罪の意識
犯罪者(「常習犯」)は何度も犯罪を積み重ねていることから「であること」という「起源」から遠ざかり無意識下に喪失してしまうことでその運動は駆り立てられるような自己目的的な「すること」運動となり、同時に罪の意識、善悪、道徳等「起源」=「初犯」における心理的価値判断から自由になる。マイケル・マンのテレビ映画●「ジェリコ・マイル/獄中のランナー」の父親殺しで服役しているピーター・ストラウスは選考会の所長に対して『同じ状況ならまた同じこと(殺し)をする。』と断言しているし●「ヒート」のロバート・デニーロは民間人を巻き添えにした銃撃戦にもまったく罪悪感など有しておらず、刑事のアル・パチーノにしても夫婦仲の不和等で義理の娘のナタリー・ポートマンが自分のマンションの浴室で自殺未遂したにもかかわらず病院の待合室のソファーで妻のダイアン・ヴェノーラに『私たちの仲は修復できないの?』と聞かれて『俺は仕事に憑かれた男だ。君の求める男じゃない。』と答え、その後ポケベルが鳴ってダイアン・ヴェノーラから『行ってもいいのよ』と言われると娘をほったらかしに病院の階段を滑らかに駆け下りてゆく彼の運動には罪の意識の微塵もない。●「ALI アリ」のモハメッド・アリが戦うことに罪の意識を感じることなどあるわけもなく●「パブリック・エネミーズ」で銀行強盗を繰り返すジョニー・デップが初めて出会った女(マリオン・コティヤール)の『何をしているの?』という問いに対して『俺はデリンジャー。銀行強盗だ』と発したさり気ない自己紹介は彼が「起源」を喪失し善悪の意識から遠い場所の住人=「常習犯」であるからこそ可能な返答であり、知的な善悪判断をもとに行動を開始する初犯の犯罪者には間違ってもこのような大胆不敵な自己紹介はできるものではない。その究極系は●「コラテラル」の殺し屋トム・クルーズであり、何人もの標的を立て続けに殺し続けても罪の意識のカケラも見せない彼こそまったき「起源」を喪失した記憶喪失型「常習犯」の典型としてある。●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」には養子をもらうために役所に面接に行ったジェームズ・カーンに前科があるという理由で断られてカーンが激怒するというシーンがあるが、彼は服役して悔悛し足を洗って堅気になったにも拘わらず前科者に対して冷たい世間に対して怒ったというのではなく、彼は現時点において列記とした泥棒の現役「常習犯」であり、罪の意識など微塵も感じていない完璧な犯罪者であるにも関わらず、ここでマイケル・マンはむしろ役所の係員を「悪人」に、泥棒の常習犯のジェームズ・カーンを「善人」のようにして撮ることでそもそも「常習犯」的領域における運動は善悪から遠い所にある「すること」であることを指し示している。「常習犯」に罪の意識がないのは彼らの運動そのものが善悪=「起源」とは無縁のところにあるからにほかならない。●「ザ・キープ」においてドイツ国軍のユルゲン・プロフノウが戦争について批判したり後悔したりするのに対してナチ親衛隊のガブリエル・バーンが罪の意識のカケラもなくまったき禁欲的に運動を続けてゆくのは、前者が「初犯」であるのに対して後者は「常習犯」、前者は知的であるのに対して後者は病的、前者は「起源」を有しているのに対して後者は喪失していることに由来している。映画で「常習犯」を撮る場合、既に犯罪を反復させている常習犯を撮るのが基本だが、仮に初めての罪を犯す初犯を撮る場合でも彼を精神病質にしたり人間関係で引き裂いて病的にさせれば「常習犯」となり、その運動は自己目的化されてしなやかなものになる。
★精神分析は「常習犯」を「初犯」に引き戻す~「マーニー」(1964)「白い恐怖」(1945)
●「マーニー」のティッピ・ヘドレンは幼少期のトラウマから過去の記憶を喪失し衝き動かされるように犯罪へと駆り立てられてゆく。彼女は「常習犯」であり、従ってまた「病気」である。ショーン・コネリーの事務所にタイピストとして雇われた彼女は週末の就業時間後に職場のトイレに身を隠し誰もいなくなった事務所の金庫から大金を頂戴する。綿密な計画を立てよどみのない動作によっていとも簡単に金庫を開けてしまう彼女の運動は、ハイヒールを落としてしまうというサスペンス上のヘマはあるにしても、掃除婦(イーディス・エヴァンソン)の空間と金庫室の空間とを二つに区切ってのしなやかなサスペンスを醸し出し、ヒッチコックファンにとって忘れることのできない場面を提供することになる。だが彼女の夫ショーン・コネリーは「病気」によって「常習犯」のティッピ・ヘドレンを精神分析で治療して「初犯」に戻してしまう。精神分析とは病的資質の「常習犯」に言葉遊びなどで「起源」を想起させ治療し「初犯」に引き戻す試みであり、ティッピ・ヘドレンが落馬して愛馬を安楽死させた後の2度目の窃盗の時、ショーン・コネリーの精神分析によって「起源」を取り戻しつつある彼女の運動は罪の意識との葛藤で心理的に停滞している。精神分析を受けて病的な禁欲さを喪失した彼女は「初犯」に逆戻りしてしまったのだ。だからこそ彼女の運動は「起源」=罪の意識・善悪=をその都度参照しては主体的に停滞し、心理的になり、額から汗を拭き出し、しかめっ面になり、滞る。1度目の窃盗=「常習犯」と2度目の窃盗=「初犯」とを比較して2度目の印象が希薄なのは、2度目の窃盗は運動=「すること」ではなく「起源」=「であること」=「心理的ほんとうらしさ」に支配されているからである。「これは精神分析の物語である」というテロップと共に始まる●「白い恐怖」のグレゴリー・ペックは精神疾患を患い「起源」を喪失しているものの映画開始早々テーブルクロスやガウンの白い線に反応してしまうことですぐに「起源」を意識させられて失神してしまい、以降はバーグマンの精神分析を受けたり白い線に反応するたびに「起源」に立ち向かわされ、まるでゾンビのように足取りは重くなり、苦痛の表情を浮かべて頭を抱え込み、時に意識を失い夢遊病者のようにカミソリを片手にふらふらと階段を歩いて降りてきたりと心理的な停滞を続けている。「常習犯」が「起源」へと遡ると運動は停滞する。●「疑惑の影」の病的な犯罪者ジョセフ・コットンは姉のパトリシア・コリンジによると「子供の時に自転車の事故で頭がい骨を骨折してから異常性を示すようになった」とその「起源」が語られながらそれはジョセフ・コットンのいない場所で語られた言葉であって彼自身がその「起源」を想起することはなく、それどころか彼は『「今日を有効に」が主義』と語るように現在に生きる人間であり決して過去へと遡らないことにおいて精神分析をされる患者とは違い彼の運動は停滞することがない。
★「起源」を想起すると失神する
「常習犯」も「起源」を思い出すと罪の意識に揺さぶられ善悪を想起し主体的になる。運動は心理的になり、汗をかき、しかめっ面になり、運動は停止し、失神する。●「白い恐怖と共に精神分析映画=ニューエロティック映画の走りとされるコンプトン・ベネット●「第七のヴェール」(1945)において少女時代学校で教師に罰として手を鞭で打たれたためにピアノの試験に落ちたことがトラウマとなっているピアニストのアン・トッドは、罰を受けるきっかけを作った同級生が演奏会の会場に訪れたときピアノの演奏終了と同時に失神しているように、あるいはヴィクトル・シェストレムのサイレント映画●「緋文字(真紅の文字)」(1926)で夫を持つ女(リリアン・ギッシュ)に子供を産ませた牧師のラース・ハンソンが姦通の罪の意識に苛まれ最後に信者たちの前で真相を告白したあと失神しリリアン・ギッシュの膝の上でそのまま息絶えたように「起源」の想起と「失神(運動の停止)」とは運動論的に直結している。●「見知らぬ乗客」の犯罪者ロバート・ウォーカーがパーティで女の首を絞める実演をしたあと失神したのは正面に立っていたパトリシア・ヒッチコックの眼鏡を見ることによって第一の殺人=「起源」を想起してしまったからであり●「第3逃亡者」のまばたき男ジョージ・カーズンが映画終盤、クラブで演奏中に失神してしまったのは証拠のコートを譲った男を目撃することで妻を殺した「起源」を想起したからにほかならず (彼らは初犯であっても病的疾患によって「起源」を喪失しているので一度の犯罪ですでに「常習犯」になっている)、マックス・オフュルス●「歴史は女で作られる」(1956)のローラ・モンテス(マルティーヌ・キャロル)が回想と共に舞台上で自らの半生を踊りによって演じたあとすべての回想を終えると高所から落下しまるで檻(オリ)のような装置に入れられて男たちのさらし者にされながら映画が終わったように、あるいはロバート・シオドマク●「幻の女」(1944)で刑事のトーマスゴメスが青ひげ、切り裂きジャック、デリンジャー等、異常な殺人者たちの例を挙げたときそれを聞いていた殺人鬼のフランチョット・トーンがめまいを起こして失神したように、あるいはニコラス・レイ●「ビガー・ザン・ライフ」(1956)においてハイスクール時代三流で万年補欠のフットボーラーだったと息子に自嘲気味に告白していたジェイムズ・メイスンが病気で投与した新薬の副作用で精神に異常をきたして尊大になり息子をフットボールで激しく鍛えた果てに殺そうとしたところ『お父さんは補欠だった』と息子にアメフトのボールを見せられて「起源」に向き合わされた瞬間画面が赤くなりメイスンが苦悶の表情を浮かべて動けなくなってしまったように、「起源」想起の映画史は運動の停止と直結している。だからこそ●「マーニー」のティッピ・ヘドレンにしても●「白い恐怖」のグレゴリー・ペックにしても、はたまた●「第七のヴェール」のアン・トッドにしてもはや一人で運動をなす術を失った彼らは「保護者」なくして何もできず、ベッドの上に横になり、あるいはソファーに深く身を埋めて精神分析を受ける彼らにはショーン・コネリー、バーグマンといった保護者が常に付き添うことになるのだが、そんな彼らもまた保護者として「起源」へと接近することで主体的にならざるをえず、映画は益々「初犯」性を高めて心理性を帯びてゆくことになる。●「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーが一度「起源」を想起して失神したにもかかわらずその後も「常習犯」としての運動を続けることができるのはその後再び彼が「起源」を喪失しているからであり、だからこそ彼は死に際に至ってまで罪の意識の微塵も見せずにファーリー・グレンジャーに罪を着せようとし続けたのであり(彼は狂っているのでほんとうにファーリー・グレンジャーが犯人だと信じているようでもある)、●「第3逃亡者」のまばたき男ジョージ・カーズンの場合は「起源」を想起し失神した後「初犯」に回帰するどころか発狂して「常習犯」に回帰してしまったのに対して●「マーニー」と●「白い恐怖」は「起源」への到達による運動の停滞が長期に亘っているためにそれが映画全体の運動の停滞となって跳ね返って来る。精神分析という出来事は「起源」へと遡ってゆくことで「説明責任」を果たしてゆくことにほかならず、その先にあるのはミステリー映画に特有な「不動のひとつの真実」であり、すべての辻褄が合ってしまう地点=「であること」が目指されることから運動の複雑性は必然的に解消される。そうした点で●「サイコ」のラストシーンでなされた精神分析が作品の価値を貶めてしまわないのは犯罪者のアンソニー・パーキンス自身が精神分析によって「回復=初犯化」したわけではなく、それどころか彼はサミュエル・フラー●「ショック集団」(1963)のピーター・ブレックのように病的さを極め狂気の世界に到達してしまったのであってここでなされた精神分析が彼の運動を停滞させることはない。
★「市民ケーン」(1941)~「常習犯」から「初犯」への回帰
ここで「映画史上最高傑作」というレッテル?を貼られた●「市民ケーン」を検討する。新聞王チャ-ルズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)が死の間際に残した『ばらのつぼみ(Rosebud)』という言葉の意味を探るためニュース映画を製作する会社の編集長(ウィリアム・アランド)がケーンの知人にインタビューしながら回想形式で進められるこの作品は『ばらのつぼみ(Rosebud)』という言葉が実はケーンが子供の時に持っていたソリに書いてあった言葉であり、実際ケーンが幼少時代に養子に出されるシーンも撮られていることからこの作品はケーンの「起源」へと遡ってゆく映画のようにも見える。だが「起源」へと遡る映画とは主人公自身が実際に精神分析をされたような形となって「起源」へと遡ってゆく運動であるところ、この作品で彼の「起源」へと遡っているのはケーン本人ではなく彼の過去を回想している知人たちであり、その知人たちにしても結局ばらのつぼみという「起源」へと到達することはできずに映画は終わっている。ひたすら成功へと向かうチャ-ルズ・フォスター・ケーンの運動には一切の躊躇も淀みもなく、政界の大物の姪と結婚して離婚し、ライバル新聞社の記者を全員引き抜き、政敵を陥れ、唯一の親友を新聞社から追放するなどし続けても罪の意識など微塵も露呈させない彼の運動は典型的な「常習犯」のそれとして現在の運動であり続けている。その「常習性」が加速するのが『私の母の夢は私をオペラ歌手にさせることなの』という愛人のドロシー・カミンゴアを売り出す時であり、ケーンは周囲の反対を一切無視し、オペラ劇場まで建設し、声楽の専門家を付け、彼女をオペラ歌手として大々的に売り出して世の中の失笑を買い、親友の記者(ジョセフ・コットン)までも失うことになってしまうにもかかわらず、まったく動じることなく病的なまでに執拗に愛人をオペラ歌手として売り出すことに没頭している。ケーンはドロシー・カミンゴアと路上で初めての出会いをする直前、亡き母の遺品が置いてある倉庫に行ってきたところで、それは『センチメンタル・ジャーニーだ』とドロシー・カミンゴアに対して語っているように、彼の「常習犯」的=病的な人格は多分に幼少時代に自分を養子に出した母親(アグネス・ムーアヘッド)に対する分裂気味の愛情に支配されているようでもある。宿泊費のかたにとった金鉱の権利書によって大金持ちになった母親は、それに見合った教育は無理だと判断して幼いケーンを養子に出しニューヨークで教育を受けさせることにする。財産管理人の回想によって撮られたケーンの幼少時のシークエンスでは、家の中で淡々とケーンの養子契約をしている母親の近景と、雪の降り注ぐ家の外で一人ぼっちでそりで遊んでいるケーンのロングショットとが窓を挟んで同一画面に収めたパンフォーカスの縦の構図で撮られており、その後ケーンがこの「一人で遊ぶ」というシーンを幾度も反復させたであろうことがこのパンフォーカスによって浮かび上がって来るのだが、ここで金鉱の権利書が両親名義ではなく母親名義であるというおかしな事実は、ケーンの運命を支配しているのは父親でなく母親であり、その後映画の中で幾度かケーンの口によって語られる彼の孤独な人生と人格は、多分に幼少時代に自分を養子に出した母親に対する複雑な愛情によって支配されていることを暗示しているものの、成長したケーンの記憶には優しい母親が自分に夢を託したという部分=偽りの過去だけが残っているのか、まったき「起源」を記憶の彼方に喪失させた彼の運動は罪の意識の微塵も見せずに病的に禁欲的運動を遂行してゆく「常習犯」に到達している。だがそうした彼に母の記憶=「起源」へと回帰させるきっかけとなる出来事が生じたのが雨降りの鋪道におけるドロシー・カミンゴアとの出会いであり、その時ちょうど『今、母親の遺品を置いてある倉庫に思い出探しに行って来たところ。』であり『言わばそれはセンチメンタル・ジャーニーだ、、』と語るケーンに対して『私をオペラ歌手にすることが私の母の夢だったの、、でも、こんな声じゃとても無理ね』と自嘲するドロシー・カミンゴアに『そうか、、』と答えたオーソン・ウェルズのそれまでは横からの引きの画面で撮られていた画面が突如クローズアップへと転換され、それぞれの顔の右頬の同じ部位に微妙に落ちた陰影が幾度かの構図=逆構図の切り返しによって映し出された時、まるで2人の母の夢が一体化したかのようにケーンはドロシー・カミンゴアをオペラ歌手として売り出すことへと突き進むことになる。結局ケーンは彼女の母の夢を実現させることができず彼女が家を出て行ってしまったあと暴れて部屋の中の物をぶちまけるその彼の前にふと現れた、雪の降り注ぐあの回想のソリのシーンを髣髴させるガラス玉を手に取った彼は、ここで時間の順序としては初めて『ばらのつぼみ(Rosebud)』という言葉を発し、その瞬間彼の運動はそれまでのしなやかさを失い、視線は宙を彷徨い、足取り重く夢遊病者のようにのろのろのと歩いてゆき、次のショットで多面鏡のなかに分裂して消えてゆく。『ばらのつぼみ』とはまったき彼の「起源」そのものであり、彼の運動を停止させる死の言葉であり、その瞬間彼は「初犯」へと回帰し死を迎える。チャ-ルズ・フォスター・ケーンが映画的に死ぬのはこの瞬間であって映画の冒頭で実際に死ぬ時ではない。オーソン・ウェルズはその後のケーンを映画のオープニングに持って来て、既に運動的には死を迎えている彼が物語的に死ぬ瞬間に『ばらのつぼみ』と発せられる口、ガラス玉を落とす手、そして看護婦によってシーツを掛けられる彼の亡骸のシルエットの3ショットを撮っている。オーソン・ウェルズを仮に天才とするならば『ばらのつぼみ』という運動論的な死を人間の死という物語論的な死に直結させて撮る術を僅か25歳の処女作にして既に知り尽くしていたことにあり、オーソン・ウェルズは映画の両端を「起源」到達による運動の停止という枠によって囲い込みながら、そのあいだをすべて「ありもしないであること」へと向けられた「常習犯」の弛まない運動によって埋め続けており、回想の映画として名をはせる●「市民ケーン」の運動の大部分を占める回想部分は時系列的には過去でありながら運動論的には現在が撮られ続け、現在であるはずのオープニングのシーンが「起源」によって回帰した「過去」によって支配されているという見事な構成で撮られている。またその「起源」にしてもソリに刻まれた『ばらのつぼみ』という言葉と回想だけでそれが具体的に「冷酷な母」なのか「優しかった母」なのか「暴力をふるう父親」なのかはっきりと確定されておらず●「白い恐怖」や●「マーニー」のように誰が見てもそうとわかる明確な「起源」を提示することが回避されているのは「起源」としての『ばらのつぼみ』それ自体がマクガフィンだからにほかならない。マクガフィンに意味はない。こうしてオーソン・ウェルズ的主人公もまたマイケル・マン的主人公同様、基本的に「常習犯」的傾向を指し示しており、それは●「秘められた過去」(1955)において謎の人物、アーカディン氏に扮したオーソン・ウェルズの口から出たサソリとカエルの小話によく現れている。
サソリ『カエルくん、私をキミの背中に乗せて川を渡らせてくれないかい?』
カエル『いやだ。キミはボクを刺すだろう。そしたらボクは死んじゃうよ』
サソリ『冗談じゃない。キミを刺したら私も溺れて死んじゃうじゃないか』
カエル『そうか、、よし、わかった。さぁ乗りたまえ』、、、サソリを背中に乗せて川を泳いでしばらくするとカエルの背中に激痛が走った。カエルは死に、サソリも溺れ死んだ。サソリはきっとこう言うだろう。『しょうがない、、これが俺のキャラクターだ』
●「ヒート」のロバート・デニーロが女と逃げることもできたのをわざわざ引き返して裏切り者を始末し、それが仇となってアル・パチーノに追い詰められてゆくその様はまさにこのサソリの有り様とそっくり瓜二つ、キャラクターによって衝き動かされてゆく「常習犯」の悲しくも気高きキャラクターとしてある。
■罪の意識と「起源」~ヒッチコック的犯罪者
犯罪とは生命、身体、自由、名誉、財産、通貨、国家等極めて人間的なるものが保護法益として列挙され、その動機にしても愛憎、物的欲求等人間的なそれに支配されていることからして犯罪とは基本的に「であること」へとめがけてなされる人間的運動としてある。以下においてはヒッチコック映画の犯罪者の中で「初犯(映画の中で最初の犯罪が初犯ならここに含めるが犯罪歴の有無が明確に語られない作品もあるので完全ではない)と「常習犯」(初めての犯罪者でも精神病質の者は「起源」を喪失するので「常習犯」に含ませ名前を青で書く。例えば●「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーは病的なので「ロバート・ウォーカー」と記す)の犯罪者を別表に挙げる→ヒッチコック犯罪者表参照。
★「初犯」と「常習犯」
「初犯」の犯罪者が撮られた26人(組)中19人で犯罪者は罪の意識を有しているのに対して「常習犯」は31人(組)中6人しか罪の意識を有していない。初犯の特徴としては「起源」=貧困、怨恨、浮気など、罪を犯す動機が映画内で明確にされていること、犯罪が知的で回りくどくかつ稚拙であること、改心すること、罪の意識に苛まれて運動が停滞することなどがあげられる。●「ゆすり」で自分をレイプしようとした画家を殺したアニー・オンドラは「初犯」であり「起源」(殺人の記憶)が生々しく蘇ることから罪の意識から自由になれず運動が停滞しひたすら刑事のジョン・ロングデンに保護されながらおろおろするだけでゆすり犯逮捕の時も自宅でボー然としており●「レベッカ」のローレンス・オリヴィエも海の家での「起源」を告白し妻の死について罪の意識に苛まれると彼の運動は一気に停滞してジョーン・フォンテインの保護下に置かれ●「山羊座のもとに」のバーグマンは夫のジョセフ・コットンがかつて自分の身代わりになって刑務所に入ったことに罪の意識を感じて酒浸りになり運動が停滞している。「初犯」とは「起源」への同化であり「起源」とは「であること」の領域であることから「初犯」の運動はその都度理性、善悪、過去等によって吟味され、考える前に動くのではなく考えてから動くことになり、その運動は知性に限定されて停滞してゆく。●「サイコ」のジャネット・リーは横領の初犯であり映画の中で犯罪の「起源」として貧困、結婚願望等が撮られ「初犯」特有の罪の意識を感じている彼女が映画の運動に停滞をもたらさないのは彼女の犯罪は彼女がベイツモテルへと巻き込まれていくマクガフィンに過ぎず、マクガフィンである以上意味がないのだから彼女の犯罪が心理的になることはあり得ないばかりか、彼女の存在自体が病的な「常習犯」のアンソニー・パーキンスの犯罪を起動させるためのマクガフィンであることから「意味のない」彼女が心理的になるはずもなく、彼女はマクガフィンとしての役割を終えるとはさっさと殺されて消えることになる。初犯でありながら罪の意識もなく運動を続けることができたのは●「バルカン超特急」で敵兵と撃ち合いをした乗客たち、●「白い恐怖」のレオ・G・キャロル、●「ダイヤルMを廻せ!」のレイ・ミランド、●「裏窓」のレイモンド・バー、●「めまい」のトム・ヘルモアくらいであってこれらの者たちは●「裏窓」のレイモンド・バー以外すべて犯罪の動機が明示されており「初犯」の彼らの運動は●「めまい」のトム・ヘルモアのようにわざわざ友人のめまい症を利用して妻を殺害するという非常に迂遠で回りくどい知的さに支配された犯罪を計画しており●「暗殺者の家」のピーター・ローレ、●「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーのような病的な魅力に欠けている彼らの犯罪そのものがヒッチコック映画史の記憶に残ることはない。それでもトム・ヘルモアの知的犯罪が●「めまい」の運動に停滞をもたらさないのは「友人のめまい症を利用して妻を殺す」という彼の犯罪自体がサスペンスをひき起こすためのマクガフィンに過ぎず、だからこそ映画の中で彼自身に対して犯罪が追及されることは一切なく、また殺された妻にしても一瞬落下するシーンが撮られただけでそれ以外まったく撮られても言及されてもおらず「起源」へと遡ってゆくことが目的として撮られている●「白い恐怖」●「マーニー」とは異なるからである。●「裏窓」は既に検討したように「見ること」の映画であり犯人とされるレイモンド・バーがそもそも本当に妻を殺したのかどうか「見ること」のみからは不明なように撮られていることから彼が初犯か常習犯なのかについてもまったく不明であるものの、病的で罪の意識のカケラも見せず犯罪の動機も明らかにされない彼の運動はまさに「常習犯」としての特徴を兼ね備えている。
★「白い恐怖」(1945)~レオ・G・キャロル
レオ・G・キャロルは自分の後任の院長を撃ち殺しそれを突き止めたバーグマンをも撃ち殺そうとするその時、バーグマンは『最初の殺人の時あなたは病気治療中であり責任能力がなかったから無罪になるかも知れないが、正常に戻った今私を殺せば死刑になるわ、』と彼を脅かしているように、レオ・G・キャロルは病気=「常習犯」の状態で殺人を犯したもののその後回復して「初犯」へと回帰していたのであり、だからこそ彼はバーグマンに『賢いあなたは殺人などしないわ』と言われるような知的さが常につきまとい、追い詰められた彼は「もう逃げられない」という理性的判断からみずからの手で命を絶つという知的犯罪者であり理由不在の不気味な「常習犯」的魅力に欠けている。
★「ロープ」(1948)と「ダイヤルMを廻せ!」(1954)
ヒッチコックが悪役(犯罪者)を主人公に撮ると決まって「初犯」を撮ってしまう。●「ロープ」の主人公は現役の大学生であり、ジョン・ドールが『一度限り』と語ったように彼らの犯罪は初犯であり、●「ダイヤルMを廻せ!」で妻のグレース・ケリーを殺そうとした主人公のレイ・ミランドは引退したての元テニスプレイヤーでこれも初犯であり、初犯ゆえに彼らは●「ロープ」なら「優れた者は弱者を殺す権利があることを完全犯罪で証明する」、●「ダイヤルMを廻せ!」なら「浮気をした妻を殺して遺産をもらう」といった犯罪者となった動機=「起源」をしっかり記憶し、また●「ロープ」のファーリー・グレンジャーは罪の意識に苛まれて終始しかめっ面に顔を歪め、殺した男ディック・ホーガンの父親セドリック・ハードウィックの姿を見るやグラスを握りしめて割って手を血だらけにしてしまうどころか鶏を絞めた話で取り乱し最後は錯乱して恩師のジェームズ・スチュワートを撃とうとしてしくじるという初犯特有の稚拙さをさらけ出し、またジョン・ドールはやって来たジェームズ・スチュワートに『君は昔から興奮するとどもる癖がある』と看破されメイドのイーディス・エヴァンソンには『2人は朝から様子が変』と見破られる始末で、さらに彼らの犯罪を暴いたジェームズ・スチュワートにしても大学の教授であって犯罪捜査においては極めて知的な「初犯」であり、彼は善悪の観点から彼らの犯罪を非難しているのみならず、そもそも被害者でもない彼が犯罪を追求する運動は「初犯」的な「おおやけ」に接近している。●「ダイヤルMを廻せ!」のレイ・ミランドにおいては極めて綿密な(回りくどい)嘱託殺人計画を立ててみたものの時計が止まっていることに気づかなかったり電話をしようとして電話ボックスが塞がっていたりと初犯特有の稚拙なミスを繰り返し、刑事のジョン・ウィリアムズには『アマチュアには騙されない』と言われた挙句に最後はみずからの計画を逆手に取られて自滅している。加えてこの作品でアンソニー・ドーソンを正当防衛で殺してしまったグレース・ケリーもまた初犯であり、知的な協力者のロバート・カミングス、知的な謎解き刑事ジョン・ウィリアムズ、そして既に検討した「読むこと」の画面等すべてが「初犯」性に埋め尽くされたこの作品は「初犯」特有の知的な真実=「であること」へとめがけられてゆくことになる。「初犯」の者たちのしているのは完全犯罪という知的ゲームではあっても病的運動ではなく、主体的であっても禁欲的ではなく「起源」を喪失した者のみが持つ得体の知れない不気味さを彼らの運動に見いだすことはできない。
→「リバティ・バランスを射った男」(1962)~罪の意識
ジョン・フォードの●「リバティ・バランスを射った男」は「新しい者」=「初犯」の弁護士ジェームズ・スチュワートと「古い者」=「常習犯」のガンマン、ジョン・ウェインの物語である。ここでジェームズ・スチュワートとガンマンのリー・マーヴィンが決闘するシーンがある。ここでガンマンであり「古い者」のジョン・ウェインは銃を満足に使えない「新しい者」で弁護士のジェームズ・スチュワートに代わって路地の陰からリー・マーヴィンを撃ち殺し、それをジェームズ・スチュワートが撃ったことにして彼をヒーローにさせて去ってゆくのだが、その後ジョン・ウェインはジェームズ・スチュワートに対して実はリー・マーヴィンを撃ったのは俺だと打ち明けている。これは弁護士で人など殺したことなどない「初犯」のジェームズ・スチュワートがリー・マーヴィンを殺したのは自分だと思って罪の意識から議員への立候補を断念したことを撤回させようとしたからであり、そんなスチュワートに対して「常習犯」のジョン・ウェインは『あんたはいつもしゃべり過ぎ考え過ぎるんだ』と言い、さらに『殺したことを俺は後悔していない』と言っている。「新しい者」=「初犯」のスチュワートは知的であり、みずからが殺人を犯したか否かという「真実」によって立候補をしたりしなかったりするというように「善悪」をみずからの行動基準としている。●「駅馬車」のドナルド・ミークとバートン・チャーチル等「新しい者」は「初犯」ゆえに運動が知的・心理的に流れやすく、従ってインディアンに対しても善悪の観点から差別的に接するのに対して「古い者」=「常習犯」の運動は善悪の彼岸にあることからその運動に善悪が露呈することはない。ヒッチコックは犯罪者を脇役に配置する時には「常習犯」の魅力的な悪役を数多く撮っているのに対して犯罪者を主人公にした時、●「ロープ」のジョン・ドール、●「ダイヤルMを廻せ!」のレイ・ミランドのように知的=初犯になってしまうという出来事を繰り返している。
★常習犯と罪の意識
精神分析によって「起源」を想起し「初犯」へと回帰した●「マーニー」のティッピ・ヘドレンを除き「常習犯」でありながら罪の意識と向き合うという現象は運動論的には基本的にあり得ず、たとえ死に際であっても●「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーのように偽証をして罪をなすりつけようとしたり、また●「第3逃亡者」のまばたき男ジョージ・カーズンのように大笑いしながら犯罪を誇示するのが通常であり「常習犯」が罪の意識と向きあった場合それは多くの場合「常習犯」ではなく「初犯」と重複している。「初犯」と「常習犯」の罪の意識表の「常習犯」の赤色で書かれた人物がそれであり、●「海外特派員」のハーバート・マーシャルはドイツのスパイとしておそらく「常習犯」であるはずが彼はみずからがスパイとなった動機をドイツ人としての「起源」に求めており (同じ敵方のスパイでも●「汚名」のクロード・レインズ●「北北西に進路を取れ」のジェイムズ・メイスンは民族的「起源」については何一つ言及していない)、飛行機の中で娘のラレイン・デイに恥を忍んで罪の告白をして最後は海の中へ身を投げてみずから命を絶っている。この「犯罪者がみずから命を絶つ」という現象は●「殺人!」(1930)のエスメ・パーシー(空中ブランコの台から首つり自殺)●「巌窟の野獣」のチャールズ・ロートン(船のマストから投身自殺)●「サボタージュの小鳥屋(爆弾で自爆)●「白い恐怖」レオ・G・キャロル(拳銃自殺)しかなく、この中で●「殺人!」のエスメ・パーシー●「巌窟の野獣」のチャールズ・ロートン●「サボタージュ」の小鳥屋●「白い恐怖」のレオ・G・キャロルはみな罪の意識による自殺ではなく精神疾患か追い詰められての自暴自棄によるものであり、明確に罪の意識を示した後に自殺した常習犯はヒッチコック作品の中では●「海外特派員」のハーバート・マーシャルただ一人しか存在しない。確かにハーバート・マーシャルの自殺は重量オーバーによる沈没から娘を守りたいという愛情からくる面も多分にあるものの結局のところ彼は実質的には「常習犯」としてのスキルに到達していない「初犯」と目すべき犯罪者と見るべきであり、妻の毒殺や恋人の処分について毛ほどの罪悪感も示そうとはしない●「汚名」のクロード・レインズ、●「北北西に進路を取れ」のジェイムズ・メイスン等と比べるとハーバート・マーシャルのスパイはメロドラマには成り得ても犯罪者としては知的に過ぎて魅力的に劣っている。すぐにカッとなる性格で2度の殺人を犯している●「舞台恐怖症」のリチャード・トッドは「常習犯」のようでありながら、みずから『病気に見せるにはもう一人理由もなく殺す必要がある、』とジェーン・ワイマンに迫ったように「常習犯」になるための要件を知り尽くした実に知的な犯罪者であって、だからこそ彼はワイマンに嘘をついたことを額に汗をしたしかめっ面で詫びるという「初犯」としての罪の意識を露呈させてしまうのであり、それは●「巌窟の野獣」のレスリー・バンクスにしても同じように、形式的には「常習犯」であるはずの者が罪の意識から悔悛する時、それは映画の弱さとなって露呈することになる。
→「現金に体を張れ」(1956)~キューブリック
競馬場の売上金を強奪する計画を立て実行するこの作品において犯行に及んだ5人の男たちは、ケチな犯罪で5年刑務所に入った男(スターリング・ヘイドン)、帳簿係(ジェイ・C・フリッペン)、警官(テッド・デ・コルシア)、競馬場のバーテン(ジョー・ソーヤー)、同じく競馬場の窓口係(イライシャ・クック・ジュニア)と、主犯格のスターリング・ヘイドン以外は定職に就いていることから強盗については初犯であり、ヘイドンにしてもケチな犯罪で5年刑務所に入っていたと語るように現金強奪という大きな犯罪は初めてであると推測される。だからこそ主犯格のスターリング・ヘイドンには大きなヤマを踏みたいからという犯罪の動機が示され、警官のテッド・デ・コルシアは借金苦から、バーテンのジョー・ソーヤーは妻(ドロシー・アダムス)が病気で金が要るから、窓口係のイライシャ・クック・ジュニアは妻のマリー・ウィンザー(●「その女を殺せ」のマリー・ウィンザーである)の愛を繋ぎ止めたいからという動機=犯罪者としての「起源」が撮られ、その犯罪方法にしても競馬場のバーテンがロッカーにライフルを隠し置く→バーで喧嘩を偽装して警備員をおびき出して窓口係がドアを開けて主犯格をロッカーに侵入させ現金強奪→パトカーで待ち受けている警官に金の入った袋を窓から投げ落とす→馬を狙撃して混乱に乗じて逃げ出す→金をホテルの部屋に届ける、、という非常に手の込んだ知的な経路がとられており、主犯格のヘイドンが最後は空港の荷物チェックに引っかかるという非常に稚拙な失敗を演じているのはこの犯罪集団が「初犯」の集団であることと関係している。それにも拘わらず彼らの中にはイライシャ・クック・ジュニアが犯行を躊躇するくらいで罪の意識に苛まれる者が一人もいないというのは運動論としてはバランスを欠いている。
★「暗殺者の家」(1934)と「知りすぎていた男」(1956)
オリジナルの前者とリメイクの後者とでは様々な設定の変更がなされているが、暗殺者のボスについて●「暗殺者の家」のピーター・ローレに対して●「知りすぎていた男」のバーナード・マイルズの魅力が余りにも乏しいのは、前者が極めつけの「常習犯」であるのに対して後者は知的な「初犯」的性質を有しているからであり、そもそも誘拐という犯罪は身代金の受け渡し交渉から人質との交換等を含めて非常に知的な犯罪であり、そこへ加えて「シンバルの音で銃声を消して暗殺をする」という方法自体もまた大いに知的で回りくどいゲーム感覚であることからするならば、その知的さは●「三十九夜」●「めまい」のようにマクガフィンとして放逐するかあるいはピーター・ローレのようなウルトラ「常習犯」によって填補させるべきところが(その場合でも「常習犯」が知的犯罪を実行するという矛盾は解消できない)●「知りすぎていた男」のバーナード・マイルズは一見「常習犯」のようでありながら暗殺の失敗を大使館の大使に叱責されて怯えているばかりか最後は素人のジェームズ・スチュワートに階段で突き落されその拍子に持っていた銃が暴発して息絶えるという「初犯」的=知的で回りくどい最期をさらしており、またその妻であるブレンダ・デ・バンジーにしても子供を殺すことができず罪の意識から「改心」して泣いてしまうという「初犯」的メロドラマを演じ、さらにまた暗殺に失敗した挙句に逃げようとして転落死した狙撃手のラルフ・トルーマンが大使に『あいつはプロとはいえん』とバッサリ切り捨てられたように、「常習犯」のボスを擁する●「暗殺者の家」に対して●「知りすぎていた男」の暗殺者は余りにも善良な「初犯」集団であり不気味さゆえに記憶されるヒッチコック的悪役の記憶からは消されている。
★スキル運動における「常習犯」の犯罪者
こうしてヒッチコック映画における「常習犯」を見てみると彼らはすべて「悪役」であり、それもすべてが巻き込まれ運動の悪役に限られている。それに対してスキル運動の場合●「泥棒成金」の泥棒ブリジット・オベールは映画の中で何度も盗みを働いているらしい常習犯だが「盗む」という運動は一度も撮られておらずそれどころかミステリー映画の体裁上彼女の犯罪はまったく撮られていないので巻き込まれ運動における「常習犯」の悪役たちの醸し出す得体の知れない恐怖には到底及んでいない。このような、常習犯であるが「常習犯」ではないという現象は●「引き裂かれたカーテン」の殺し屋ヴォルフガング・キーリングにも当てはまり彼は敵スパイの常習犯であるはずが数学の記号を読解してポール・ニューマンをスパイだと知的に見破るようなインテリでありポール・ニューマンと格闘して殺される時にもオープンの中に頭を入れられガス栓をひねられて中毒死させられるという実に回りくどい方法で殺されるのであり、この作品は数学の公式というマクガフィンの中身を追求してしまう知的な主体性があらゆる細部に波及していて、それは同じくスキル運動のスパイ映画●「トパーズ」でも同様であり、ヒッチコックはスキル運動を撮る時あらゆる細部が主体的に波及するという現象は主人公のみならず悪役についても常習犯でありながら「常習犯」ではないという現象となって跳ね返ってくる。これらの作品のその他の悪役たちに関しても同じことであり詳細は割愛する。巻き込まれ運動は基本的に悪役による得体の知れない「常習犯」的犯罪行為によってよってスキルを喪失した動物的主人公が巻き込まれてゆく運動であり、ヒッチコックはそうした悪役に限って魅力的な「常習犯」を撮ることができている。
★「常習犯」の主人公の不在
ここでヒッチコックがスキル運動を撮った作品についての以下①~④を書き出してみる(ヒッチコックスキル型主人公表)。(作品は「任務=運動」の確定し始めた●「殺人!」(1930)以降に限定する。また実際には「職業)と運動の異なる●「殺人!」と●「舞台恐怖症」もスキルの豊富さや役者が役を演じる点について「職業的運動」と見ることができるのでここに入れる)。
① 任務(実際になされている運動)
② 職業
③ 起源 (なぜこの職業についたかの動機)
④ 任務に関する罪の意識
■初犯
ヒッチコックが「であること」へと向けられたスキル型主人公を映画に撮る時、非常に多くの場合に③と④に「あり」がつくことになる。それはヒッチコック的スキル型主人公の大部分が「初犯」であることを意味しており第一章において検討したヒッチコック的スキル人間における主体性とはまさにこの「初犯」性と同義であり、ヒッチコックは大部分のスキル運動において「常習犯」の主人公を撮ることができていないことを示唆している。●「間諜最後の日」で主人公のスパイを演じるジョン・ギールグッドは空軍大尉からスパイになったばかりで相棒のマデリーン・キャロルにしてもおそらく最初の任務=初犯であり、だからこそ彼らは任務遂行中に間違って関係のない人間(パーシー・マーモント)を殺してしまったことに最後まで強い罪の意識を持ち続けているし●「パラダイン夫人の恋」の弁護士グレゴリー・ペックは熟練した弁護士であるはずがみずからの弁護活動によって証人のルイ・ジュールダンを自殺に追いやったことに罪の意識を感じて額に汗をし、しかめっ面で職務の執行をみずから放棄している。●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマンは役者が役を演じることで主人のデートリッヒを騙して真相を暴露させたあとしかめっ面で泣き崩れており、それはまさに彼女自身が『私は新人で舞台は一度だけ』と語るような「初犯」だからであり●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフトの「守秘義務を守る」という任務も殺人の嫌疑をかけられてまで守り抜くのはおそらく初めてであるであり彼は終始「初犯」特有の「しかめっ面」をし続けており●「トパーズ」のフレデリック・スタフォードは情報収集にしても敵の偵察にしても他人に任せっきりで何もしておらず、任務をひたすら禁欲的に遂行する「常習犯」になるどころか任務の遂行によって愛人を死に至らせたことに罪の意識を感じていて●「引き裂かれたカーテン」のポール・ニューマンもまた恋人に内緒で東側へ潜入したみずからの行為に罪の意識を感じ耐えきれずにジュリー・アンドリュースに真相を告白している。罪の意識を有する彼らは「であること」に接近する「初犯」的道徳人であり、だからこそ彼らの中には「であること」から離れた「すること」の領域にしか出現し得ない「軽薄な女たらし」は一人も存在せずそこには多くの場合ジョン・ギールグッド、グレゴリー・ペック、ショーン・コネリー、ポール・ニューマン、モンゴメリー・クリフト、フレデリック・スタフォードといった主体的で真面目な俳優が主役に座ることになる。数々の繊細な細部によって運動の主体性を削ぎ落している●「汚名」ですら主人公(協力者でもある)のケーリー・グラントは『昔から女が怖かった』というように堅物の仕事人間として登場しており同じケーリー・グラントでも●「北北西に進路を取れ」の女たらしで軽薄でスキルの乏しいケーリー・グラントとはまったく違った硬質の人物として撮られている(●「汚名」についてはジョン・フォードを検討した後さらに検討する)。
→「泥棒成金」(1955)
この作品の主人公のケーリー・グラントは元泥棒であり、自分の模倣犯を捕まえる過程で罪の意識の微塵も感じない彼は「であること」へと向けられた他のスキル運動の真面目で心理的な主人公とは異質の存在としてある。だが彼には『アメリカのサーカスで曲芸をやっていたが潰れたので才能を生かして泥棒になり、その後逮捕され服役するが刑務所を爆撃されて脱獄し、罪滅ぼしに地下組織に加わり英雄になった』という「起源」がしっかり記憶されているばかりか既に検討したように彼の運動は極めて知的な理性によって支配されおり「常習犯」特有の内から何物かに突き上げられるような無意味の異様さは彼の運動には露呈しておらず彼をしてヒッチコック的スキル運動における「常習犯」の主人公とすることはできない。
→主役が悪役に~ローレンス・オリヴィエとケーリー・グラント
●「汚名」のケーリー・グラントとバーグマン以外にもヒッチコックは●「レベッカ」と●「断崖」の2本において、貴族のローレンス・オリヴィエ、遊び人ケーリー・グラントといった「常習犯」がもう一人の主役であるジョーン・フォンテインを翻弄していく巻き込み運動を撮っている。基本的にヒッチコック的巻き込まれ映画とは●「救命艇」のドイツ人船長とアメリカ人乗組員たちのように「悪役」の「常習犯」がスキルを喪失した動物的主人公を翻弄しながら進められていく運動であり、主人公のフォンテインを翻弄し続けるローレンス・オリヴィエ、ケーリー・グラントといった人物たちは運動論としては巻き込まれ映画における「悪役」たちと同等の働きをしている。ただ●「レベッカ」のローレンス・オリヴィエが映画終盤においてみずからの妻殺しという「起源」と向き合わされて「初犯」へと回帰した時点でフォンテインを翻弄する「常習犯」としての性質は失われていくのに対して●「断崖」のケーリー・グラントは最後まで遊び人としての掴み所のない「常習性」を発揮し続けてフォンテインを翻弄し続けており●「断崖」はヒッチコック的巻き込まれ運動の中で唯一ケーリー・グラントという主役が「悪役の常習犯」としての機能を果たした作品といえる。
→ピーター・ローレ~汚れ役
ヒッチコック的スキル運動で悪役の常習犯は存在しても「常習犯」としては非常に弱いことを検討したが、悪役以外の「常習犯」の嚆矢は●「間諜最後の日」で準主役のスパイを演じたピーター・ローレである。毛が多くてメキシコ人ではないので「毛なしのメキシコ人」と呼ばれている彼の人物像は極めて曖昧模糊としていてその「起源」はまったくの闇の中、軽薄な女たらしでありながら任務に善悪の価値判断を決して持ち込まない冷静無比な彼の運動は、間違って関係のない人間パーシー・マーモントを山におびき出して殺してしまった時も主役のジョン・ギールグッドとマデリーン・キャロルが「初犯」特有の罪の意識に苛まれてその運動に支障をきたしているのに対してピーター・ローレは何ら罪の意識を微塵も感じることなく薄ら笑いすら浮かべながら最後まで病的に任務を遂行しており、映画全般にわたって存在感を撒き散らしながら行動し続けている彼はもはや「協力者」を超えて準主役というべきポジションに君臨しており既に●「暗殺者の家」においてヒッチコック映画における「常習犯」的悪役像を確立させているピーター・ローレはここでもまた「常習犯」的主人公(準)を演じることでヒッチコック的「常習犯」を開拓している。みずから『私は第一級のプロだ』と自負し『彼ら(ジョン・ギールグッドとマデリーン・キャロル)は素人だ。いくらでも代わりはいる』と言って憚らないピーター・ローレは山での殺人においてもマデリーン・キャロルは同行せず、ジョン・ギールグッドも展望台へ逃げてしまって殺人には加担していないのに対してピーター・ローレは何の躊躇も葛藤もなく殺人を実行に移している。ラストシーンの愛くるしいジョン・ギールグッドとマデリーン・キャロルの2ショットが指し示すようにヒッチコックが「であること」へと向けられた主人公を撮るとき決まって道徳に忠実な真面目人間を撮ってしまうことからピーター・ローレは彼らの手を汚さないように「汚れ役」として存在しているのであり、だからこそピーター・ローレは役割を終えると敵スパイの目の前に置いた拳銃でアッサリ殺されて消えてゆく。ヒッチコックはピーター・ローレが主役ではないからこそ「常習犯」として撮ることができたのであり、だがそうではない限りヒッチコックが「であること」へと向けられた主人公を撮る時、善悪の領域に存在する知的で改心可能な好人物を撮ってしまう。「初犯」とは「起源」を有する主体的な人物であり、道徳について自覚的で、善悪を知り、善悪によって人を信じたり信じなかったりし、罪の意識との葛藤に苛まれて改心したり生まれ変わったりすることのできる好人物にほかならず、どうもヒッチコックには「であること」へと向けられた運動における主人公は道徳的な好人物で無ければない、という不文律のようなものがあったように見えてならず巻き込まれ運動においては魅力的な悪役の「常習犯」を撮れてしまいながらスキル運動となると主人公であれ悪役であれ途端に「常習犯」が撮れなくなってしまう。
★「常習犯」と粗暴犯
「初犯」の運動が知的で回りくどい知能犯であり罪の意識と隣り合わせの好人物なら罪の意識を有していない「常習犯」の運動はそれが犯罪であれ探偵であれ「初犯」の理知的な運動に比べて単純明快かつ残虐な粗暴犯となる。●「疑惑の影」のジョセフ・コットンはテレサ・ライトを汽車から突き落そうとし、●「汚名」の毒入りコーヒー●「見知らぬ乗客」の遊園地での絞殺とメリーゴーランドでの挌闘●「裏窓」のレイモンド・バーはジェームズ・スチュワートを二階の窓から突き落とし●「北北西に進路を取れ」の敵スパイたちは農道のケーリー・グラントを飛行機から射撃し、またラシュモア山ではケーリー・グラントを突き落そうとし●「サイコ」では包丁を逆手に握って女を突き刺し●「鳥」はひたすら鳥が襲いかかり●「フレンジー」では強姦してネクタイで絞め殺す。マイケル・マンなら●「刑事グラハム/凍りついた欲望」における猟奇殺人●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」における銃による殺人●「ヒート」●「パブリック・エネミーズの強盗や銃撃戦●「コラテラル」の殺人等、ハワード・ホークスなら●「リオ・ブラボー」のジョン・ウェインにしても●「三つ数えろ」のボギーにしても何の躊躇も罪の意識もなく敵を撃ち殺したり死に至らしめたりしている。彼らの運動は「起源」を喪失しているがゆえに理性、善悪から自由で単純明快で後悔も逡巡もすることのない残虐なものとなる。裏を返せば「常習犯」の運動が知性に満たされる時それは運動論的矛盾となる。
■メロドラマ
仮にメロドラマを加藤幹郎の書いているように『勝つか負けるかの善悪の素朴な二元論的扱いであり、それゆえ二極化されたモラルをめぐる省察である』(「映画ジャンル論189」)と定義するならば「常習犯」に善悪は存在しないのだから、メロドラマとは善悪の領域を生きている「初犯」を撮った映画ということになる。成瀬巳喜男なら戦時期に多く見られた傾向が「初犯」の映画=メロドラマであり、そこでは善悪の観点から改心したり更生したり罪の意識で生まれ変わったりするような人格変動を生じる人物が頻繁に見られている。人物が「初犯」に接近するということは運動が心理的になり善悪に接近することであり、まったき「であること」の領域で運動がなされることを意味している。ただ大部分の批評は「すること」を「見ること」ができず「ありもしないであること」を「読むこと」をするがために善悪が「あと」からやってくる「常習犯」の運動を善悪が「先」にやってくる「初犯」のメロドラマと同じようにして読んでしまう傾向を有している。
→「メイド・イン・L.A.」(1989)から「ヒート」(1995)へ
マイケル・マンのTV映画●「メイド・イン・L.A.」では終盤、ギャングの素性を知られたアレックス・マッカーサーが恋人のローラ・ハリントンに『俺は君と会って変わった』と語るシーンがある。何の変哲もないセリフだが『人間が変わる』というのは基本的に「初犯」において可能な出来事であり「常習犯」の映画を撮るマイケル・マン的運動からするとこの部分は致命的な欠点となりうるところ、マイケル・マンはこの作品をセルフリメイクした●「ヒート」では同じ役を演じているロバート・デニーロのセリフからこの『俺は君と会って変わった』という部分を削除している(あの「車線変更」のデニーロを見るならば『俺は君と会っても全然変わらなかった』というのが真理である)。●「メイド・イン・L.A.」においてはもうひとつ、刑事がなぜ刑事になったかの「起源」についての言及があり、それがリメイクの●「ヒート」において削除されていることも検討したが、マイケル・マンはテレビ映画の●「メイド・イン・L.A.」の「常習性」を「劇場版」の●「ヒート」によってより強めて撮り直している。
★「動物」の犯罪とは
ヒッチコック的巻き込まれ運動における主人公たちは「常習犯」における「ありもしないであること」すら存在しない「すること」オンリーの「動物」であることから、その犯罪についてはスキルを喪失した動物的で幼稚なものになるはずである。●「暗殺者の家」(1934)以降に限定すると、侵入罪、逃亡罪等軽微な犯罪を除いてそもそも何らの犯罪も犯さないか(●「三十九夜」●「第3逃亡者」●「レベッカ」●「海外特派員」●「断崖」●「逃走迷路」●「裏窓」●「めまい」)、多くの場合犯罪は不可抗力ないし反射的な行動としてあり、結果として人を殺したとしても、広告会社の宣伝部長が格闘の末敵スパイをラシュモア山から突き落した●「北北西に進路を取れ」、ナイフを持った妻に夫が近づいて刺されて死んだ●「サボタージュ」、娘を殺そうとしてもみ合う過程で叔父がバランスを崩して転落死する●「疑惑の影」、テニスプレイヤーと犯人が格闘しているメリーゴーランドを係員が急停止させて犯人が転げ落ちて死ぬ●「見知らぬ乗客」など、そもそも犯罪にならないような演出がなされているのであり、それらは咄嗟の反応でなされた動物的な反射的動作か正当防衛に過ぎず(防衛本能は動物も持っている)、そこには「初犯」特有の知的さもなければ「常習犯」特有のスキルフルな暴力(銃撃など)も粗暴犯的得体の知れない残虐さもない。そうしたことからすると、ライフルの大会に出場する熟練者がライフルで敵の殺し屋を撃ち殺した●「暗殺者の家」のエドナ・ベスト、銃で敵の兵隊を撃ち殺した●「バルカン超特急」の乗客たち(その中には銃の熟練者ノートン・ウェインもいる)、救命艇の乗員たちがみんなでドイツ人船長を海へ突き落して殺した●「救命艇」、息子を守るために父親が誘拐犯を階段で突き落し銃が暴発して死に至らしめた●「知りすぎていた男」、、運動の反射性がいささか弱くそれが作品の主体性となって現れてくる。
★「すること」と罪の意識~「救命艇」(1943)
仮想であっても「であること」の存在する「常習犯」とは異なりヒッチコック的巻き込まれ映画の主人公たちはそもそも「すること」しかしない「動物」なのだから、「動物」に善悪という「おおやけ」の意識のあるはずはなく、従って罪の意識に悩まされたり改心したり生まれ変わったりすることはない。彼らが人の死という出来事に何らの罪の意識も示さないのは彼らが被害者だからではなく端的にシステムが罪の意識を呼び寄せないからに過ぎない。
★初期作品と罪の意識
●「ゆすり」のアニー・オンドラは自分をレイプしようとした画家を殺してしまった犯罪者であり、犯罪者が犯罪を犯す「職業」的運動の「初犯」として罪の意識を有していることを検討したが、新聞屋の娘に過ぎない彼女のスキルも何も有しない殺人行為は咄嗟になされた正当防衛という「巻き込まれ」運動であって「犯罪者が犯罪を犯す」という「であること」へと向けられたスキル運動ではなく、その後それをネタに男にゆすられただひたすらおろおろするばかりの彼女の運動はスキルにもとづく「職業」的運動ではなく巻き込まれ型としての「すること」運動としてあり、だからこそそんな彼女が罪の意識に苛まれる出来事は映画の弱さとなる。●「ゆすり」のアニー・オンドラは心理的に顔をこわばらせ終盤には彼女の首に絞首台の影がかぶせられその後自らの意志で自首をするという極めて道徳的なショットが挿入されているが初期ヒッチコック作品には●「ふしだらな女」(1927)●「リング」(1927)●「マンクスマン」(1928)●「スキンゲーム」(1931)と立て続けに不倫、姦通、離婚、スキャンダル、といったテーマが前面に押し出され、スキル運動をするところの主人公たちが決まって罪の意識と向き合わされる「初犯」として撮られるという事態が生じている。そこに風穴をあけ放ったのが●「暗殺者の家」(1934)→●「三十九夜」(1935)と続く巻き込まれ運動でありヒッチコックはスキル喪失型巻き込まれ運動を得て初めて道徳という「であること」の領域から自由になるのである。
★マイケル・マンと「駅馬車」との違い
マイケル・マン的主人公と●「駅馬車」の主人公とは「ありもしないであること」を志向しその運動が内部から突き上げられるように衝動的に始動する「常習犯」であることにおいて共通しているものの「起源」からの距離において微妙に異なっている。時代と時代の「あいだ」を生きている●「駅馬車」の主人公たちはおぼろげながらフロンティア全盛時代=「起源」を記憶していることから失われた「起源」を手に入れようとする運動に「すること」との葛藤が生じ時として運動を停滞させていくことになるのに対して「起源」を無意識下に喪失しているマイケル・マン的主人公の運動は葛藤から解放されて自己目的化を極めしなやかさを増し反復化を強めてゆく。何度もリングに上って戦う●「ALI アリ」、殺し屋が何人ものターゲットを殺し続けてゆく●「コラテラル」のようにマイケル・マンの主人公がひたすら同じ運動を反復し続けているのに対して●「駅馬車」の主人公たちはトーマス・ミッチェルの「医者をすること」の運動が一度きりであったように必ずしも反復化を極めていないのは、両者の「常習性」における差異を現している。主人公の性質についても時として「起源」の記憶に苛まれる●「駅馬車」の主人公が何かしらひ弱で人間的なキャラクターになるのに対して「起源」との葛藤とは遥か昔にけりをつけてしまっているマイケル・マン的禁欲人間はクールで物怖じしない仕事師になる。マイケル・マン的主人公が「前科10犯」だとすると●「駅馬車」的主人公は「前科4犯」くらいの新米「常習犯」といった人々であり、前者の運動が自己目的的に自動起動するのに対して後者は走り出す時に時としてマクガフィンで尻を叩かなければならず●「駅馬車」の起動面において多くのマクガフィンが配置されているのは彼らの運動が未だ「前科10犯」的自己目的化を遂げていないことを指し示している。マイケル・マンの映画の主人公において「前科10犯」まで到達せず葛藤によって任務に支障をきたしている人物は①●「ザ・キープ」の国防軍大尉ユルゲン・プロフノウ、②●「刑事グラハム/凍りついた欲望」のFBIで心理学者のウィリアム・ピーターセン③●「メイド・イン・L.A.」の刑事スコット・プランク、④●「インサイダー」の内部告発者で物理学者のラッセル・クロウくらいで①のユルゲン・プロフノウについてはドイツの戦争を「悪」と評価し部隊が怪物に襲われ壊滅状態になったことから任務の移動要請を出すという「任務からのかい離」傾向が撮られ②のウィリアム・ピーターセンはレクター博士逮捕の壮絶な体験から精神疾患を患うという「起源」が語られ一度FBIを退職し再び復帰するという「任務からのかい離」傾向が撮られているばかりか家族に危険が及ぶことで職務への葛藤に苛まれており③のスコット・プランクについても既に検討したように刑事になったことの「起源」が語られながら家庭との葛藤が撮られ④のラッセル・クロウもまた家庭との関係の悪化から告発すべきか否かかの狭間で葛藤や罪の意識に悩み続けているというように「起源」「善悪」「罪の意識」「葛藤」「任務からのかい離」が撮られている作品もあるものの①は主役でなく③もまたリメイクの●「ヒート」で修正されており②④にしても「初犯」の知的さからは遠い「前科4犯」的な「常習犯」として撮られている(ここでは省略するが「前科4犯」的「常習犯」か否かは運動が「巻き込まれるように」起動しているか、そのためのマクガフィンはどうか、等を検討すること)。
■ヒーロー~「古い者」 ジョン・フォード
●「駅馬車」がフロンティアの終わりという時代と時代の「あいだ」を撮っているのに対して多くを現代劇に依っているマイケル・マンの主人公には「古い者」は存在しないようにも見える。だがマイケル・マンが時折思い出したように撮る時代劇には●「ラスト・オブ・モヒカン」のように最後のモヒカン族を撮った作品もあり●「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップもまた派手に銀行強盗をやらかしては『客の金は取らない』と豪語する古い掟に従う「古い者」であり今や電話一本で金を動かす新しいマフィアにとって彼の存在は邪魔になり、実際彼はマフィアのシンジケートから締め出されている。同じく銀行強盗の常習犯を撮った現代劇の●「ヒート」にしてもまるで禁酒法時代のギャングのように白昼堂々街中でマシンガンをぶっ放して銃撃戦をし、逃げられるにもかかわらず裏切者を処分するために引き返して果ててゆく彼らの運動は、強盗でありながら損得勘定では動かない、という、驚くべき禁欲性に支配されているのであり、『約束は守る』と豪語し続けながら最後は辞職という形で去ってゆくことになる●「インサイダー」のアル・パチーノにしても、多く者たちに利用されながらもひたすら闘い続ける●「ALI アリ」にしても「ありもしないであること」をひたすら忠実に実行し続ける者たちには去り行く運命にある「古い者」の醸し出す気品が漂っている。●「ブレードランナー」(1982)のレプリカントたちがあれだけ残虐な殺人を繰り返しておきながら彼らの運動にある種のエモーションが漂うのは彼らの運動が過去の記憶=人間の「起源」という「ありもしないであること」へとめがけられているからにほかならず、気品とはこの「ありもしないであること」へと向けられた禁欲的な運動によって醸し出されるエモーションであり、貴種であり、ヒーローである。●「インサイダー」で終盤、ホテルのラッセル・クロウと海岸のアル・パチーノとの電話の会話で『英雄は品薄だ』というアル・パチーノに対してラッセル・クロウが『あんたもだ』と応えたのは「ありもしないであること」を禁欲的に求め続ける者たちだけがヒーローであることを指示している。●「コラテラル」で殺し屋を演じたトム・クルーズを「人を殺し続ける男」から「契約を守り続ける男」に読み替えてみると、何かしらそこにはある種の哀愁が漂い始めるのであり、彼は愚鈍なまでに契約を守り続けるバカな奴=「古い者」であり、マイケル・マンはそんな彼を貴種として撮っているふしがある。「古い者」とは「ありもしないであること」をひたすら志向して運動をづけてゆく者たちをいうのだとするならば、それは基本的には身分を喪失した再帰的な近代人にのみなしうる運動のようにも見えるが、仮に前近代の身分社会であったとしても主人公に「ありもしないであること」へと向けられた運動を志向させればそれが「ありもしない」がゆえにそれを駆り立てられるように求めていく者をフィルムに焼き付けることで時代とは関係なく「古い者」のエモーションを撮ることは可能であり、従って「常習犯」を撮り続けているマイケル・マンはデビューから現在に至るまで一本の例外もなく「古い者」の映画を撮り続けていることになる。その場合でもマイケル・マン的「常習犯」は●「駅馬車」的主人公に比して「起源」の喪失度が強いことから「ありもしないであること」が余りにも「ありもしない」がゆえの純粋な運動系=「すること」的エモーションに支配されていることから「起源」と「すること」との葛藤による「古い者」のエモーションを直接画面に醸し出すことはない。ただ●「ラスト・オブ・モヒカン」、●「パブリック・エネミーズ」については時代と時代の「あいだ」を撮った作品(時代劇)であり「あいだ」とは前時代の「起源」の記憶を色濃く残している時間であることから、この二本の作品はマイケル・マンの他の作品と比べて「常習性」を弱めて撮られていることになる。
★「ラスト・オブ・モヒカン」(1992)~ジョディ・メイの幼い顔
モヒカン族の男に育てられた白人のダニエル・デイ=ルイス(白い息子)が1757年、イギリスとフランスがアメリカで戦ったフレンチ・インディアン戦争を背景にイギリス指揮官の娘マデリーン・ストーを道々守りながら敵対するインディアンと対決する瞬間が撮られているこのマイケル・マンの作品は、ラストシーンでモヒカン族のたった一人の生き残りとなったラッセル・ミーンズが『いずれすべてのインディアンは滅びるだろう。白い息子よ、開拓地はお前たちのような人間のものだ。だが開拓が終わるとお前たちもモヒカン族と同じ運命をたどるだろう。新しい人々が住み、働き、苦しみ、一部の者だけが成功をつかむ。だが我々は一度、確かに存在した。』と言って終わる「古い者」の映画である(この映画には別バージョンの「劣化した」ラストシーンもある)。だがこの作品は最後のモヒカン族だけを撮ったフィルムではない。この作品でイギリス指揮官モーリス・ローブス・マンロー(灰色の髪)の次女であるジョディ・メイをよく見てみると、その顔は非常にあどけなく幼い。1975年イギリス生まれの彼女は映画撮影当時17歳、姉役のマデリーン・ストーが1958年生まれの34歳であることからするとダブルスコアの若さであり、姉妹の役柄としては若すぎると言ってもいい年頃である。そんな彼女は泣き言の一つも言わずに一行につきそい、最後はヒューロン族のウェス・ステューディに連れ去られ妻になることを迫られて断崖へと追い詰められみずから谷底へと身を投げている。●「ヒート」のロバート・デニーロが裏切り者を処分するために車の車線変更をする運動と同じようにジョディ・メイはまるで内からの何物かに突き上げられるような衝動で断崖から身を投げている。しかめっ面も涙も吹き出る汗もないその運動はややスローモーションが鼻につくものの黒人に追い詰められて崖の上から躊躇することなく身を投げたD・W・グリフィス●「國民の創生」(1915)のメエ・マヘーシュの運動と呼応している。そこにあるのは決意でも葛藤でも逡巡でもない。彼女たちは失われた何かに駆り立てられるように落下という運動を起動させている。●「ラスト・オブ・モヒカン」には中盤非常におかしな出来事がある。イギリス軍指揮官である父親の立て籠る砦にたどり着いたあと体調不良でベッドに横になっているジョディ・メイの部屋にイギリスの兵士ティーヴン・ウォディントンが入って来て、妹を看病していたマデリーン・ストーに『君と話をしたい』と切り出してくる。彼はマデリーン・ストーに『話をしたい』と言っただけで「2人きりで話をしたい」とは言っていない。しかしそれを聞いていたジョディ・メイはなんのためらいもなくベッドから起き上がり『私、外します』と、後ろから呼び止める姉の言葉など聞かなかったかのようにそのまま部屋を出て行ってしまう。一見何の変哲もないようでありながら、なんの葛藤もためらいも停滞もないこの内から突き上げられるような退出運動はそれだけで退出した人間そのものの気品を漂わせている。この映画は最後のモヒカン族だけを撮ったのではない。最後のレディを撮っている。他者たちのプライベートな空間から本能的に身を引くしなやかなレディの「常習犯」的運動は年齢の加算によって可能になることではない。だからこそジョディ・メイの顔はあどけなく、かつ突然体調を壊してベッドに横たえている。彼女が幼ければ幼いほど、あどけなければないほど、体調が不良であればあるほど、中から突き上げられるように稼働するそのしなやかな退出運動は天性からのサガに満ち溢れた気品へと満たされてゆく。このシークエンスは多分にジョディ・メイのこの運動を撮りたいがために撮られており、細部というものがいかに映画の運動へと直結するか、ジョディ・メイの幼い顔は教えてくれている。●「國民の創生」で谷底へ身を投げたメエ・マヘーシュはキャメロン家という由緒正しき家に生まれた5人の兄弟姉妹の末っ子であり、兄や姉たちからペットのように可愛がられていたという事実は●「ラスト・オブ・モヒカン」のジョディ・メイが年の離れた妹であり、かつ幼い顔をしているという事実と間違っても無関係ではない。あどけなさ、妹、という出来事は身に染みついた運動を起動させるためのマクガフィンとしてあり、ジョディ・メイの運動は●「國民の創生」から受け継がれた「常習犯」の映画史として受け継がれている(D・W・グリフィスについては後述)。さらにまた●「ラスト・オブ・モヒカン」にはイギリス兵士のスティーヴン・ウォディントンが最後は紳士としてみずからの命を投げ出してマデリーン・ストーを助けるシーンが撮られており、彼の最期をダニエル・デイ=ルイスとマデリーン・ストーが去ってゆく道々に何度も振り向いてその瞳に焼き付けているが、そのショットの数が16にも及ぶとき、マイケル・マンの脳裏にはひょっとすると●「駅馬車」のジョン・ウェインがジョン・キャラダインの最期を目撃したあの「8秒ショット」があったかも知れない。マデリーン・ストーに求婚を断られことあるごとに恋敵のダニエル・デイ=ルイスを陥れようとするスティーヴン・ウォディントンの行動は物語的には「悪」でありながら紳士を「すること」におけるその「常習犯」的運動は善でも悪でもなくひたすら肯定され看取られているのである。
★「退出の映画史」ハワード・ホークスからイーストウッドへ~
しなやかな退出運動の「起源」のひとつにハワード・ホークス●「港々に女あり」(1928)がある。立ち寄る港ごとに女を置いて遊びほうける荒くれ者の船乗りヴィクター・マクラグレンとロバート・モンゴメリーが寄港した港の女に会いに行ったところ、狭苦しいアパートには小さな子供が一人で遊んでいて、父親は飲んだくれて帰って来ないらしく、しばらくして疲れ果てた様子で帰宅してきた女に子供が『お仕事見つかった?』と尋ねるや男たちは『我々はここにいるべきではなかった』と速やかに退出の意思を表示して彼女と握手をしてお辞儀をし、女が奥へ消えた隙に子供に有り金をすべて託しながら、その女がもはや昔の遊び友達とはまったく違うプライベートな空間の住人であることへの敬意を「速やかに退出すること」という身に染みついた運動によって払っている。ホークス●「コンドル」では飛行中窓ガラスを割って飛び込んできたコンドルに首の骨を折られて手の施しようのない状態になりベッドに横たえている飛行機乗りのトーマス・ミッチェルに『見られたくない。出て行かせてくれ』と頼まれたケーリー・グラントが『さぁ、出て行ってくれ。』と見守る仲間たちに退出を促すや否やその言葉を最後まで聞き終わるか終らないかのうちに仲間たちは素早く部屋から出て行ってしまう。ホークス●「ピラミッド」(1955)では序盤、遠征から帰還した王ジャック・ホーキンスの宮殿に王妃のケリマが入って来たとき、相席していた大僧正のアレクシス・ミノティスは即座に退出してしまい、残った二人が気づいた時にはもう部屋の中を出て行ってしまっている。そんな彼をして『消えちまった(「He is gone」)』と驚く王に王妃は『大僧正は王国一の賢い方』と褒め、それを受けて王は『それを今、証明しおった』と感嘆している。ホークスはプライベートな空間から反射的に身を引くしなやかな運動を端的に肯定している。遡ればホークスのサイレント映画の●「ファジル」(1928)において瀕死の重傷を負った王子のチャールズ・ファレルが王妃のグレタ・ニッセンと最後の瞬間を迎える時、退出を促された部下たちはやや躊躇するものの速やかにその場を後にしている。確かに●「特急二十世紀」(1934)のメイド、デイル・フュラーのようにジョン・バリモアに『はずしてくれ』と言われて渋々出て行くといった人物も存在するが、ホークス映画の主人公にこうした光景が見られることはなく、これはホークスがサイレント時代から「常習犯」的主人公の「身に染みついた」運動を撮り続けていることを示唆している。それをラストシーンにおいて見事に具現したのが●「教授と美女」(1941)であり、そこではゲーリー・クーパーとバーバラ・スタンウィックがめでたくキスをするや否やその空間からいなくなってしまう教授たちをフィルムに焼き付けることで映画は終わっている。ホークスもまたマイケル・マン的「常習犯」と同じように内から突き上げるような「身に染みついた」運動を端的に肯定しそこになにかしらのエモーションを見出している。そうしたハワード・ホークス的禁欲的職業人間による運動を継承しているクリント・イーストウッドの●「チェンジリング」(2008)では終盤、誘拐され長らく監禁されたあと警察に保護され取調室で事情を聴かれている少年のもとにその両親が駆け寄って抱擁した瞬間、刑事のマイケル・ケリーは駆り立てられるように席をはずし取調室から出て行っている。この「退出の映画史」の「起源」の一人は映画の父と言われるD・W・グリフィスであり彼は●「國民の創生」におけるメエ・マヘーシュの飛び込み運動のみならず●「嵐の孤児」(1921)においては終盤、フランス革命の志士ダントン(モンテ・ブルー)とリリアン・ギッシュとの抱擁のシーンに立ち会ったギッシュの恋人ジョセフ・シルドクラウトにさっと身を引かせているし、その後リリアン・ギッシュが妹のドロシー・ギッシュと再会して抱き合った瞬間モンテ・ブルーにも直ちに身を引かせ●「曲馬団のサリー」(1925)では終盤、孤児のキャロル・デンプスターが法廷で家族と分かった親族や恋人と抱擁を始めるや育ての親のW・C・フィールズはひとり静かに法廷を後にし●「苦闘」(1931)でも序盤の酒場で主人公のハル・スケリーが恋人のテーブルにやってきた時、彼女の女友達は即座に席をはずしている。遡れば中編●「エルダーブッシュ峡谷の戦い」(1913)のラストシーンで『犬を家の中に入れるな』という禁を破ったメエ・マヘーシュを家主が銃で殴ろうとするところをインディアンに襲撃されたもののめでたく逃れ、ラストシーンで愛犬や赤ん坊と抱擁し合っている彼女の姿を見て家主は「あ~あ、俺の負けだ」という感じで銃を放り投げ『さぁさぁ、』と他の者たちの肩を抱いて退出を促しているようにD・W・グリフィスは「退出の映画史」における「身に染みついた」運動を数多く撮っている。ボリス・バルネット●「帽子箱を持った少女」(1927)のラストシーンでアンナ・ステンとイワン・コワル・サムポルスキーがキスをし始めた瞬間、傍に立っていたイリヤ・スネギリョフが即座に背を向けたように、またジャン・ヴィゴ●「アタラント号」(1934)のラストシーンでは街に取り残されたディタ・パルロを連れ戻して夫ジャン・ダステの船室に送り届けたミシェル・シモンがみずからは船室に入ることなくドアを閉めて夫婦を2人きりにさせたように「退出の映画史」とはアメリカのみならずロシア、フランス等世界の「常習犯」の映画史において欠くことのできない瞬間を刻み続けている。
★「ラヴ・ストリームス」(1983)~ジョン・カサヴェテス~「退出の映画史」の究極系
ジョン・カサヴェテスの●「ラヴ・ストリームス」では主人公で作家のジョン・カサヴェテスがみずからの邸宅に根無し草の女たちを数多く住まわせ共同生活をしている。そんなある日、彼の離婚した妻が息子の手を引いて邸宅にやって来て、これはあなたの子よ、一日だけ預かってと言う。ところが幼い息子は屋敷で女たちに囲まれると恥ずかしいのか逃げ出してしまい、ようやく車で追跡して息子を捕まえたあと(坂道のシーンが素晴らしい)、次のシークエンスで女たちはカサヴェテスから小切手をもらいキスをし快活に笑いながら小走りになんのためらいも不平もなしにタクシーに乗り込んで行ってしまう。ここでのカサヴェテスの言動その他から見て彼女たちはどうやらこのまま家を出て行ってしまうらしい。「らしい」というのは彼女たちの退出運動が余りにもしなやかでよどみがないがためにまさか彼女たちがこのまま家を出てそれっきり帰ってこないようには見えないからなのだが、長らく共同生活をし、名前を呼びあい、住み着いている彼女たちが次の瞬間あっけらかんと家を出て行ってしまう。映画の見せ場の一つである別れのシーンがかくも簡単に撮られてしまっているのは、家を出てゆく彼女たちの退出運動が「常習犯」的衝動によってなされているからにほかならず、そうすることでカサヴェテスは一見自堕落的に暮らしているように見える彼女たちの運動に気品を漂わせている。他者たちのプライベートな空間から即座に身を引くしなやかな運動が身に染みついている女たちを撮ることただそのことのみで彼女たちを肯定している。彼女たちの「ありもしないであること」へと向けられた「職業的起源」がいったい何なのか、「淑女」なのか、「仲間たち」なのか、「根無し草」なのか、、その具体的な抽出それ自体は重要ではない。ホークス、イーストウッド、カサヴェテス、マン、そしてD・W・グリフィスといった監督たちが「退出の映画史」によって見せているのは善悪の彼岸に出現する「常習犯」の運動の領域であり「ありもしないであること」へと向けられた「すること」の運動が「身に染みついている」者たちの醸し出す気品である。「退出の映画史」は探偵、ガンマン、ハンター良等の具体的な職業へと向けられた運動をより「身に染みついた」人間性そのものから湧き出てくる衝動まで引き直した運動であり、あらゆるジョン・フォード作品に見出されるような、プライベートな空間で帽子を撮ったりテーブルで男たちが女性に会わせて立ち上がったり、あるいは●「荒野の女たち」(1965)で女医のアン・バンクロフトがみずからの命を捨てて他の女たちを脱出させたように(彼女の行動が「おおやけ」か否かはその「おおやけ」が「さき」から来るか「あと」から来るか=身に染みついていないか、いるか=で決まる)、またグリフィス●「曲馬団のサリー」のキャロル・デンプスターがダンサーとして来訪した屋敷からの帰り際世話になった2人のメイドとさりげなく握手をしたり、●「ALI アリ」で懲役拒否で有罪になったモハメッド・アリ(ウィル・スミス)が退廷後、廊下で警備員たちと握手をしたり等、こうした運動はガンマン、軍人、医者、娼婦、といった具体的な職業性をさらに超え、ゴダール●「勝手にしやがれ」で『密告者は密告をし、強盗は強盗をし、人殺しは人を殺し、恋人は恋をする』とジャン=ポール・ベルモンドが呟いたように、紳士、淑女、さらには父、母、男、女といった人間性そのものの内部から出現してくる衝動としてあり、家の中に入ったとき帽子を脱いだり女性が近づいてくる時立ち上がったり、あるいは人が人をひたすら愛したり等「であること」へと向けられた運動を志向する人物においてのみ見られる人間的エモーションとしてある。「常習犯」とは「身に染みついた」運動を常習的にする者たちであり重要なのは運動そのものが内からの衝動として突き上げられてくることであり、ガンマン、強盗、弁護士等、具体的な職業はその結果として「あと」からついて来る出来事に過ぎない。彼らは職業を考えてから行動するのではない。行動してから考えるのでもない。彼らの考えは誰かが「あと」から付け加えるのであって彼らは考えていない。「常習犯」的運動を検討するにあたって重要なのは具体的な職業ではなく彼らの「すること」における「起源」からの距離であり、接近すればメロドラマ(「初犯」)に近くなり、遠ざかれば「動物(「前科10犯」)」へと接近する。それを見分ける細部こそ運動の端緒(起動面)における「心理的ほんとうらしさ」、「起源」へのアプローチ(めがけること・回想等の過去)、罪の意識、運動における善悪、改心の有無、「退出する」「帽子を脱ぐ」等の身に染みついた運動、役者の演技等である。
★泣けないヒッチコックスリラー
映画とは「すること」を基軸に成り立つ運動でありそこに映画のエモーションは存している。しかし我々弱い人間たちは●「三十九夜」●「バルカン超特急」●「フレンジー」等「すること」オンリーの動物的巻き込まれ運動=ヒッチコック的スリラーに泣くことはできず、「すること」に加えて「であること」という人間的領域を求めることになる。それが高じてメロドラマという「初犯」の映画が、か弱い批評家たちによるベストテンを飾り続けることにもなるのだが●「駅馬車」が泣けるのは「ありもしないであること」の時代に舞台を設定しつつ未だ「起源」を完全には喪失していない者たち=「人間」が「であること」をしようとしているその葛藤にエモーションが宿るからであり、しかしさらに「起源」から遠ざかりマイケル・マン的「前科10犯」、あるいはまったき「起源」を喪失したヒッチコック的巻き込まれ運動の動物になるに連れて見ている者が泣ける可能性は低くなる。フレッド・アステアのダンスに泣いた、マイケル・マン●「コラテラル」で泣いた、という人たちは「常習犯」的運動に泣くことのできる稀有な人種であり●「三十九夜」に泣いた、という者はまさにヒーローと言うべき貴種である。
★ヒッチコックと「退出の映画史」
ヒッチコックにも●「下宿人」(1926)のラストシーンでアイヴァ・ノヴェロとジューンがキスをする時に宿屋の夫婦が身を引くショットが撮られているが、それはじっと見入ってしまっている妻を肘で突いてやっと席をはずしたぎこちない運動であり、その後確立されてゆくヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公に「身に染みついた」運動などあるわけがない。恋人(ノヴァ・ピルビーム)の寝室に断りもなく窓から侵入した●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニーなど朝飯前で、列車のコンパートメントに入って行きいきなり見ず知らずの女マデリーン・キャロルにキスをしてしまった●「三十九夜」のロバート・ドーナット、『すぐに出て行って』と主張するエヴァ・マリー・セイントを何ら気遣うことなくホテルの部屋に居座り続ける●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラント、嫁入り前の知らない娘マーガレット・ロックウッドが一人で寝ているホテルの部屋にズケズケと入って行った●「バルカン超特急」のマイケル・レッドグレーヴ、はたまたホテルの壁を伝って女の部屋へとぶしつけに侵入してゆく●「海外特派員」のジョエル・マックリーと●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラント、あろうことか向かいのアパートの部屋をのぞき見し続ける●「裏窓」のジェームズ・スチュワートなど、ヒッチコック的「すること」運動にあるのは「であること」へと向けられた人間的な「退出の映画史」ではなく「すること」へと向けられた動物的な「プライバシー侵害の映画史」であり、それは端的に生存本能(防衛本能)と性的動物本能(「女たらし」「軽薄さ」)に集約される「押しかけの映画史」としてある。もちろん覗き見をすることが「身に染みついた」人間は存在するだろうがその場合運動は下着泥棒のようなスキルに満たされた「常習犯」として撮られる必要があるのに対してヒッチコック的覗き見はスキルを喪失した動物的なそれとして撮られており、また職業的スキル運動へと向けられたヒッチコック映画の主人公は基本的に「初犯」であるからここにもまた「身に染みついた」運動など撮られるはずもなく、結局のところ「初犯」の人間か「動物」のどちからかしか撮ることはできないヒッチコック的主人公に「退出の映画史」は存在しない。あるわけがない。
★帽子を脱がないヒッチコック
ここでヒッチコック作品における帽子について記述する(ヒッチコック帽子表)。●「暗殺者の家」(1934)以降の巻き込まれ運動において相手や場所に敬意を払って帽子を脱ぐ「身に染みついた」運動を撮った作品の題名を青で塗ると僅か3本しかない。帽子で挨拶をしない女性の主人公が多いからとも考えられるが、それならばと、ヒッチコック的巻き込まれ運動における主人公の帽子について詳しく見ていきたい。
●「三十九夜」(1935) ミュージックホールではロバート・ドーナットは既に帽子を脱いで入っている。アパートに帰って来た時脱ぐ(自分のアパートであり「身に染みついた」とは言い難い)。牛乳屋に自分の帽子を渡し、牛乳屋の帽子を被る。以降帽子は登場しない。
●「第3逃亡者」(1937) デリック・デ・マーニーが鉄道員に変装して簡易宿泊所に行くとき帽子をかぶるだけ。しかし翌朝にはもう帽子はない。
●「バルカン超特急」(1938)①マイケル・レッドグレーヴがずけずけとマーガレット・ロックウッドの部屋に入ってきた時は最後まで帽子を脱がずじまい。②その後汽車の中で再会した時も帽子は脱がず、マーガレット・ロックウッドがめまいを起こした時、帽子を置いて介抱に駆け付けるがそれは紳士としての「身に染みついた」運動ではない。また貨物車でシャーロック・ホームズ・英紳士・校長に変装する時それぞれの帽子を被る。ラストの駅のホームでは帽子を持っているだけ。
●「疑惑の影」(1943) テレサ・ライト 中盤、教会から出てくる時とラストシーンの教会の前で帽子をかぶっているが脱がない。
●「見知らぬ乗客」(1951) ファーリー・グレンジャーは帽子をかぶらない。
●「裏窓」(1954) 刑事のウエンデル・コリーがかぶっているだけ。ジェームズ・スチュワートはかぶらない。
●「めまい」(1958) 元刑事ジェームズ・スチュワートは女の前で決して帽子を脱がない。教会には既に帽子を脱いで入っている。バーバラ・ベル・ゲデスの家に入って来た時に脱ぐだけ(これも彼女の見ることのできない位置で脱いでおり「身に染みついた」系統とは言い難い)。ホテルの女支配人に会った時にも脱がない。キム・ノヴァクの乗っていた車と同じ車に乗っている女に「誰の車だ?」と尋ねるとき帽子を脱がない。キム・ノヴァクとの再会のホテルでは廊下ですでに帽子を脱ぎ終わってから再会している。
●「北北西に進路を取れ」(1959) ケーリー・グラントはポーターに変装して逃げる時だけ帽子をかぶるが脱がない。ジェイムズ・メイスンは脱ぐ(「常習犯」だから)。
●「鳥」(1963) バードショップの初対面でロッド・テイラーは既に帽子を脱いで店の中に入ってきている。それ以外では帽子を持っていない。ティッピ・ヘドレンは帽子をかぶらない。
●「フレンジー」(1972) ジョン・フィンチ 帽子をかぶらない。
●「ファミリープロット」(1976) ブルース・ダーン タクシーの夜勤の日だけずっとタクシーの帽子をかぶる。事件が解決されて電話で警察に通報する時に帽子を脱ぐがこれは敬意を払うところの「身に染みついた」運動とは関係ない。
ヒッチコック的巻き込まれ型の主人公たちは驚くべき頻度において帽子を脱がないかそもそも帽子をかぶってすらいない。ジョン・フォードのあらゆる映画にほぼ100%起こりうる「敬意を払って帽子を脱ぐ」という動作をヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公たち絶対にしない。ジョン・フォード●「わが谷は緑なりき」(1941)で病気から快復したサラ・オールグッドに対して労働者たちが全員で一斉に帽子を脱ぐようなエモーショナルなシーンは決して撮られることはない。ヒッチコック的スリラーの主人公は「動物」なのだから人間的な身に染みついた運動をしない。犬や猫は帽子を脱がない。あまりにも当然の摂理である。
■ヒッチコックは「駅馬車」を撮ることができない
神父「であること」へと向けられている●「私は告白する」は構成上「いつまでも守秘義務を守り続ける古くてバカな神父さ、、」という「古い者」のエモーションが露呈してもよいはずだが、戦争によって傷つき神父になったという「起源」が確固としてあるモンゴメリー・クリフトの運動は●「ラヴ・ストリームス」の女たちやホークス的・マイケル・マン的職業人たちのように考える前に行動するのではなく「起源」を参照し考えた後に行動することからそこには決して身に染みついた運動が露呈することはなく「ありもしないであること」をひたすら追い続けているバカなやつさ、、という「古い者」としての気品が露呈しない。身に染みついていない彼の行動に出現するのは無色透明な気品ではなく善意であり、彼の運動は常に「心理的ほんとうらしさ」によって狭められ規定されている。新しい時代に適応できない「古い者」たちが彼らの失われた「であること」に忠実に運動をし続けながら次の世代の者たちの陰になって静かに去ってゆくというエモーションをヒッチコックは撮ることができない。ヒッチコックは●「駅馬車」を撮ることができない。
■運動の起動面における3人の違い
ヒッチコック的巻き込まれ運動の「動物」と●「駅馬車」の「前科4犯的常習犯」とは運動を起動することを余儀なくさせられている=巻き込まれている=ことから運動の起動面から「心理的ほんとうらしさ」が排除されていることにおいて共通しているが、前者はスキル喪失運動でありマクガフィンによって外部から弾かれて初めて運動が起動するのに対して後者はスキル運動の「常習犯」であることからその運動は自分自身の内部の「起源」に駆り立てられるように起動することにおいて違っている。ヒッチコックは外部の衝動によって巻き込まれ、ジョン・フォードは内部からの衝動に巻き込まれている。ただ「前科4犯」のジョン・フォードは「起源」からの距離が「前科10犯」のマイケル・マンに比して接近していることから禁欲性においてマイケル・マンに劣りその運動は●「駅馬車」のように外部からのマクガフィンによって起動することが多くなり、その結果ジョン・フォード的運動は内部と外部の双方から巻き込まれているという印象を醸し出すことになる。対してマイケル・マン的「常習犯」はその余りにも強い「常習性」からみずからの内部的衝動のみによって運動を起動させ得ることから「自分自身に巻き込まれている」という印象が強くなる。それぞれが違った質によって運動を起動させてゆく三者だが、巻き込まれることで運動することを余儀なくさせられる=「心理的ほんとうらしさ」が排除される=ということにおいてぴったり重なっている。結局のところ物語映画とは主人公を巻き込まれるようにして撮ることで成り立っているひとつのジャンルと言える。
■ジャンル
ノワールやギャング映画には●「Born reckless」(「悪に咲く華」1930・ジョン・フォード)●「Born to Kill」(「生まれながらの殺し屋」1947・ロバート・ワイズ) ●「Born to be bad」(「生まれながらの悪女」1950・ニコラス・レイ)などの「Born」=「生まれながらの・生まれた時からすでに」という映画があるが、ジャンル映画というのは西部劇であれギャング映画であれノワールであれコメディであれミュージカルであれ、基本的にこの「Born ~」の人間=「常習犯」を主人公にして撮られている。だからこそ主人公は「初犯」のように動機や「起源」をいちいち語ることをせずに現在の運動に専念することができ、だからこそ60分や70分のB級映画の大量生産が可能になりジャンルが生まれる。「なぜ自分は踊るのか」をいちいち説明していたのではミュージカルがジャンルになることはなく、そうした点からしてフレッド・アステアは映画史上最大の「常習犯」として君臨している。「ありもしないであること」へと向けられた「すること」の映画、それがジャンルであり、動機をいちいち語らなければならない形式の映画=A級映画はメロドラマを生みはしてもジャンル映画になることはない。SF映画は『Science Fiction』というように科学=知性と隣り合わせであるがゆえに常に「起源」へと遡る誘惑に耐えきれず、ジャンルを構成しているように見えてそれは運動論的ジャンルではなく多分に物語論的ジャンルとなってチープさを装いつつも理性的で動きを欠くA級映画である場合が多い。
ここでゴダールの言葉をもう一度だけ見てみたい。
「密告者は密告し、保守主義者は保守し、愛人たちは愛し合う。しかもそれは、どんな意図によるものでもない」という原則を「勝手にしやがれ」で立てました。映画というものはもともとは探偵映画のことだからです」(映画史Ⅰ32
ここまで検討してきてゴダールのこの言葉をやっと感じることができる。ゴダールは「常習犯」の映画について語っている。「密告者・保守主義者・愛人たち」をわかりやすく「探偵・ギャング・ダンサー・ガンマン」等に置き換えてみる。B級映画会社である「モノグラム・ピクチャーに捧ぐ」という字幕が出て始まる●「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドは自動車泥棒の常習犯であり当然ながら彼の「起源」についての言及などされるはずもなく、回想もなく、警官を殺したところで彼が罪の意識に苛まれることなどまったくないどころか殺したことを覚えているかすらおぼつかないような人物として撮られている。ジャンルとは「常習犯」によって創設される映画史であるならば、探偵が探偵をする映画もなければ西部劇もギャング映画もノワールもミュージカルもなく「すること」オンリーの動物的巻き込まれ運動しか撮ることのできないヒッチコックはジャンル映画を撮っていないことになる。ジャンル映画の主人公としての「常習犯」の運動は仮想された「であること」へと向けられた運動であり、何はともあれ主人公は「であること」へと向けられた運動を志向していけばよいのに対し「であること」不在のヒッチコック的「すること」運動はどういう運動をするのかがまったく確定しないことから「すること」全盛のサイレント映画時代ならマック・セネット、ロスコー・アーバックル、バスター・キートンのスラップスティックコメディという「すること」オンリーのジャンル映画を常習的に撮ることができたとしても「であること」へ映画が傾倒した物語映画主流のトーキーにおいて「すること」オンリーの映画を撮るためにはまず運動を起動させるための膨大なマクガフィンを配置しなければならず、さらに役者の選択から物語構成に至るまでデリケートな細部に配慮しながら「動物」を物語のオブラートに包み込む必要があり、そうした作業は大量生産に適さず従ってヒッチコック的スリラーがジャンルを構成することはあり得ない。その関連では西部劇やミュージカルとは違って「であること」の基本的な約束事がはっきりしないノワールというジャンルがある。ノワールには探偵が探偵をする●「三つ数えろ」、刑事が刑事の仕事をする●「ローラ殺人事件」(1944)のようなスキル運動的作品もあれば●「飾窓の女」(1944)●「深夜の告白」(1944)のように殺人心理学の助教授、あるいは保険のセールスマンといった職業人がみずからの職業的スキルを活用して殺人事件に対処しているようでありながら知らず知らずのうちにファムファタールの魔力によってスキルの範囲を遥か超えた陰謀へと巻き込まれてゆくという、まさにヒッチコック的「すること」的運動を志向する作品まで様々であり、だからこそノワールの製作本数は西部劇やミュージカルに比べて圧倒的に少なく、西部劇やミュージカルが時代錯誤的に延命することができたのに対してノワールは時代背景と共にアッサリと消えている。だがそれでもノワールには依然として探偵や刑事といった「であること」が存在するのに対して、より漠然としている「すること」オンリーから運動を起動させなければならないヒッチコック的スリラーはノワール以上に困難なデリケートさに包まれていて、だからこそヒッチコック映画には「失敗作」が非常に多く、ヒッチコック自身ですら容易に撮ることのできないヒッチコック的スリラーをジャンルとして大量生産するなどということはあり得ず、だからこそ映画史は「自称ヒッチコック主義者」たちの屍で埋め尽くされている。
★批評は「常習犯」を語らず
知識人とは「であること」の領域における知識、知性、理性、過去等に長けているからこそ知識人であり彼らは常に「であること」を「読むこと」によって活動している。そうした彼らが映画論を書くとなると当然ながら「常習犯」を「初犯」の観点から、病的なものを知的に、「ありもしない起源」を「起源そのもの」として語る傾向に犯されることになり、映画の運動=「すること」をことごとく「であること」に書き替えるという危険に晒されることになる。知識人というのは「であること」の領域での知識人であり、無色透明な運動論は彼らのスキルとは何の関係もない領域であるばかりか、却って蓄積する知識を活用するという性向が知識では解けない「すること」の探求を鈍らせる要因となる。知識人は映画批評の適性を欠いていることを自覚すべきであり、批評とはそれを自覚する恐怖と素直に向き合う地点から立ち上がる精神にほかならない。