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『分断の映画史・第二部』 2023年12月24日 藤村隆史

■「メトロポリス」(1926)

『フリッツ・ラング・内側からの切り返し表』を提示する。

1地上の楽園~出会い

フリッツ・ラングがドイツ時代に撮ったサイレント映画「メトロポリス」では序盤、支配者階級の青年グスタフ・フレーリヒの住む地上の楽園へ労働者階級の娘ブリギッテ・ヘルムが子供たちを引き連れてやってくるシークエンスが撮られている。ここで大きな扉を開けて入って来たブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリヒとの間でキャメラは何度も切り返されるのだが、両者が同一の画面に収まるショットは1ショットも撮られていない。3つの字幕を除いて撮られた25ショットの内、ブリギッテ・ヘルムと召使や部下が同一の画面に収まるショットは撮られているがグスタフ・フレーリヒと同一の画面に収まるショットは一つも撮られていない。2人のあいだは終始、内側からの切り返しによって分断されて続けている。

2地下の集会にて

次に二人が同一の空間に現れるのは地下で行われる労働者の集会の現場である。ここに、労働を体験し疲れ果てたグスタフ・フレーリヒが作業着姿で入ってくる。最初、グスタフ・フレーリヒの背後からの大きなロングショットでグレーリヒとブリギッテ・ヘルムが縦の構図の同一画面に収まるが、ロングショットなのではっきりと「この二人」と断定することはできない。物語の流れから推測するならばこのロングショットに映し出されているのはブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリヒの二人と推測することは可能だが、遠くからのショットであり事実として「この二人」であるという確証はどこにもない(『奇妙な同一画面』)。そこからキャメラは2人のあいだを幾度か内側から切り返されたあとフレーリヒが跪(ひざまず)く。ここで崖の上に登って来たアレフレート・アーベルとルドルフ・クライン=ロッゲの俯瞰からの見た目のショットが見下ろす超越的視点においてブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリヒとが同一画面に入ったように見えるが、これもまた最初の縦の構図と同様、ロングショットなので二人を「この二人」とはっきりと特定することはできない(『奇妙な同一画面』)。ここまで8ショット、ヘルムとフレーリヒとのあいだは1の地上の楽園から未だ分断され続けている。

そしてバベルの塔の建設の伝説のシーンが挿入された後、キャメラを正面から見据えているブリギッテ・ヘルムのバスト・ショット幾つか撮られ、労働者のショットが幾つか入った後、キャメラはブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリのあいだで幾度か切り返され、その後、俯瞰からのアレフレート・アーベルとロッゲからのロングショットで2人が同一画面に収められ、労働者が去って行って残された二人が俯瞰から同一画面に収められるショットがもう1度入るがこの2つのショットもまたロングショットで撮られていて「この二人」と特定はできない(『奇妙な同一画面』)。集会が終わりヘルムとフレーリヒは映画開始以来初めて二人きりになる。キャメラは二人のあいだを①(フレーリヒ)→②(ヘルム)→①→②と内側から切り返されここでヘルムはフレーリヒの存在に気付いて驚く。さらに→①→②→①→②と内側から切り返されるのだが、フレーリヒは画面の右を、ヘルムもまた画面の右方向を見つめているのでイマジナリーラインはまったく合っていない。さらにフレーリヒは画面の外で近づいてくるヘルムを成瀬目線で追いかけると、キャメラを正面から見据えたブリギッテ・ヘルムが真っ直ぐキャメラに向かってショット内モンタージュで歩いてくる。切り返されたグスタフ・フレーリヒもまたキャメラを正面から見据えている。フレーリヒが初めてキャメラを正面に見つめたことで、この時点で初めてイマジナリーラインが合致し二人の視線が映画的に絡み合う。キャメラは再びヘルムと切り返され、接近してきたブリギッテ・ヘルムはキャメラを正面から見据えてクローズアップとなる。そして同じようにフレーリヒがキャメラを正面に見つめたクローズアップに切り返された後、初めて二人は同一画面に収められ、、、バベルの挿話を除いて字幕抜きで31ショット目、地下にフレーリヒが入ってきたショットから数えて41ショット目、さらに地上の楽園を含めると、二人のあいだは75ショット目で初めて『正常な同一画面』に収められるまで内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』、そして他の者たちを捉えたショットによって分断され続けている。ここで2人はキスをするのだが、それ以降2人のあいだは、ロボットの偽ヘルムとのあいだを除いて基本的に同一画面に収められるようになる。

★内側からの切り返しによる分断

論文ヒッチコック『分断の映画史・第一部』においてヒッチコック映画における内側からの切り返しによる分断について検討したが、フリッツ・ラングの作品にもそれと同様の出来事が惹き起こされている。ここで主人公のブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリヒはヒッチコック「めまい」(1958)と同じように、ある特定の時間が到来するまで『正常な同一画面』に収められることを徹底的に拒絶されている。ブルジョアの息子から見た労働者階級の娘との関係は「めまい」におけるジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクとの関係のように未知の関係であり、その距離を内側からの切り返しによる分断という映画的なサスペンスによって実現させている。「めまい」では256ショットという異常な長さにおいて2人は分断され続け「メトロポリス」でもまた2人が『正常な同一画面』に収められるまで75ショットという時間を費やしている。分断のショット数という点からすればラング初のトーキー「M」(1931)における分断表②では、(以下「内側からの切り返し表」における右の欄を「分断表」、左の欄を「正面表」と呼ぶ)ピーター・ローレと群衆とのあいだは67ショット分断され続け、またハリウッドで撮られた「真人間」(1938)の分断表⑤ではシルヴィア・シドニーと窃盗団とのあいだが73ショットに亘って分断され続けている。

■キャメラを正面から見据えること~イマジナリーラインのずれ

ヒッチコック「白い恐怖」ではキャメラを正面から見据えること、またその帰結としてのイマジナリーラインのずれが、内側からの切り返しによる分断との関係で生じていた。「メトロポリス」では、1地上の楽園で撮られた25ショットの内、ブリギッテ・ヘルムを捉えたショットは14ショットあり、そのうちの8ショットで彼女はキャメラを正面から見据えている。さらにブリギッテ・ヘルムがキャメラを正面から見据えている8ショットの内、クローズアップは2ショットある。このクローズアップからキャメラが切り返された時、グスタフ・フレーリヒもキャメラを正面から見据えていれば両者の視線のイマジナリーラインは合致していることになる。だがここブリギッテ・ヘルムの2度目のクローズアップのあとに切り返されたフレーリヒはキャメラのやや左方向を見据えていることから両者のイマジナリーラインがずれている。切り返される一方がキャメラを正面から見据え、もう一方が通常のイマジナリーラインを維持している場合、イマジナリーラインはずらされることになる「メトロポリス」には100ショット弱の、人物がキャメラを正面から見据えるショットが撮られていることからすると、そこにはイマジナリーラインによってショットをつなげるという物語的な時間からの突然の飛躍があらゆる時間において露呈することになる。内側からの切り返しによって既に分断されている出来事がさらにイマジナリーラインのずれによって分断されている。

■「スピオーネ(SPIONE)」(1928)~『奇妙な同一画面』の存在

ヒッチコック的『分断の映画史』においては同一画面に収まる一方が「胴体だけ」「手だけ」しか撮られていなかったりロングショットでぼやけていたり後ろ姿で顔が見えなかったりという『奇妙な同一画面』が数多く撮られていた。『奇妙な同一画面』はそれが1ショットだけなら偶然に撮られたという判断も可能だが執拗に反復されていたり余りにも奇妙である時、もはや偶然として片づけることはできないことも検討した。「メトロポリス」だけでも10箇所前後の『奇妙な同一画面』が撮られているが、ここではフリッツ・ラング「スピオーネ」(1928)の内側からの切り返し表の右の欄の分断表②を見てみたい。

★分断表②

酒場のテーブルで酒を飲んでいるヴィリー・フリッチュのところへ日本人外交官のマツモトが現れたシーンでは、最初のショットでフリッチュとマツモトの「手だけ」が同一画面に収まって始まり(『奇妙な同一画面』。ちなみにこの場合、フリッチュとマツモトの2人の「手だけ」ではなくマツモトの「手だけ」という意味である。2人の「手だけ」の場合『フリッチュの「手だけ」とマツモトの「手だけ」』と書く)、そこから5回内側から切り返されたあと、手前のマツモトの後ろ姿と奥のフリッチュが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、さらに今度はテーブルに伏して泣いているフリッチュとマツモトが同一画面に収められているがフリッチュは顔を腕に埋めているので「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに次のショットではキャメラはフリッチュの後ろから=外側から切り返されるが、手前のフリッチュは伏したままなので「その人」と特定することはできずそのままシークエンスは終わっている。全9ショットの内、内側からの切り返しが5つ、『奇妙な同一画面』が4つ、そのままシークエンスは終わっている。これは偶然このように撮られたのだろうか。「偶然」とは、まずフリッチュがテーブルに伏して泣くことが演出として思考され、そのままキャメラを切り返して撮ったところ偶然にも『奇妙な同一画面』が撮られてしまったということである。さらに③を見てみよう。

★分断表③

銀行の隠し部屋の椅子に縛られた女ゲルタ・マウルスと机に座っているボスとのあいだは(何度か挿入される外部のショットを別にすると)、最初の2つのショットで女とボスは同一画面に撮られているが女は後ろ姿で「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、そこから内側からの切り返しが9ショット続いた後、12ショット目では部屋を出て行くためにキャメラの前を横切るボスと椅子の女とが同一画面に収められている。しかしボスの姿はぼやけていて「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、さらに持続したそのショットにおいて椅子の女と、その背後の壁に部屋を出て行くボスの「影だけ」が同一画面に収まるというショットまで撮られていて(1ショットで2つ目の『奇妙な同一画面』)そのままこのシークエンスは終わっている。部屋の外のショットと平行モンタージュ的に編集されているので見失いそうになるシーンだが、ボスがキャメラを正面から見据えるショットも入るこのシーンは、全12ショットの内、内側からの切り返しが9ショット、残りの3ショットで『奇妙な同一画面』が4つ存在するという、実に珍しい分断の瞬間を体験することができる。

■「飾窓の女」(1944)

★分断表①

ハリウッドで撮られたこの作品はサイレント映画時代と比べてキャメラを正面から見据えるショットも内側からの切り返しによる分断も減少している。その中で唯一の分断が撮られているのが分断表①であり、ここではエドワード・G・ロビンソンが富豪にいきなり襲われるシーンが高スピードのカッティングで撮られているのだが、見終わった後に違和感を覚えて何度も見直してみると、驚くべきことにロビンソンと富豪とは1ショットも『正常な同一画面』に収められていない。内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』によって巧妙に2人のあいだは分断されているのである。潜在意識のショットのような『奇妙な同一画面』をこのような高速のカッティングの過程にあたり前のように紛れ込ませてしまう精神が偶然であるわけがない。

■「復讐は俺に任せろ」(1953)

★分断表②

この作品もまたキャメラを正面から見据えるショットも内側からの切り返しによる分断も少ないが、「飾窓の女」と同じようにここという時に奇形的な分断の性向を露呈させている。最後の銃撃戦でグレン・フォードとリー・マーヴィンとのあいだは、最初のショットで2人は同一画面に収められているが手前のマーヴィンは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、しかしそのまま持続した画面でキャメラがマーヴィンに寄るとマーヴィンはこちらを向くので「その人」と特定できるが、その時には既にグレン・フォードは画面の中にいないことからこれは『持続による同一存在の錯覚』であり、最初のショットから実に手の込んだ撮られ方をしている。3ショット目で階段を上って逃げようとするマーヴィンとフォードが同一画面に収められているがどちらも後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)4ショット目でマーヴィンと彼を殴るフォードが同一画面に収められているがフォードは斜め後ろ姿でかろうじて「その人」とわかるぎりぎりのショットであり(奇妙な『正常な同一画面』)、そこから10ショット目に2人が『正常な同一画面』に収まるまで内側から切り返されている。

★検討 『奇妙な同一画面』が『分断の映画史』と結びつくのは、その同一画面が奇妙であるがゆえに却って画面における分断性が強まるという逆転現象に基づいている。同一画面が奇妙であればあるほど、そして『奇妙な同一画面』が多ければ多いほど、同一性は破壊され分断の性向を強めてゆく。『奇妙な同一画面』は意図的に撮られるショットであり、中には偶然の産物があるとしても、映画史における余りにも多く撮られている『奇妙な同一画面』の存在は、最早議論の余地を残すものではなく、あとはそれが意識的に撮られているのか無意識的にかに過ぎない。イマジナリーラインを合わせること、登場人物を『正常な同一画面』に収めることはどちらも物語的要請から来る「決めごと」であり、実際の映画史にはそうした「決めごと」に真っ向から歯向かったもう一つの歴史がある。

■ここまでフリッツ・ラングにおける『分断の映画史』についての検討をして来たが、そもそも内側からの切り返しによる分断と単なる内側からの切り返しの違いとは何か。内側からの切り返しによる分断(以下『分断』と略すこともある)と内側からの切り返しは違う。まず内側からの切り返しとは外側から切り返さないことである。外側からの切り返しとは、仮にABとが対峙している時、まずAだけを撮ったとして次にBを撮る時キャメラをAの後ろに引いてAとBとを同一画面に収めて撮ることである。この場合Aが後頭部しか見えなければAを「その人」と認定できないことから『奇妙な同一画面』となり、AA「その人」と認識できるように画面に撮りこめばそれは『正常な同一画面』となる。内側からの切り返しとはキャメラをBへ切り返したとき、画面からAを削除した画面を指す。すると内側からの切り返しには「AB」のAが欠けていることになる。全体のうちの部分しか撮られていない。この場合遠くから切り返せばある程度全体を撮ることも可能だが近くから切り返すと部分の割合が大きくなる。これを「物語」に例えると、内側からの切り返しは外側からの切り返しに比べて少なくしか物語を語らないことになり、物語から分断、分離されていることになる。ここまでの検討は、内側からの切り返しによってもたらされる分断に何が加わると『分断』が生じるのかである。

■ここからはフリッツ・ラングの作品を参考にしながらさらに『分断』について検討してゆく。

★効果と要件

ここまでは『分断』の要件について検討してきたが、ここからはその効果も交えて検討してみる。

★「仕組まれた罠」(1954)~分断表②~『正常な同一画面』に挟まれること

汽車の中でグレン・フォードとキスをしたグロリア・グレアムが夫のフレデリック・クロフォードと歩いているところへグレン・フォードと出くわしたというシーンだが、2つの『正常な同一画面』に挟まれた6ショットはすべて内側から切り返され、その内3ショットがグレン・フォードのクローズアップ、2ショットがグロリア・グレアムのクローズアップで撮られている。既に一度キスをしている2人がグレアムの夫のクロフォーの前で初対面を装うシーンであり両脇を『正常な同一画面』によって挟まれることで僅か6ショットの分断が却って『正常な同一画面』とは違った2人だけの時空を作り上げ心理的なサスペンスを際立たせている。『正常な同一画面』の存在は通常なら分断の力を弱めることでありながら、ここでは逆に『正常な同一画面』の存在が分断の効果を高めている。

★「無頼の谷」(1952)~分断表③~1人だけの時空

このシーンはデートリッヒのドレスの胸につけられたブローチが殺された恋人のブローチと同じであることをアーサー・ケネディが気づくシーンであり、歌うデートリッヒを囲んで皆がピアノの周りに集まった時、1人その輪の中から離れて見ているアーサー・ケネディとデートリッヒとのあいたでキャメラが切り返されるシーンである。ここで両者のあいだは、31ショット目で『正常な同一画面』に収められるまですべて内側からの切り返しによって分断されている。ブローチに気づいた後のケネディをクローズアップで撮り切り返し続けることで周囲の喧騒から孤立した主体的空間を映し出すという発想は出て来るだろう。しかしそれを30ショット連続して内側からの切り返すという発想はある種の映画史における特定の者たちのみに該当する芸当である。ここでは切り返される空間の一方を客観的に、もう一方を主体的に撮ることで分断の効果が高められている。

■遠距離の者同士の内側からの切り返しと空間的不明確性。

★「ニーベルンゲン・第二部」(1924)~分断表③

これまでに検討した分断の性向は基本的には切り返される空間同士の距離を広げる効果をもたらしていた。ヒッチコック「めまい」「裏窓」ラング「メトロポリス」がその典型で、お互いを知らない、わからない、未知の人、という2人のあいだの距離のサスペンスを内側からの切り返しによる分断によって醸し出していた。しかし分断の性向には遠距離間の者同士を接近させる効果もある。

「ニーベルンゲン・第二部」分断表③における城の上のクリームヒルトと地上で死体を抱えている弟とは、2人だけのあいだに限ると8ショット続けて内側から切り返されそのまま終わっている。そもそも分断の性向とは『正常な同一画面』に収めることができるにもかかわらず敢えて内側から切り返すことで両者をことさら分断することであるが、両者のあいだに距離的開きがあり、二人を仮に同一画面に収めたところで必然的にロングショットになるような場合、同一画面を撮ったとしても『奇妙な同一画面』にならざるを得ず、そうした空間に分断の性向を見出すことは基本的にはできないのではないか。だが内側からの切り返しとは外側から切り返さないことであり、場所的に限定された空間を提示することで「物語」から分断することでもあることから、遠く離れた者同士でも『奇妙な同一画面』すら撮らずに近景からの切り返しを続けることで、遠距離であったはずの空間を主体的な近距離に浮遊させることができる(空間的不明確性)ここでクリームヒルトと弟との切り返しは2人の近景からなされ、かつキャメラを正面から見据えるクリームヒルトのショットが挿入されることで場所的物語から解放されている。内側からの切り返しによる分断とは近距離間の者たちを分断させて距離を広げることのみならず、遠距離間の者たちの距離を心理的に縮める効果をもたらすのである。もう少し分かり易い例を見てみよう。

★「暗黒街の弾痕」(1937)~分断表④

独房のベッドで寝ているフォンダが布団の中から拳銃を取り出すシーンでの、独房の外から小窓を通してフォンダを見ている看守イーサン・レイドローとのあいだは、14ショットすべて内側から切り返されることで独房の全景が撮られておらず、さらに両者がキャメラを正面から見据えるクローズアップを何度も切り返すことによって2人のあいだの距離が無化し、フォンダのベッドの下に隠された拳銃を手探りで探すという行動がまるで近距離から見られている(すべて看守にお見通し)ようなサスペンスをもたらしている。全景を撮らない内側からの切り返しによって距離が無化され、切り返しによって撮られたショットの大きさが2人の距離となってそのまま露呈している。

★「地獄への逆襲」(1940)~分断表③~隠れることについて

終盤、馬小屋でフォンダとキャラダインが撃ち合うシークエンスで2人のあいだはフォンダが小屋に入ってきたから内側から切り返され続け、30ショット目で2人は同一画面に収められているように見えるがフォンダから持続したパンニングでキャメラがキャラダインの死体を画面に捉えた時フォンダは「足だけ」しか映っておらず(『持続による同一存在の錯覚』+『奇妙な同一画面』)32ショット目でフォンダが出ていく最後のショットでも2人は同一画面に収められているがロングショットのフォンダがぎりぎり「その人」とわかる程度で撮られている(ぎりぎりの『正常な同一画面』)。狭い馬小屋を分断して内側から切り返すことで空間的不明確性を生じさせ相手がどこにいるのかわからないというサスペンスを創り出している。

■これからの出来事を予感、暗示させる

★「ハウス・バイ・ザ・リバー」(1950)~分断表①

小説家がメイドを殺してしまいその罪を弟に着せるこの作品における分断表①では、映画が始まってすぐ、主人公のルイス・ヘイワードと隣人のアン・シューメイカーが並んで話しているところへずっと遠くから郵便物を持ったメイド(ドロシー・パトリック)がショット内モンタージュで2人のところに「その人」と判別できるまで接近して来る。最初メイドは遠くにいるので「その人」と特定することはできず、従ってこれはいわば、「持続における『奇妙な同一画面』から『正常な同一画面』への移行」という、今回初登場の極めて異常な事態であり、こうして『正常な同一画面』が撮られたあと、キャメラはメイドと2人のあいだを10回切り返されるがすべて内側からの切り返しで分断されたままメイドは去ってしまう。メイドと主人公とのその後の展開が分断によってそれとなく暗示されている。

★「復讐は俺に任せろ」(1953)~分断表①

もう少しはっきりと暗示なり予感なりが伝わる「復讐は俺に任せろ」分断表①を見てみたい。妻ジョスリン・ブランドにグレン・フォードが車の鍵を投げ渡すシーンおける2人のあいだは、6ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。問題は4ショット目のグレン・フォードのクローズアップにある。この笑顔のクローズアップはその前後の物語の流れから逸脱している。物語の流れの過程から「ずれ」ている。このグレン・フォードは内側からの切り返しにおける1ショットとして分断された「そのひと」として露呈している。このクローズアップを見た瞬間、このあと「なにか」が惹き起こされるのだとわかる。これは外側からの切り返しでは撮ることのできないショットであり、物語の流れを内側から切り崩す力である。

『フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ内側からの切り返し表』を提示する。フリッツ・ラングと同じくドイツで映画を撮った後ハリウッドへ移って映画を撮ったムルナウについて『分断の映画史』を検討する。

★「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921)~分断表5

終盤、妻グレタ・シュレーダーの家の向かいの屋敷に引っ越してきた吸血鬼マックス・シュレックとベッドで横になっている妻とのあいだでキャメラは何度も切り返される。①吸血鬼が向かいの屋敷の窓枠に手をかけてキャメラを正面から見据えているウエスト・ショット(ないしはフルショット)が撮られ、②眠りから覚めた妻が身を起こし恐る恐る窓の方を見ると、③こちらを真っ直ぐ見ている吸血鬼のショットへと切り返される。④その瞬間、妻が苦しそうにもだえていることからしてこれは妻の見た目のショット(主観ショット)として撮られていると見るべきだが、⑤次のショットのベッドの上の妻と窓との位置関係からすると、妻が吸血鬼を真正面に見ることのできる場所にベッドは置かれておらず、イマジナリーラインがずれているというよりもむしろ、空間そのものが歪んでいて妻が吸血鬼を自分の目で見たかどうかすら定かでないように撮られている(イマジナリーラインの破壊、空間的不明確性)。そのまま妻は夢遊病者のように窓へと歩いてゆき⑥窓を開けようとすると、⑦再びキャメラを正面から見据えている吸血鬼のショットへと切り返され、⑧妻はもうろうとして⑨眠っている夫グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイムが映し出され⑩再び妻のショットが撮られたあと⑪また吸血鬼のショットが挿入され、⑫意を決したように妻が窓を開けると、⑬再びキャメラを正面から見据えている吸血鬼のショットへと切り返され、吸血鬼はここで窓から離れてゆく。⑭窓枠にもたれかかり倒れそうになる妻のショットが撮られ⑮眠っている夫が撮られた後⑯向かいの屋敷の一階のドアが開いて吸血鬼が中から出て来る。⑰それを見た妻は(実際見ているかは確実ではない)恐怖に顔を覆い、⑱再び吸血鬼へと画面は切り返され⑲妻が眠っている夫を起こすとそのまま倒れこみ⑳夫によってベッドに寝かされる、、、ここまで20ショット。切り返しはすべて内側からなされていて妻と吸血鬼が同一画面に収まるショットは一つも撮られていない。さらにこの内側からの切り返しはキャメラを正面から見据えている吸血鬼と、妻の後ろ姿との切り返しであり、吸血鬼からの見た目のショットが1ショットも撮られていないことからしてこの一連の内側からの切り返しによって撮られているのは妻の主観であり、体裁上、③⑦⑪⑬⑯は妻の見た目のショットとして撮られている。だが最初の③において既にベッドと向かいの屋敷の窓との位置関係のずれが露呈しているように、向かいの屋敷のどの窓に吸血鬼がいるかの全景が一度も撮られていないことから、位置の喪失、位置関係のずれが生じており、妻の「見ること」それ自体が不確かなこととして撮られている。ずっとキャメラを正面から見据えて続けている吸血鬼のショットがイマジナリーラインのずれのみならず空間そのもののずれ、浮遊、不明確性をもたらしている(これについてはDW・グリフィスの主観ショットでも検討する)。これだけ見ても『分断の映画史』はムルナウの映画史でもあることが容易に見てとれる。

★「最後の人」(1924)~分断表3~キャメラを正面から見据えること

エミール・ヤニングスがトイレ係に左遷されたことが娘婿の叔母エミーリエ・クルツにばれるシーン。 ①まずトイレへと続くドアを開けて中から恐る恐る顔を出すヤニングスのクローズアップが撮られた後、②キャメラはガラス戸越しにキャメラを真っ直ぐに見据えた叔母へと切り返され、そのままキャメラは急接近し、絶叫した彼女の吐いた息でガラスを真っ白に曇らせ、③さらにキャメラを見据えて驚愕するヤニングスのクローズアップへと切り返され、④逃げるように去ってゆく叔母へと切り返され⑤うなだれるヤニングスのクローズアップへ切り返されている。ここまでの5つのショットはすべて内側からの切り返しによって分断されそのままこのシーンは終わっている。わずか5つのショットによってつながれたシーンだが、猿がキーキー叫んだようなエミーリエ・クルツの、キャメラを真っ直ぐに見据えた動物的なクローズアップへの急接近と彼女の息で真っ白に曇ったガラスはこのためにエミーリエ・クルツはキャスティングされたのだと確信すべき驚愕のショットであり、それが同一画面などまったく存在しない内側からの切りしによって分断されたまま終わることで救いようのない両者の関係を暴露させている。

★「タルチュフ」(1925)~分断表①~『奇妙な同一画面』

「タルチュフ」分断表①を見てみる。妻のリル・ダーゴヴァーが夫の財産を狙っているタルチュフ(エミール・ヤニングス)と初めて同一の空間に入ったシークエンスは、夫(ヴェルナー・クラウス)と彼を呼びに来たダーゴヴァー、そしてハンモックで寝ているヤニングストとのあいだでキャメラは切り返されるが、ダーゴヴァーとヴェルナー・クラウス、またヴェルナー・クラウスとヤニングスとは何度も『正常な同一画面』に入って来るが、ダーゴヴァーとヤニングスとのあいだだけは(字幕抜きで)568ショット目でヤニングスの「足だけ」がダーゴヴァーと同一画面に収まるという奇形的なショットが撮られ(『奇妙な同一画面』)、それ以外の35ショットはすべて内側からの切り返しで分断され続けそのままダーゴヴァーは出て行ってシークエンスは終わっている。ここまで『奇妙な同一画面』をわざわざ何度も撮るということは。逆に『正常な同一画面』を撮らないという強い意志の現れである。

★ムルナウ「サンライズ」(1927)~①について~『奇妙な同一画面』

ボートで街へ向けて出発する時、夫ジョージ・オブライエンと妻ジャネット・ゲイナーとのあいだは、最初のショットで船に乗り込む夫と妻が『正常な同一画面』に収められてからキャメラはボートの上に移行する。まず2人は同一画面に収められているが手前の妻が後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、その後、カモメを見つめる妻の主観ショットなどを交えながら2人のあいだはずっと内側から切り返され、21ショット目で夫の恐ろしいクローズアップが入り、次のショットで妻を海へ突き落とそうと立ち上がる夫と妻とが同一画面に収められているが夫は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらにその次のショットでは妻に接近した夫が同一画面に収められているが夫は「後ろ姿と耳だけ」で「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)27ショット目で我に返って再びボートを漕ぎ始める夫と妻が同一画面に収められているが、夫は相変わらず後ろ姿であるもののかろうじて「その人」と特定することが可能なショットとして撮られており(奇妙だが正常な同一画面)37ショット目でもまた2人は同一画面に収められているが、手前の妻が後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに39ショット目でボートの上から逃げ出す妻と夫とが同一画面に収められているが妻は後ろ姿で「その人」と特定できず、そのままこのシークエンスは終わっている。ボートを漕ぎ出してから39ショットの内、『奇妙な同一画面』が5ショット、『奇妙だが正常な同一画面』が1ショット、それ以外のカモメやオールのショットを含めて33ショットはすべて内側から切り返されて分断されている。映画史に残るとされているこのシーンをこれまでさり気なく見て来たが、実は内側からの切り返しによる分断によって撮られていたのである。  

★「都会の女(CITY GIRL)(1930)~分断表②

小麦を売るために都会へ出て来た農民(チャールズ・ファレル)が食堂のカウンター席で注文を取りに来たウエイトレス(メアリー・ダンカン)と恋に落ち、お互い告白する時間もなく農民が田舎へ帰る時になって女は駅へと走るが汽車はもう出ていた、女が絶望して食堂に戻ると、そこに食堂の中を覗いている農民がいた、、という流れの中で2人は見つめ合う。画面はまず2人を『正常な同一画面』に捉えてから、女→男→女、、とクローズアップで素早く切り返される。男は正面を見ていて女は上を見上げている(イマジナリーラインのずれ)男は悦び、女は失神しそうになっている。再び2人は『正常な同一画面』に収められる。僅か3ショットの切り返しだが、この3つのクローズアップは前後のショットから明らかにずれた=分断された、ショットの連鎖無き連鎖であり、これこそが内側からの切り返しであるという分断のエモーションを映画史に刻んでいる。『正常な同一画面』に挟まれているからこそ2人だけの時間(ずれた時間)が露呈している。

★「タブウ(TABU)(1931)

分断表⑦

窓の向こうから銛(もり)を持って近づいて来る老人と娘レニとのあいだは、91113ショット目で同一画面に収められているがレニが後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、それ以外は14ショット目で老人が去ってゆくまで内側から切り返されそのままわっている。■評 2人が同一画面に収められるのは娘が小屋を出てからであり、小屋の中にいる娘と窓の外の老人を切り返して撮られたショットはすべて内側から切り返されている。窓を挟んで銛を構えキャメラを正面から見据えて接近して来る老人とそれを見ている小屋の中の娘をどちらも正面から捉えたこの内側からの切り返しは別々に撮られることで大きな「ずれ」を生じており強い分断の傾向を見ることができる。

分断表⑨

レナを追いかけ海に飛び込んで泳いでいるマタヒと船の上の老人とのあいだは、7ショット目でマタヒと老人の「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外の8ショットはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。■評 娘の乗せられた船を泳いで追いかけてゆく青年と船の上の老人とのあいだは『分断』され続けており、7ショット目の『奇妙な同一画面』によってさらに『分断』を強めゆくこのラストシーンはタブウの掟を冷徹なまでの『分断』によって締めくくりそのまま終わっている。作品を通じて内側からの切り返しが非常に多く、分断の性向もまた強く撮られている。ドキュメンタリータッチの作品だが実際は劇映画であり演出に依って撮られている。

■『持続による同一存在の錯覚』

ヒッチコック作品に多く登場した『持続による同一存在の錯覚』はフリッツ・ラングにおいては4回ほど登場するがヒッチコックほど見事には使われておらずムルナウには一度も登場していない。見逃されがちだがヒッチコックは「モンタージュの人」でもありながら「ロープ」(1948)を体裁上1ショットの長回しで撮ったように「ショットの人」でもあり(『分断の映画史・第一部』でも指摘した数々のパンフォーカスもまたそうした傾向から生まれている)、持続したショットの中で複数の画面を作る(横軸の再フレーミング)ことの多い監督でもあることから『持続による同一存在の錯覚』もまたそうした傾向から数多く撮られることになる。「裏窓」(1954)において頻繁に撮られた『持続による同一存在の錯覚』は『分断の映画史』においてもとりわけ奇妙な存在かも知れない。

★ラングとムルナウ

ここまでラングとムルナウをさっと俯瞰してきた。ラングの場合、キャメラを正面から見据える傾向についてはドイツからハリウッドへ移転するとその数も減少し「地獄への逆襲」(1940)以降は激減しているし、ムルナウについてはラングと比べてキャメラを正面から見据えるショットが少ないなどの、比較論的なことも言えなくもないが、あくまでこの論文は『分断の映画史』を羅列することにあるのでそういった研究は次回以降の課題としておきたい。

『エルンスト・ルビッチ内側からの切り返し表』を提示する。

今回この論文でラングとムルナウを軸に映画史を遡って見ることから始めたのは、この2人がホラー映画を撮っていることから来ている。『分断の映画史』の源流はヨーロッパ系のホラーから来るのではないか。人間にとって未知の存在、未知の怪物、エイリアン、、ホラー映画の「未知」の怪物たちは「めまい」(1958)のキム・ノヴァクや「メトロポリス」(1926)のブリギッテ・ヘルムの未知性に劣ることはないはずである。ラングの場合「死滅の谷」(1921)「ドクトルマブゼ」(1922)「メトロポリス」(1926)「スピオーネ」(1928)「M」(1931)といった作品はジャンルとしてのホラー映画ではないものの存在の未知性ということからはホラー映画と変わることはなくムルナウには「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921)が存在している。それに対してエルンスト・ルビッチはコメディの王様であり基本的にコメディというジャンルに『分断の映画史』は存在しないだろう。そんな甘い読みもあってルビッチは今回の論文からは除外して始めたのである。「呪の眼」(1918)を見るまでは。

★「呪の眼(Die Augen der Mumie Ma)(1918)

エジプトで現地の男(エミール・ヤニングス)に囚われている神秘的な女(ポーラ・ネグリ)を白人の画家が助け出してヨーロッパへ連れて行き、そこでショーガールになった女をヤニングスが連れ戻しに現れる、という物語で、グロテスクそのものに撮られているヤニングスを野獣に代えて、秘境から連れてこられた女が白人たちの見せ物にさせる、という点をミックスさせると「キング・コング」(1933)になるという先見的映画である。

★分断表③~鏡の中の分断

屋敷で椅子に座って談笑しているポーラ・ネグリと、彼女の背後のカーテンを開けて姿を現したエミール・ヤニングスとのあいだは、最初と最後のショットで同一画面に収められているが、2人は「鏡の中だけ」で同一画面に収められていて(『奇妙な同一画面』)、その2つの『奇妙な同一画面』に挟まれた4ショットはすべて内側から切り返されている。エジプトにいるはずのヤニングスがポーラ・ネグリの前に現れる、というシーンを、ネグリの前にヤニングスが現れる、ではなくネグリの背後にヤニングスが出現し、それを鏡の中に見つけたネグリが鏡の中のヤニングスを凝視したまま呆然と立ち上がるという演出に代えながら、2人が同一画面に収められるショットを鏡の中だけに限定しそのままこのシーンを終えるという『分断の映画史』の先陣を切るような分裂の恐怖をこの1918年の時点で完成の域まで到達させている。この作品は「カリガリ博士」(1919)の前年に撮られていながら映画的なレヴェルとして圧倒的優位に立っている。この作品を見て慌ててルビッチを見直したのだが、その後のルビッチの『分断の映画史』における過剰さがホラー映画の系統から来るのかそうでないのかはわからない。ただ、サスペンスが高揚する時に内側から切り返すという演出はあらゆるジャンルに共通する出来事であるだろう。

★「生活の設計」(1933)~分断表①~『奇妙な同一画面』

映画が始まってすぐ、汽車の三等室で眠っている劇作家(フレデリック・マーチ)と画家(ゲーリー・クーパー)2人と向かいの席に座ったデザイナー(ミリアム・ホプキンス)とのあいだは、最初のショットで『正常な同一画面』に収められた後、46810ショット目に劇作家と画家の「足だけ」がデザイナーと同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)13ショット目で3人の「足だけ」が同一画面に収められ(『世にも奇妙な同一画面』)1517ショット目では画家の「手と足だけ」とデザイナーの「足だけ」が同一画面に収められ(これまた『世にも奇妙な同一画面』)、スケッチの風刺画を含めて33ショット目に画家とデザイナーが『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。これを見ていると、内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』とは意図的にセットで撮られていること見えてくる。『奇妙な同一画面』が奇妙であればあるほどそれを意図的に撮る意志をそこに見出すことができる。

★イマジナリーラインの放棄~

1「カルメン(Carmen)(1918)~分断表⑥(74分過ぎ)

74分過ぎ、カルメンの後方のテーブル席に座った闘牛士(レオポルド・フォン・レーデバー)と振り向いて彼を見るカルメンとのあいだは、3ショットのウエスト・ショットによって内側から切り返されている。振り向いたカルメンから切り返されたショットには、カルメンの方を見てグラスを掲げて乾杯のゼスチャーをしている闘牛士が撮られており、どう見てもこれはカルメンの主観ショットの体裁で撮られているのだが、カルメンから見て柱の影のテーブル席に座ったはずの闘牛士がどうして正面からの主観ショットによってカルメンから見えてしまうのか、まったくもって「ずれ」ることに対する拒絶など存在しないかの如きこの快活な「正面への切り返し」もまたサイレント短編映画における歴史的「ずれ」の名残かも知れない(後に検討する)

2「寵姫ズムルン」(1920)~分断表⑬(49分過ぎ)

49分過ぎ、舞台のテントから出て来た踊り子ポーラ・ネグリ(とヘビ使いの女)と彼女を待っていた族長パウル・ヴェゲナー(と奴隷商人)とのあいだは、9ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。2人ともキャメラの右方向を見ていてイマジナリーラインが完全に「ずれ」ているこのシーンは別々に撮られたに違いないという分断の性向に満たされている。内側からの切り返しによる分断の醸し出す奇妙さのひとつには、多くの場合内側からの切り返しは内側から撮るため、切り返される相手の役者ではなくキャメラの方を向いて演技をすることから、切り返されたそれぞれのショットが別々に撮られることになる結果として「ずれ」てしまうのであり、ルビッチの場合、早くには「男になったら(Ich möchte kein Mann sein)(1918) の分断表⑦、「パッション(Madame DuBarry) (1919) の分断表⑦、「白黒姉妹(Kohlhiesel’s Daughters)(1920)における分断表④⑩などでイマジナリーラインが崩壊しているのは、一つには内側から別々に撮られたことの結果としての出来事として見ることができる。「男になったら」ではラストシーンで家庭教師の男(ヴィクトル・ヤンソン)がキャメラを正面から見据え続けることで、通常のイマジナリーラインを維持したままの娘(オッシ・オズワルダ)との視線が結果としてずれてしまうという、キャメラを正面から見ることにおける「サガ」ともいうべきイマジナリーラインのずれがラストシーンにおいて生じているが、こうした出来事は内側からの切り返しの結果として生ずる「ずれ」であり外側からの切り返しには基本的に見ることのできない映画の記憶である。

★ずれること~「寵姫ズムルン」~分断表⑨(26分過ぎ)

26分過ぎ、絹の織物を踊り子に見せる商人ハリー・リートケと踊り子とのあいだは、最初のショットで『正常な同一画面』に収められたあと、12ショット目で『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。2人が未だ相手を「その人」と気づく前の客観的空気に支配された最初の『正常な同一画面』が2ショット目で商人の顔を見て驚くネグリのクローズアップによって一気に破壊され、横にいるせむし男(ルビッチ)からもらった腕輪を落とす、落ちる腕輪のクローズアップ、それをルビッチが拾う、商人のクローズアップへ切り返される、、という一連の流れは物語的連鎖からあからさまに「ずれ」たショットの分断として露呈している。3人を複数のキャメラで同時に撮った場合このような「ずれ」が生じることはあり得ない。

★遠景を近景に
「ウィンダミア夫人の扇」(1925)~分断表①

競馬場の通路に立っているアイリーン・リッチと観客席の男(バート・ライテル)、その妻(メイ・マカヴォイ)、老卿(エドワード・マーティンデル)、青年ロナルド・コールマンとのあいだは、19ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。遠距離間同士の切り返しにも拘らず近景によって切り返され続けることで距離感が無化されている。

★窓の上と下

「カルメン」~分断表②(10分後半)

二階のテラスから身を乗り出しているカルメン(ポーラ・ネグリ)たちと、下で手紙を読んでいるホセと男たちのあいだは、15ショット目で二階から降りて来たカルメンと男たちが『正常な同一画面』に収められ、16ショット目でホセとカルメンが初めて『正常な同一画面』に収められている。ずっと前のショットで兵士たちのパレードを見るためにアパートのテラスと屋上に一斉に女たちが出て来るのだが、テラスを地上と関係づけるショットはロングショットで場所が把握できず、いわば浮遊したテラスにカルメンが登場し、そこでカルメンがテラスから地上に落下した髪飾りを男たちが拾うことによって両者の空間が部分的に接続された後、カルメンが地上に姿を現すという、映画的というには余りも映画的な細部によってカルメン登場シーンが撮られている。二階のテラスと一階の空間とは内側からの切り返しによって最後まで分断され続けている。以上はテラスを外から撮ったシーンである。

★「寵姫ズムルン」(1920)~分断表②

王宮の二階の窓から顔を出す女たちと下で座っている宦官たちとのあいだは、最初に同一画面に収められているがロングショットで「その人たち」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、その後の7ショットはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。「カルメン」(1918) でも見られたように二階の窓やテラスの女たちと階下の者たちとのあいだを正面から捉えた画面は分断される傾向を見出すことができる(これも内・外・ではなく外・外の場合である)

■物の落下 ここで二階の女たちが下の宦官たちの頭に果物を落とすショットは上と下で分断されている。分断表③においてもポーラ・ネグリが腕輪を落とす時、ネグリの手から腕輪が滑り落ちるショットAと、落ちる腕輪が地面に落ちるショットBとの2ショットに分けて撮られており、分断表⑤でズムルンが下の商人に花を投げ落とすシーンにおいてもまた、ズムルンが花を投げるショットAとその花が商人の足元に落下するショットBとが2ショットに分断されて撮られている。重要なのはBである。これについては論文「DW・グリフィス フレームと分離の法則」やペドロ・コスタ「何も変えてはならない」の批評において検討しているが、物が落下する時、ABかどちらか一方しか撮ってはならないとしたらルビッチはBを撮るだろう。Aは落下させた張本人という「物語」の付着したショットであり、Bは落下させた張本人から「分離」されたショットである。こうした「分離」の性向はおそらく内側からの切り返しによる「分断」とは、さほど遠い所にある現象ではない。

「カルメン」の分断表②において二階のテラスから落下した髪飾りは既に落下し終わった後のショットのみが撮られているし「ファラオの恋」(1922)分断表21女王が首飾りを首から引きちぎって捨てるシーンは、A女王が首飾りを引きちぎるシーンとB首飾りが床へ落下するクローズアップとに分断されていて首飾りが女王の手から落ちる瞬間は撮られておらず、「モンテ・カルロ(MONTE CARLO)(1930)では『■落下』で書かれているように、ジャネット・マクドナルドとジャック・ブキャナンがキスをするとき、ブキャナンの手に握られていた札束が落下して床に落ちるシーン(B)が撮られているが、ブキャナンの手から滑り落ちるショット(A)は撮られておらず、「天国は待ってくれる(Heaven Can Wait)(1943)の分断表①では階下の従弟と二階から彼の頭にコップの水をかける祖父チャールズ・コバーンとのあいだは、3ショット内側から切り返されそのまま終わっているが、そこではチャールズ・コバーンのコップから流れ落ちる水と、従妹の頭に振りかかるみずのショットとが『分断』されて撮られている。こうした傾向は早くには「男になったら(Ich möchte kein Mann sein)(1918) の分断表③においても見ることができ、(オッシ・オズワルダ)が二階から下の学生たちの口に向かって投げたお菓子は娘の手を離れるショット(A)と学生の口に当たるショット(B)に分断されていて、落下物における「分離」の「起源」とも言うべきショットがここに撮られており「白黒姉妹(Kohlhiesel’s Daughters)(1920)ではヘンニ・ポルテンの涙が落下して敷物に幾つもの染みをつくるショットが撮られているが(B)、涙がヘンニ・ポルテンの頬から落下するショット(A)は撮られていない。確かに「禁断の楽園(Forbidden Paradise)(1924)では皇帝(ポーラ・ネグリ)がわざとロッド・ラ・ロックの前でグラスを落とすシーンではAのみ撮られているがあくまでもそれは例外でありルビッチの撮り方はBが基本である。

★窓の内と外

以上は窓の上と下を正面から捉えた分断についてだが、ルビッチ映画に頻繁に撮られているのは窓の内と外との分断である。

「ロジタ(Rosita)(1923) ~分断表①②④⑤⑦⑧

ここで挙げた分断表12箇所の内、特に窓が絡む切り返しはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。そしてそれらの切り返しはすべて別々に撮られたような「ずれ」を生じている。ルビッチが窓の内と外を切り返す時、『内側からの切り返し表』に提示したほぼすべての作品についてのショットが内側から切り返されそのまま終わっている。そしてその大部分は僅か数ショットによる切り返しに終始している。少ないショットでも「ずれ」を生じる切り返しもあれば多くのショットを費やしても決して「ずれ」ない切り返しがある。小津安二郎の作品には「麦秋」での家の中の東山千栄子と窓の外の鯉のぼりの切り返しのように内と外との場所的関係が不明確なまま分断されて終わるシーンが多く撮られているが、その小津がルビッチをこよなく愛していたという事実は偶然ではないだろう。窓の内と外とは分断されなければならない。ルビッチのように、「裏窓」のように。

★『切り返し無き内側だけ』

「極楽特急」(1932)~③⑧のあとの■評

ここでは女社長(ケイ・フランシス)や泥棒(ハーバート・マーシャル)の話を聞いている執事、メイド、庭師等のショットが撮られているが、それが女社長や泥棒に切り返されることはなく、『切り返し無き内側だけ』が撮られただけでそのまま終わっている。これはレフ・クレショフ「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」(1924・ソ連)の①などにおいても見られた出来事であり、極めて強い分断の性向を持つ作品における傾向の現れと見ることができる。

■絵画のような
★「デセプション(Anna Boleyn )(1920)
分断表⑤(16分過ぎ)

スカートがドアに挟まったアンナ・ブーリン(ヘンニ・ポルテン)とドアを開けて入って来たヘンリー8(エミール・ヤニングス)との初めての出会いは、最初のショットで同一画面に収められているが王は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)4ショット目で『正常な同一画面』に収められるまで3ショット内側から切り返されている。最後の4ショット目で引かれたショットは、二つのドアの枠を奥と手前に挟み、奥のアンナ・ブーリンがこちらを見つめ手前のヘンリー8世が振り向いてこちらを向いたその瞬間は、静止させて見ると2人は何を見ているのだろうと絵画評論家のあいだで議論になるような見事なショットであり知られざるルビッチの世界を垣間見せるモーションピクチャーの瞬間である。

■「天国は待ってくれる(Heaven Can Wait)(1943)

分断表②と③~『切り返し無き内側だけ』

パーティへやって来た従弟の婚約者ジーン・ティアニーと彼女を見たドン・アメチーとのあいだは、彼女を見て顔色が変わってゆくアメチーの1ショットでそのまま終わっている(『切り返し無き内側だけ』)。③その直後、今度はドン・アメチーと彼を見たジーン・ティアニーとのあいだは、『正常な同一画面』に挟まれた1ショットが内側から切り返されそのまま終わっている。これもまた②に続いて1ショットの『切り返し無き内側だけ』が撮られていて「極楽特急(1932)、にも見られた強い『分断』の傾向である。外側からの切り返しが内側からの切り返しと同じくらい撮られているこの作品は会話によって切り返しが主導されてゆく「物語映画」であり、フローレンス・ベイツが地獄へ落ちたり、女の子とのカブトムシの話、フランス人の女性家庭教師とのやり取り。本屋での店員に成りすまし、ティアニーのくしゃみ。ティアニーの実家の両親の長いテーブルを挟んでの新聞漫画のやり取り、ティアニーを実家から連れ帰る時の父親の居眠り、息子の恋人への手切れ金、ティアニーとの最後のダンス、等、思い出のシーンがたくさん撮られている。この時期にルビッチはそれまでの『分断』の映画から『物語映画』への転換を果たしているのであり、その過程で撮られた『切り返し無き内側だけ』のような強い『分断』の傾向は映画史における記憶の彼方に消えようとしている。

■ロシアへ

これまでドイツ出身の監督について検討して来たが、ここで視点をロシア方面へと移してみたい。

『エイゼンシュテイン内側からの切り返し表』を提示する。

「ストライキ」(1924)

分断表①~キャメラを正面から見据えること・場所的不明確性

序盤、ブルジョアの工場長のオフィスに2人の労働者が入って来たシークエンスにおいて、タバコをふかしてふんぞり返るブルジョアの工場長と2人の労働者たち、そして秘書たちとのあいだは、最初と最後に工場長と労働者たちが同一画面に収まる以外の17ショットはすべて内側からの切り返しによって分断されている。エイゼンシュテインの処女作であるこの作品における最初の『分断』は、工場長と労働者がキャメラを正面から見据えているクローズアップがその分断性を強めているのみならず、驚いて逃げ出したり卒倒したりしている秘書たちと工場長たちとの場所的関係が無化されていることもまたショットの分断性を際立たせている。前後の物語から独立したショットの連なりによって切り返されたエイゼンシュテイン初の『分断』は極めて奇形的、動物的なショットの連鎖によって成り立っている。

分断表②(48分過ぎ)~『奇妙な同一画面』

ストライキが長期化したあとの二組目の労働者の家で、ベッドの上の父親と床に座っている赤ん坊とのあいだは、全部で27ショット撮られたうち赤ん坊と父親の「足だけ」)4ショット同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、さらに赤ん坊と父親の「首から下だけ」が2ショット同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外はすべて内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。それにしても、なぜここまでしてこの二人を奇妙に同居させる必要があるのだろう。『奇妙な同一画面』は、その同一性が奇妙であればあるほど分断性が強化されるのであり、エイゼンシュテインはその処女作における内側からの切り返しによる分断において、分断表①ではキャメラを正面から見据えるショット、場所的不明確性、②では『奇妙な同一画面』を奇妙すぎる関係で撮ることでショットとショットのあいだの分断性をより強化させている。

分断表③(51分過ぎ) 2人の労働者が工場側のスパイを捕まえて投げ飛ばすシーン~無化されたイマジナリーライン

走って来たスパイが立ち止まって振り向くと黒塗りの画面が左へワイプして二人の労働者が出現し三人は同一の画面に収まる(『奇妙な同一画面』)。そこからキャメラはスパイ→2人の労働者へと切り返され、2人の労働者はキャメラに触れそうになるまでキャメラに突進しそのままスパイを捕まえて画面の中へ引きずり込み向こうへ投げ飛ばすのだが、ここで画面の中へ引きずり込まれたスパイは後ろ姿だけしか見えずに「あのスパイ」と断定することはできず(『奇妙な同一画面』)、さらにスパイ→労働者たちへと2回切り返され、全部で8ショット、このシーンは2つの『奇妙な同一画面』と6つの内側からの切り返しによって成り立っている。まず黒塗りの画面が左にワイプすることによって労働者が出現してスパイと同一画面に収まるシーンの奇妙さはもとより、キャメラに接近して来る2人の労働者たちがスパイを投げ飛ばすシーンの奇形さは際立っている。ここで2人はキャメラを真っ直ぐ正面に見据えながら突進して来るのだが、その直後に2人は視線を画面の外にいる捕まえたスパイに移している。キャメラを正面から見据えるショットがスパイからの見た目のショットであるとしても、そうではないとしても、視線のつながりとしては完全に破綻している。これは物語をつないでゆくイマジナリーラインなど存在しないかのごとき視線の分断でありエイゼンシュテインは処女作からイマジナリーラインについて分断性を際立たせている。ラストシーンでキャメラを正面から見据える労働者の目をクローズアップで撮っているこの作品は、キャメラを正面から見据えるショットが50近くあり、人物の場所的不明確性、奇妙すぎる同一画面の存在、イマジナリーラインの放棄など、極めて強固な分断性によって撮られている。

★「戦艦ポチョムキン」(1925)~オデッサの階段

分断表③~オデッサの階段で撃たれて階段に倒れ踏みつけられる子供とその母親とのあいだは、まず階段を駆け下りて逃げる親子の移動撮影で『正常な同一画面』が撮られた後、3ショット目では撃たれて転んだ子供と母親の「スカートだけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、次のショットでは子供が転んだことに気づかずに逃げる母親と転んでいる子供が同一画面に収められているが子供の姿が撮られたのは一瞬で「その子供」と特定はできず(『奇妙な同一画面』)27ショット目で子供を抱き上げた母親とが『正常な同一画面』に収められるまですべて内側からの切り返しによって分断されている。

分断表④

さらに子供を抱いたまま兵隊を説得に行く母親と兵隊たちとのあいだは、15ショット目で後ろ姿の母親と兵隊たちが同一画面に収められているが母親は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)17ショット目では母親と兵隊たちの「影だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)18ショット目と20ショット目では母親と後ろ姿の兵隊たちが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)21ショット目と23ショット目で撃たれて倒れこむ母親と兵士たちの「影だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)26ショット目で後ろ姿の兵隊たちと遠景の母親が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)このシーンは終わっている。全26ショット、『正常な同一画面』はひとつも撮られていない。

分断表⑤ 

オデッサの階段で母親が撃たれ乳母車が階段を転げ落ちてゆくシーンで撃たれた母親と彼女を撃った兵隊たちのあいだは、21ショット目で母親が倒れこむまですべて内側からの切り返しによって分断されている。

分断表⑥ 

滑り落ちてゆく乳母車とそれを目撃している女と男と乳母車とのあいだは、約21ショットすべて内側からの切り返しによって分断されてそのまま終わっている。滑り落ちてゆく乳母車と驚愕する女、そして成瀬目線で乳母車を追いかけているように見える男とは、彼らが乳母車を実際に見ていたかさえ不確かな空間的不明確性に満たされていてここでもまた内側からの切り返しによる『分断』によってイマジナリーラインは殆ど無化されている。

■この乳母車は何か

まるで周囲に人間など存在しないかのように人間たちの「ずれ」た視線から解き放たれたこの乳母車は、撃たれた母親が倒れ込んで発車した不可抗力の賜物であり母親から「分離」した浮遊物となってショットとショットのあいだで露呈している。エイゼンシュテインのモンタージュはイマジナリーラインも意味も物語も持たない独立した浮遊物を編集によってつなげてゆく作業であり、そこにあるのは極限まで人間味をはぎ取られたショットとショットの繋がり無き「衝突」であり、結果としてつながれてゆく物語は持続性を欠いた吃音的発露となって発散されることになる。

■内側からの切り返しによる分断との関係

ショットとショットとが物語的につながれていないエイゼンシュテインにとって内側からの切り返しによってショットとショットを分断させることは当然の流れとなる。否、内側からの切り返しが先で、結果としてショットとショットが繋がれていないのかも知れない。どちらが先なのかは不明だが、内側からの切り返しによって分断されたショットにおける前後の物語からの切断性が強ければエイゼンシュテインとなり、少し弱まるとルビッチになり、ラングになる、そのどちらもが前後の物語から多かれ少なかれ切り離されていることにおいては共通している。映画の手法は限られている。エイゼンシュテインだけがまったく異質の映画を撮ることはあり得ない。

『ロシア映画内側からの切り返し表』を提示する。

プドフキン「母」(1926)

分断表①

酔った夫が帰宅した時、16ショット目で時計の中の金を取ろうとする夫に母がしがみつき同一画面に収められるが夫は「下半身だけ」母は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)34ショット目に母と夫が同一画面に収められているが夫は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)53ショット目に初めて母と夫が『正常な同一画面』に収められるまで内側からの切り返しによって分断され続けている。内側からの切り返し、『奇妙な同一画面』、早いショット転換、陰影の強い照明等、エイゼンシュテインと何ら変わるところはない。あるとすれば、飲んだくれの父親と家族の苦渋という人間の物語がここに展開されていることである。

分断表⑤

息子が法廷で裁かれるシークエンスはまるでカール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」(1927)のように殆どすべてがクローズアップで切り返されていて内側からの切り返しを数えるよりも同一画面の数を数えた方が正解であり、ここでは最後のロングショットでそれなりに『正常な同一画面』が撮られた以外はすべて内側からの切り返しによって分断されている。『分断』という点からするならばこの作品はあらゆるエイゼンシュテインの作品よりも強い分断の傾向によって撮られている。ここで両者の比較論は終わりにしよう。重要なのはエイゼンシュテインもプドフキンも『分断』をひとつの方法として映画を撮っているという事実である。

★レフ・クレショフ

「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」(1924)

分断表① 

映画のオープニングで画面の外から投げられた旅行かばんをウェスト氏(ポルフィーリー・ポドベード)が受け取るシーンから映画は始まるが、8つのかばんを2つのショットでキャッチするこのシークエンスでは、投げている者へとキャメラが切り返されることはなく、ただひたすらウェスト氏がかばんをキャッチするショットだけで終わってしまうのであり、『内側からの切り返し』どころか『切り返し無き内側だけ』によって空間が分断されている。こうした傾向を最初に持ってくるこの作品はその後の展開を予想させるに十分な始まりかたをしている。この傾向はエルンスト・ルビッチ「極楽特急」(1932)の③と⑧の直後に撮られたショットなどにも見ることができる(■評 参照)。その作品はルビッチがハリウッドで撮った作品の中でもとりわけ『分断』性の強い作品であったことは偶然ではない。

分断表④~ロシアに到着して早々、鞄を少年に盗まれるシークエンス。

って来た少年がかばんを盗んで走り去るまで字幕抜きで10ショット撮られているが、少年とウェスト氏とのあいだはすべて内側からの切り返しによって分断されている。少年とカウボーイ(この人はボリス・バルネットである)とのあいだは、最後のショットで同一画面に撮られているが、カウボーイは後ろ姿で「あのカウボーイ」と特定はできないように撮られている(『奇妙な同一画面』)。その後、泥棒の少年の回想によってかばんを盗むシーンが1ショットで再現されているが、そこではウェスト氏とカウボーイ、少年が同一画面に収まっているもののウェスト氏とカウボーイはわざわざ後ろを向いていて「その人」と特定することができない(『奇妙な同一画面』)。回想でも殊更顔を隠すというこの性向こそ、『奇妙な同一画面』の映画史に名を連ねるべき奇妙な性向にほかならない。

分断表⑥

ウェスト氏のかばんを拾って届けに来た詐欺師(この人はフセヴォロド・プドフキンである)に『窓の外を見ろ』と促されたウェスト氏が窓の外の詐欺師たちを確認するシーンにおいてウェスト氏と詐欺師たちのあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。場所的に同一画面に収めることができるかは微妙だが、別の場所で撮られたショットをつなぎ合わせて編集しているように見えるこの切り返しこそルビッチ的『窓の分断史』の踏襲にほかならない。

分断表⑧

詐欺師のアジトでぐるぐる巻きにされて縛られているウェスト氏の部屋に女(アレクサンドラ・コフローヴァ)が入って来てからの2人のあいだは、ぐるぐる巻きにされて顔が見えないウェスト氏と女とが最初のショットで同一画面に収められて以降(『奇妙な同一画面』)、縛られている女とウェスト氏とが何度かキャメラを正面から見据えたクローズアップで切り返されたあとウェスト氏が部屋から運び出されるまでの21ショット、すべて内側から切り返されそのまま終わっている。極めて奇形的な『分断』の傾向をここに見ることができる。

ラストシーンでウェスト氏がキャメラを正面に見据えて終わるこの作品は人物がきわめて多くのショットにおいてキャメラを正面から見据える作品であり、その傾向として内側からの切り返しが非常に多く撮られている。キャメラを正面から見据えることは内側から切り返されることと不可分であり、両者は密接に関連している。

★ジガ・ヴェルトフ「カメラを持った男」(1929)

分断表②

カメラのみが捉えることのできる真実(キノプラウダ)によってソビエト第一次五か年計画下の都市と民衆の一日を撮ったこの作品は映画の開始から幾何学的画面と高速のリズムで出来事の断片を撮り続けて進んでゆくアヴァンギャルドであり、キャメラ対被写体の関係が主であることから、同一空間に2人以上の人間の存在が前提となる「切り返し」という物語的手法は不在のようにも見える。だが映画も終盤に入り円盤投げや走り高跳び、ビーチバレー、競走馬等の競技がスローモーションで撮られ始めると、それを見ている観客の存在が突如挿入され、観客たちのクローズアップが競技者とのあいだで切り返されることになるのだが、その38ショットすべてが内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。

分断表③

さらに大道芸の演技とそれを見ている子供たちクローズアップとの切り返しもまた17ショットすべて内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。

分断表④

ストップモーションアニメのように脚立とキャメラが自動的に動き出しそれを観客が見ているシーンにおいてキャメラと観客のあいだは20ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

これらの観客のクローズアップは競技者ないし演技者の運動の方向とは逆に視線が流れたり(イマジナリーラインのずれ)、競技が成功すると驚くのではなく笑ったり、そもそも演技者と観客たちとの場所的関係がロングショットなどで一切撮られていないこの空間は、イマジナリーラインの「ずれ」どころか観客が競技者と同一の空間に存在しているか否かすら不確かに撮られている。DW・グリフィスの現存する短編で確認できた最初の切り返しは「THE DRUNKERS REFORMATION(酔っぱらいの改心)(1909)という作品であり、ここでは観客席の観客たちと舞台の上の劇とのあいだが、22ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。こうした『観客と舞台』の歴史的記憶がジガ・ヴェルトフによって受け継がれていたとしても不思議ではない。

■『分断の映画史』はハリウッド映画にも存在するか。『ハリウッド映画(ほか)・内側からの切り返し表』を提示する。

未だ『分断の映画史』についてはその体系が不明であることからその探求もこれからはしらみつぶしのランダムになる。ここから上げる作品については何か思惑があってこの順序で提示するわけではない。

★古典的デクパージュ

ハリウッド映画といえは古典的デクパージュが有名であるが、それについては『論文ヒッチコック・最終章』で以下のように書いている。

『~古典的デクパージュと言われる映画の撮り方であり、それは登場人物の行動を心理的に分析し、それを分かり易く分断して提示する編集方法によって提示することで観客に「納得」という安心をその都度プレゼントするところの心理映画の手法である。異質なものではなく均質なものを、不平等ではなく平等を、Aが話している時はAを撮り、Bがしゃべり出すとキャメラはBへと切り返されることで画面が物語的に連鎖してゆく古典的デクパージュは最後にカッティング・イン・アクションでキャメラを引いて全体像が映し出されると、見ている者たちは過不足なく言語的分説化に包まれた「読める」画面に癒されることになる。映像が会話を主導するのではなく会話が映像を従えて進んでゆく。運動の優位から物語の優位へ、「すること」から「であること」へ、「見ること」から「読むこと」へ。ハリウッド映画という範疇には倫理規定のみならず、あるいはそれ以上に商業的成功を見越した大衆の支持が大きく要求されることから、観客の見たくないもの、不快なもの、理解できないこと等、観客を不愉快にする出来事=「すること」は極力回避しなければならない。』

まずここで書かれている『Aが話している時はAを撮り、Bがしゃべり出すとキャメラはBへと切り返される』とは内側からの切り返しでも外側からの切り返しでもどちらでもよく、重要なのは会話によって切り返しが主導されていることであり、それによって『映像が会話を主導するのではなく会話が映像を従えて進んでゆく』ことになる。キャメラが切り返されるとき、物語が主になり、人物は従となる。

A物語を過不足なく語るために人物が一人しか画面の中に映らない内側からの切り返しよりも2人同時に映る外側からの切り返しが多くなる。

B一度に多くを撮るためにキャメラは一台ではなく二台となる。

C切り返しによる照明は人物を照らすものではなく場を照らすものとなり明るくなる。装置、美術もまた人物でなく場によって固定されている。

Dスタジオには常にAB2人が揃いABに対して言葉を発しBAに対して言葉を発する。ABを見ながら、BAを見ながら言葉を発しているのだからキャメラを正面から見据えることはなく、結果としてイマジナリーラインは合わされることになる。

E内側から切り返される場合、AとBとは現場で向き合っているのだからそのあいだにキャメラを置くことはできず、キャメラは三角形の支点に置かれ切り返しは正面からではなく斜めからなされることになる

★ゴダール~「アワーミュージック(Notre musique)(2004)

ゴダールは「アワーミュージック」に出演した「ゴダール教授」という人物に、ハワード・ホークス「ヒズ・ガール・フライデー」(1939)におけるケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルの写真を交錯させ『同じ写真を二度使ったように見える。監督が女と男の違いを区別できなかったからだ。似通っているから厄介なのだ』と言っている。言ったのは映画の内部の「ゴダール教授」であり外部のゴダールさんではない。従ってこの言説をゴダールさんの言葉として引用することは差し控えなければならず、仮にそれがゴダールさんの「真意」だとしてもそれが「真実」である保証はない。たたここでは、果たして「ヒズ・ガール・フライデー」で切り返された2つのショットが「同じ写真」なのかを検討してみたい。

★「ヒズ・ガール・フライデー(HIS GIRL FRIDAY)(1939)

この作品はロザリンド・ラッセルの役を原作の男から女に変更したものでありそれをして『監督が女と男の違いを区別できなかったからだ。』ということになるのかどうかは別にして、この作品はざっと計ってみたところ内側からの切り返し89ショット。 外側からの切り返し66ショットと、外側からの切り返しが非常に多い。またある種の群像劇であり、1人対1人の切り返し自体が非常に少なく、Aが撮られたあと、次にBCDEをすべて画面に撮りこんだフルショットへと切り返されるといった多人数への内側からないし外側からの切り返しが基本であり、またカッティング自体が切り返しなのか「引き」なのか「寄り」なのか判断に困惑するようなものもまた多く撮られている。そうした中で『分断』の傾向を示しているのは分断表の⑤、と①②③⑥の『窓空間』くらいであり、殆どのショットは『正常な同一画面』を長回しや角度を変えて会話を軸に撮られていて、そうした画面が切り返されたとき、「ゴダール教授」の言うような「同じ写真」に見えるにしても不思議ではないだろう。

★「駅馬車(STAGECOACH)(1939)~ジョン・フォード

分断表① 場所的関係性の無化・心理的空間の創設。

カードゲームをしながらふと窓の外を見たギャンブラー(ジョン・キャラダイン)と駅馬車の小窓から顔を出した淑女(ルイーズ・プラット)とのあいだは、4ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

二つの『窓空間』に挟まれて内側から切り返されることによるルイーズ・プラットとジョン・キャラダインの見つめ合いは場所的関係性を無化した2人だけのプライベートな空間を作出している。前述の『古典的デクパージュ』とは逆に、ほぼ正面から撮られたルイーズ・プラットとジョン・キャラダインにはそのどちらにも窓枠の影が微妙に頬に落ちた光がほんのりと当てられており、各々のために照明を修正しなければ撮れないショットが連鎖しているということは、「ずれ」ているということであり、別々に撮られたということであり、内側から切り返されているということにほかならない。

分断表③ イマジナリーラインの崩壊。

ガンマン(ジョン・ウェイン)が走って来る駅馬車を止めた時、駅馬車の御者席の保安官(ジョージ・バンクロフト)(アンディ・ディバイン)の2人とガンマンとのあいだは、6ショット目で『正常な同一画面』におさめられるまですべて内側から切り返されている。

ここでガンマンはキャメラの左方向を、御者席の保安官と御者もまたキャメラの左方向を見ていてイマジナリーラインが見事に崩壊している。これもまた別々に撮られたに違いないと確信できるショットの連鎖が撮られている。別々に撮られているからこそイマジナリーラインが「ずれ」るのであり、イマジナリーラインが合う、合わないは『別々に撮ること』、或いは『内側から切り返されること』の結果としてもたらされる。

分断表④ 別々に撮られるのは、、、

最初の休憩地点を出発した駅馬車の窓から顔を出した淑女と、馬に乗りながら振り向いた騎兵隊員(ティム・ホルト)とのあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。

騎兵隊員のティム・ホルトのショットはロケーション、ルイーズ・プラットの馬車はスタジオで撮られており、その見事すぎるほど見事に揺れて見せる馬車の小窓から顔を出しホルトに向かってハンカチを振るプラットのショットはもちろんホルトのショットとは別々に撮られているのだが、このプラットのショットはスタジオだからこそこれだけ見事に撮られたのであり、そうして生じた『別々に撮ること』による「ずれ」はイマジナリーラインの「ずれ」と同じく目的ではなく結果として現れてくる。小刻みに揺れる馬車の小窓から顔を出してハンカチを振るルイーズ・プラットのショットが夢のように浮遊しているのは撮られるべくして撮られたショットだからであり、それは取りも直さずこのショットが内側から切り返されたショットであることにほかならない。

分断表⑥ 決闘

決闘のシーンは最初のショットで手前のガンマンと奥のトム・タイラー等3兄弟とが同一画面に収められているがロングショットで4人とも「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、その後は3ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

僅か3ショットの切り返しだが、次第に接近する両者を内側から切り返し、最後は歩いて来たジョン・ウェインが突如伏せて発砲するショットを正面から撮り、それも殆どキャメラを正面から見据えているジョン・ウェインのショットでこのシーンは終わっていて、当然ここは別々に撮られているのだが、さらにそこから切り返しのショットを撮った結末を見せることはない。物語的には切り返して見せるべきショットを撮らずにそのまま終わらせてしまう傾向には、レフ・クレショフ「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」(1924)ルビッチ「極楽特急(1932)に通じる『切り返し無き内側だけ』を撮ってしまう極めて強い『分断』の傾向を見出すことができる。

評 分断表の中で『正常な同一画面』に挟まれた分断シーンは1つもない。『正常な同一画面』の入る分断シーンは③のみであり、それ以外はすべて内側からの切り返しによって分断されそのまま終わっている。

■馬車の中の人物関係。

「駅馬車」には馬車の中が撮られたシークエンスが12箇所ほどあり、客席に3人と3人が向かい合いの席に座り、さらに1人が床の上に横向きに座って最大7人が乗り込んでいるが馬車の中ではすべて内側からの切り返しで分断され続け『正常な同一画面』が1ショットも存在していない。3人と3人、1人と1人、というように乗客の部分が同一画面に収められることはあっても、7人を同時に捉えたショットは1ショットも撮られていない。最初のシーンでは主に銀行家(バートン・チャーチル)と医者(トーマス・ミッチェル)の会話に重きが置かれているので関係のないギャンブラー(ジョン・キャラダイン)のショットは1ショットも撮られておらず、ガンマン(ジョン・ウェイン)が乗り込んできたあとの直後の馬車ではガンマンと他の客は1ショットも同一画面に収められておらず、娼婦(ルイーズ・プラット)と淑女(クレア・トレヴァー)が水筒の水を飲むシーンでは関係のない医者とセールスマン(ドナルド・ミーク)は後者が一瞬画面の中に入って来ただけであとは除外され続けている。その時その時のサスペンスによってフレームの中に収められる人物が限定されている。分断表⑤のギャンブラーが撃たれて死ぬシーンについてはヒッチコック論文の「8秒ショット」として検討したが(ジョン・ウェインが8秒間じっと見つめ続けている)、馬車のドアを開けたガンマンから切り返された馬車の中にはギャンブラーと医者、そして淑女の3人しか撮られておらず、なおかつそのショットは正面から撮られている。その正面には銀行家と矢を撃たれて瀕死のセールスマン、そして娼婦の三人が座っているはずだが、彼らの主観ショットとして撮られているわけではなく、この瞬間この3人は消えてなくなってしまっている。一人の人間が息を引き取るか否かという場面において「関係のない」彼らなど存在しないかのような実に大胆な『分断』空間が撮られている。

■別々に撮ることは結果である。

「駅馬車」という映画の『分断』は多くの場合、別々に撮られたショットによって構成されている。なぜ別々に撮るのか。それは『撮られるべくして撮られるショット』だからであり、その人が「そのひと」として撮られているからである。その人を「そのひと」として撮り、「そのひと」と「そのひと」とが切り返される以上、それらが「同じ写真」になることはあり得ない。「そのひと」は世界で「そのひと」しか存在しないからである。そのショットを物語の過程としてではなく「そのショット」として撮るとき、当然ながら「そのショット」は物語の流れから「ずれ」ることになる。イマジナリーラインのずれも、別々に撮られることも、内側から切り返されることも、そして『分断』それ自体も結果に過ぎない。あらゆる絵画がその人を「そのひと」として描くためにそのアングルは基本的に正面からとなるように、映画がその人を「そのひと」として撮る時、斜めから撮るよりも正面から撮ることになり、その結果、「そのひと」が見つめるのは相手役ではなくキャメラであり、そこには光源とは別の「そのひと」のための光が当てられ、その都度照明が修正されるために実際の光とは「ずれ」を生じることになる。「場」よりも「そのひと」を優先するため場所的な関係は不明確になり「そのひと」は場所との関係を失い浮遊する。「駅馬車」とはそういう風に撮られた作品である。従って「駅馬車」の『分断』には『奇妙な同一画面』が分断表⑥の1ショットしか撮られていない。「駅馬車」はその人を「そのひと」として、そのショットを「そのショット」として撮る映画であり「めまい」(1958)「メトロポリス」(1926)のように、ある程度『分断』によるサスペンスを目的にして撮られた作品とは違っている。よくジョン・フォードはマルチ・キャメラの監督と言われることがあるがマルチ・キャメラでその人を「そのひと」と撮ることは決してできない。

★注 ここで使われている「そのひと」は、これまで『奇妙な同一画面』の特定に使われていた「その人」とは異質の物語性を剥いだ裸性の出来事を指している)

■古典的デクパージュはだめ?、、

「駅馬車」は「古典的デクパージュ」とは正反対の方法で撮られた映画であり、その人を「そのひと」として撮った作品である。対して「古典的デクパージュ」とはその人ではなく「その物語」を、そのショットではなく「その場」を優先させる撮り方であり、その過程でその人は、物語の中へと吸収されることになる。

★「或る夜の出来事」(1934)

フランク・キャプラの撮ったこの作品における『分断』は①しかなく、それも「同じ写真」に接近したショットの切り返しであり、基本的にほとんどのショットでゲーブルとコルベールは同一画面に収められている。しかしこの作品は、ジェリコの壁やヒッチハイクといった有名なシーンのみならず、バスの中での出会い、休憩地点での出来事、夫婦喧嘩の偽装で探偵を騙す、ギャングと見せかけて男を脅す、藁の中での一夜、川を渡る時の肩車論争、など、幾つもの思い出のシーンが想起できる作品であり、フリッツ・ラング「死刑執行人もまた死す」(1943)「飾窓の女」(1944)といった作品もまた『分断』の傾向は弱いものの極めて「面白い」作品になっている。こうした映画をひとまずここで「物語映画」と定義するとして、『分断』の傾向の有無は、必ずしも映画の価値にそっくり直結するものではない、として、検討を進めていきたい。まず重要なのは羅列することである。ちなみに「或る夜の出来事」についてはこれまで書いたことがなかったので少しだけ書くとすると、あの富豪の父親ウォルター・コノリーがなぜあそこまで娘のクローデット・コルベールに世話を焼くのか、家出をするほど父親を嫌っていたはずの父親の言うことをなぜ最後になって父親の助言をアッサリ聞き入れて駆け落ちするのか、という疑問が湧いてこないではない。よく見ると、お金持ちのお嬢さんであるクローデット・コルベールには母親がいない。映画はこの点について殊更語ろうとはしていない。ということは、それは重要なことである、というのが映画の鉄則だが、この親子は妻(母親)不在の中でこれまで生きて来た。あの父親はいわば娘の母親代わりであり、通常の父親以上に娘とのつながりの強い父親なのだ、ということが省略されている。撮られていないことが却って感動をもたらすことがある。映画の鉄則である。

■「市民ケーン」(1941)~オーソン・ウェルズ

人は見たいものしか見ない。見たくないものは見えない。映画史において長回しとパンフォーカスで有名なこの作品は『分断の映画』でもある。

分断表①

最初の妻、ルース・ウォリックとの結婚生活が次第に冷え切ってゆく様子を時の経過とともに捉えた朝食のテーブルで、向かい合って座っているオーソン・ウェルズと妻とのあいだは、最初に『正常な同一画面』に収められた後、26ショット目にキャメラが引かれて同一画面に収まるまですべて内側から切り返されている。多くのショットが同じ角度から同じサイズで切り返されてゆくこのシーンは、時の経過とともに服装もメイクも表情も変化してゆく夫婦を撮ることで「同じ写真」を拒絶しながら夫婦間の次第に離れてゆく距離を内側からの切り返しによって分断している。ここには長回しもパンフォーカスもない。あるのは2つの『正常な同一画面』と背景のぼやけた25の内側からの切り返しである。ここまで切り返しの非常に少なかった「市民ケーン」がこれ以降、切り返しを加速させてゆくことになる。

分断表②

歯痛のドロシー・カミンゴアと出会ったあと彼女の部屋に入り一度閉めたドアを開けたあとのウェルズとカミンゴアとのあいだは、最初『正常な同一画面』に収められた後、化粧台の鏡の中に映し出された彼女とウェルズとのあいだをキャメラは5回内側から切り返されそのまま終わっている。ウェルズと向き合って座っているカミンゴアがウェルズと切り返されるのではなく、ウェルズの背後にある鏡の中の彼女とウェルズが切り返されるという極めていびつで「ずれ」た切り返しによって2人は分断されている。こういう切り返しはこれまで一度も見たことはない。長回しとパンフォーカスは人と人とを同一画面に収めるための方法であり少なくとも『分断』するための撮影ではない。持続している長回しの中で人と人を分断することは可能であるしパンフォーカスとはそもそも奇形的な撮影方法であり手前に異常に大きなクローズアップを置いて奥とのピントを合わせることである種の分断を醸し出すこともまた可能だろう。家の中のアグネス・ムーアヘッドと外でそりを滑っている少年とが窓を通して撮られたパンフォーカスは確かに分断を醸し出しているのかもしれない。しかしこの②で撮られた鏡の中の女はキャメラの右を、男もまたキャメラの右を見ているのであり、このような鏡の中でのイマジナリーラインの破壊による『分断』は、むしろ終盤、男が複数の鏡の中に埋没していったような「分裂」であり、このような効果までが長回しやパンフォーカスによって撮られることはない。

分断表③

②の直後、母親の遺品を見に行く途中だった、と話すウェルズとカミンゴアのあいだは、『正常な同一画面』に挟まれた6ショットがすべて内側から切り返され、さらにその後、2人のあいだは5ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。『正常な同一画面』に挟まれてすべてやや斜めからのクローズアップで切り返されたこのシーンは、笑っていたカミンゴアの右頬に落ちた影と微妙に静まってゆく彼女の表情の変化によって2人の運命を決する切り返しが「違う写真」によって撮られている。

分断表⑤と⑦~外側からの切り返し

⑤では、泥酔してタイプライターに顔を埋めているジョセフ・コットンと彼の前に立っているオーソン・ウェルズとのあいだは、24681012ショット目でウェルズと手前のコットンの「背中だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)7ショット目ではコットンとウェルズの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外はすべて内側から切り返されそのまま終わっている。タイプライターに顔を埋めているコットンを正面から撮ったショットにしてもかろうじて「その人」と特定できるに過ぎないこのシーンは、すべてが「奇妙な」ショットの切り返しによって分断されている。分断表⑦では自殺未遂をしてベッドに横たえているカミンゴアと彼女を見守るウェルズとのあいだは、最初と3ショット目で同一画面に収められているがウェルズは後ろ姿で「その人」と特定できず、2ショット目でもまた2人は同一画面に収められているが手前のカミンゴアが向こうを向いていて「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)、この3ショットでそのまま終わっている。⑤の場合、24681012ショット目が外側からの切り返しであり、⑦は3ショットすべてが外側からの切り返しで撮られている。外側からの切り返しは内側からの切り返しに比べてその人を「そのひと」として撮ることにおいて劣ることを検討したが、『奇妙な同一画面』を撮るにあたっては頻繁に使われている切り返し方法である。しかし外側からの切り返しはすべて真後ろから切り返す必要などなく、手前の人物の顔を「その人」と特定して撮ることも可能なはずである。それをわざわざ特定できないように切り返し続けるこうした撮り方は意図的に選択されたのだと見るほかはない。

分断表⑧

ピクニックのテントの中で言い争いをしているカミンゴアとウェルズとのあいだは、最初のショットで同一画面に収められているが手前のカミンゴアが後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、それ以外の8ショットはすべて内側から切り返されそのまま終わっている。さらにバンドの演奏を挟んで続けられる2人のいさかいは、前のシーンから続けて数えて1012141618ショット目に2人が同一画面に収められているが、カミンゴアが「後頭部だけ」で「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)15ショット目にはカミンゴアと彼女を平手打ちするウェルズの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、全19ショットが内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』のみで終わっている(8ショット目でウェルズがキャメラを正面から見据えるクローズアップが入る)1012141618ショット目が外側からの切り返しだが、ここでもまた執拗にカミンゴアの「真後ろ」から切り返されることで彼女が特定されないように撮られている。

一連の『分断』から見られるのは長回しとパンフォーカスと同じように『分断』による撮り方も意図的に選択されているということである。「駅馬車」(1939)40回見た、と豪語するオーソン・ウェルズだが(『作家主義』376)、「駅馬車」にこのような奇妙な外側からの切り返しなど1ショットも撮られていない。ウェルズは演劇からいきなり監督として「市民ケーン」を撮ったのであり助監督などをして撮り方の経験を積んでいるわけではない。処女作「市民ケーン」を25歳で撮ったウェルズはいったいどこでこのような撮り方を手に入れたのだろう。

■「グリード(GREED)(1924)~エリッヒ・フォン・シュトロハイム

分断表2新婚初夜のシーン

部屋に入って来た妻ザス・ピッツと手前の椅子に座っている夫ギブソン・ゴーランドが縦の構図で同一画面に収まっている。そこから妻と、椅子に座っている夫の後ろ姿とが何度か切り返され、ベッドや鳥籠のショットが挿入されたあと妻は部屋から逃げ出してしまう。その間の10ショットはすべて内側から切り返され、最後は部屋を出て行く妻の「体半分」と手前の夫とが同一画面に収まるという極めて『奇妙な同一画面』で終わっている。さらに部屋に戻って来た妻と夫とはずっと内側からの切り返しによって分断され13ショット目で夫が後ろ姿から画面の中に入ってきて『正常な同一画面』に収まるまで分断され続けており、その前のシーンと加算すると23ショットものあいだ2人は内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』によって分断され続けている。恐怖に怯えるザス・ピッツの周囲は真っ暗に縁どられ、そこへ夫がグロテスクなクローズアップで襲い掛かるこのシーンはホラー映画さながらの新婚初夜が強度の分断の性向によって実現されている。

■「河(THE RIVER)(1928) ~フランク・ボーゼージ

ムルナウ「都会の女(CITY GIRL)(1930)のチャールズ・ファレルとメアリー・ダンカンのコンビで撮られたこの作品は現存するフィルムは50分だけだがその中でも多くの『分断』が撮られている。

分断表①

岩肌に座っている女(メアリー・ダンカン)とカラス、斜面にそびえ立つ小屋、渦巻きに吸い込まれる樽とのあいだは、9ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

■評 あの斜面にそびえ立つのは労働者の居住小屋だろうか、見ようによっては実物大のセットにも見えるしミニチュアにも見え、また合成の書き割りのようにも見えるこの斜面に立ち並ぶ掘立小屋のショットは、それを岩肌に座って見つめているメアリー・ダンカンのショットとは繋がりようのない強度でもって『分断』している。このシーンに出て来る斜面の小屋、カラス、そして渦巻きに巻き込まれる樽のショットはすべて間違いなく別々に撮られていると断言できるほど「ずれ」まくっている。

分断表②

その直後、岩肌に座っている女と河から流れて来た男(チャールズ・ファレル)とのあいだは、最初のショットで『正常な同一画面』に収められた後、6ショット目で再び『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。

■評 分断表①の直後、岩肌に座っているメアリー・ダンカンの画面の下から仰向けに浮かんだチャールズ・ファレルがゆらゆらと流れてくる。初めての出会いのシーンで2人はこうして『正常な同一画面』に収められているが、この『正常な同一画面』が到底正常には見えないほど「ずれ」ている。それは、それ以前にどんな対象とも決して整合した物語になど収まることなどなくたった一人で「ずれ」切ってたたずんでいた女のもとにまったく同じテンションで画面の下部からゆらゆらと流れてきた男といきなり『正常な同一画面』に収まってしまった驚きでもあり、再び別々に撮られた内側からの切り返しが続いた後、もう一度『正常な同一画面』に収まってしまう再度の驚きは、いるはずのないものが、それまで「ずれ」切っていたメアリー・ダンカンの時空とまったく同じテンションで侵入しそのまま『正常な同一画面』に収まってしまうことの違和感(ずれ)のもたらす驚きに違いない。ともすれば客観性という物語を主導することになりがちな『正常な同一画面』が、内側からの切り返しによる『分断』をさらに強化するような現象は初めての体験である。

■「The Good Bad-Man(善良な悪人)(1916)~アラン・ドワン

分断表①

自分の帽子をベッシー・ラヴの頭から取り返して逃げて来たダグラス・フェアバンクスが小屋の中に入って来たあとの戸口に立っているベッシー・ラヴとのあいだは、7ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。■評 戸口に立ちどまりその顔に影を落としたベッシー・ラヴの姿が既に前のショットから大きく「ずれ」ていて、その後やや斜めに構えながら柱に寄りかかり自分の編んだ髪を弄びながらちらちらとキャメラを正面から見据えながらツーン、と知らん顔をして見せるラブのショットもまたその前後のフェアバンクスのショットとは明らかに別々に撮られていて、その後、遠く駆けてゆくフェアバンクスに窓枠に座って手を振るベッシー・ラヴのショットに終わるこのシークエンスのエモーションはベッシー・ラヴの圧倒的な「ずれ」によって成し遂げられている。フェアバンクスを添え物に降格されてしまうようなこのベッシー・ラヴのショットの露呈は、1916年あるいは同時期にDW・グリフィスによって撮られたリリアン・ギッシュのクローズアップのとは全く異質、異次元の生々しさであり、グリフィスとはまったく違った環境から出て来た次世代の波をグリフィスはどう感じていただろう。

■「大砂塵(OHNNY GUITAR) (1954)~ニコラス・レイ

分断表①~スターリング・ヘイドンとのあいだその1

二階からジョン・クロフォードが出て来たとき階下のスターリング・ヘイドンとのあいだは、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。以前、恋人同士であったはずの2人の出会い(再会)のシーンはロングショットを軸にさり気なく撮られそのまま終わっている。

分断表②~マーセデス・マッケンブリッジとのあいだ

死体を担ぎこんできた一味(マーセデス・マッケンブリッジ等)とジョン・クロフォードとのあいだは、18ショット目で同一画面に収められているが一味が後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)65ショット目でクロフォードがマーセデス・マッケンブリッジと『正常な同一画面』に収められるまですべて内側からの切り返しによって分断されている。

分断表③~スターリング・ヘイドンとのあいだその2

カウンターにローヤル・ダーノが回したグラスをヘイドンがキャッチした後の彼とクロフォードとのあいだは、4ショット目で『正常な同一画面』に収められているがロングショットのクロフォードは「その人」と特定できるのは一瞬であり「正常な」とは形容しがたい収まり方をしている。いやしくも主役の2人の撮り方においてこのような「雑なショット」が無神経さにおいて撮られるわけがなく意図的にそう撮られている。そこから2ショット目にはクロフォードとヘイドンの「手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)17ショット目には手前のクロフォードと奥のヘイドンの「首から下だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)18ショット目にはヘイドンとヘイドンにギターを渡すクロフォードの後ろ姿が同一画面に収められている。これは後ろ向きのままギターを渡すという極めて『奇妙な同一画面』であり、20ショット目にはクロフォードとヘイドンの「右肩だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)21ショット目にはヘイドンとクロフォードの後ろ姿が収められ(『奇妙な同一画面』)、次の22ショット目で初めてこの映画でジョン・クロフォードとギターを弾いているスターリング・ヘイドンが『正常な同一画面』に収まっている。

分断表④~スターリング・ヘイドンとのあいだその3

マーセデス・マッケンブリッジ一味が帰ったあと、1人だけ残った黄色いシャツの少年(ベン・クーパー)とクロフォードとのあいだは、最初『正常な同一画面』に収められた後、15ショット目で再び『正常な同一画面』に収まるまで内側からの切り返しによって分断されている。

■評 この2人のあいだでショットを分断させる意味は果たしてあるのか。黄色いシャツの少年がいきなり発砲するという流れもちょっと「おかしい」。これはマクガフィンではないのか。もう少し時間を巻き戻して、ヘイドンが弾いていたギターを中断したあと、クロフォードとヘイドンのあいだについて見てみよう。ここでは「内側からの切り返しによる分断」をさらに広げて、何ショット続けてふたりは同一画面に収まっていないかを見ていく。そうするとこのあとアーネスト・ボーグナインとのカウンターでのやりとりから酒場の外へ出て決闘、酒場の中ではクロフォードとスコット・ブラディの対話、決闘が終わって酒場に戻って来た一同が酒場から出て行く、そして残った黄色いシャツの少年との前述の内側からの切り返しによる分断がここで始まる。少年が発砲したあと、少年とクロフォードが二度目の『正常な同一画面』に収められる。これがさきほど検討したところであり、ギターの中断から62ショット目の出来事である。さらにそこからヘイドンが少年の銃を吹き飛ばし、6ショット目にヘイドンとクロフォードが『正常な同一画面』に収められている。ギターを中断してからクロフォードとヘイドンが『正常な同一画面』に収まるまで68ショットを要している。さて、ここでいったい何があったのかを見直してみよう。これ以前、クロフォードとヘイドンとは「初対面」であるはずが、ヘイドンのギターを聞いたクロフォードは何かを思い出したかのように辛そうな顔をしている。そこからこの内側からの切り返しによる分断(範囲を広げて)が開始されるのだが、ボーグナインとの決闘と黄色いシャツの少年の発砲は、その後クロフォードがヘイドンをして「ガンクレージーは治ってないわね、」と言わしめたように、ヘイドンのガンマン(あるいは人間)としての「常習性」を呼び覚ますために撮られたのであり、黄色いシャツの少年が突如、テーブルの上の瓶や茶碗を早撃ちで撃ちぬいたのは、あるいはクロフォードが少年を「子供」と言って怒らせたのは、銃声を聞いたヘイドンの反射的行動=「ガンマンとしての常習性」を呼び覚ますためのマクガフィンであり、それによってクロフォードをして「ガンクレージーは治ってないわね、」と言わしめることで、クロフォードとヘイドンとの昔からの関係をここで初めて露わにしたのである。従って少年とクロフォードとの内側からの切り返しによる分断もまたマクガフィンとしての「前菜」的意味合いを超えるものではない。この映画における「分断」とはクロフォードとヘイドン、あるいはクロフォードとマッケンブリッジとのあいだにおいてのみ意味を持つのである。そしてクロフォードとヘイドンとのあいだは、68ショットに及ぶ『分断』の後は基本的に同一画面に収められることになる。

分断表⑤~スターリング・ヘイドンとのあいだその4

こうして「広げて」見ながらもう一度クロフォードとヘイドンの最初からの関係を見直してみたい。分断表①に遡って二階の奥からクロフォードが出て来てヘイドンと内側から切り返された4ショットを原点に検討すると、そこからヘイドンは酒場に入って正面に見える舞台の左手にあるキッチンに入り、クロフォードは鉄道会社の男リース・ウィリアムズとしばらく二階のテーブルを挟んで話した後、マッケンブリッジ一味がやってきて二階のクロフォードが階段を降りて来て初めてマッケンブリッジと『正常な同一画面』に収まり(分断表②)、今度はスコット・ブラディの一味が入って来る。この間ヘイドンはジョン・キャラダインの作った食事を食べているようだが別の部屋にいて一同と同一画面に収まるような場所には位置していない。その後、カウンターにローヤル・ダーノが回したグラスをヘイドンがキャッチした後、分断表①から数えて139ショット目に初めてクロフォードとヘイドンが一瞬だが『正常な同一画面』に収められている。だがこれが先に検討したような『不正常な正常な同一画面』だとすると、さらにそこから内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』が続いた後の161ショット目で初めて2人は『正常な正常な同一画面』に収められることになる。クロフォードが二階の奥から出て来てヘイドンと切り返されるあの起点のショットから161ショット目で初めてこの映画でジョン・クロフォードとギターを弾いているヘイドンが『正常な同一画面』に収まっている。そしてギターを中断した後、68ショットに及ぶ『第二の分断』が開始され、それが終わって以降、2人は基本的に『正常な同一画面』に収められるようになる。このように1人と1人の人間をある時期まで徹底的に分離させるという傾向は、フリッツ・ラング「メトロポリス」(1926)、ヒッチコック「めまい」(1958)、カール・ドライヤー「牧師の未亡人」(1920)に極めて接近している(ドライヤーについては後日検討する「かも」知れない)

分断表⑥

喪服姿の一同が酒場に入って来た時のクロフォードとマッケンブリッジとのあいだは、最初のショットで2人は『正常な同一画面』に収まっているようにも見える。しかし最初こちらを向いて「その人」と特定できたマッケンブリッジが持続したショットで酒場のドアを開け奥でピアノを弾いているクロフォードと同一画面に収められた時にはマッケンブリッジは後ろ姿になっていて「その人」と特定することはできない(『持続による同一存在の錯覚』)。ここから延々と内側からの切り返しが続き、66ショット目で保安官のフランク・ファーガソンがクロフォードと『正常な同一画面』に収められているもののマッケンブリッジとのあいだは内側からの切り返しによって分断され続け、88ショット目にクロフォードが喪服の男たちに両脇を抱えられて酒場を出て行くのだが、この88ショット目では連行される手前のクロフォードの奥の画面に一瞬ぼんやりとマッケンブリッジの姿が捉えられ『奇妙な同一画面』、さらにそのまま持続したショットでクロフォードが酒場の外へ消えたあとさらに持続したショットで列に続くマッケンブリッジの後ろ姿が捉えられている(『持続による同一存在の錯覚』)。全88ショットの内、『持続による同一存在の錯覚』が1ショット、『奇妙な同一画面』と『持続による同一存在の錯覚』の合体したものが1ショット、残りの86ショットにおいてクロフォードとマッケンブリッジはすべて内側からの切り返しによって分断されている。

分断表⑦

秘密のアジトにクロフォードとマクマレーが入って来た時、その2人とブラディ、ボーグナインの2人とのあいだは12ショットすべて内側から切り返されている。

分断表⑧

マッケンブリッジが谷の上のアジトを目指して小川の斜面を登っていきクロフォードと対峙するシーンでの2人のあいだは、マッケンブリッジが最初の一発を撃った時点からカウントすると、23ショット目と28ショット目で2人は同一画面に収められているがロングショットなのでどちらも「その人」と特定することはできず(『奇妙な同一画面』)31ショット目でも向き合った2人が同一画面に収められているがクロフォードは後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、撃たれたマッケンブリッジが斜面を転げ落ちるまでの全51ショットの内、3ショットが『奇妙な同一画面』、残りの48ショットはすべて内側からの切り返しによって分断されている。

■評 どこかに『奇妙な同一画面の撮り方』という本があってそれをニコラス・レイが密かに買って読んでいた、、そうであってもちっとも不思議でないくらいこの作品における特定の者同士の『奇妙な同一画面』は奇妙であり、なんとししででも『正常な同一画面』には収めてはならない、という強固な意志がそこに露呈している。

■「ダーティハリー(DIRTY HARRY)(1971)~ドン・シーゲル。

分断表①

銀行強盗(アルバート・ポップウェル)に刑事イーストウッドがマグナムの弾が残っているかどうか聞くシーンで刑事と強盗とのあいだは、最初のショットで倒れている強盗に接近する刑事の後ろ姿と強盗とが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、次のショットと8ショット目と13ショット目で強盗の「左手だけ」と刑事の「左手と足だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)18ショット目には強盗とマグナムを握る刑事の「右手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)22ショット目では強盗と彼の前を通過する刑事の「背中の一部だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、それ以外は23ショット目で刑事が去っていくまですべて内側からの切り返しによって2人は分断されそのままこのシークエンスは終わっている。『奇妙な同一画面』はその性質が奇妙であればあるほど、それが反復されればされるほど、逆に『分断の性向』が露呈するのであり、このシーンにおいてドン・シーゲルに分断の意志が存在したことは間違いないと断定してよい。何度も見たシーンだが実際こうして見てみるとまったく違う出来事として露呈する。新しい細部について映画を見直す時、初めて見るときのような新鮮な気持ちで見ることができる。

分断表②

黄色い鞄を持った刑事がトンネルの中で三人組の強盗に襲われる時の刑事と3人の強盗のあいだは、最初のショットで刑事の後ろ姿と薄暗いトンネルの中でぼやけた姿の3人が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)3ショット目で強盗その1と刑事の「後ろ姿の左半身だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)4ショット目では黄色い鞄で強盗その1を殴る刑事と強盗の「後ろ姿の左半身だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、次の5ショット目では強盗その2と彼を足で蹴り上げる刑事の「足だけ」が同一画面に収められさらに持続したまま強盗その3と銃を突きつけた刑事の「右手だけ」が同一画面に収められ(同一ショットにおける『奇妙な同一画面』の連続)6ショット目では外側から切り返されて刑事と強盗その3が同一画面に収められているが薄暗いトンネルの中で強盗その3を「強盗その3」とは特定できず(『奇妙な同一画面』)7ショット目ではもう一度キャメラが外側から切り返され強盗その3と銃を突きつけている刑事の「右手だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、最後のショットで逃げてゆく強盗その1と刑事が『正常な同一画面』に収められるまでの9ショットのうち内側からの切り返し3ショット『奇妙な同一画面』6ショットによって4人のあいだは精密に分断されている。

一瞬のシーンだが、見終わった瞬間、何かおかしい、と感じられるこの感覚は「飾窓の女」(1944)分断表①に通ずる潜在的感覚である。しかしこれを撮っているドン・シーゲルは潜在的感覚で撮っているわけではないだろう。それにしては余りにも『奇妙な同一画面』が連続し過ぎている。

分断表③

公園で赤い覆面のサソリ座の男(以下サソリ男)に刑事が殴られるシーンで2人のあいだは、まず背後からサソリ男が殴りかかるが2人とも後ろ姿で「この人たち」と特定できず(『奇妙な同一画面』)2468ショット目では刑事と彼を蹴るさそり男の「足だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)、さらに35911ショット目のショットではサソリ男と刑事が同一画面に収められているが手前の刑事はぼやけていて「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、しかしそれと同じ状況でも13ショット目と15ショット目ではややピントが合ってきて手前の人物を刑事「その人」と特定することができ(奇妙な『正常な同一画面』)101416ショット目では刑事と彼の髪の毛を掴んでいるサソリ男とが同一画面に収められているがサソリ男は上からの顔の一部だけで「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、ここでひとまずこのシーンは終わっている。さらにその直後、サソリ男が刑事を撃ち殺そうとするシーンでの2人のあいだは、15ショット目の延長としての奇妙な『正常な同一画面』と、刑事と彼を蹴り上げるサソリ男の「足だけ」による『奇妙な同一画面』、そしてマシンガンを構えたサソリ男へ内側から切り返されて終わっている(その間にも著しく短いショットが挿入されているようだが同じことなので割愛する)。まともな『正常な同一画面』は1ショットもなくあるのは内側からの切り返しと『奇妙な同一画面』のみである。これが②と同じように極めて素早いカッティングによって撮られている。

分断表④

階段を下りて来た刑事が池へ走って行って子供を人質に取ったさそり男と向き合うシークエンスで2人のあいだは、5ショット目で2人は同一画面に収められているが画面にあとから入って来た刑事は後ろ姿のため「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、続いて外側から切り返された6ショット目はサソリ男が後ろ姿のため「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに超スピードでつながれた13ショット目では手前の刑事が後ろ姿、奥で倒れてゆくサソリ男がロングショットでどちらも「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに弾が残っているか否かのゲームをしたあと池に落下したサソリ男から刑事が視線を切りバッジへと視線を移すまでの全40ショットは3つの『奇妙な同一画面』と37の内側からの切り返しによって精密に分断され続けている。

■アクションにおける『分断』

「飾窓の女」(1944)における分断表①にも見られたアクションによる高速系の『分断』は「駅馬車」(1939)のようなその人を「そのひと」として撮ることによる『分断』とはある種違った潜在的な効果をもたらしている。しかし「駅馬車」にしても内側からの切り返しによる分断であることに変わりはなく、それは基本的に潜在的な効果であって物語的に露呈するものではない。高速アクションにおける『分断』もまたアクションの過程において人と人とを分断し「物語」を全体として見せることを拒絶しているのであり、そこに「違和感」を露呈させたならば『分断』の効果としては目的を達したことになる。ただしその「違和感」は画面を「見ること」によってもたらされる結果であり「読むこと」をしたのでは霧散する。

■「最前線物語(THE BIG RED ONE)(1980)~サミュエル・フラー

分断表①~いきなり最初の『分断』からして奇妙さを露呈させている。

砂漠で寝そべっている兵士と上から見下ろしている上官ジークフリート・ラウヒのあいだは、最初のショットと5ショット目で兵士と上官の「影だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)3810121416ショット目では兵士と上官の「足だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)22ショット目で撃たれて砂漠斜面を転げ落ちる兵士と上官とが同一画面に収められているがロングショットで2人とも「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、それ以外は25ショット目でこのシーンが終わるまですべて内側から切り返され『正常な同一画面』は1ショットも撮られずそのまま終わっている。

非常に強い『分断』の傾向が現れている。こういうシーンを今回の論文では数え切れないほど見て来たがこれほど顕著な出来事として映画史で反復されてきた『分断』という「手法」がなぜ今まで「ひた隠し」にされて来たのか不思議でならない。

分断表⑤

リー・マーヴィンが抱きかかえたユダヤ人の少年をベッドの上に寝かせるシーンにおける2人のあいだは、『正常な同一画面』に収められた最初のショットで少年をベッドに寝かせたあと、2つ目のショットでは少年とマーヴィンの「腕だけ」が同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)46810121618202224ショット目では少年とマーヴィンの「後ろ姿だけ」が同一画面に収められ(★『奇妙な同一画面』)7つ目のショットでは少年の「腕だけ」とマーヴィンが同一画面に収められ(『奇妙な同一画面』)26ショット目で出て行くマーヴィンを少年が成瀬目線で追いかけてこのシークエンスが終わるまでそれ以外のショットはすべて内側からの切り返しによって分断されている。★のシーンは外側からの切り返しだが、あと少しキャメラを左へ動かせば『正常な同一画面』となるものを頑なに『奇妙な同一画面』へと導かれている。確かにベッドの少年を「そのひと」として撮るためには外側からの切り返しの場合この角度から撮るしかないのかも知れないがではなぜ内側から切り返さないのか。それを含めて『分断問題』とは非常に奇妙な現象として出現し続けている。

これら以外にもこの作品は非常にランダムな内側の性向に満たされていて戦闘シーンなどは殆どすべて分断されるように撮られている。

■『分断』の起源へ~『ホラー映画内側からの切り返し表』

ここからは『分断』の起源について探ってみたい。前述したようにこの論文はまずホラー映画にその起源があるのではと狙いを定めフリッツ・ラングとムルナウというドイツ系の監督から目を通してきたのだが「呪の眼」(1918)を見たことでルビッチの重要性に遅ればせながら気づいてしまいルビッチを網羅的に見直したところラング、ムルナウよりもドイツ系ではルビッチにこそ『分断』の起源が接近しているのではないかという感触を得た。この三人の中で『分断』の傾向が最も強いのはルビッチであり、また最も早くから『分断』の手法を取り入れていたのもルビッチである。ムルナウは1888年生まれ、ラングは1890年、ルビッチは1892年生まれで一番若いのに対して監督デビューはラング、ムルナウとも1919年に対してルビッチは1914年と早く、彼らがデビューする前年には既に「呪の眼」という非常に完成度の高い『分断』の映画を撮ってしまっている。それが多分にホラー映画の要素を秘めた作品であるのはホラー映画とは未知の出来事に対する恐怖体験であり人は未知と遭遇する時、画面は『分断』されていたのではないかという映画の記憶がこの論文をしてホラー映画へと導いたのである。

★起源とは

この論文で『分断』の起源そのものに到達することはあり得ない。いつそれが始まったかという問題はどの分野であれあやふやで映画のクローズアップ一つにしても誰が始めたかを知っているのは映画の神様だけである。ましてやこの論文の数少ない「サンプル」からでは到底たどり着けるものではなく、今できるのは現に見た映画について『分断』があったか否かということを指摘することに過ぎない。まだ『分断』の検討は始まったばかりであり急がずに足元を固めていくしかない。

★ホラー映画

ホラー映画をざっと見ていっても、ホラー映画だから格別『分断』が多いようには見えない。これまで検討したドイツ系の三人、或いは『映画史・内側からの切り返し表』で見た作品と比べても、多い作品は多く、少ない作品は少ない、というのが一つの結論である。拍子抜けしてしまうようだが「起源」に関する詳しい検討は後のDW・グリフィスのところで力を入れてやるとして、ここではこれまでと同じように、ホラー映画の映画史に『分断』は存在したか否か、それについて見て行きたい。

★「カリガリ博士(DAS CABINET DES DR. CALIGARI)(1919)ロベルト・ウイーネ

分断表② ホラー映画と言えばまず出て来るのがこの作品だが、ここでは分断表②を見ていく。

カリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)によって操られた眠り男チェザーレ(コンラート・ファイト)が夜な夜な人を襲うというこの作品において唯一、チェザレが人を殺すシーンが撮られているのが主人公の友人ハンス・ハインリッヒ・フォン・トワルドフスキーを刺し殺すときである。眠り男が友人を刺し殺すシーンにおいて2人のあいだは、ベッドで寝ている友人の壁に眠り男の影が迫り、友人の両手のクローズアップと怯えるショットが撮られた後、最後は眠り男と友人の「影だけ」が同一画面に収まり(『奇妙な同一画面』)、その「影だけ」によって眠り男は逆手で握ったナイフで友人を刺し殺しそのままシークエンスは終わっている。これは厳密には「切り返し」ではなく、友人だけのショットによって構成されていて眠り男へは切り返されてはいない。撮られているのは「影だけ」である。相対する人物が存在しながらその人物には一度も切り返されることなくシーンを終わっている。これは既に検討した『切り返し無き内側だけ』であり、それについてはルビッチ「極楽特急」において『極めて強い分断の性向を持つ作品における傾向の現れ』であると検討したように、その正体を一切画面におさめることなく「影だけ」でそのシーンを追えてしまうという傾向が、このホラー映画の古典とも言うべき「カリガリ博士」において撮られているという事実を発見することができた。これは『切り返し無き内側だけ』の起源ではなく「起源」に過ぎないがひとつの映画史としてここに書き留めておきたい。

分断表①

舞台の上のカルガリ博士と眠り男の2人と、「私はいつまで生きられますか?」と質問する友人とのあいだは、最初のショットで同一画面に収められているが友人は後ろ姿のロングショットで「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、さらに1417ショット目に同一画面に収められているが友人は後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)22ショット目に『正常な同一画面』に収められて終わるまで内側からの切り返しによって分断されている。

「カメラを持った男」(1929)でも検討したがDW・グリフィスの短編で最初に内側からの切り返しが撮られているのは「THE DRUNKERS REFORMATION(酔っぱらいの改心)(1909)であり、そこでは舞台での演技と観客席の観客とが内側から切り返されている。こうした「起源」の記憶がこの「カリガリ博士」にあったかは不明だがルビッチが思い出したように『分断』された『窓空間』を撮り続けたように映画史における撮影には「起源」の記憶が付きまとう。『窓空間』においてはグリフィスのところで再検討するが、論文を書いているといつもこうした不思議な歴史にたどり着く。

■「フランケンシュタイン(FRANKENSTEIN)(1910アメリカ)J・サール・ドーリー

この作品には『分断』のショットは撮られていないが後半、鏡の中に映っているドアが開いて怪物が入って来る。鏡を見ていた主人公は驚いて振り返く、というショットが撮られている。切り返しがなされていないのでこれは『分断』ではないが部分だけを見ればこれは人間と鏡の中の怪物が同一画面におさめられている『奇妙な同一画面』であり、従ってこれは『切り返し無き奇妙な同一画面』であって、切り返しが未だ環境として根付いていない頃にイメージは同じであっても技術が追い付かず、それが『~無き~』となって現れ撮られたショットである。この、人物の後ろにいる怪物が鏡を通じて『奇妙な同一画面』に収められるというショットは「呪の眼」におけるあの分断表③へと通じており、「フランケンシュタイン」の場合は鏡の中だけで2人が同一画面に収められているわけではないが「起源」としては紛れもなく存在している。ここで鏡の中に現れた怪物は『分断』ではなく「分離」であり、これもまたルビッチの「落下」において検討した出来事だが、実体という物語から抜け出した属性を鏡へと分離させ1クッション置くことが恐怖へとつながるという発想は、「カリガリ博士」における分断表②における「影のみ」を実体から分離させる『切り返し無き内側だけ』と通底するものであり、「フランケンシュタイン」では『奇妙な同一画面』に収められた怪物と人間がその後『正常な同一画面』に収められているところを「カリガリ博士」ではその部分を撮らずに最後まで『奇妙な同一画面』を貫き通し、さらにそこに内側からの切り返しを加えたのが「呪の眼」であり、これを「進化」と呼ぶか「退化」と解するかは別にして、そこに通底する発想が「恐怖を醸し出すには実体から分断(分離)せよ」、という歴史あることにおいて共通している。

■「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921ドイツ)

人と人とのあいだを特定の時間が到来するまで『分断』し続ける作品について前回の論文で「めまい」(1958)、そして今回は「メトロポリス」(1926)と「大砂塵 」(1954)を検討したが、そのように『ひたすら分断し続けること』の「起源」はムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」、あるいは前年撮られたカール・ドライヤーの「牧師の未亡人」(1920)であり、ルビッチも「寵姫ズムルン」(1920)では分断表⑭でズムルンと商人とが初めて同一画面に収められるまでの③⑤⑥ですべて『分断』し続けて撮っているのであり、ドライヤーの検討は次回以降の論文に譲ることにして、こうした『分断』させ続ける作品が1920年前後に出現しているという事実は1920年問題』として記憶に留めておきたい。「吸血鬼ノスフェラトゥ」は分断表56において、女と吸血鬼とが一度の『正常な同一画面』に収められることなく『分断』され続けそのまま映画が終わっている。『分断』を実現させるために内側からの切り返し、キャメラを正面から見据えること、イマジナリーラインの崩壊、場所的遠近法の無化、、といった『分断』の効果を幾重にも張り巡らせてこの怪物と女とのサスペンスを撮っている。それを可能にしたのがホラー映画というジャンルであり、コミュニケーション不能の「未知の」怪物が相対するホラー映画だからこそ、人と人(吸血鬼)とをここまで思いきり『分断』させ続けることが可能になったのであり、これが人間同士であったならば『分断』されたまま映画が終わるなどということは基本的に有り得なかったはずである。そうした意味で、映画半ばまでありつつも、仮にもハリウッドのスターであるジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクを『分断』させ続けたヒッチコックの「めまい」は凄まじい映画であるし、ラングの「メトロポリス」にしてもある程度ラングに自由が赦されていて初めてできたことのように見え、ニコラス・レイ「大砂塵(OHNNY GUITAR) 」に至ってはそのような「自由」など許されていなかったであろうニコラス・レイによって見ている者にはわからないように巧妙に『分断』され続けている。

■「魔女(HAXAN)(1922デンマーク・スウェーデン)~ベンヤミン・クリステンセン

『ドライヤーの間違いでは』と勘違いしたほどドライヤーの画面に重なるショットを有するこの作品は『1920年問題』の延長線上にある。その一つが分断表③であり、密告によって魔女の嫌疑をかけられた老婆が何を言っても信じてもらえず、とうとう開き直って自分は魔女であり、自分を密告した女たちもみんな魔女の仲間であると饒舌に「告白」を始めた時のその弛まない運動感にしばらく唖然としたのであるが、ここでショットは老婆と判事たちのあいだを35ショットひたすら『分断』され続けてそのまま終わっている。クローズアップとキャメラを正面から見据えるショットがひたすら内側から切り返されることで判事と老婆との場所的関係が最後までまったくわからないというその撮り方は、カール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」(1927)を既に準備しており、「ミカエル」(1924)では監督と出演者というかたちで共演している2人にはスウェーデン、デンマーク映画史における『分断』の「起源」としての嫌疑をかけておくべきかもしれない。

■「アッシャー家の末裔(LA CHUTTE DE LA MAISON USHER)(1928フランス)~ジャン・エプスタン

前年アメリカで撮られたパウル・レニ「猫とカナリア(THE CAT AND THE CANARY)(1927)におけるカーテンが風に揺れる長い回廊がそのまま撮られているこのフランス映画は、「魔女」(1922)における『分断』をさらに推し進めて撮られた狂乱の『分断』映画でありイマジナリーラインも客観的空間も放棄されそこにあるのは人間の心理的な空間における恐怖の体験そのものである。しかしこれらの『分断』はこの作品によって「発明」されたことではない。踏襲されたことであり、この作品を「前衛映画」と呼ぶにしてもそれはあくまで映画史の記憶の踏襲であることを忘れてはならない。

■「アンダルシアの犬(UN CHIEN ANDALOU)(1928)~ルイス・ブニュエル

この作品が『ホラー映画』であるかどうかはひとまず置いて、「アッシャー家の末裔」であれ「アンダルシアの犬」であれ、撮られた物語の内容が「前衛」ならば、その映画は撮られる必要はなかったことになる。脚本さえ読んでおけばその「前衛」は伝わるからだ。僅か17分の「アンダルシアの犬」を仮に「前衛的」と呼ぶのならば、それは殆ど内側からの切り返しによる分断によって成し遂げられている。それがどうして「前衛的」なのかはDW・グリフィスの検討においてもう一度考えることになるだろう。実際には「めまい」(1958)の方が異次元で「前衛的」なのだが。

■ハリウッドのホラー映画と『分断の映画史』

★「フランケンシュタイン」(1931)ジェームズ・ホエール

分断表 なし。

怪物登場の時、振り向いた怪物のキャメラを正面から見据えた大きなクローズアップがジャンプ・カット的にカットを割られた時の恐怖は映画的だが、怪物の登場の時、泉での少女との遭遇、メェ・クラークを襲う時など、未知の怪物との遭遇によって『分断』されてしかるべきシーンで当事者たちはあられもなく『正常な同一画面』に収まり続けている。今回、ホラー映画『内側からの切り返し表』に提示した「古典的」なハリウッドホラー映画の中には『1920年問題』の後継者どころか『分断』を炸裂させる作品もまた存在していない。共通しているのは、内側からの切り返し自体が少ないか、存在しても『分断』されていないという現象でありそれは取りも直さずこの時期(特に31年以降)のハリウッドにおけるホラー映画が『古典的デクパージュ』によって撮られていたことの証にほかならない。むしろ『分断の映画史』はハリウッドにおいてはホラー映画ではなく、ジョン・フォード、ヒッチコック、オーソン・ウェルズ、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ドン・シーゲル、、といった「特殊な者たち」へと密かに受け継がれている。

■これからへ向けて

今回ハリウッドのコメディ映画については検討されておらず、さらに多くのハリウッド映画、フランス映画、イタリア映画、そしてドライヤー等の多国籍映画人についても今後の検討に委ねられることになる。

DW・グリフィス~『分断』の「起源」へ

『D・W・グリフィス内側からの切り返し表』

映画の父と言われるグリフィスは平行モンタージュ、クロス・カッティング、クローズアップなどにおいては語られることはあっても『分断』について語られたことは映画史においてなかった。ここではこれまで検討した『分断』に見られる傾向についての「起源」について検討する。「起源」とはあくまでも見ることのできるフィルムの中の実際に見ることのできた作品における「起源」であり神様のみぞ知り得るところの起源ではない。

映画の父と言われるグリフィスは平行モンタージュ、クロス・カッティング、クローズアップなどにおいては語られることはあっても『分断』について語られたことは映画史においてなかった。ここではこれまで検討した『分断』に見られる傾向についての「起源」について検討する。「起源」とはあくまでも見ることのできるフィルムの中の実際に見ることのできた作品における「起源」であり神様のみぞ知り得るところの起源ではない。

■キャメラを正面から見据えること

★「MONEY MAD(金の亡者)(1908)12/5

サイレント映画の短編時代の俳優たちは、なんともなくキャメラを見る習性を有している。今回の正面表によく出て来る「ちらちら」がこれのことで、『どうですか?、お客さん』という感じでちらちらキャメラを見るのであり、あらゆるサイレントの短編映画において我々は「ちらちら」を見ることができる。これとは違うのは正面表に『はっきり』と書かれているショットであり、『キャメラをはっきり正面から見据えるためにだけ撮られたショット』である。その「起源」に当たる作品が1908125日に封切られた「MONEY MAD」であり、守銭奴のチャールズ・インスリーが3分過ぎ、路地でショット内モンタージュでバスト・ショットになるまでキャメラに接近し、その時、ほんの1秒ほどだかキャメラをはっきりと正面から見据えている。

■偶然に撮られたこと

ただしこれは「ちらちら」の延長上であり『キャメラをはっきり正面から見据えるためにだけ撮られたショット』ではなく、これ以降このようにしてキャメラを正面から見据える作品は姿を消すことになる。例えば救出のクロス・カッティングの「起源」は意外と早く「THE FATAL HOUR(運命の時)」という1908822に封切られた短編であり、ここでは女を救出に向かう馬車→縛られている女→馬車→女→馬車→窓から突入し女救出、、という交互の編集でカットが繋がれており、処女作の「ドリーの冒険」(1908)の封切が718日であることからすると殆どデビューしてすぐクロス・カッティングが撮られていることになる。しかしそれが根付くかどうかは別問題で、その後、平行モンタージュは度々姿を現すものの、クロス・カッティングが再び撮られたのは「LONELY VILLA(淋しい別荘)」という1909年の618日に封切られた作品であり、しかしその後も根付くことはなくさらに数年の年月を要している。キャメラを正面から見据えることにしても同様で「MONEY MAD(金の亡者)(1908)以降ピタッとそうしたショットは撮られなくなる。起源ないし「起源」として撮られたショットは多くの場合意図的に撮られたのではなく偶然に撮られている傾向が強く、従ってそれが「根付く」こととは分けて映画史を見て行かなければならない。

★「FOR HIS SON(彼の息子のために)(1911)1/20

1911年に撮られ12年の120日に封切られたこの作品において9分過ぎ、父親のチャールズ・ヒル・メイルズが立ち上がり、ウエスト・ショットになるまで身をかがめ、キャメラに向かってキャメラを正面から見据えながら身振り手振りで力説しているショットが撮られている。これが『キャメラをはっきり正面から見据えるためにだけ撮られたショット』の「起源」であり、ただこれで根付いたかというとそういう訳でもなく、正面表を見ると、その後もしばらく『ちらちら時代』が続き、1912年も後半に差し掛かったあたりから急激にキャメラをはっきり正面から見据えるショットが増え始めている。

■クローズアップの「起源」

クローズアップについては色々な定義の仕方もあり、ひょっとすると「MONEY MAD(金の亡者)(1908)のあのショット内モンタージュでキャメラを見据えたショットがクローズアップの「起源」でもあると見ることも可能かもしれない。しかしどちらにしても根付いてはいないのは確かである。よりはっきりとしたクローズアップが撮られたのは「THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY(ピッグ路地の銃士たち)(1912)であり、1026日に封切られたこの作品には綺麗なクローズアップを見ることができる。しかしそれでも未だ根付くまでには至らず、私の見立てではクローズアップが根付き始めたのは「イントレランス」(1916)以降であり、それ以前は起源、ないし「起源」の話となる。

■切り返しの「起源」~舞台と観客席とのあいだで

★「THE DRUNKERS REFORMATION(酔っぱらいの改心)(1909)3/27

さて、いよいよ本題に接近してきたが、グリフィスの短編における切り返しの「起源」は1909327日に封切られた「THE DRUNKERS REFORMATION(酔っぱらいの改心)」である。ここでは酒癖の悪い夫アーサー・ジョンソンが娘と2人で舞台を見に行ったときの観客席の観客たちと舞台の上の役者たちとのあいだが22ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。舞台劇の内容が、酒癖の悪い男が家庭で暴力をふるったあと死ぬという話であり。それを観客席から見た夫が改心するという物語なので少々舞台のショットが長くはあるものの、ほぼ正面から撮られた観客席と舞台とが交互に切り返され、かつ多くの観客たちがキャメラを正面から見据えているこの切り返しは、果たしてグリフィスの撮った内側からの切り返しの起源かは不明だが、斜めではなく真正面から切り返されるということは、観客は舞台ではなくキャメラを見ているのであり、その逆に舞台の者たちも観客席ではなくキャメラの前で演技をしていることになり、おそらく両者のショットは別々に撮られているように見える。するとそこには空間的な「ずれ(違和感)」が生じ、早くもこの切り返しには、キャメラを正面から見据えること、空間的不明確性、という、内側からの切り返しによる分断の効果の大きな二つが出現していることになる。こうした撮り方には当時の技術的限界もあったのであろうし、もっと違ったレンズがあれば違った撮り方がされていたかもしれない。従ってここで生じた「分断」も、それが目的として撮られていることはなさそうである。

TO SAVE HER SOUL(彼女の魂を救うために)(1909)12/31

ほぼ9か月後の1231日に封切られたこの作品では、観客席に座っている牧師アーサー・ジョンソンその他観客たちと、舞台の上のメアリー・ピックフォード等とのあいだは、8ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。観客と舞台のメアリー・ピックフォードがより鮮明にキャメラを正面から見据えているショットが入り、「THE DRUNKERS REFORMATION(酔っぱらいの改心」(1909)と違って舞台の内容は関係ないのでよりリズミカルに切り返されている。これら二つの作品における内側からの切り返しは舞台と観客席とのあいだでなされている。

■切り返しの「起源」~窓空間

★「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)(1910)11/1/7

1910年に撮られさらに翌1911年の17日に封切られたこの作品では『窓空間』における切り返しが撮られている。

分断表①(2分過ぎ)~窓空間

部屋の中の娘メアリー・ピックフォードと窓の外から上を見上げている男チャールズ・ウェストとのあいだが、ピックフォードが窓のカーテンをまくって外を見てから、6ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。角度的には部屋を正面から撮っているので側面の窓は見えず、イマジナリーラインも合っていないが、中のピックフォードの投げキッスを外のチャールズ・ウェストがキャッチしたり、アイコンタクトをしていたりするので2人は映画的には見つめ合っているように撮られている。

分断表②(8分過ぎ)~窓空間

さらにもう一度、外の酔っぱらいと、二階の窓から顔を出したデル・ヘンダーソンとのあいだが、5ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。今度は窓から顔を出しているので設定として違和感はなくイマジナリーラインは合っていて①ほどの「ずれ」た感覚はない。

ここでいよいよルビッチでお馴染みの『窓空間』における内側からの切り返しが登場する。舞台と観客席とのあいだの次は、窓空間において内側からの切り返しである。①における大きな「ずれ」は、キャメラの場所的制約から窓が映らないこと、或いはセット、製作費の制約等から縦の構図を撮れなかったこと、あるいはそもそも縦の構図など考えてはいなかったか、またロングショットで2階の窓と地上の人間とを同一画面に収めるという発想もなかったのか。理由は不明だが、1つのショットを1人のショットとして別々に撮ることで(そう撮るしかなかったことで)その人を正面から「そのひと」として撮ることとなり、結果としてそれは「内側からの切り返し」となり、結果としてショットとショットとのあいだが「ずれ」ることとなった。

★「LONEDELE OPERATOR(女の叫び)(1911)3/25

2か月ほど後の325日に封切られたこの作品でも『窓空間』における切り返しが撮られている。

分断表①(4分過ぎ)~窓空間

駅の通信室のブランチ・スウィートが出発する汽車の運転をしている恋人フランシス・J・グランドンと窓越しに手を振り合うシーンにおける2人のあいだは、5ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。女が投げキッスをし運転士もそれに呼応するように手を振っていることから2人はお互いを見ているという設定になっているが、側面の窓が画面の中に撮られておらず、汽車は出発していくのに女の視線は一定でイマジナリーラインも合っていないことから、おそらくは別々に撮影されていると推察される。意図的ではないにしてもイマジナリーラインよりもその汽車を「その汽車」として撮ること、「その人」を「そのひと」として撮ることが「制度的に(結果として)」優先されていた時代の切り返しである。

分断表②(9分過ぎ)~窓空間

窓の外で中の様子をうかがう強盗2人組と彼らを見つけて驚くスウィートとの関係は、5ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。今度は窓の外から二人組を撮っていることから外側の窓が映っているものの中の窓はさきほどと同じように映ってはおらず、外で身をかがめている2人組と中から上の方を見ている女とはイマジナリーラインは合っていない。おそらくこのシーンも別々に撮られたものと推察される。

1911年後半~普通の切り返しの「起源」

★「最初の魅惑(THE PRIMAL CALL)(1911)6/24

1911624日に封切られたこの作品は、映画の「進化」を決定づけた作品かも知れない。12分過ぎ、砂浜で男たちを殴り倒して女クレア・マクドウエルを奪った漁師ウィルフレッド・ルーカスが波打ち際に走っていってから振り向き、女とのあいだで4ショット内側から切り返されている。舞台でも窓でもなく、人間と人間とのあいだが内側から切り返されている。やや斜めからの男のバスト・ショットと女のウエスト・ショットとのあいだの極めてスピーディな切り返しは、これ以前におけるグリフィスの短編の内側からの切り返しとは違い、同じ場所で技術上の制約もなくただ2人を別々のショットに収めんとする欲求から撮られているのであり、内側からの切り返しが結果としてではなく目的として撮られているこの作品は、新たな次元への突入を予感させている。

★「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)(1911)10/14

「最初の魅惑」(1911)では1箇所であった内側からの切り返しがここでは一気に4箇所もの切り返しがショット数を増やしながら自然な流れでスピーディに撮られている。

分断表①(340秒頃)

物乞いに家を訪ねている子供(エドナ・フォスター)と陰で見ている悪党二人組(ドナルド・クリスプとジョセフ・グレイビル)とのあいだは、2回内側から切り返され3ショット目で『正常な同一画面』に収められている。平行モンタージュと違いドナルド・クリスプの視線がもう一つの空間を捉えているのでこれは切り返しである。

分断表②(5分過ぎ)

木陰に隠れている2人組と金持ちの家の庭にいる子供とのあいだは、6ショット内側から切り返され7ショット目で『正常な同一画面』に収められている。

分断表③(②の直後)

柵のところで金を財布の中に入れている老人W・クリスティー・ミラーとそれを見ている2人組とのあいだは、5ショット内側から切り返されそのまま終わっている。

分断表④(6分過ぎ)

老人を襲っている2人組とそれを見ている少年とのあいだは、6ショット目で『正常な同一画面』に収められるまで内側から切り返されている。

①~④は、切り返し元の人物が切り返された先の人物を見つめており、特に④は、少年が食い入るように見つめているショットが撮られていて、それをその対象の人物へ切り返されることで、切り返されたショットが「盗み見」ないし「主観ショット」として成立している。ただ切り返された人物のショットがどれもほぼ正面から撮られているために視線の角度としてのスムーズな主観ショットが登場するのはまだまだ先のこととなる。これは「正面から撮る」というサイレント短編時代から続くモーションピクチャーの「サガ」とも言うべき現象であり、どうしても正面から切り返してしまうために主観ショットは「ずれ」てしまい、その整合性はしばらくのあいだ後退することになる。だがそうした傾向がその人を「そのひと」と撮る『分断』の「ずれ」へとつながることとなる。『サイレント映画を経験している』『サイレント映画の記憶を有している』とは多くの場合こうした「ずれ」傾向を指すのである。

★「THE LONG LORD(1911)11/21

わずか80秒しか現存しないフィルムだが、公園を歩いている女ブランチ・スウィートが向こうから歩いて来る男チャールズ・ウェストを見つけた時、6ショット目で2人が『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返される、というシーンが残っている。80秒のフィルムでこのシーンが残されているということは、そろそろ切り返しという手法が根付き始めた兆候と見ることができる。

1912

『内側からの切り返し表』を俯瞰して見てみると1911年の後半あたりから少しずつ出現し始めた切り返しは、1912年になるともはや当たり前の時代となる。

★「THE MENDER OF NETS(網の修理者)(1912)2/10

分断表①(6分過ぎ)

坂道で格闘しているチャールズ・ウェストとデル・ヘンダーソンの2人と、それを望遠鏡で見ているピックフォードとのあいだが、4ショットすべて内側から切り返されそのまま終わっている。ここで初めて望遠鏡を使うことによる切り返しが撮られている。それによって遠距離間の切り返しが可能であることが意識され1シーンにおける空間がより広がることになる。また、遠距離間の切り返しであることから、切り返しのそれぞれのショットが別々に撮られることも厭われない環境への接近ともなる。そしてまた主観ショットがより強く意識されるようにもなるだろう。そしてその主観ショットは、既に見たように正面から切り返されてしまうというサイレント映画の「サガ」からして大きく「ずれ」てしまっている。「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913)における『分断』①(10分過ぎ)などはその良い例で、脱走した男チャールズ・ヒル・メイルズが窓の外から主婦のクレア・マクドウエルを覗き見するシーンでは、男の動きとカットの性質からして男の主観ショットの体裁で撮られているはずが、切り返された次のショットでは男は主婦の背後にある窓から侵入するのであり、この大きな「ずれ」の感覚は「正面から撮る」というサイレント映画の「ザガ」から生まれた出来事であり、ムルナウ「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1921)分断表5における妻と吸血鬼との視線が「ずれ」ていたのも吸血鬼が終始、正面から撮られていたことと無関係ではなく「カルメン(Carmen)(1918) 分断表⑥におけるカルメンと闘牛士との主観ショットの「ずれ」もまた闘牛士を正面から撮っていることと無関係ではない。こうした主観ショットの「ずれ」は、主観ショットがその後根付いて洗練され「ずれ」なくなったという「進化」を遂げる前の「起源」に撮られた「前衛的な」ショットにほかならない。

★「THR GODDES OF SAGEBRUSH GULCH(ヨモギ渓谷の女神)(1912)

分断表①(一分過ぎ)~切り返しをつなげること

ブランチ・スウィートと、つるはしを持った採掘者たちのあいだは、最初に『正常な同一画面』に収められてから男たちはキャメラの左側を通過するように去っていき、そこで3ショット、男たちとブランチ・スウィートとが内側から切り返され、再びスウィートへ切り返されるとそこで彼女は蛇に襲われる。するとキャメラは、今度は右方向にいるチャールズ・ウェストへと切り返され、異変に気付いたチャールズ・ウェストはそこで足元に落ちていた木の枝を拾い、次のショットで2人は『正常な同一画面』に収められチャールズ・ウェストが木の枝で蛇を退治している。ここではブランチ・スウィートを軸にして、採掘者たち、そしてチャールズ・ウェストという、二つの方向へ向けてショットが続けざまに切り返されている。切り返しが2つの空間へなされることで1シーンの空間がさらに拡げられている。

分断表②(8分過ぎ)~隠れること

叢に隠れたブランチ・スウィートと強盗団とのあいだは、最初のショットでブランチ・スウィートが画面左へ消えたあと強盗団が画面の右から入って来て(『持続による同一存在の錯覚』)、その後の5ショットは内側から切り返されそのまま終わっている。「THE ADVENTURES OF BILLY(ビリーの冒険)(1910)では既に「盗み見」が切り返しによって撮られていたが、ここでは「盗み聞き」が切り返しによって撮られている。これ以前の盗み見や盗み聞きは、1シーン1ショットの1つの空間の中にどう見ても場所的に気付いてしかるべきところに隠れている者を「気づかないことにする」という約束事によって撮られていたが、切り返しを使うことによってより空間が広げられ、それに伴って行動の幅も広がっている。また『持続による同一存在の錯覚』もまたここで初登場している。

1913

切り返しも1913年ごろになるとさらに「映画的」なものへと進化してゆく。

★「THE LITTLE TEASE(ちいさな悪戯)(1913)

分断表①(30秒過ぎ)

石を投げるメェ・マーシュのショットから、石を投げられた熊のショットへと切り返されている。さらに

分断表②(4分過ぎ)

石を投げるメェ・マーシュと、石を投げられたロバート・ハーロンへと2回切り返され、さらに分断表④(6分過ぎ)では、石を投げるメェ・マーシュのショットから、ヘンリー・B・ウォルソールがかぶっている帽子が石で飛ばされるショットへと切り返されている。どれも画質の点から投げられた石は画面の中に映ってはいないが、ここで重要なのは投げている主体=物語Aから「分離」して飛んでくる物体Bを切り返しによって分断したことである。エルンスト・ルビッチ『物の落下』で検討したことがここにそのまま当てはまり、Aは物語=「であること」に該当し、Bは「分離」された運動=「すること」に該当する。機能(物語)の中から運動だけを取り出すマクガフィンについてヒッチコック論文では検討したが、同じことは切り返しによるBによっても実現されている。ここに切り返し(内側からの切り返し)という方法が運動論に絡んでくる素地の一つが出現している。ルビッチが執拗にBのみを(あるいはABとを分断して)撮り続けた映画史は決して偶然の出来事によることではない。

分断表③(430秒頃)

木に登って逃げたメェ・マーシュと下から見上げるロバート・ハーロンとのあいだは、最初に同一画面に収められているがハーロンが後ろ姿で「その人」と特定できず(『奇妙な同一画面』)、その後6ショット内側から切り返されている。そのまま下の人物はロバート・ハーロンからヘンリー・B・ウォルソールへと入れ替わり、最初の6ショットを含めて16ショット目に2人が同一画面に収められるまですべて内側から切り返されている。「WHEN A MAN LOVES(男が愛する時)(1910)に比べて上下のあいだの切り返しがスムーズになってきている。ここで初めて『奇妙な同一画面』が登場している。木に登ったメェ・マーシュを追いかけるように画面の中に後ろ姿で入って来たロバート・ハーロとの同一画面は、まさかグリフィスが『奇妙な同一画面』を意図的に撮ったものではないにしても、映画史における起源、ないしは「起源」の多くはその後それが続いてなされていないことからして偶然になされていると推測できることから、結果的であれここで撮られた『奇妙な同一画面』を軽視することはない。

★「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913)5/5

分断表②(10分過ぎ)

椅子の陰に隠れた男チャールズ・ヒル・メイルズと飼い猫をあやしている主婦クレア・マクドウエルとの関係は、8ショット目で男の存在に気づいた主婦と『正常な同一画面』に収められるまですべて内側から切り返されている。

人が人から隠れる場合、それまではロングショットなりフルショットの持続したショットによって2人が同一画面に撮られていたことから、その存在を気づいてしかるべき距離にいながら「隠れていることにする=気づかないことにする」という事態がサイレント短編映画には惹き起こされていた。特に室内という狭い空間での「隠れる」という行為は★「LONELY VILLA(淋しい別荘)(1909)2分後半のドアにもたれている男はそれ以降もずっと「隠れていることに」にされているように、また★「WHAT THE DAISY SAID(雛菊はなんといった?)(1910)6分過ぎのメアリー・ピックフォードにしても、また室内ではなくロケーションであっても★THE WANDERER(放浪者)(1913)4分過ぎのハリー・ケリーのように、グリフィスに限らずサイレント映画を見ていれば必ずや目にする「おかしな」出来事として隠れていることにする、気づかないことにする、というお約束が日常的に存在していたのだが、これは1つのシーンを1つの空間で撮っていた時代の当然の流れとして見ることができる。ところがこの★THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)(1913)では主婦にキャメラを接近させることで主婦からの「見えない空間」を映画的に作り出し、それによって創り出された、隠れている男のもう一つの空間へ切り返すことによって、1シーン1ショット1空間の狭苦しい世界に新しい世界が誕生したのである。人間にキャメラを接近させることによりそれ以外の『開いた空間』が新たに出現した。ちなみにここで隠れている男は「FOR HIS SON(彼の息子のために)(1911)で初めてキャメラを正面から見据えた「起源」を演じたあのチャールズ・ヒル・メイルズである。とはいうものの、サイレント映画では★「世界の心」(1918)になってもリリアン・ギッシュが瀕死の母親にしばらく気づかない、という事態が依然として続いているように、その後もしばらくこの『隠れていることにする問題』が頻繁に惹き起こされるのであり、それが解消されるまでにはもう少し時間を要することになる。

★「魔性の女(THE MOTHERING HEART)(1913)6/14

分断表①(7分過ぎ)

大きなレストランでリリアン・ギッシュ、ウォルター・ミラー夫婦と隣のテーブルから夫に色目を使う女ヴィオラ・バリーとのあいだは、最初3人は画面の下に人物が撮られたやや奇形的な『正常な同一画面』に収められ、そこからさらに5ショット目で同じ構図の『正常な同一画面』に収められ、22ショット目で怒ったリリアン・ギッシュに促され夫と2人でテーブルを後にする時に再び同じ構図の『正常な同一画面』に収められているもののそれ以外の20ショットすべて内側からの切り返しによって分断されている。この切り返しは、ほぼキャメラに向かって正面に座っている3人のあいだを切り返されたショットであり、5ショット目で引かれて全体を撮った時の女ヴィオラ・バリーの客観的空間と、次のショットでキャメラを寄って撮られたヴィオラ・バリーの主観的空間とはまったく「ずれ」たショットとして撮られている。さらに途中で振り向いたリリアン・ギッシュと目が合ったヴィオラ・バリーが慌てて目を逸らすというサスペンスまで撮られている。内側からの切り返しには人と人、空間と空間を分断する効果をもたらすが、全景を撮った後にキャメラを近景に寄ってから内側からの切り返しで分断する時、フリッツ・ラング「仕組まれた罠」(1954)で検討したように、全景のよそよそしさとは異質の近景へと時空を分断しながら、さらに切り返しによって人と人とを分断するという二重の効果が生まれることになる。

■切り返しと映画の「進化」。

THE MODERN PRODIGAL(現代の放蕩者)(1910)9/3の頃からそれまでは「足の下」のフルショットだったキャメラが人物の膝上くらいまで接近するようになる。時系列で1908年の「ドリーの冒険」(1908)からグリフィスの短編をずっと見続けているとこのあたりから「近い、」と感じるようになり、「LONEDELE OPERATOR(女の叫び)(1911)では通信室の椅子に座っているブランチ・スウィートのウエスト・ショットが撮られ、1912年の「FRIENDS(フレンズ)(1912)では、オープニングとラストシーンでメアリー・ピックフォードの殆どクローズアップに近いバスト・ショットが撮られている。その翌月、「THE MUSKETEERS OF PIG ALLEY(ピッグ路地の銃士たち)(1912)でショット内モンタージュでのクローズアップが撮られたことは検討したとおりである。切り返しが根付いてきたのはキャメラが被写体の膝上まで接近することが根付き始めた後であり、しかしクローズアップが根付き始める1917以前にすでに切り返しは根付いてきている。モーションピクチャーにおいて決定的な「進化」をもたらしたのはその空間を拡げる切り返しという出来事であり、それを準備したのは「キャメラが被写体に寄ること」であり、しかしそれは決してクローズアップまで待つことはなく、バスト・ショットあたりで既に切り返しは根付いてきている。映画史におけるクローズアップとは切り返しによる進化の「あと」の出来事であり決してクローズアップが切り返しという「進化」をもたらしたのではない。カッティング・イン・アクションにしても、その「起源」は膝上、腰上までキャメラを寄ること、そして寄ったあとに引くことであり、そこにキャメラを寄る、引く、という出来事が現れ、そこにアクションを二重につなげることでカットとカットのつなぎを隠しながら見栄えを良くするカッティング・イン・アクションが生まれたのだが、その時点ですでに切り返しは根付いていたのだからカッティング・イン・アクションもまた、映画史における「進化」を準備したのではなく、その結果に過ぎない。

■内側からの切り返し

モーションピクチャーの切り返しは内側からの切り返しに始まる。内側からの切り返しはその組み合わせによってさまざまな『分断』を生み出したが、その『分断』もまた結果に過ぎず、内側からの切り返しによる分断はサイレント映画特有の「ずれ」によってもたらされている。光学上、技術上の制約は人を正面から撮ることを余儀なくされ、その結果として役者はキャメラをちらちらと見据え始めた。さらに舞台と観客、或いは窓の内と外との切り返しも正面から撮ることになり、必然的に切り返しは内側から正面からなされることになった。こういった出来事の名残こそが起源であり、また「前衛」である。最初の論文DW・グリフィス フレームと分離の法則」で検討した「分離」という出来事はこの論文では『物の落下』という『分断』において絡みあい、『ヒッチコック論文』で検討した『機能の中から運動を取り出す』というマクガフィンの方法とも接近している。落下でも小道具でも、そのものとして撮られたショットは「分離」にほかならず、山中貞雄「河内山宋俊」(1936)で居酒屋の机の上に置かれた爪楊枝のショットにしても、また座布団の上に無造作に散乱した花札にしても、それらが中村翫右衛門、或いは河原崎長十郎、山岸しづ江といった人間の手から、口から「分離」した物として撮られているのは、その物が「そのもの」として撮られているからにほかならず、それはグリフィス「東への道」(1920)でヘンドリック・サートフによって撮られたリリアン・ギッシュのクローズアップと何ら異なることはない。『成瀬己喜男論文』で検討した「裸の窃視」にしても、「おかあさん」の「窃視表」22の「裸の窃視」は『切り返し無き内側だけ』であり、23の香川京子の「裸の窃視」における田中絹代の相撲のショットは内側から切り返され、「山の音」では『映画史上最高の「裸の窃視」』と名付けた原節子による山村聰への「裸の窃視」29もまた『切り返し無き内側だけ』によって『分断』され、「浮雲」の「窃視表」28のランプで照らされた高峰秀子のクローズアップは「その人」が「そのひと」として撮られることにおいてのみ『分断』されている。映画の記憶はとどまり続ける。どこかで誰かの手によって受け継がれた映画史は「見ること」によって突然現れてくる。ルイス・ブニュエルが「アンダルシアの犬(UN CHIEN ANDALOU)(1928)をひたすら内側からの切り返しで『分断』することで現れたのは未だ進化し根付く前の偶然ないしは反技術的なものがもたらした落とし子であり、亡霊であり、前衛である。