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藤村隆史論文ヒッチコック・ホークス主義

第三章

■「裏窓」(1954)~押されないシャッター

ここで●「裏窓」について検討する。ニューヨーク・グリニッジビレッジのとあるアパートに住む報道キャメラマンのジェームズ・スチュワートが骨折による車いす姿で動けない高温多湿の夏の日に、ふと向かいのアパートを覗き見した合間に見えた光景からこれは殺人事件ではないかと推測し、そのまま覗き見を続けてゆくところの●「裏窓」は「報道キャメラマンが殺人事件を追いかける」点において、キャメラマンとはそもそも被写体を客体として盗み撮りする要素を多分に秘めている職業であるとするならば、彼の盗み見行為はキャメラマンとしてのスキルに裏打ちされた職業運動とも見える。だがそもそも彼はキャメラマン「である」のか。彼は映画の途中から望遠レンズのついたキャメラを利用して盗み見を続行するが、彼の運動が報道キャメラマン「であること」へと向けられているならば、殺人事件という社会的な事件を目撃している以上、当然ながらその証拠となる写真を撮るのがキャメラマンとしての任務の遂行であり、どんな監督でもまずジェームズ・スチュワートにシャッターを押させるはずである。だが報道キャメラマンであるはずのジェームズ・スチュワートはあろうことか映画を通してただの一度たりともシャッターを押していない。彼はキャメラを利用して盗み見をしている場合でも映画の中にはジェームズ・スチュワートがシャッターを押す仕草もなければ「カシャ!」というシャッター音も聞こえて来ることもない。写真を撮ったという体裁のオプティカル処理も何もない。それどころか多くの場合ジェームズ・スチュワートは双眼鏡を選択するかキャメラを選択した時でも指はシャッターに触れられてすらおらずその運動は報道キャメラ「であること」ではなくひたすら盗み見を「すること」に集約されている。映画中盤、向かいのアパートのレイモンド・バーが大きなトランクを運び出そうとした時、スチュワートは『早くドイル(友人の警部ウエンデル・コリー)が来ないと証拠が消えてしまう!』と狼狽しているが、ここには「キャメラで証拠写真を撮る」という報道キャメラマンとしての職業倫理がまったく欠落している。これは実に恐るべき事態である。一度だけ、向かいのアパートの庭の花壇を撮ったネガを現在の花壇の光景と見比べて推理するシーンがあるが、このネガは2週間前に既に撮られた写真だとスチュワートが語るように、事件が起こる以前=映画が始まる以前=に撮られたものであり、事件が起きて以降=映画が開始されて以降、ジェームズ・スチュワートの「シャッターを押す」という運動は画面の中から周到に葬り去られている。キャメラマンとしての最大のスキルであるところの「シャッターを押す」という運動をただの一度たりともしようとしないジェームズ・スチュワートがキャメラマン「である」はずはなく、こうした異様な有様はヒッチコック的巻き込まれ運動がいかに「であること」から無縁であるかを示唆しており、そうすることでスチュワートの「殺人事件を調査する」という運動はキャメラマンとしての社会的責務=「おおやけ」から遠ざかり●「バルカン超特急」のマーガレット・ロックウッドと同じような『確かに私は見た!』ことへの私的な証明活動へと接近することになる。映画が「すること」=運動へと接近してゆく時事件を目撃している報道キャメラマンがシャッターを押さないという類の異常な出来事が幾度も画面の中に散りばめられることになる。

「欲望」(1966)~ミケランジェロ・アントニオーニ

写真家が公園で撮ったスナップ写真の周辺部分に殺人事件の痕跡が映っていることからその写真を徹底的に「見ること」によって検証してゆくミケランジェロ・アントニオーニの撮ったイタリア映画●「欲望」には、終盤、写真家のデヴィッド・ヘミングスが夜、撮影現場の公園へ出向いて木陰に横たわる死体を発見するというシーンが撮られているが、それまで常にキャメラを持ち歩いている彼がこの時だけなぜかキャメラを持っていない。キャメラを忘れて「しまった!」と悔しがるショットも撮られていなければキャメラを取りに戻ろうとするショットも撮られていない。現実と非現実の境界が曖昧なこの作品の趣旨から仮にこれが夢だとしても「見ること」の不確実性を極限まで推し進めた●「裏窓」と「欲望」の2作品において写真家が決定的証拠を目の前にしたときそれをキャメラで撮ろうともしないというおかしな出来事が生じている。彼らは写真家「である」のではなく被写体を「見ること」(「すること」)へ特化されているのである。

★道具

●「裏窓」で切り離されているのは主人公の「であること」だけではない。道具までもがその「であること」から切り離されている。映画中盤、スチュワートの使っているキャメラを家政婦のセルマ・リッターが借りようとする時、彼女は「キャメラを貸して」とは言わない。『ポータブルキーホール(portable keyhole=持ち歩き式のぞき穴貸して』と言っている。ジェームズ・スチュワートが持っているのはキャメラではない。ポータブル式のぞき穴であり、ポータブル式のぞき穴にシャッターはついていないのだからジェームズ・スチュワートがシャッターを押せるわけがない。ここにおいてはジェームズ・スチュワートがキャメラマン「であること」から引き剥がされているばかりかキャメラという事物すらその社会的機能としてのキャメラ「であること」から「すること」の領域へと引き剥がされている。キャメラはキャメラではない。ポータブルのぞき穴なのだ。キャメラ「であること」という形而上的不動性は解体され物体すら今為されている「見ること」という運動=「すること」の過程へと純化されてしまうのであり、こうした性向を有する●「裏窓」は、被写体に光を当てて写真を撮るためにあるフラッシュの光線を「光ること」という剝き出しの運動に特化させて目つぶしに使うことへと当然のように展開されていくことになる。機能の中から運動だけを取り出し「すること」へと純化させるのである。

★逆手

物の機能の中から「すること」だけを抽出するという出来事はナイフや包丁といった凶器にも妥当する。●「ゆすり」でアニー・オンドラが絵描きの男に襲われた時、最初はカーテンの中から出てきたオンドラの手に順手によって握られたナイフが、オンドラがカーテンの中から出てきた時には逆手によって握られている。●「引き裂かれたカーテン」においても農家の女は最初、順手で握っていた包丁をわざわざ逆手に持ち替えてドイツの諜報部員ウォルフガング・キーリングに切り付けているし●「知りすぎていた男」でもまたダニエル・ジェランの背中を刺す男はナイフを逆手で握り●「サイコ」でジャネット・リーが包丁で襲われる時と終盤ヴェラ・マイルズが襲われる時、包丁は襲撃者の手に逆手で握られている。●「ダイヤルMを廻せ!」においてグレース・ケリーがアンソニー・ドーソンの背中にはさみを突き刺す時はさみは逆手によって握られているし●「北北西に進路を取れ」では国連ビルで背中を刺された男を抱きとめたケーリー・グラントの手によって抜かれたナイフもまたものの見事に逆手によって握られており、そればかりか彼がナイフを逆手で握った姿がちょうど居合わせたキャメラマンによって撮られてその写真が新聞に大きく載るというショットまで撮られていて、その後ラシュモア山の断崖でケーリー・グラントに襲い掛かるナイフの使い手アダム・ウィリアムズのナイフもまた逆手によって握られている。ニコラス・レイの●「理由なき反抗」(1955)でジェームズ・ディーンが示したように、人を刺す場合、「上手く刺す」という機能面からするならば順手によって握られているナイフや包丁の方が逆手よりも相手を刺し易いはずが、ヒッチコック映画においては多くの場合人を刺す凶器は逆手によって握られている。逆手によって振り降ろされる物体は機能的な「であること」から引き剥がされた得体のしれない異様な「すること」を暴露させるのである。

★機能・運動連関表

『ヒッチコック機能・運動連関表』を提示する。機能=「であること」の中から運動=「すること」を取り出した「おかしな」ことについての箇条書きである。これらは往々にして複数に重複しており厳密に分類できるわけではないが、ひとまず道具、場所、人・動物、出来事、音声に分け、それぞれについて23の例を挙げながら検討を始める。

道具

    ポケットの中に入っているパイプを突き立てて拳銃と信じさせ相手を脅かす。パイプは本来の機能であるたばこを吸うこと=「であること」ことから切り離され、銃という「すること」へと転換されている。(●「三十九夜」(1935))

  先祖代々受け継がれてきた椅子がショーウインドウに飾られる。椅子が本来の機能の「座る」という「であること」ではなく、道具屋のショーウインドウに飾られるという「すること」として出現している。(●「断崖」(1941)

  札束は使われることなく車もろとも沈められる。札が交換紙幣として使われるという「であること」でなく、沼に沈められるという「すること」へと転換されている。それが犯罪の異常性を際立たせている。(●「サイコ」(1960)

場所

  ワイン倉庫をウラニウムの隠し場所に使う。ワイン倉庫がワインを保管するという「であること」ではなくウラニウムを保管するという「すること」へと転化されている。(●「汚名」(1946)

  オークション会場でセリを妨害し警官を呼び寄せて自分を逮捕させる。オークション会場がオークションをする場所という「であること」ではなくスパイたちに囲まれている男を警官に逮捕させて逃がすという「すること」へと転換されている。(●「北北西に進路を取れ」(1959)

  学校のジャングルジムに鳥がとまる。ジャングルジムは子供が遊ぶ器具としての「であること」ではなく、鳥がとまるという「すること」へと転換される。それによって異様性が露呈する。(●「鳥」(1963)

人・動物

    牛乳屋が制服を男に貸し彼を牛乳屋に化けさせてアパートから脱出させる。牛乳屋は牛乳配達という「であること」ではなく男を逃がすことという「すること」のために存在している(●「三十九夜」(1935)

 警官に追われている男が列車の客室に座っている見知らぬ女にキスをし恋人を装って追っ手をまく。出来事の観点からすると愛するゆえにキスをするという「であること」が、追っ手をまくことという出来事を引き起こすための「すること」へと転換されているばかりか、ちょうどそこに居合わせた女の存在そのものが「人」としての「であること」ではなく「キスをするため」、「男を逃がすため」という「すること」へと転換されている。まず女がそこにいるからキスをするのではなく、キスをして男を逃がすために女がそこにいる、という逆転の発想がここにある。(●「三十九夜」(1935)

音声

  部屋で死体を発見したメイドの悲鳴が汽車の汽笛にかぶせられる。驚いて叫ぶ悲鳴という「であること」」が、汽車の汽笛という「すること」へと転化されている。(●「三十九夜」(1935)

  シンバルの鳴る音が銃声をかき消す。シンバルの音が音楽の演奏という「であること」から銃声をかき消すという「すること」へと転化されている。女の悲鳴が暗殺者の銃の狙いを逸らさせる。驚いて上げる悲鳴という「であること」が、銃の狙いを逸らせるという「すること」へと転化されている(●「暗殺者の家」(1934)●「知りすぎていた男」(1956)

  アパートメントの外に向けて銃を撃ち警察を呼び寄せる。銃が人の殺傷という「であること」ではなく人を呼ぶという「すること」へと転化されている。(●「ロープ」(1948)

出来事

    バーテンが店の酒を飲んで店主に咎められて首になり、前借りした給料の返済をして無一文になり、当たり馬券の情報を得たものの金がなくて馬券を買えず、仕方なく別れた女房に金を借りるために会いに行く。店の酒を飲むという出来事が酒を味わうという「であること」から引き剥がされ、前借金の返済→無一文→馬券を買えない→別れた女房に会いに行くという後発的出来事を次々と引き起こすきっかけ=「すること」として露呈している。(●「フレンジー」(1972)

    殺人鬼が講演に行くため家を出た隙に家に残った娘が証拠の指輪を探す。講演をするという出来事が講演をするという「であること」ではなく、指輪を探すことという後発的出来事を引き起こすためのきっかけ=「すること」へと転換されている。さらにここでは「娘が家に一人で残る」という出来事が「ガレージで排気ガスを吸って気分が悪くなる」という出来事に由来している。従ってこの「カレージで排気ガスを吸って気分が悪くなる」という出来事もまた「であること」から引き剥がされ「一人で家に残ること」という後発的出来事を引き起こすための「すること」へと転換されている。ここでは2つの出来事が機能から分離して逆へと連続している。(●「疑惑の影」(1943))

    向かいのアパートの1階に住んでいるミス・ロンリーハートが自殺をしそうなので盗み見をしていた男が警察へ電話をかけて回線がつながるのを待っているところ自殺は実行されず、安心したところで今度は向かいのアパートの2階に忍び込んでいた恋人が襲われそうになったのでちょうどその時回線がつながった電話で警察に通報する。ミス・ロンリーハートの自殺未遂を通報するという「であること」のためにかけられた電話が、恋人の危機を通報するという「すること」へと転化されている。(●「裏窓」(1954)


出来事~気候

    女が車を運転していると雨が降り、日も沈んで視界不良となり脇道にそれてベイツモテルにたどり着く。雨、日没という出来事が気候現象という「であること」から切り離され「女をベイツモテルへと巻き込むこと」という「すること」へと転換されている。(●「サイコ」(1960)

  高温多湿の真夏のある日、男は向かいのアパートの覗き見を始める。高温多湿という「であること」は男をして覗き見をするという後続の出来事を引き起こすための「すること」へと転化されている(●「裏窓」(1954)

★転機

ヒッチコックの『機能・運動連関表』を見てみると、サイレント映画時代にそれなりになされていた「であること」からの「すること」の分離がトーキー映画以降激減し、再び●「リッチ・アンド・ストレンジ」(1932)から次第に増加し始め●「暗殺者の家」(1934)●「三十九夜」(1935)にかけて加速度を増して現れ始めている。●「三十九夜」においては讃美歌の本は賛美歌を歌うためにではなく銃弾を受け止めるために存在し、パイプは吸うためではなくポケットの中に忍ばせてピストルを装うために、救世軍のパレードは人が身を隠すために、政治集会もまた人が身を隠すために、滝はその裏に人が隠れるために、、というように、道具のみならず場所や状況までもが本来の機能=「であること」から引き離され「すること」へと転化されている。機能の中から運動だけを取り出してしまうこの現象のもとでは、コンパートメントでのキスという出来事もまた本来の愛情という「であること」から引き離され「警官から逃れるため」という「すること」の剥き出しへと転換されているばかりか、牛乳屋は牛乳屋の仕事をするためでなくロバート・ドーナットをアパートの外へ逃がすために、農家の妻もまたロバート・ドーナットを助けるために、羊の群れは車を妨害するために、というように、人間や動物までもが剥き出しの「すること」へと転換され、さらにアパートの管理人の悲鳴は汽笛になり、羊の鳴き声は逃亡する二人の足音を消すために、寒さは男と女を結びつけるためにというように、音声や気候までもが「であること」から「すること」へと分離されている。ヒッチコック映画において「であること」から「すること」への分離を決定的にしたのが●「三十九夜」でありこの作品は登場人物や協力者のみならず道具、場所その他においてもヒッチコック映画が「であること」から「すること」へと転換してゆくところの決定的な転機となっている。

★銃の記憶

●「ロープ」のジェームズ・スチュワートによって空へ向けて撃たれた三発の銃声が人を呼び寄せるラストシーンは暴発した銃がスチュワートに当たって怪我をするシーンより我々の印象に残りやすく●「北北西に進路を取れ」でマーティン・ランドーが保安官に銃で撃たれたシーンは我々の記憶に残らないが同じ銃でもケーリー・グラントが空砲で撃たれたシーンは記憶に残るように、また●「三十九夜」では序盤女スパイが劇場から逃げるために銃声で観客を驚かして一緒に逃げるシーンは記憶に残っても終盤ミスター・メモリーが銃で撃たれたシーンは思い出せないように、また●「海外特派員」でアルバート・バッサーマンがキャメラマンに化けた男に銃で撃たれるシーンは銃がまるでキャメラのシャッターを押すようにして撃たれることで我々の記憶に留まり続けるように、道具連関からはずされた細部がある場合それが何もない場合よりも我々の記憶に残りやすい。●「北北西に進路を取れ」のラストシーンのラシュモア山で保安官がマーティン・ランドーを撃ち殺すのを見たジェイムズ・メイスンが『実弾を使うとは無粋だな』と言い放ったのはまさにヒッチコック的運動を逸脱した実弾による銃殺を揶揄したユーモアとしてあり、行き着くところまで行き着いた●「北北西に進路を取れ」のラストシーンではトンネルに突っ込む列車がヒッチコックによると『男根のシンボルだよ!』ということになってしまう(「映画術」137)

★幕

ヒッチコック映画において諸々の現象が「であること」としてあるのか「すること」へと削ぎ落とされているかはその作品の性質を知るうえで大きな指標となる。「幕が上がる」という出来事にしても本物の舞台の幕が上がって映画が始まる●「舞台恐怖症」と、窓のブラインドを幕に見立てて映画が始まる●「裏窓」とでは作品の性質が大きく異なっている。「本物の幕」という外部の「であること」へと寄りかかって始まる●「舞台恐怖症」はその後も映画はことあるごとに主体性を帯びジェーン・ワイマンが罪の意識に駆られて泣き崩れたりしながら進んでゆくのに対して、ブラインドをブラインド「であること」から引き剥がし幕という「すること」へと転換して始まる●「裏窓」はキャメラが「持ち運び式のぞき穴」になってしまうようにあらゆる内部が「であること」から引き離された「すること」の力で進んでゆくのであり、一見些細に見える細部の相違が映画の性質を決定づけている。「役者が役を演じること」において●「舞台恐怖症」と共通し主人公のハーバート・マーシャルが主体的な行動をとり続ける●「殺人!」のラストシーンもまた実際の舞台の幕がおりて映画が終わっているのは決して偶然ではない。


「間違えられた男」(1957)と順手のブラシ

実話に基づいて撮られた唯一のヒッチコック作品である●「間違えられた男」では「であること」からの運動の引き剥がしが劇的に減少している(『機能・運動連関表』参照)。実話とは機能的な文明世界であり「すること」ではなく「であること」の世界であることからするならば、実話に基づいた作品において「であること」から「すること」への引き剥がしが激減するのは当然の流れとしてある。精神に異常を来した妻のヴェラ・マイルズがブラシでヘンリー・フォンダを殴るシーンは「ブラシ」という「殴ること」の道具連関から引き剥がされた物体が使われていながらそれが順手によって握られているところが機能的な一面を露呈させているし、終盤、真犯人が押し入った雑貨屋の女主人に握られたナイフもまた順手によって握られている。確かにブラシを逆手に握って人を殴るというのはあり得ないが、そもそも順手でしか握りようのない道具が凶器に使われていること自体が作品の主体性を露呈させている。ヒッチコック映画の順手で握られた凶器には●「快楽の園」(1925)のマイルズ・マンダーのサーベル、●「サボタージュ」のシルヴィア・シドニーのナイフ、●「バルカン超特急」では貨物室で襲い掛かってきた奇術師の握っているナイフ●「救命艇」ではヴァルター・シュレザーク、ジョン・ボディアクの握るナイフ●「白い恐怖」のグレゴリー・ペックが握るカミソリ●「泥棒成金」で暴漢がケーリー・グラントに襲い掛かる時のスパナしかなく、順手のよる攻撃行為はむしろ例外化している(●「サボタージュ」ではシルヴィア・シドニーが積極的に刺したという効果を薄めるために彼女によって握られているナイフに夫のオスカー・ホモルカが自発的に進んで行って刺されるという演出になっておりこの場合ナイフを逆手に握っていたのではこの演出は不可能なので順手で握る以外にない)。●「間違えられた男」では警察、取調室、法廷、監獄、保険会社、レストラン、法律事務所、保養所といった場所はすべて機能的に「であること」として使用されていてそれ以外の用途=「すること」に使用されることは一切ないという事実は機能と運動との関係を知るうえで非常に示唆的な現れとしてある。実話という機能的な「であること」の世界は「真実」の世界であり「心理的にほんとうらしい」世界であることから「心理的ほんとうらしさ」から自由になった「すること」は後退してゆくのである。

→「トパーズ」(1969)

スパイ映画である●「トパーズ」は非常に主体的な「初犯」の作品であることを検討したが、ここではサンドイッチ、ガードレール、鳥の姿焼きの中にキャメラが隠され、タイプライターは情報を隠すために、カミソリと本の中にはフィルムが隠されている。本来「隠すこと」を機能としていないものの中に何かが隠されることが頻繁に行われていることからそれらの物体は「であること」から「すること」へと分離されているようにも見える。しかしサンドイッチ等の中に隠されていたキャメラ、フィルムといった道具類はすべてそのまま機能的に使われているのであり、第一の「であること」の中を開けると入れ子のように第二の「であること」が出て来ることになりいつまでたっても「すること」を取り出すことはできない。●「キートンの蒸気船」(1928)では投獄された父親を脱獄させようとキートンがパンの中に工具を隠して差し入れに行くというシーンが撮られているが、その工具はパンの中から落下してしまって使われずじまいで脱獄も成功せず結局のところ工具類は「牢を開ける」という機能には何ら奉仕せず「落下すること」という運動の過程へと埋没しているのとは大きく異なっている。「であること」の主体的な空間においては道具たちもまた「であること」に囚われ「すること」をしようとしない。

★場所

●「めまい」(1958)

この作品でキム・ノヴァクを尾行するジェームズ・スチュワートは、キム・ノヴァクを尾行する過程で道路、花屋、墓地、美術館、宿屋、海、教会とその階段など、様々な場所へ振り回されることになるが、その殆どの場所は偽装されていて、墓は墓参りの場所でなく、美術館は美術鑑賞の場所でなく、宿屋は泊まる場所でなく、教会は信仰の場所ではなく、道路は迷路に、というように、すべてはジェームズ・スチュワートをたぶらかすために「であること」の機能から引き剥がされた「すること」の空間として出現している。我々がヒッチコック映画の名場面を想起する時、それを印象付けているのは多くの場合「であること」から引き剥がされて剥き出しとなった「すること」の場所であり●「三十九夜」の滝の裏、●「第3逃亡者」の水車小屋、列車の踏切、●「バルカン超特急」の食堂車、●「レベッカ」(1940)のマンダレー、●「断崖」でケーリー・グラントが白いミルクを持って上がって来る階段、●「疑惑の影」の外階段、ガレージ、●「見知らぬ乗客」の遊園地、●「汚名」のワイン倉庫、●「北北西に進路を取れ」の農道ととうもろことし畑、オークション会場、ラシュモア山、●「サイコ」のベイツモテル、●「鳥」の湖、ジャングルジム、●「フレンジー」のじゃがいも運搬トラック、、これらはすべて用途としての「であること」から引き剥がされた剥き出しの場所としてあるがゆえにその驚きと共に記憶に残るのであり同じ競馬場でも馬券を買わずに情報交換の場所となる●「汚名」と馬券を買って当ててしまう●「マーニー」とでは作品の主体性においてまったく違ってくる。サイレント期の●「スキンゲーム」でのオークション会場がひたすら誰が土地を競り落とすかという「オークション会場であること」として撮られていたのが●「北北西に進路を取れ」におけるオークション会場ではセリという機能ではなく敵スパイに囲まれ四面楚歌のケーリー・グラントが「逃げるため」という「すること」へと転換されているように●「三十九夜」以降のヒッチコック映画は場所においても「すること」へと向けられた運動へと転換されていく。

★法廷

官憲に逮捕されることは刑事や裁判官、弁護士という真実を追求する主体的な人物と接近するばかりかその後法廷へと移行することで過去の真実というというさらなる「であること」へと遡ってくことになるのでありヒッチコック映画の主人公たちは決して逮捕されてはならず、逮捕されそうになった時は●「三十九夜」のロバート・ドーナットのように窓ガラスをかち割って逃走しなければならない。●「暗殺者の家」以前の●「ふしだらな女」(1927)●「マンクスマン」(1928)、●「殺人!」(1930)等の頃までは主人公が被告人や陪審員として出廷する法廷シーンが普通のように撮られていたが●「暗殺者の家」以降そうしたシーンは激減している。主人公が犯罪を犯したか犯罪の嫌疑をかけられている作品は●「暗殺者の家」以降に絞ると●「三十九夜」(・ロバート・ドーナット●「サボタージュ」オスカー・ホモルカ・シルヴィア・シドニー●「第3逃亡者」デリック・デ・マーニー●「レベッカ」ローレンス・オリヴィエ●「逃走迷路」ロバート・カミングス●「白い恐怖」グレゴリー・ペック●「パラダイン夫人の恋」のアリダ・ヴァリ●「ロープ」ジョン・ドール、ファーリー・グレンジャー●「見知らぬ乗客」ファーリー・グレンジャー、●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフト、●「ダイヤルMを廻せ!」と●「裏窓」のグレース・ケリー●「泥棒成金」ケーリー・グラント●「ハリーの災難」●「間違えられた男」ヘンリー・フォンダ●「めまい」ジェームズ・スチュワート●「北北西に進路を取れ」ケーリー・グラント●「マーニー」ティッピ・ヘドレン●「引き裂かれたカーテン」ポール・ニューマン●「フレンジー」ジョン・フィンチ、バリー・フォスターなど多数あるが、この中で官憲に逮捕されたのは●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニー●「白い恐怖」のグレゴリー・ペック●「パラダイン夫人の恋」のアリダ・ヴァリ●「ダイヤルMを廻せ!」と●「裏窓」のグレース・ケリー●「泥棒成金」のケーリー・グラント●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフト●「間違えられた男」のヘンリー・フォンダ●「めまい」のジェームズ・スチュワート●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラント●「フレンジー」のジョン・フィンチであり、この中で●「第3逃亡者」のデリック・デ・マーニーは分厚い眼鏡をかけて裁判所から即座に逃亡し●「裏窓」のグレース・ケリーはすぐに保釈され●「泥棒成金」のケーリー・グラントもまた10日以内に犯人の証拠を裁判所に提出する約束で保釈され●「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントの2度目の逮捕はオークション会場から逃げるために自分から進んで逮捕されたのであって彼は即座にFBIのレオ・G・キャロルによって釈放されているし、その後空砲で撃たれてFBIにホテルに監禁されたあともすぐに窓を伝って脱走し●「白い恐怖」のグレゴリー・ペックは脱走も保釈もされていないものの取調室での尋問や法廷シーンなどのショットは1ショットも撮られていない。さらに進んで法廷における裁判が撮られたのは●「汚名」●「パラダイン夫人の恋」●「私は告白する」●「ダイヤルMを廻せ!●「間違えられた男」(「めまい」●「北北西に進路を取れ」●「フレンジー」の8本だが、●「汚名」の裁判シーンはスパイとして起訴されたバーグマンの父親の法廷の様子を半分開けられたドアの隙間からほんの一瞬撮られた断片的なものに過ぎず(ここでバーグマンの父親の顔が一瞬たりとも撮られていないのは父親が事件を起動させるためのマクガフィンに過ぎないことの証左である)●「ダイヤルMを廻せ!」の裁判シーンもまた1分ほどに省略された裁判シーンのイメージ映像がグレース・ケリーのクローズアップで撮られているだけで●「北北西に進路を取れ」においては飲酒運転で逮捕されたケーリー・グラントの法廷シーンは一瞬で終わって保釈になり●「フレンジー」の法廷シーンは法廷の外からガラス戸越しに撮られていて判決が言い渡される瞬間も音声はドアが閉まっていて聞こえず、判決後ドア越しに聞こえてくる『犯人はラスクだ!俺じゃない!』というジョン・フィンチの叫び声もそれに驚いた警備員がドアを開けた時に法廷から連れ出されるジョン・フィンチの姿が一瞬撮られているだけで「であること」としての法廷シーンは意図的に回避されている。こうした省略はハーバート・マーシャルが陪審員を務めた●「殺人!」(1930)にも見られたが、そこでは判決はオフの声によってしか聞こえて来ないものの判決の言い渡される瞬間を聞くことができ、また法廷シーンや陪審員室での討論が長々と撮られていて、●「三十九夜」以前のこの時代には未だ「であること」の省略という趣旨がヒッチコック自身に充分には意図されてはいないことが見て取れる。ロバート・シオドマクは●「幻の女」(1944)で妻を殺した容疑で逮捕されたアラン・カーティスの法廷シーンを傍聴席のエラ・レインズと刑事のトーマス・ゴメス等の傍聴人のショットだけで済ませそれ以外の被告人、検事、陪審員等はすべて画面の外から聞こえて来る声だけで省略して撮っており、加えて傍聴人の女がかじっているリンゴをのどに詰まらせて咳こみ有罪判決を読み上げる陪審員の声がかき消されて聞こえないという手の込んだ演出までおり、ハワード・ホークス●「紳士は金髪がお好き」(1953)に至ってはマリリン・モンローに変装したジェーン・ラッセルが法廷であられもなく踊り出すという芸当を披露しているのは、法廷という「真実」の空間を忌避した大胆な芸当としてある。

★「めまい」(1958)と裁判所

●「めまい」ではキム・ノヴァクの「自殺」を防ぐことのできなかったジェームズ・スチュワートがその後裁判にかけられている。だがよく見るとこの場所は裁判所ではない。映画中盤、女が教会の尖頭から落下するシークエンスは、教会の白い柱を捉えたキャメラが右方向へとパンし馬車の置いてある馬小屋を捉えるまでのショットで始まっているが、この法廷のシークエンスはそれとまったく同じ構図とキャメラの動きで始まっていることからして、場所は裁判所ではなく、関係者の車が止まっている位置とズームされてゆく画面からして犯行現場となった教会の向かい側にある馬小屋の左側に建っている二階建ての建物の二階であることがわかる。そうすることで法廷という「であること」の公的な空間は私的な「すること」の場所へと転換されているのであり、それは●「レベッカ」における尋問会が「KERRITH  BOARD  SCHOOL」と書かれた寄宿学校で開催されていることとも通底している。●「めまい」という作品はサンフランシスコの独特の坂道が迷路になってしまうように、花屋、墓地、教会、美術館、海、といったそこに登場する場所すべてが「であること」から引き剥がされた偽装空間として撮られており、それがジェームズ・スチュワートをして「柔らかく」させ巻き込んでいくところの細部として散りばめられている。

★自首すること

●「三十九夜」以降、主人公が犯罪の嫌疑を受ける作品で法廷という「であること」の空間が積極的に撮られた作品は●「私は告白する」●「間違えられた男」●「パラダイン夫人の恋」の3本であり、そのどれもがこれまでの検討で主体的な細部の多い作品であることは偶然ではない。前二者の作品では主人公が保釈されたり無罪で釈放されたりしているもののそれはあくまでも延々と続く法廷シーンが撮られた後の出来事に過ぎず、どちらにせよ逮捕された主人公はその後の裁判所という極めて主体的な場所でなされる主体的な運動を回避するために全力を挙げて逃げるべきであるところが、これらの3本の被疑者たちには(1本は実話だからと言え)逃亡の意志もなければその素振りもまったく見られず、それどころか●「私は告白する」のモンゴメリー・クリフトにいたっては呼ばれてもいないのに自らの意志で警察に出頭しており、そうすることで主体的な演技派刑事カール・マルデンに加えて法廷という「真実」を探求する主体的な空間を引き寄せている。ヒッチコック映画において主人公が自首をするのは●「私は告白する」以外では●「ゆすり」のアニー・オンドラ一人しか存在せず、しかも彼女は恋人の刑事ジョン・ロングデンの計らいで逮捕を免れ放免されており、また●「サボタージュ」では夫を殺したシルヴィア・シドニーが自首しようとして刑事のジョン・ロングデンに阻まれていることからすれば●「私は告白する」の主体性は際立っている。「であること」へと向けて撮られ始めたヒッチコック映画はあらゆる細部において「であること」を引き寄せてしまう。

★架空都市

●「暗殺者の家」から●「三十九夜」にかけて「すること」へと強まってゆくヒッチコック的運動は遺作●「ファミリープロット」においては車のバックナンバーから何から都市の実在性を知らせる情報はすべて削除され、信用も名誉も財産もなにひとつ持ち合わせていない無名の恋人たちの「すること」が架空都市の無名性に包み込まれて飛躍している。

★教会

サイレント時代の●「リング」では結婚式のために使われていた教会が●「暗殺者の家」とそのリメイクの●「知りすぎていた男」では暗殺団のアジトとなり●「間諜最後の日」では不気味なオルガンの響きと共に死体置き場となり●「めまい」ではめまいを惹き起こす階段と殺人の偽装現場に●「ファミリープロット」では誘拐事件の現場にというように、教会という場所もまた●「暗殺者の家」以降加速度的に「であること」から遊離していく反面、主体的な作品である●「私は告白する」においては終始教会が教会として撮られているようにヒッチコックにおいて「であること」へと向けられた作品はその細部がとことん主体的になるという現象がここにもまた見い出される。

★暖炉 

●「農夫の妻」●「ジュノーと孔雀」といったサイレント映画で暖炉は暖炉として使用され、●「巌窟の野獣」では海で濡れたモーリン・オハラの体を温め●「スミス夫妻」では遊園地の観覧車で雨に降られずぶ濡れになったキャロル・ロンバートが体を温め●「ハリーの災難」では死人の服を乾かしているが、温まるという機能に集約された暖炉よりも●「三十九夜」の暖炉のように、手錠につながれたロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルの2人を寄り添わせるために、あるいはマデリーン・キャロルのストッキングをマントルピースから吊るすために炊かれた暖炉と炎は「であること」から分離して生々しく露呈している。●「めまい」において海に飛び込んだキム・ノヴァクがジェームズ・スチュワートの家で介抱されたあと赤いガウンに包まれて絨毯の上に枕を敷いて座った暖炉前の空間はそれを暖炉として機能させるならばキム・ノヴァクの脱いだ濡れた衣服をまずもって乾すために使われるべきところ、濡れた衣服はキッチンという本来衣服の乾される場所ではない「すること」の空間に隠されるように乾されていることでそれがジェームズ・スチュワートによって脱がされたことをさり気なくエロチックに示しながら、キム・ノヴァクの背後で下から上へと無限ループするかのように上昇し続ける暖炉の炎はキム・ノヴァクの体を温めるという機能から切り離された「赤」として露呈することになる。

★音声を意味から分離する

機能の中から運動を取り出す現象は音声においても妥当する。ヒッチコック初のトーキー映画である●「ゆすり」では街で浮浪者の手を見たアニー・オンドラが自分の殺した死体の手を思い出してあげた悲鳴が死体を発見した管理人の悲鳴にかぶせられ、また殺人のシーンの悲鳴やうめき声をカーテンの向こう側から聞かせるだけの演出をし、さらに朝食ではおしゃべり女のフィリス・コンスタムに意味不明の脈絡において何度も『ナイフ!』と連呼させ、ラストシーンでも警官たちの不気味な笑い声を不協和音的に鳴り響かせていたように、悲鳴、うめき声、同じ言葉の連呼等、意味を「読むこと」ではなく「聞くこと」の音声を多用している。だがそれ以降●「ジュノーと孔雀」では確かにオフ空間の足音や銃声などのうごめきを「聞くこと」の演出がある反面、オフ空間から聞こえて来る声の意味内容を「読むこと」の音声が活用され始め●「殺人!」でもまた陪審員室でハーバート・マーシャルに対してたたみかけるように有罪を要求する陪審員たちの声を不協和音的にかぶせて「聞くこと」の演出をしていながら、判決の内容をオフの声で「読ませる」演出をし●「スキンゲーム」ではエドマンド・グウェインが農家の夫婦に立ち退きを要求する1分前後の長回しの会話の内容がすべてオフから聞こえてきたり、嫁のフィリス・コンスタムがカーテンの影からCV・フランスとその娘ジル・エズモンドの会話を盗み聞きしたりと、トーキー以降ヒッチコックは音声をその主体から分離して「声だけ」を聴かせる演出を多用するようになるものの、分離された声ではなく言葉の内容=「であること」に重点を置いたこれらの演出は結局のところ言葉の中身を「読ませる」ことにほかならず運動の複雑性を縮減させている。しかし次第にヒッチコックは「すること」=「聞くこと」へと分離させてゆく傾向を強めてゆき●「リッチ・アンド・ストレンジ」のラストシーンでは夫婦が同時に言いたいことを言い合う夫婦喧嘩の不協和音で映画を終わらせ●「暗殺者の家」ではシンバルの音を銃声を消すために、女の悲鳴を射撃手の手元を狂わせるために●「三十九夜」では死体を発見したメイドの悲鳴に汽笛の音をかぶせたばかりか、夫に殴られた農家の妻ペギー・アシュクロフトの悲鳴のあとにまったく別の場所にいる判事の笑い声をかぶせ、さらに政治集会ではステージ上の紹介者に小さな聞き取れない声でもしゃべらせたぱかりか、最後のロンドン劇場のシークエンスでは舞台のタップダンスの靴の音と階段を上ってゆく警官たちの靴の音を同時にかぶせたりしている。●「間諜最後の日」では教会のオルガンの不協和音に死体をイメージさせ●「断崖」の言葉遊びゲームでは「MURDER」という文字が出てケーリー・グラントの殺人をイメージさせた瞬間にナイジェル・ブルースの不気味な笑い声が被せられたりと、音声の意味内容という「であること」から音声そのものの「すること」だけを取り出し音声をまったくその機能(意味)とは違った別物へと転換して使うようになる。これはヒッチコック映画における音声の「読むこと」から「聞くこと」への転換であり、そうした傾向は初のトーキー映画●「ゆすり」の「ナイフ!」の連呼等にすでにみられていたもののその後後退し、それが●「リッチ・アンド・ストレンジ」あたりから再び顕著な傾向として現れて来る。

★気候現象~季節

アリゾナ州フェニックス1211日金曜日、午後243分に映画が開始されていながら不動産屋の事務所で顧客のサイモン・オークランドが『蒸し風呂だな。クーラーをつけてもらえ。』と口走る●「サイコ」のように、日本映画にありがちな春夏秋冬の抒情的な季節の分節はヒッチコック映画には存在しない。季節はニュートラルで判明しづらく、天候も晴れと曇りのあいだをほどよく進み、強烈な日差しに照らされることもなければどんよりと曇った空に包まれることもない。ヒッチコック映画において季節や気候が際立つのは例外的な出来事であり必ずやそこには理由が存在している。●「サイコ」の暑さはジャネット・リーを犯罪に巻き込むためのマクガフィンであり●「裏窓」における暑さやじめじめもまたジェームズ・スチュワートを覗き見という運動へと誘導するためのマクガフィンとして存在している。●「泥棒成金」の夏のリヴィエラはグレース・ケリーとブリジット・オベールを水着に着替えさせるためにありそれ以外にこの作品が夏である理由は花火くらいしかなくその花火もまたケーリー・グラントとグレース・ケリーがキスをする時の背景としてのマクガフィンとしてある。

★雨と傘~「舞台恐怖症」(1950)

ヒッチコック映画において雨はそれなりの頻度をもって降り注いでいる。既に処女作●「快楽の園」においてはヴァージニア・ヴァリの新婚旅行の当日の家の窓の外に雨が降り注いでいるのが見えるし●「第3逃亡者」では映画が始まって夫婦喧嘩が終わった後「まばたき男」のバックに雨が降り●「断崖」では結婚登記所の外に雨が降っている。そうして主人公たちに降りかかる雨は多くの場合気候現象としての雨ではなく不吉なものの前兆その他マクガフィンとしての「雨」であり、従ってヒッチコック映画の主人公は雨が降っても傘をさすことはない。「雨」は「雨であること」から遊離して他の何か=「すること」を指示しており「雨」に打たれてもそれは雨ではないのだから「雨」に降られた主人公たちが傘を差すことはない。ここに映画という出来事の運動という要請からくる「おかしみ」が露呈することになる。●「海外特派員」においてはアムステルダムの階段でのアルバート・バッサーマン暗殺のシークエンスで大雨が降り注いでいるが、周囲の群衆や階段を歩いてくるアルバート・バッサーマンは傘をさしているものの主人公のジョエル・マックリーはレインコートをびしょ濡れにさせて立っているし●「レベッカ」でマンダレーに向かう途中でオープンカーに降った雨においてもローレンス・オリヴィエとジョーン・フォンテーンの2人はずぶ濡れになっても傘は差さずにせいぜいフォンテーンがレインコートを頭からかぶるだけで、マンダレーに到着後も召使に差し出された傘に入りはしても決して自分たちで傘をさすことはしない。●「逃走迷路」では逃避行を続けるロバート・カミングスがどしゃ降りの中傘を差さずにずぶ濡れになって森の一軒家にたどり着いているし、あとからやって来たプリシラ・レインも傘を差してはおらず、コメディ映画の●「スミス夫妻」でも遊園地の観覧車が故障して宙吊りになったキャロル・ロンバートとジーン・レイモンドは雨に打たれて傘もなくびしょ濡れになっている。救命ボートに揺られる●「救命艇」では豪雨に遭っても傘をさす者などあるはずもなく●「パラダイン夫人の恋」ではずぶ濡れになって帰宅したグレゴリー・ペックが妻のアン・トッドに『傘も差さないで、、』とタオルで髪を拭いてもらい●「裏窓」のレイモンド・バーは夜の雨に打たれながらレインコート姿でこっそりと外出し●「サイコ」では大雨の中ベイツモテルに到着したジャネット・リーは傘も差さずにフロントへ走って行ってびしょ濡れになり、傘を持って走ってきた宿屋のアンソニー・パーキンスもわざわざ傘をさしかけてから差すのをやめている。「雨」は雨ではなくそれ以外の「すること」を露呈させるために降り注ぐのだから主人公が傘を刺さないのは当然である。

→「リッチ・アンド・ストレンジ」(1932)

ヒッチコック映画における「であること」から「すること」の引き剥がしは●「リッチ・アンド・ストレンジ」あたりから始まったと書いたが、倦怠期の夫婦が世界旅行へ出ることで夫婦仲を回復させてゆくこの作品では、オープニングに非常に面白い出来事が起きている。会社の終業シーンから始まるこの作品は、雨の降る会社の出口で他の社員たちが次々と傘をさして帰宅の途についていくのに対して主人公のヘンリー・ケンドールの傘だけが壊れていて開かない。仕方なく濡れながら地下鉄に乗った彼の持っている異様に柄が伸びきった傘はもはや傘には見えず、家にたどり着く頃になってやっと傘が開くと既に雨は止んでいて意味をなさない。ここで傘はとことん「雨をしのぐ」という傘の機能を否定され得体の知れない物体として出現している。サイレント映画時代にも既に●「下り坂」でイザベル・ジーンズの車でバス停まで送ってもらったアイヴァ・ノヴェロがびしょ濡れになりながら傘はさしていないというシーンが撮られてはいるものの●「リッチ・アンド・ストレンジ」の傘の演出の異様性は際立っている。●「海外特派員」のアムステルダムの暗殺シーンにおいて雨が極めて印象に残るのは、水蒸気が雲になり成長したから降った雨ではなく、群衆が傘をさすために降った「雨」だからであり、俯瞰から捉えた無数の雨傘が印象的なのも、雨が降ったから差された傘だからではなく、「傘」をさすためにさされた「傘」だからであり、「雨」も「傘」もどちらもが「であること」から切り離された「すること」として露呈しているがゆえに見ている我々の印象に残る。こうしてヒッチコック映画において「雨」は雨ではない他の「すること」なのだから、傘をささせるために降らせた「雨」でもない限りヒッチコック映画において主人公たちが傘をさすということは基本的にあり得ず、これだけ多くの雨が降っていながらヒッチコック作品の中で傘を差した主人公は●「舞台恐怖症」のジェーン・ワイマン一人しかいない。ここで彼女は劇場のガーデンパーティのテントの横でしっかりと傘をさしているがその傘が印象的であるというわけでもなければ雨が記憶に残るというわけでもなく、それはここでの傘が「雨をしのぐため」という機能的な「であること」によってさされていることを示しているのであり、このような現象は主体的な作品である●「舞台恐怖症」だからこそ起こり得ることができるのであって●「裏窓」や●「めまい」といった作品でそうした類の出来事は起こることは基本的にはあり得ない。あらゆる細部は呼応しているのである。

★使われないパイプと「三十九夜」(1935)

●「三十九夜」においてロバート・ドーナットがポケットに手を入れて「銃」を突き出し『いうことを聞かないと殺すぞ!』とマデリーン・キャロルを脅かしたあと、宿屋で寝入ったロバート・ドーナットのポケットをマデリーン・キャロルが探ってみると中から出てきたのは銃ではなくパイプだった、というシーンは非常に印象深いものとして残っている。これは「パイプであること」という道具連関から逸脱し機能的に異なる「銃」として使われたことによる「すること」の剥き出しが我々を驚かせるからに他ならない。だがこうした「すること」への逸脱性はその場限りの現象ではなく映画を通しての「おかしさ」として持続している。汽車の中で相席になった下着売りのセールスマンが駅で買った新聞には確かにロバート・ドーナットがパイプをふかしている写真が手配写真として載せられているものの、映画序盤、女スパイのルシー・マンハイムと一緒にロンドンのアパートに帰ってきたロバート・ドーナットはパイプではなく紙巻きたばこを吸っているし、スコットランドの小指のない教授ゴッドフリー・ティアールの家でも彼はパイプでなく紙巻きたばこを吸っている。指名手配の写真にパイプを吸っている姿が載ってしまったのでパイプをやめて紙煙草にしたのならロンドンのアパートではパイプを吸っていなければおかしい。ところがこの作品の中でパイプを吸っている人物は汽車のコンパートメントで一緒になった向かいの男と宿屋の主人の2人しかおらず、ロバート・ドーナットはただの一度たりともパイプを吸っていないどころかパイプを手にしてすらいない。彼のパイプはマデリーン・キャロルが彼のポケットから出した時はじめて映画の中のショットとして撮られたのであり、まったくもってこれはあまりにも馬鹿げている。パイプ男として手配されているはずの男が一度もパイプをふかさず、一度も人前でパイプに触れず、そのパイプはポケットの中で「銃」として使われたことが「あと」からわかるだけという途方もない「おかしさ=ばかばかしさ」、これがヒッチコック的「すること」映画の奇形性であり、最初から最後までグレゴリー・ペックがパイプを機能的にふかし続けた●「パラダイン夫人の恋」とはその運動性において雲泥の開きがある。ヒッチコック的スリラーは反機能的であることにおいて驚くべきほど機能的なのだ。ほかにもヒッチコック映画において「使われない物語」は後を絶たない。

★使われない物語

●「ゆすり」(1929)手袋は一度もアニー・オンドラの手にはめられることない→手袋は殺人現場に置き忘れてゆすられるためにある。

●「殺人!」(1930)序盤の殺人現場のアパートで管理人によって入れられた紅茶は飲まれない→紅茶をいれるあいだのおしゃべりで事件のあらましを説明するため。

●「三十九夜」(1935)終盤マデリーン・キャロルが警察に協力を仰ぎに行くが協力は得られない→警察から『情報は盗まれていない』という話をマデリーン・キャロルに聞かせそれをロバート・ドーナットに知らせて事件解決のヒントにするため。

●「間諜最後の日」(1936)ロバート・ヤングの手にあるぶどうは食べられない→ぶどうはロバート・ヤングの出のショットを劇的にするため

●「バルカン超特急」(1938)失踪する女ディム・メイ・ウィッティの持参した特別のお茶は一度も飲まれることはない→紅茶のラベルが失踪した女性の実在の証拠となるため。2人組の英国紳士の話題の的となるクリケットの試合は結局中止になる→クリケットは2人組を事件に非協力的にさせるため。マーガレット・ロックウッドの結婚は実現しない→結婚は彼女がロンドンへ向かう汽車に乗るため。

●「レベッカ」(1940)初めてマンダレーの屋敷にやってきたジョーン・フォンテーンがジュディス・アンダーソンの前で落とした手袋は一度もジョーン・フォンテーンの手にはめられていない→落として二人で拾うため。

●「断崖」(1941)ジョーン・フォンテーンが乗馬をしているシークエンスでキャメラマンがケーリー・グラントの写真を撮ろうとするが写真は撮れずじまいに終わる→一同を並ばせてジョーン・フォンテーンについての噂話をさせるため。

●「救命艇」(1943)タルラ・バンクヘッドのタイプライター、キャメラは使われることはない→海へ没収されるため。

●「汚名」(1946)競馬場の馬は最初の超ロングショットの2ショットとバーグマンの双眼鏡に反射した1ショットのみしか映されない→競馬場はスパイのバーグマンとケーリー・グラントが密談をするため。パーティで欠乏するワインは結局補充されずに終わる→ワイン倉庫のサスペンスを醸し出すため。

●「裏窓」(1954)報道キャメラマンが殺人の調査に使っているキャメラのシャッターが一度も押されない→キャメラではなく「持ち歩き式の覗き穴」だから。

●「めまい」(1958)暖炉の前でキム・ノヴァクに差し出されたコーヒーはただの一度たりとも口につけられない→おかわりを、とコーヒーカップを取ろうとしたスチュワートとキム・ノヴァクの手と手を触れ合わせるため。

●「鳥」(1963)ティッピ・ヘドレンの注文した鳥は届かない→鳥屋はロッド・テイラーと出会うため。また、テイラーの注文し損ねた鳥を届けに行って鳥に襲われるため。

●「フレンジー」(1972)ジョン・フィンチがバリー・フォスターからもらったぶどうは食べられることはない→当たり馬券を買えなかった腹いせに踏み潰されるためにある。

●「ファミリープロット」(1976)ブルース・ダーンのタクシーには一度も客が乗らない→タクシーは移動するためにある。

■マクガフィンとの関係~機能から運動を取りだす

●「めまい」で海に落ちて冷えた体を暖炉のそばで温めているキム・ノヴァクにジェームズ・スチュワートが熱いコーヒーをいれるシーンは、機能からするとそのコーヒーは冷えた体を温めるためにいれられたのだから何をもってもキム・ノヴァクによって飲まれなければならない。よくある映画はここでコーヒーを彼女に飲ませ「あたたまる」という外部的安堵を観客に共有させることで成立している。ところが画面を見てゆくとそのコーヒーカップはキム・ノヴァクの口に一度たりとも当てられることはない。これは機能的には「おかしい」のだが、そもそもあのコーヒーは飲んで体を温めるためではなく2人の手と手を触れ合わせるためにあり、だからこそコーヒーは飲まれることはない。機能から分離されることによって「すること」が露呈する。●「汚名」のパーティでケーリー・グラントが情報を探るために地下のワイン倉庫に忍び込むが、パーティが盛況でワインが残り僅かとなり、主人のクロード・レインズがワインを補給するためにワイン倉庫にやって来る。ケーリー・グラント危うし!、、だがこのサスペンスが終了した後クロード・レインズは執事に『別にワインでなくてもいいだろう、、ほかの酒で間に合うさ』と言ってさっさと戻って行ってしまう。ワインが欠乏する→ワインを補給するという機能的な回線が、ワインを補給する→サスペンスを生成するというまったく違った「すること」へと転化されているからこそ、その運動が終了してしまえば前者はどうでもよくなり、却ってそこに拘りすぎるとサスペンスを壊してしまうのでそれは処分される。これが「一度も使われることのない物語」であり●「裏窓」のおけるミス・ロンリーハートの自殺が「未遂」に終わったのも基本的にはこの回路から生じている。「機能から運動を取り出す」という回路はマクガフィンと質的に同じ流れであり、例えば「国家機密」というマクガフィンは巻き込まれ運動という出来事を起動させるきっかけであり「国家機密」という機能を「巻き込まれ運動を起動させる」というまったく別物の「すること」へと抽出することにおいて「機能の中から運動を取り出す」ことと通底している。雨に打たれても傘をささないのは「雨」が雨ではないからであり、結婚しても結婚式が撮られないのは「結婚」は結婚ではないからであり、こうした「おかしい」出来事は機能から運動を取り出す(分離する)ことで剥き出しとなった「すること」が露呈する結果としてあり「機能の中から運動を取り出す」の中から運動を起動させる系統の出来事をヒッチコックは「マクガフィン」と名指しているにすぎない。

★スラップスティックコメディ~「帽子箱を持った少女」(1927)~ボリス・バルネット

田舎娘の帽子職人が作った帽子を丸い帽子箱に入れて都会まで届けに行くことで数々の事件が惹き起こされるこの作品において「帽子箱」という小道具は踏み潰されたり弾き飛ばされたり積み重ねられて落下したり落とされて転がされたり太鼓みたいに叩かれたり人と人とを遮る衝立のように使われたりするものの実際に帽子箱の中に入っている帽子が何か意義を有することはまるでなくしたがって「帽子箱」は帽子を入れ運ぶためにあるのではなく帽子箱とはまるで違った「帽子箱」としての反機能的な物体と化すのであり、スラップスティックコメディとは基本的にこのことの集約された「機能からかけ離れたコメディ」としてあり、そこに露呈するのは機能から離れることの怖さと居心地の悪さによる「おかしみ」であり、映画が音を得て物語映画へと傾倒していくにつれスラップスティックコメディはそのあまりにも機能からかけ離れた「怖さ」ゆえに衰退することになる。

★「マーニー」(1964)から「気狂いピエロ」(1965)へ。

幼少時、母の売春相手を火かき棒で殴り殺してしまったことがトラウマとなって盗みを繰り返す女ティッピ・ヘドレンは、殺した男、ブルース・ダーンから流れ出た血の印象が強烈に残っていたために、赤い花、赤いインク、赤い洋服、そして雷光までもが赤く見え、それが「起源」となって過剰反応を繰り返してゆく。そして映画終盤ヘドレンの回想が流されるとヘドレンに殺されたブルース・ダーンから流れ出した真っ赤な血が画面一杯に映し出される。彼女が過剰反応し続けたのは花、インク、衣服、雷光、血といった背後にあるもの=「であること」ではない。インク、衣服、雷光そして血に共通「すること」=「赤」なのだ。こうした現象はモノクロームで撮られた作品において既に露呈している。●「断崖」で夜、階段を上がってくるケーリー・グラントの持っているお盆の上に乗せられているのは毒入りミルクではなく「白」であり(ヒッチコックはグラスの中に電球を入れ白く光らせて撮っている)、●「白い恐怖」において精神疾患に陥っているグレゴリー・ペックが過剰に反応し続けたテーブルクロス、ガウン、鉄道のレール、ベッドのシーツ、シェービングクリーム、流し、その横に置かれた椅子、洗面台、バスタブなどに共通するのもまた「すること」の「白」であり●「舞台恐怖症」においてドレス、スカート、射的の景品の人形といった物体に塗られた血は、血という「であること」から引き剥がされた「赤」として露呈している。モノクロームにおいて「白」どころか「赤」すら露呈させてしまっていたヒッチコックが1964年、カラー映画の●「マーニー」を撮り、そこでは花、インク、洋服、雷光、そして最後に画面一杯に広がる血の海がまったき「赤」となって露呈している。翌年、ゴダールは●「気狂いピエロ」を撮りインタビューで『「気狂いピエロ」では血がたくさん見られます』と聞かれてこう答えている。

『これは血ではない、赤だ!』(「ゴダール全評論・全発言Ⅰ 」606

●「マーニー」が撮られたのが1964年、●「気狂いピエロ」が1965年、これを偶然というのにはあまりにも勇気がいる。

★「鳥」(1963)

●「鳥」で妹のベロニカ・カートライトに『どうして鳥が人を襲うの』と尋ねられたロッド・テイラーが『わからん、謎だ』と答え、ガレージの車の中でつけたカーラジオでも鳥が人を襲う原因は不明とコメントしているように、そもそも●「鳥」という作品の「鳥」は鳥ではなく人を襲うために存在して物体=「鳥」なのだから、「鳥がどうして、」と立てた命題はすべて破綻する。『これは血ではない、赤だ!』というゴダールの言葉にあてはめるなら「これは鳥ではない、全自動襲撃機だ」とでもなるのであって、全自動襲撃機に向かって『なぜ鳥のお前が、』と尋ねるのはまったくもってバカげている。「であること」不在のまったき「すること」の領域は機能不全の怖ろしく居心地の悪い剥き出しの領域であり、我々は●「鳥」を見る時、手掛かりのない「すること」に恐怖し現象の「背後=であること」へすがりつき思わず全自動襲撃機に向かって『なぜ鳥のお前が人を、』と発せずにはいられない。それが「か弱さ」であり知識という背後を多く貯蓄している知識人階級であればあるほどこの傾向は強くなる。

★スピルバーグ

ハイウェイでタンクローリーを追い越したデニス・ウィーヴァーの乗用車がその後タンクローリーに執拗に追い回されるデビュー作のテレビ映画●「激突!」(1971)におけるタンクローリーは、その巨体で前を行くデニス・ウィーヴァーの乗用車を襲ったりエンコしている幼稚園の送迎バスを押したり谷から転落して爆発したりするもののただの一度たりともタンクローリーとしての仕事=「であること」をしていない。運転手の顔が1ショットも撮られていないこのタンクローリーは運転手が操縦するタンクローリー「であること」をまったき放棄した「襲うこと」「バスを押すこと」「爆発すること」という「すること」へとモノ化され、だからこそそれを運転する者など存在する筈もなく、そのボディは巨大でなければならず、落下したとき大爆発するタンクローリーでなければならない、という逆の発想で構想されている。だからこそそこには「なぜタンクローリーが、」あるいは「どうしてこのタンクローリーの運転手は、」という問いは成立しない。そもそもこの物体はタンクローリーではなく「全自動襲撃機械」なのだから「なぜタンクローリーが、」と口にした瞬間すでにその問いは破綻している。こうした点でこのタンクローリーは●「サイコ」のハイウェイで仮眠をとっているジャネット・リーを検問し中古車センターにまで追いかけて行って彼女を「柔らかく」させてしまうあのパトカーの警官(モート・ミルズ)と同質であり、ジャネット・リーをベイツモテルへと巻き込むマクガフィンであるがゆえにパトカーと制服、サングラスという表面的な振動によって「ナマモノ=ステレオタイプ」と化している彼は決して警官「であること」を想像させることのない剥き出しの物体としてジャネット・リーを恐怖させ全自動襲撃機ならぬ「全自動権威主義」とでもいうべき「すること」の力でもって彼女をベイツモテルまで追い込むのである。

★「JAWS/ジョーズ」(1975)と「海底六万哩」(1916)

●「JAWS/ジョーズ」のサメはなぜ人を襲うのか。海水浴で突如人を襲い始めたホオジロザメは群れからはぐれたはぐれ者として人を食うことの味をしめたから、という襲撃の動機が一見語られているものの、あそこまで禁欲的に人間を追い詰めて襲う理由など映画の中では一度たりとも撮られておらず、同じ海洋映画の●「オルカ」(1977)に見られた「妻を殺されたから」等の復讐の動機などもどこにも存在していない。海洋学者のリチャード・ドレイファスが知事のマーレイ・ハミルトンに語ったところによるとこのサメは『パーフェクトエンジン搭載のイーティングマシーン(食う機械)』であり、人を食うことがプログラムとして自己目的化されているのだから人を執拗に襲う動機などあるはずもなく、あるのはただひたすら「食うこと」という「すること」へと向けて精鋭化された得体の知れないイーティングマシーンの無意味な運動に他ならない。ヒッチコック的巻き込まれ運動的「すること」の動物的主人公にはそもそも「食うこと」等のめがけるものが存在しないのに対して「食うこと」というめがけることのある●「JAWS/ジョーズ」の「サメ」は同じく「襲うこと」へとめがけてゆく●「激突!」の「タンクローリー」同様に「であること」へとめがけられた「常習犯」と見るか「であること」なき「物体」と見るかは議論の余地のあるところだろうが(「全自動」なのだから「常習犯」に近いか)、サメやタンクローリーを「すること」へと純化させて撮っていることに関して違いはない(未知のエイリアンとの戦いを撮ったハワード・ホークス●「遊星よりの物体X(1951)の原題が「THE  THING FROM  ANOTHER  WORLD 」の「THE  THING 」なのはこの映画が宇宙人を「すること」オンリーの「物体」として捉えた結果かもしれない)3本の樽を体に付けたまま海中に潜航した「サメ」を見た海洋学者のリチャード・ドレイファスの『こんなの経験したことあるか?、』という問いかけに漁師のロバート・ショーが『いいや、』と答えたように、あるいは『こんなサメをこれまで、』とのロイ・シャイダーの問いをリチャード・ドレイファスが即座に『NO、、』と遮ったように●「JAWS/ジョーズ」は「サメ」がサメの規格=「であること」をはずれて究極の「すること」へと接近してゆくところに「サメ」の運動が集約されており、樽をつけたまま猛スピードで疾走するジョーズを見ている主人公たちの顔から思わず湧き出たなんとも言えない笑顔は、上手下手、善悪という「であること」の領域によって分節化された出来事を「読むこと」の表情とはまったく異質のところの「こんなのサメではない、」物体を「見ること」によって直面した「すること」の醸し出すエモーションに不意に襲われた者たちの驚きにほかならない。「サメではない」物体と対峙した主人公たちの運動は猟師、海洋博士、警察署長といった一見サメ退治のスキルに満たされているかに見える者たちの職業的運動のようでありながら、相手は得体のしれない物体なのだから彼らの職業的スキルなど通用するはずもなく、ピアノ線を食いちぎられマグナムを撃ちこんでもびくともせず檻は食い壊され毒矢も落として海の藻屑となり、お互い団結も信用もせずに喧嘩に明け暮れ、最後は警察署長のロイ・シャイダーが倒れかかったマストに跨りジョーズの口に投げ込んだ酸素ボンベをライフルで撃って爆発させるという途方もない原始的な方法によって終わるのは、この映画がジョーズの攻撃に対してスキルを喪失した主人公たちが翻弄されてゆく巻き込まれ運動だからであり、それは超人的なドイツ人船長に翻弄され、船、キャメラ、タイプライター、水、食料といったスキルをすべて海の中に喪失し、お互い団結も信用もせずに喧嘩に明け暮れた挙句に「船長」の座をドイツ人に奪われてしまった●「救命艇」の乗組員たちが最後は全員でドイツ人に殴りかかって海へ突き落すという各々のスキルとは何の関係もない極めて原始的な方法によって事件を解決したのとよく似ている。1916年にスチュアート・ペイトンによって撮られたジュール・ヴェルヌ原作●「海底六万哩」というサイレント映画には、傾いたマストにまたがったリンカーン号の水兵が船の横を通過してゆく巨大な潜水艦ノーチラス号の甲板(背中)めがけてモリを撃つというシーンが撮られている。だがまったく通じず、大砲を撃っても当たらない。深海の怪物と呼ばれるノーチラス号はその後リンカーン号に体当たりして船員たちを海に放り出してしまう、、、この潜水艦が「ジョーズ」だったら、、こうした転換は、映画を「すること」の観点から見て構想することのできる者にのみ可能な資質であり、スピルバーグの才能は端的にこうしたところに集約されている。ヨットの脇をすり抜けてゆく潜水艦のあのうごめき、、傾いたマストに跨る水兵、、●「海底六万哩」はそのあと1916年当時画期的と言われた水中撮影に移行して海中を浮遊するサメの大群を相手にしたサメ退治へと流れてゆく。●「JAWS/ジョーズ」の発想がこれすべてに依ることはないにしてもスピルバーグが●「海底六万哩」を見ている可能性は極めて高い(リチャード・フライシャーのリメイク版●「海底二万哩()1954」には●「JAWS/ジョーズ」を彷彿させる映像は存在しない)。ヨットの脇をすり抜けてゆく巨大な潜水艦の機能の中から運動だけを取り出し、それを漁船の脇を通り過ぎてゆく巨大な「サメ」の背中に見立ててしまえる感覚が「こんなのサメではない、」という●「JAWS/ジョーズ」を生み出し「こんなのタンクローリーではない、」という●「激突!」を世に送り出す。

★スピルバーグのお上手

「すること」の映画である●「JAWS/ジョーズ」と●「鳥」とは微妙に違う。●「鳥」のラストシーンを「中途半端だ、」と思う者がいたとしても●「激突!」や●「JAWS/ジョーズ」を見終わって「わからない、」と感じる者はあまりいない。どちらも「なぜ鳥が、なぜタンクローリーが、なぜサメが、」の質問には答えていないにもかかわらず●「鳥」だけが「中途半端だ、」と思われてしまうのはおそらく●「激突!」と●「JAWS/ジョーズ」における「全自動爆撃機械」がたったの一台しかいないからだ。それを「くたばれ!」と撃ち殺したり谷底へ突き落してしまえば少なくとも主人公は解放されそれなりに事件は解決してしまう。だが●「鳥」の場合レストランにやってきた客ロニー・チャップマンの『皆殺しにすればいいんだ!』という提案に答えた鳥類学者エセル・グリフィスによると、鳥はアメリカだけで57500万羽、全世界で1000億羽いるらしく、仮に鳥の異変という事態が鳥全体に及ぶとすると、映画の中でそれをすべて撃ち殺したり捕獲したりするのは不可能なので、主人公に最低限の安心をもたらす解決策に答えようとすると結局のところ「鳥がなぜ、」の「なぜ」の部分に答えなくてはならなくなり●「鳥」は「すること」の映画から「であること」のメロドラマに転落する。●「鳥」のエモーションは「鳥がなぜ」という「であること」にではなく「こんなの鳥ではない、」という「すること」の領域において出現するのでありヒッチコックが「中途半端な」終わり方をしたのは「鳥が人を襲う」という映画を撮る以上ああいう終わり方しかないからであり、ヒッチコックはひたすら運動に忠実に映画を撮り終えたに過ぎない。だからこそ●「鳥」は見ている者に居心地の悪さを感じさせ、不気味な無動機マシーンを「一台」に設定しそれを抹殺して主人公に安心をもたらした●「激突!●「JAWS/ジョーズ」は居心地の悪さをそれなりに回避して終わることになる。「一台」に絞って映画を撮ったスピルバーグがいかにお上手かということだが、実は緩和されてはいるものの●「JAWS/ジョーズ」と●「鳥」とはどちらもが「すること」の映画において何ら変わることはなく、スピルバーグが評価されるのはオブラートで包んだはずの彼の「すること」の細部が包みを突き破って露呈してしまうその瞬間を画面に焼き付けることのできることにあり、タルをつけたまま爽快に水中を走り続けるあの「サメ」が、もはや「サメではない、」と感じさせる才能にある。

★ピラニア

●「ピラニア」シリーズには●「JAWS/ジョーズ」における「機能の中から運動を取り出す」という発想がない。あの小さいピラニアの大群は軍がプールに保管していた生物兵器のピラニアがあるカップルの戯れで逃げ出してしまったことで人を襲い始めたという「起源」=「であること」がはっきりしていることからこのピラニアはそもそもピラニアでありそこには「サメ」→潜水艦に相当する「すること」のモデルが存在せず、だからこそいつまでたってもピラニアは「ピラニアであること」から自由になれず「これはピラニアではない、」という「すること」の驚きは訪れない。だからこそ●「ピラニア」はシリーズを重ねる毎に「これはピラニアではないのだ、」と苛立ったように巨大化・無数化していくのだが、もともとピラニアなのだからなにをしたところでピラニアがピラニアでなくなるはずはなく、ひたすら巨大化してゆくピラニアにある種の哀愁を感じることはあるにしても「こんなピラニア見たことない、」という「すること」の驚きをもたらすことはない。多くのB級パニック映画の平凡さは運動という質的な出来事を量的に解決しようとする誤解から生じている。

★「エイリアン」(1979)

リドリー・スコット●「エイリアン」はエイリアンの「起源」を排除し、かつ「一匹」のエイリアンを暗闇で「見せない」ことに徹して得体の知れない恐怖を得体の知れない「すること」の恐怖のままにして撮っているのに対してジェームズ・キャメロンの撮った続編●「エイリアン2(1986)では「女王蜂」の子供であるという「起源」を有する無数のエイリアンたちがあられもなくその姿をさらけ出し巨大化している。それはこの作品を撮ったジェームズ・キャメロンのデビュー作が●「ピラニア」の続編●「殺人魚フライングキラー」(1981)であることと無関係ではない。恐怖を作出するために恐怖の対象を大きくして数を増やすという発想は●「ピラニア」と同じく「起源」への接近がもたらす運動の退化であり質的な「すること」運動とはかけ離れている。

SF映画~「ブレードランナー」(1982)

SF映画はそこに出現するエイリアンや円盤が「こんなの~ではない、」の「~」に相当するモデルが存在しない未確認物体であることから本物のエイリアンを知らない者たちに対して「こんなエイリアン見たことない、」という恐怖を感じさせることができないばかりか「であること」が未知であるがゆえに逆にSF映画『Science Fiction』としての知性=「起源」へと遡らざるを得ない運命にある。リドリー・スコット●「ブレードランナー」は人間の過去の記憶を与えられたロボット(レプリカント)が人間という「ありもしないであること」を追い求めてゆくことで切ないエモーションを醸し出している。我々がSF映画を撮るには●「ブレードランナー」のように人間という慣れ親しんだ存在を「起源」に置いた「常習犯」の映画を撮るか、エイリアンを撮るならば●「遊星よりの物体X」●「エイリアン」のように決してエイリアンの「起源」を撮らず得体の知れない恐怖を得体の知れない恐怖のままにして撮り続けるか、それとも●「鳥」●「JAWS/ジョーズ」の「こんなの~(鳥、サメ)ではない、、」という、モデルから逸脱した物体の恐怖を撮りたいならば、我々人類が本物のエイリアンに遭遇するのを待つしかない。

■マクガフィンの量的考察

●「暗殺者の家」(1934)以降のヒッチコック作品の顕著な傾向として「であること」へと向けられた「初犯」の映画、あるいは巻き込まれ運動であってもそこに主体的な要素の入って来る作品についてはマクガフィンが劇的に減少するという現象が見られている。ちなみにヒッチコックの機能・運動連関表についてはデータ収集時期が2014年の3月から4月にかけてのものでDW・グリフィスの機能・運動連関表に次いで収集時期が早く、その後私の「目が肥えた」ことから現在データを取り直せばDW・グリフィス、ヒッチコックについてはおそらく今回提示したマクガフィンの量の1.5倍から2倍近くになると思われる。おおよそ私の「見ること」の尺度が落ち着いたのが2014年の8月から9月頃であり、それ以前のデータについてはそれ以降に収集されたデータに比べて結果的に少なめに提示していることになる。そうした「見ることの恐怖」については後日改めて書くことにして、今回のヒッチコックデータの場合すべての作品について一時期に集中して取られていることからその比率についてはデータとしての価値を未だ有している。そこでは、まったき巻き込まれ運動の撮られた作品に比べて主体的な作品のマクガフィンは量的に減少する傾向が顕著に出ている。ヒッチコックに限らずDW・グリフィス、ジョン・フォード、ホークス等ハリウッドの物語映画においてマクガフィンの量と作品の価値とは相関関係にあり、ある一定の量を超えた場合にはそれ以上の価値の差異を即座に指し示すものではないものの、マクガフィンの量的に少ない作品が大きな価値を持つという現象はこれまでの経験上一本も存在していない。

■マイケル・マン『機能・運動連関表』

マイケル・マン映画の機能・運動連関表を提示する。マイケル・マンはヒッチコックに比べてマクガフィンの数が少ない。「であること」などすっぽりと抜け落としたヒッチコック的巻き込まれ運動はマクガフィンという外的要因によって弾かれて初めて起動するのに対して「ありもしないであること」を追い求めて禁欲的運動を進めてゆく「常習犯」の運動は自分自身の衝動に駆り立てられるように内的に起動することから●「JAWS/ジョーズ」のサメのように全自動的に起動するのであり、特にマイケル・マン的「前科10犯」においては「起源」を遠い昔に喪失しているがゆえに却って「ありもしないであること」の牽引力が増大し運動は内的自動化を強めてゆく。だからこそマイケル・マン的主人公の運動は映画が開始した時点で既に起動していることが可能となるのでありマクガフィンの量もヒッチコック的巻き込まれ運動に対して減少することになる。

★機能的運動

さらにマイケル・マン的運動は「心理的ほんとうらしさ」を喪失しながら「ありもしない起源」へと盲目的に向けられてゆくのであり、その運動もまた「ありもしない機能性」へと向けられて精鋭化することになり、ヒッチコック的巻き込まれ運動における機能の中から運動を取り出すことにおける「おかしみ」はマイケル・マン的運動には希薄となる。●「ヒート」におけるロバート・デニーロとエイミー・ブレネマンとの出会いのシーンが撮られたレストランのカウンター席は確かに2人を引き合わせるためのマクガフィンであって決して食事なりコーヒーなりを味わうためにあるのではないにしても、エイミー・ブレネマンはコーラを飲んでいるしデニーロもコーヒーカップに口をつけている。デニーロとアル・パチーノとのあのレストランでの向かい合った対話のシークエンスでは二人とも飲食物には一切口をつけてはいないもののそれが荒唐無稽な「おかしみ」にまで到達することはなくより現実味を帯びた出来事として機能性の過程へと埋没している。こうしたマイケル・マン的世界においてはパイプが銃になったり農薬散布機が爆撃機になったりするような機能的逸脱はほとんど見当たらず、せいぜい炎上した人間が車椅子で斜面を疾走して来たり(●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」)、滝の裏側に隠れたり(●「ラスト・オブ・モヒカン」)、テレビを車の中から放り投げたり(●「ヒート」)、車のボンネットの上に人が落ちてきたり(●「コラテラル」)、トイレットペーパーの間に銃を挟んで隠すくらいであって(●「パブリック・エネミーズ」)、機能から運動を取りだす出来事は機能的な範囲に収まっている。マイケル・マンにおけるあらゆる道具、場所、出来事は「であること」という機能的なるものを求めて設計されているのだから、たとえそれが「ありもしない」ことへ向けられた「常習犯」的禁欲運動だとしてもめがけられることにおいて銃は銃として、ボートはボートとして、海は海として機能的に使われるのがマイケル・マン映画の特徴であり、大きな壁紙の貼られた奇妙な空間と全面ガラス張りで異様なまでに外部へ開かれた空間等はあるとしても、銃が空砲として使われたり教会が麻薬組織のアジトになるということはなく、それどころか銃は常に両手でしっかりと持たれて狙いが定まれ的確に標的めがけて発射されることになる。マイケル・マンは現代劇の●「ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー」で泥棒のジェームズ・カーンに銃を両手でしっかりと機能的に持たせるコンバット・シューティング・スタイルを確立させており、それまでの運動優位の「片手撃ち」の映画史を大きく変容させているのは彼の機能へと向けられた傾向から導かれる帰結である。

★逆手

ナイフの握り方についてマイケル・マン●「ラスト・オブ・モヒカン」ではインディアンが白人の頭の皮を剥ぐ時、インディアンに襲われるマデリーン・ストーをダニエル・デイ=ルイスが助けに走る時、またその直後インディアンの太ももを彼が突き刺すとき、またインディアンのウェス・ステューディがモーリス・ローブスの心臓を抉り出す時、あるいはラストの谷でのウェス・ステューディ等において人々は逆手でナイフを握っているし●「コラテラル」ではディスコで取り押さえられたトム・クルーズがナイフを逆手に持ち替えて相手の足を刺し●「マイアミ・バイス」ではジェイミー・フォックスがキャンピングカーに監禁された妻を救出する瞬間咄嗟に左手で逆手にナイフを握って敵を刺している。だが●「ラスト・オブ・モヒカン」はインディアンを主人公とした時代劇であることが機能性の後退をもたらしているのであり、そのほかの多くの場合人物の位置関係や運動の流れにからして逆手であることは却って機能的と見られることもあり●「サイコ」のシャワールームで逆手に握られ振りかざされた包丁のような不気味な香りを漂わせた逆手のシーンは撮られていない。「であること」へと向けられたマイケル・マンの映画には機能からかけ離れた出来事は存在せず、ヒッチコックのような動物的「おかしみ」への転換は希少である。

★マイケル・マンとマクガフィン

「前科10犯」のマイケル・マン的運動は「起源」から遠く離れた強い「常習性」によってマクガフィンを必要とせずに自動生起することができるはずが、それでもマイケル・マンには●「ヒート」のようなマクガフィンの多い作品も存在している。●「ヒート」で男と女をめぐり合わせるとする。すると巡り合う場所としてレストランが設定される。するとそのレストランは最早レストランでなく「男と女をめぐり合わせる」運動を起動させるためのマクガフィンとなるのであり、どうしたところで映画を撮るにはマクガフィンを配置する必要に迫られることになる。ただ同じレストランでも●「めまい」でジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクめぐり合わせたレストラン「アニー」と比べて●「ヒート」でデニーロとエイミー・ブレネマンとが出会ったレストランがさほど露呈しないのはマイケル・マン的運動が機能性の極致だからであり「ありもしない機能性」へと突き上げられるように研ぎ澄まされて自動生成されてゆくマイケル・マン的運動は●「インサイダー」●「ALI アリ」といった「であること」へと急接近する危険に満ちた実話の領域をも数少ないマクガフィンでありながら「常習犯」として撮ることができるのであり、マイケル・マン的「常習犯」は量産されるべきジャンル映画としての可能性に満たされている。

■ハワード・ホークス~職業と運動の一致

ハワード・ホークスはジョン・フォード、マイケル・マンと同じようにスキル運動を撮っている。ギャングが人を殺し(●「暗黒街の顔役」(1932))●「バーバリ・コースト」(1935)、舞台演出家が演出をし(●「特急二十世紀」(1934)飛行機乗りが飛行機に乗り(●「暁の偵察」(1930)●「無限の青空」(1935)●「コンドル」(1939)兵士たちは戦争をし(●「今日限りの命」(1933)●「永遠の戦場」(1936)●「ヨーク軍曹」(1941))木こりは木を切り倒し(「大自然の凱歌」(1936)新聞記者が事件を追いかけ(●「ヒズ・ガール・フライデー」(1940)教授たちがそのスキルでギャングを撃退し(●「教授と美女」●「ヒット・パレード」(1947))船乗りが船を操縦し(●「脱出」)、漁師が魚を捕り(●「虎鮫」(1932)探偵が探偵をし(●「三つ数えろ」、カウボーイが牛を追い(●「赤い河」、軍人は戦い科学者は科学的な対策を練り(●「遊星よりの物体X」、科学者が若返りの薬を作り、子供が子供の遊びをし(●「モンキー・ビジネス」(1952)ダンサーが歌って踊り(●「紳士は金髪がお好き」(1953)、●王様は権力を誇示し(●「ピラミッド」(1954)ハンターが狩りをし(●「ハタリ!」、レーサーはレースをし(●「レッドライン7000(1965)ガンマンがガンを撃つ(●「リオ・ブラボー」●「エル・ドラド」(1967)●「リオ・ロボ」(1970)といった、職業と運動とが一致しているスキル運動が大部分を占めている。

★ハワード・ホークスを起動させる

映画開始時点で既に運動が起動しているとはマクガフィン抜きで運動が起動していることであり内的衝動によって自動的に運動が起動する「常習犯」のひとつの典型としてある(「ハワード・ホークスを起動させる」参照)。ハワード・ホークスの映画は37本中29本において既に運動が起動している最中(過程)から始まっており、それ以外の作品についても職務行為と密接に関連していることから(表参照)、これだけを見てもホークス的運動は強い「常習性」に支配されていると見てとれる。

★反復

「常習犯」における「常習性」の強弱は運動の反復性によっても見ることができる。ホークス的職業人間はサイ→キリン→シマウマ→シカ→インパラ→ヒョウ→バッファロー→ヌー→サル・そして再びサイを次々と狩り続け、最後はあろうことか女をハントしてしまった●「ハタリ!」のハンターたちのように職業的運動を継続・反復させることを旨としており●「虎鮫」では漁師たちが一本釣りでマグロを釣り上げるシーンを瑞々しいロケーションと自然光でまるでドキュメンタリー映画のように延々と撮り続けたように●「暁の偵察」●「永遠の戦場」では上官の補充兵に対する訓示を何度も反復させ、●「暁の偵察」●「無限の青空」●「コンドル」●「空軍」では飛行士たちが何度も飛行機を操縦し●「暗黒街の顔役」●「バーバリ・コースト」ではギャングがひたすら暴力を振りかざし●「三つ数えろ」では探偵が探偵行為を反復し●「赤い河」では牛追いたちが延々と牛を追い●「レッドライン7000」ではレーサーが何度もレースに出場し●「リオ・ブラボー」●「リオ・ロボ」といった西部劇ではガンマンたちがひたすら戦い続けるように、ホークスの作品では主人公が職務行為を反復させることを旨としており、ジョン・フォードが●「駅馬車」でトーマス・ミッチェルの医者としての仕事をたったの一度しか撮っていないことに比してより職業的運動へと傾倒しており、後に検討する「初犯」的傾向を指し示す作品であっても職務行為を一度しか遂行しない作品は例外にすぎない(こうした点でハンターでありながら猟をするシーンが一度も撮られていない●「果てしなき蒼空」はホークス「らしからぬ」作品ということになる)

★回想

ホークス作品において回想は●「ヨーク軍曹」において戦地から帰還し裏山の崖に座っているゲーリー・クーパーが少佐スタンリー・リッジスや牧師ウォルター・ブレナンの声だけを回想で想起するという1シーンしか存在せず、それについても実際に映画の中で流れた声を脚色したもので回想とは言い難く実質的にホークス映画に回想は存在しない。●「赤い河」では主人公たちの行動が三人称のナレーションで語られ(違うバージョンもある)●「果てしなき蒼空」にもまたアーサー・ハニカットのナレーションが入り●「ピラミッド」にもまた大僧正アレクシス・ミノティスのナレーションが入るというように過去の物語を語る形式を取っている作品はあるにしても、それによって映画が過去へと遡るものではない。

★マイケル・マンとの違い

1因縁話

ホークス的主人公は運動の起動性、反復性、回想の不在などによってマイケル・マン的主人公と同じように「常習犯」的傾向を指し示している。だがホークス的主人公にはマイケル・マンのそれとは異なり過去への言及が非常に多く見られている。ホークス作品の主人公たちはその多くが昔からの顔見知りであり映画が始まると観客そっちのけで昔の因縁話に明け暮れるのを常としており●「ヒズ・ガール・フライデー」の離婚した夫婦ケーリー・グラントとロザリンド・ラッセル、●「僕は戦争花嫁」(1949)のケーリー・グラントとアン・シェリダン、●「遊星よりの物体X」のマーガレット・シェリダンとケネス・トービー、●「ピラミッド」の王様ジャック・ホーキンスと大僧正アレクシス・ミノティス、●「リオ・ブラボー」のジョン・ウェインとアンジー・ディキンソン、、、挙げればきりがなく、むしろ昔の因縁話が絡んでこないほうが例外で●「ファジル」●「赤ちゃん教育」●「男性の好きなスポーツ」くらいしか存在せず●「脱出」のハンフリー・ボガードとローレン・バコールのように主人公同士が初対面でもボガードには昔馴染みのウォルター・ブレナンがいて「死んだ蜂に刺されたことがあるか」などの昔話に明け暮れることになる。ホークス的運動には回想としての過去は存在しない代わりに過去が因縁として現在の運動に絡んでくるという現象が常態として現れている。

2起源

「起源」と因縁話とを厳密に分けることはできないが「起源」とは主人公の現在をあらしめているアイデンティティとしての過去の出来事であり●「コンドル」でジーン・アーサーの『なぜ飛ぶの?』という問いかけに飛行機乗りのトーマス・ミッチェルが『22年ここにいるが、それに対してはちゃんと答えられない』と答えたように、あるいは●「永遠の戦場」で終盤従軍看護婦のジューン・ラングに『どうして死ににいくの?』と聞かれた中尉のフレデリック・マーチが『何度も聞かれたことだが、満足な答えはない』と答えたようにホークス的主人公には「起源」を喪失している者が多くいる反面、●「奇傑パンチョ」では幼少時、父親が地主に鞭打たれて殺されたことがきっかけでパンチョ・ビラが革命家になるという「起源」そのものの瞬間が撮られ●「大自然の凱歌」では森林伐採現場の監督エドワード・アーノルドがフランシス・ファーマーと出会い恋に落ちた「起源」の瞬間が撮られ●「ヨーク軍曹」でもまた無神論者で荒くれ者のゲーリー・クーパーが持っていた銃を雷に打たれたことから改心してキリスト教徒になるという「起源」そのものが撮られている。●「三つ数えろ」の探偵ハンフリー・ボガードが『38歳で大学出。地方検事が元上司。彼に逆らって首になり株が上がった』と語るのは『だから探偵になった』という「起源」にも受け取れることができるし●「リオ・ブラボー」の保安官ジョン・ウェインもまた『なぜ保安官に?』とアンジー・ディキンソンに聞かれて『拳銃の腕を売り歩くのに飽きて一か所で売るためさ』と答え●「果てしなき蒼空」のデューイ・マーティンは過去にインディアンに兄を殺された恨みからインディアンの女と対立を続け●「エル・ドラド」のジェームズ・カーンは過去に殺された親友の復讐をし●「コンドル」ではケーリー・グラントがかつてリタ・ヘイワースと別れたいきさつが語られ●「ハタリ!」ではジョン・ウェインが以前女で「やけど」をして以来女嫌いになったといういきさつもある種の「起源」として語られているように、ホークス的主人公はマイケル・マン的主人公が頑なまでに葬り去ろうとしている過去についてそれなりの頻度でもって語られてもいる。

→実話と起源

ホークス作品の中で主人公の「起源」そのものが映画に撮られたのは●「奇傑パンチョ」●「大自然の凱歌」●「ヨーク軍曹」の3本だけであり(3本だけ」というのは私の見た作品中という意味)、この内●「奇傑パンチョ」と●「ヨーク軍曹」の2本はいずれも実在の人物をモデルにした実話であり「事実」に基づく実話は「起源」その他、運動論的には弱点となる細部が撮られる危険に満ちておりそうしたジャンルで一代記という「起源」そのものが撮られたているのは偶然ではない。マイケル・マン作品における唯一の回想シーンはモハメッド・アリを撮った実話の●「ALI アリ」であり、「起源」がそれなりに語られたのが●「パブリック・エネミーズ」と●「メイド・イン・L.A.」であり前者もまた実話であるというのもまた偶然ではない。

3「初犯」への接近~罪の意識・改心・身を引く・職務の停滞

ハワード・ホークス的運動は「常習犯」的運動であることから基本的に主人公がみずから遂行する任務について罪の意識を有したり改心したりということはなく、我々がホークスの映画でイメージするのは●「赤い河」で牧童たちに冷徹に契約を守らせ続けるジョン・ウェインであったり、幾度も狩りをして動物たちを追い続け動物園に送ってゆく●「ハタリ!」のハンターたちであったり、対立する者たちを殺していながら罪の意識の微塵も見せない西部劇のガンマンたちであり、罪の意識は基本的にハワード・ホークス的主人公から遠い所にあるように見える。だがホークス映画にはマイケル・マン的主人公には存在しない「初犯」へと接近した細部もそれなりに多く見られている。以下の①~はすべて道徳的観点からなされる細部であり相互に密接に関係していることからそれぞれが独立に考慮さるべきことではないが、その典型的なものをここにいくつか挙げてみる。

①罪の意識

●「暁の偵察」のニール・ハミルトンとリチャード・バーセルメス、●「永遠の戦場」のワーナー・バクスターは上官として若い「初犯」の兵士たちを死地へと送ることに罪の意識を感じ●「無限の青空」で仮病を使って女とデートしたところが代わりに乗った飛行士が墜落死したことに罪の意識を感じたジェームズ・ギャグニーが最後は危険な任務を引き受けて自殺するように果てていき●「バーバリ・コースト」ではミリアム・ホプキンスがみずからの行為を後悔して泣き崩れている。

②改心

●「ヨーク軍曹」では信仰を持たない暴れ者のゲーリー・クーパーが雷に打たれて改心し●「レッドライン7000」では不幸を招く女が厄を払って生まれ変わり(改心)、また新しいものしか使わないひねくれ者(ジェームズ・カーン)が考えを改め、無鉄砲な後任ドライバー(ジョン・ロバート・クロフォード)もまた改心している。

③身を引く

●「今日限りの命」では三角関係にある男(ゲーリー・クーパー、ロバート・ヤング)と女(ジョン・クロフォード)が罪の意識から身を引き合い●「永遠の戦場」でもまた男女(フレデリック・マーチ、ワーナー・バクスター、ジューン・ラング)の三角関係が罪の意識と身を引くという行動を惹き起こし●「ヨーク軍曹」でもまたゲーリー・クーパーが愛しているジョーン・レスリーから身を引くということをしている。

④信じたり信じなかったり

●「今日限りの命」のゲーリー・クーパーはジョン・クロフォードにほかの男がいるという善悪の観点からクロフォードを信じたり信じなかったりし●「ピラミッド」の王、ジャック・ホーキンスもまた第二妃ジョーン・コリンズを善悪の観点から信じたり疑ったりし●「レッドライン7000」のジェームズ・カーンもまた恋人のマリアンナ・ヒルに男がいるという道徳的観点から彼女を殴ったりしている。

⑤職務の停滞 

●「暁の偵察」では若い兵士たちが次々と亡くなっていくことに上官のニール・ハミルトンは耐えられずに転属してしまい、●「永遠の戦場」では有刺鉄線に挟まった負傷兵のうめき声で兵士たちが夜も眠れず、士官のワーナー・バクスターはアスピリンを飲みながら命令を下しているように職務の停滞と厭戦的空気に支配されている。

⑥過去に遡る 

●「大自然の凱歌」は製紙工場の現場監督エドワード・アーノルドの立身出世物語であり、老年に差し掛かった彼が若き日に恋に落ちた女と瓜二つの娘(フランシス・ファーマー一人二役)に恋をする物語だが、現在の女が過去の女の生き写しであることによって現在の運動がすべて過去へと絡めとられてゆくのであり、この作品は私の見たホークス作品の中で唯一、運動が過去へとめがけられたメロドラマとして存在している。

→「暗黒街の顔役」(1932)と「ヨーク軍曹」(1941)~実話その2

アル・カポネをモデルに禁酒法時代に暴れるギャングを撮ったホークス●「暗黒街の顔役」は主人公のポール・ムニが妹のアン・ドヴォラックと恋仲になったボディガードのジョージ・ラフトを妹への近親相姦的嫉妬(暗示されているだけだが)から殺した後アン・ドヴォラックに『私は彼を愛していたのに!』と激しく責められると罪の意識に苛まれてそれまでの快活な運動が一転して停滞し足取りが重くなり目はうつろになりろれつも回らなくなって満足にしゃべれなくなる。妹の叱責は兄にとっての「起源」への接近であり、それによって運動が停止するこの作品は、ギャング映画に対するヘイズコードによる検閲の厳しかった時期に実在の人物をモデルとして撮られた作品であり暴れ回る「常習犯」のギャングを撮り続けることは許されなかったのか「起源」想起による運動停止、罪の意識による改心、という出来事が惹き起こされている。●同じく実在する人物を撮った●「ヨーク軍曹」では良心的兵役拒否をしているゲーリー・クーパーが、もう一度故郷に返って考えてきなさいと上官のスタンリー・リッジスから10日間の休暇をもらい故郷の丘の上で物思いにふけるシーンが撮られている。ここでホークス映画唯一の回想が入った後、クーパーは戦うことを決断するのだが、この流れは「考える」→「決断する」という「初犯」特有の思考の流れであり、一見抒情的に見えるシーンではあるものの運動論的には「メロドラマ」といって差支えないシーンとして撮られている。

初犯への冷たさ~仲間入りの掟

ホークス作品には主人公そのものに「起源」、罪の意識といった「初犯」的要素が時たま顔を出し●「暁の偵察」●「永遠の戦場」といった初期の作品においては死んでゆく未熟な補充兵たちを称賛するという「初犯」の者たちに対する温かいまなざしが見出されている。だがそういった出来事も次第に「常習犯」的要素を強めていくホークス作品には見られなくなり、ホークス映画において多く見られる「仲間」というテーマにおいてもその集団に入ることができるのは「常習犯」に限られ「初犯」の者たちは「常習犯」に成長しない限りまともな扱いをされなくなる。そうした出来事が現れ始めたのが●「無限の青空」(1935)であり、そこでは臆病風に吹かれて飛行機から脱出し飛行機を無駄にした若いパイロットのカーライル・ムーア・ジュニアがその「初犯」的未熟さからボスのパット・オブライエンに問答無用に解雇されている。そうした傾向は同じく飛行機乗りを撮った●「コンドル」によって受け継がれそこではボスのケーリー・グラントが映画序盤に墜落死したパイロットに対して『あいつは未熟だから死んだんだ』と言い放ち彼の注文していたステーキを平然と食べてしまっている。さらにそうした傾向はこれまた飛行機乗りを撮った●「空軍」によって発展し、そこでは『二年半前まで上官のジョン・リジリーに飛行を教わるが事故で同僚を死なせて退学した』という「起源」を有し空軍からの除隊希望を表明している砲手のジョン・ガーフィールドが軍曹のハリー・ケリー等同僚たちから徹底的に軽蔑され(退役や転属希望は職務放棄としての「初犯」的要素に該当する)、アーサー・ケネディの妹と同伴していながら彼女を守れず死の危険にさらしたジェームズ・ブラウンもまたケネディら三人に冷酷なまでに詰問されている。ホークス自身空軍で飛行機の教官であった経験からこうした厳しい対応が飛行機映画にあらわれたかどうかは不明だが、こうして受け継がれてきたホークス映画における「初犯」に対する冷遇は嘲笑というレヴェルにまで到達し●「ヒズ・ガール・フライデー」では女記者ロザリンド・ラッセルの婚約者で夫婦道徳を重んじる人間=「初犯」のラルフ・ベラミーが、恋につけ仕事につけまったき「常習犯」のケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルのコンビに徹底的にバカにされ、●「モンキー・ビジネス」でもまたケーリー・グラントの振る舞いに道徳的なケチをつける善人ヒュー・マーロウは若返りの薬を飲んだ副作用で子供になりインディアンと化した()ケーリー・グラントに木にくくりつけられて危うく頭の皮を剥がれそうになり●「紳士は金髪がお好き」でダイヤモンドを愛する「常習犯」のマリリン・モンローを道徳的観点から非難する恋人トミー・ヌーナンもまた徹底したマヌケ人間に撮られており、そんな彼がモンローに『愛しているなら最後まで信じなさい』とお説教されてしまうのは彼が彼女の「善」のみを肯定し「悪」を否定する善悪人間=「初犯」だからにほかならず、それは善悪を超えて愛する者たちをひたすら信頼する「常習犯」には耐えられない不実として即座に仲間から外されることになる。●「エル・ドラド」で見張り中に居眠りをしてジョン・ウェインに腹を撃たれた少年が看取られることも埋葬されることも同情されることもなく死んでいったのは「初犯」に対するホークス的冷遇そのものであり、●「赤い河」では砂糖を盗み舐めしたことが原因で牛を暴走させて仲間を死なせた「初犯」の男がボスのジョン・ウェインに鞭で打たれそうになり、また契約に背いて脱走するという、職業的運動を放棄した「初犯」の者たちがジョン・ウェインによって絞首刑にされかけるという究極の仲間はずれが撮られており、ホークス作品におけるこうした「初犯」への冷遇の映画史は●「ヒート」で現金輸送車を襲った際に余計な殺人を犯した仲間(ケヴィン・ゲイジ)をボスのロバート・デニーロが即座に処分しようとしたマイケル・マン的「常習犯」へとつながっている。●「リオ・ブラボー」のディーン・マーティンは女に騙されて酒に溺れて職務をしくじり相棒のジョン・ウェインを窮地に陥れる失態を犯し『もうだめだ。俺は辞める』と泣き言を掃くと『わかった辞めろ!誰も止めはしない!』とジョン・ウェインにたたみかけられ『タン壺に銀貨を投げられても知らんぞ。浮浪者にでもなるがいい!』と罵られて思わずウェインを殴ったマーティンはその後すぐさま『すまん、』と「初犯」特有の謝罪をしているものの『お前はもうだめなのかもしれん』と冷たくウェインにあしらわれている。●「エル・ドラド」のロバート・ミッチャムもまた女に振られて酒に溺れる「初犯」でありジョン・ウェインにバケツで頭を殴られ酒を飲めないように劇薬を飲まされ酒場で笑いものにされて涙を流し風呂に入っているところを女たちに見られて笑われる等々散々な目に遭わされているのであり、そんな彼には●「リオ・ブラボー」のディーン・マーティンにもたらされた「皆殺しのうた」のような「起源」喪失の劇的な出来事が訪れるわけでもなく彼の処遇は半端なまま終わっている。

→女たちvs男たち=「初犯」対「常習犯」

●「コンドル」ではボスのケーリー・グラントが墜落死したパイロットに対して『あいつは未熟だから死んだんだ』と言い放ち彼の注文していたステーキを平然と食べてしまい、また同僚を見捨てて飛行機から脱出したと噂されるリチャード・バーセルメスもまたその「初犯」的未熟さから冷酷なまでにチームから除外され『仲間には危険な任務は任せられない』と語るケーリー・グラントによって「仲間でない」バーセルメスは危険な任務に配属され続けている。バーセルメスはその後めでたく仲間入りしているが、それは「誤解が解けた」という善悪による知的な出来事からではなく彼が危険な任務を「常習犯」的に遂行し続けたからであり彼の過去の行動が実際に「誤解」だったか否かは明らかにされていない。重要なのは現在の「常習性」であり過去の「誤解」を解くことではない。だからこそ仲間でも常に仲間でい続けられるわけではなく、映画中盤で「仲間」のジョン・キャロルが危険な任務を断ると即刻ケーリー・グラントは彼をクビにし、その仕打ちを同僚のジグ・ルーマンから『彼を責めるのは酷だ』とたしなめられるとケーリー・グラントは『責めてはない、クビにしただけだ』と即座に答えているのは、ジョン・キャロルは「正しい」かも知れないがしかし「常習犯」ではないからであり、こうした彼の「冷たさ」こそ「常習犯」の残虐の映画史へと展開されることになる(後述)。だが「常習犯」の男たちの帰りをただ待つことしかできない女たちは男たちの善悪を超えた「常習犯」的運動が理解できず、善悪の観点から彼らを非難し、ジーン・アーサーはケーリー・グラントが悪天候の中飛行に出ようとするところ銃を突き付けて止めようとまでするのだが、一見愛情に支配された勇気ある行動に見える彼女のこの行動も「常習犯」からすれば「常習犯」の職業的運動を妨害する「善悪」に基づく行動以外の何物でもなく、そんな彼女は飛行機仲間がリチャード・バーセルメスと和解する時の乾杯の輪の中にも入れてもらえず、主人公クラスにしては他の作品に比べて「初犯」でいる時間が非常に長い。またケーリー・グラントの昔の女であるリタ・ヘイワースも『飛行をやめないと別れるわ』とこれまた「常習犯」の職業的運動を妨害するという「初犯」的主張をすることでグラントと別れた女でありそんな彼女は今の夫リチャード・バーセルメスについても彼の過去の事件の真相が気になって仕方なく『彼とは別れるしかないわ』とケーリー・グラントに切り出すや『君は「信頼」という言葉を知っているか?』と頭から水をぶっかけられてやっと目が覚めているのだが、過去の出来事の真相という「善悪」いかんによって夫と別れたり別れなかったりする彼女もまたただの「初犯」でしかなくそんな彼女でいる限り「常習犯」的集団からは排除されることになる。●「脱出」でレジスタンスの闘士の妻であるドロレス・モランはハンフリー・ボガードがレジスタンスに「善意」で協力するのではなく金で協力する中立の男であることを道徳的に理解できず夫が撃たれて負傷してもボガードに治療されることを強く拒否するのだがその後夫の手術を見るとあえなく失神してしまうという弱さを見せる彼女は、なんら動ずることなく手術を実行しそれを補助するボガードとバコールの二人とはまったく違った人種=「初犯」として撮られている。そんな二人の姿を見たドロレス・モランは『もうあなたが何を言っても腹が立たないわ』とボガードに謝罪しているが、この『何を言っても』とは言葉に善悪を読み込まないということであり、それによって彼女もまた遅ればせながら「常習犯」の仲間入りをすることになる。だがその後のホークス作品の主人公の女性たちはジーン・アーサー=リタ・ヘイワース的「初犯」から●「ヒズ・ガール・フライデー」のロザリンド・ラッセル●「教授と美女」のバーバラ・スタンウィック●「脱出」●「三つ数えろ」のローレン・バコール●「紳士は金髪がお好き」のマリリン・モンローとジェーン・ラッセルといった、男たちの職業的運動を阻害するどころか尻を叩いて促進させる「常習犯」へと変化していくのであり、●「エル・ドラド」では発作で腕が動かなくなったジョン・ウェインの代わりに女のミシェル・ケリーが敵のボスを何の躊躇もなく撃ち殺し、さらに遺作となった●「リオ・ロボ」のラストシーンでは保安官のマイク・ヘンリーに顔を傷つけられた娘シェリー・ランシングがジョン・ウェインに代わって彼を撃ち殺すという「残虐の映画史」に名を連ねるような事態にまで進展していて、作品を重ねるにつれ男たちのみならず女たちもまた「常習性」を強めていくという現象が惹き起こされている。

★ホークス的過去

初期のホークス作品には「初犯」への接近が見られるが●「市民ケーン」●「マーニー」のようなそれを想起した瞬間失神したり運動が停止したりするような心理的な因果に支配された「起源」を有する作品は●「暗黒街の顔役」一本しかなく、起動面における自動性、反復性、回想の不在、そして「退出の映画史」が指し示すようにホークス的主人公は身に染みついた運動をする「常習犯」としてあり、彼らの語りしめる過去は遡るための過去ではなく、彼や彼女とはこんな過去があって現在に至っている、という現在の人間と人間との関係を指し示すための過去として撮られている。ハンフリー・ボガードが初めてホークス作品に出演した●「脱出」(1944)以降ホークス映画の「常習性」は強まってゆき罪の意識、改心といった出来事は●「レッドライン7000」以外に基本的に見出すことはできなくなる。そのボギーに加えてケーリー・グラント、ジョン・ウェインの三人は罪の意識の微塵も見せないホークス的「常習犯」を形成したスターとして映画史に刻まれている。

★「前科6犯」

「常習犯」として運動が内的に起動するハワード・ホークス作品におけるマクガフィンは外的なマクガフィンによって運動が起動するヒッチコックよりも少なくなる傾向を示すかと思いきや断然多い(ハワード・ホークス機能・運動連関表。こうした現象がホークスにおいて起こり得るのは「起源」からの距離におけるホークスとマンの相違に見える。過去の話など基本的にしたがらないマイケル・マン的人間とは違ってほどよく過去に接しているホークス的「常習犯」は「起源」からの距離においてマイケル・マン的「前科10犯」よりやや「起源」に近い「前科6犯」あたりを行き来し●「駅馬車」のトーマス・ミッチェルほどではないにしてもその人物像はより不完全でより人間的に映し出されることになり、その運動の起動はマクガフィンによって後押しされるケースが増え、遂行するためには●「暁の偵察」のニール・ハミルトンとリチャード・バーセルメスのように酒の力に頼ったり●「永遠の戦場」のワーナー・バクスターとフレデリック・マーチのようにアスピリンや酒の力を必要としたり、また時に軽口を叩き合いながら一時的に任務を忘れてピアノを弾いたりハーモニカを吹きながらみんなで唄うジャムセッションによって癒されなければならない。こうして所々で寄り道をする彼らはマクガフィンでもう一度弾き飛ばして再び任務へと向かわせる必要があるのに対して「起源」から余りに遠いところにあるために自己目的化を極めたマイケル・マン的人物は自動的に任務へと駆り立てられることから任務を忘れてジャムセッションに興じることなどあり得ずその遂行に酒やアスピリンを必要とすることもなくまた多くのマクガフィンで運動を起動させる必要もない。確かにマイケル・マンの映画にも恋愛、家庭、という、任務から離れた出来事はあるにしてもそれらは●「ヒート」のアル・パチーノとロバート・デニーロのように、あるいは●「ALI アリ」のウィル・スミスのように、家庭を持ちながら、あるいは恋愛をしていながら、仕事を取るか、家庭を取るかの局面で衝動的に仕事に向かってしまう職業的主人公たちの禁欲性を際立たせるためのマクガフィンとして機能しており、家庭、恋愛はマイケル・マンの映画において多くの場合寄り道になりえていない。

→「無限の青空」(1935)~「古い者」

規則破りの飛行を繰り返すジェームズ・ギャグニーは自分の娘のような年頃の女ジューン・トラヴィスを口説き、仮病を使ってデートしたとろが代わりに飛行した親友のパイロット(スチュアート・アーウィン)が墜落死して罪の意識に苛まれ、最後は危険な飛行に挑戦して墜落するのだが、終盤ギャグニーが『今やパイロットは技術屋だ。大学を出ていなければだめだ』と語るようにこの作品は時代と時代の「あいだ」に生きる「古い者」を撮った作品であり●「脱出」以前のハワード・ホークス作品には職務の停滞をエモーションとする「前科4犯」的「古い者」を見出すことができる。

→「教授と美女」(1941)~ホークスらしからぬ

チャールズ・ブラケットとビリー・ワイルダーのコンビが脚本を書きサミュエル・ゴールドウィンが製作したこの作品はホークスファンの人気も高い作品だがその価値はさて置いて、この作品はホークス「らしからぬ」細部に満たされている。教授のゲーリー・クーパーはバーパーラ・スタンウィックに利用されたか否かという「善悪」によって彼女を信じたり信じなかったりし、額縁の紐を太陽光線で焼き切ってダン・デュリエの頭に額縁を落として撃退するという実に回りくどい知的な方法が取られ、ボクシングの「初犯」であるゲーリー・クーパーがボクシングの本を見ながらダナ・アンドリュースをKOするというこの作品は、道徳性、知的さ、「初犯」性においてホークス「らしからぬ」作品でありビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケットの脚本にホークスはあまり介入していないことを細部が語っている。

★「真昼の決闘」(1952)

退任した保安官(ゲーリー・クーパー)がグレース・ケリーと結婚して街を出てゆこうとしたところ、かつて街を荒らしたガンマンたちが舞い戻って来たので再び胸にバッヂをつけて戦うことを決意したものの、協力を呼びかけた街の者たちは誰も共に戦おうとはせず、孤立した状況の中で保安官は泣き崩れ、遺書を書き、最後は一人で戦って敵を倒し妻と二人で街を去ってゆくという出来事を、上映時間とほぼ一致する時間で撮ったフレッド・ジンネマン●「真昼の決闘」は、それまでの西部劇とは違った「リアリズム」作品として語られることがあり、またこの作品がハワード・ホークスを怒らせその批判として撮られたのが●「リオ・ブラボー」であるというのは有名な話としてある。●「リオ・ブラボー」では多数の敵に包囲されている保安官のジョン・ウェインに牧場主のウォード・ボンドが何度も加勢を申し出ては断られるというシーンがフィルムに焼き付けられており、これが●「真昼の決闘」において街の者たちに協力を断られて泣いてしまい最後は街の者にバッヂを叩きつけて恨みがましく去って行った主人公の姿に対するある種の反論であると語られることもあるものの、ホークスにとって重要なのは筋立て上での出来事ではなく運動でありホークスの批判を具体的な物語の流れのみによって即断してはならない。結婚後、妻のグレース・ケリーを乗せた馬車を走らせ街を出ていくゲーリー・クーパーがしばらくしてからさも物思い気に眉をしかめ、瞬きをしながら馬車を止め、妻に対して『敵に後ろを見せたくないんだ』と言って街へ戻るその運動と●「ヒート」におけるロバート・デニーロのあの車線変更とを見比べると、どちらも「引き返す」という運動でありながら、前者は思考によって、後者は衝動によってなされていることが見て取れる。汗ばんだ顔を終始しかめっ面に歪めながら瞬きを繰り返してひたすら街の者に対する説得に明け暮れるゲーリー・クーパーの遂行する運動は心理に支配されたまったき「であること」の領域へと停滞する「初犯」であり『どこまでも追ってくるだろう。逃げ道はない。死ぬまで逃げ続ける気か?ここは私の町だ。友人もいる。力を合わせよう』と戦う動機が明らかにされ、また元同僚のロン・チェイニー・Jrに『私はどうすればいい?』と「初犯」特有の質問をし『刑務所の中で奴は変わったかもしれない』と敵の更生を期待してまでいる。いったいどこのハワード・ホークス的「常習犯」が敵の更生を期待するだろう。街の人々はみな罪の意識に苛まれ、心理的になり、善悪によってコロコロと態度を変えていく。ゲーリー・クーパーは酒場で男を殴った後すぐに『君が正しい』とみずからの非を認めて謝罪をし、その後元助手のロイド・ブリッジスに『恐いから逃げる』と告白し職務を放棄して馬に乗って逃げ出そうとしてすぐまたそこで「改心」して戦うことに決め直しそれを咎めたロイド・ブリッジスに敢然と殴りかかるという変節を繰り返しているのは彼が『しゃべらず直接行動に出る、それが男だ』と豪語するマイケル・マン●「コラテラル」のトム・クルーズのような禁欲的職業「常習犯」ではなく、考えてから行動するメロドラマ的な「初犯=考える人」だからであり、それは夫を捨てて街を出て行くはずのグレース・ケリーが突如クエーカー教徒の信仰を放棄して敵を撃ち殺し夫を助けるという変節の現象にも見られている。「初犯」的運動とは「であること」という善悪の領域に留まっているがゆえに運動が身に染みついておらず善と悪が簡単に反転する行動を繰り返すのであり、この作品における街の者たちの変節ぶりも彼らがまったき「初犯」であることの証左としてある(この点は小津安二郎●「東京物語」(1953)で再検討する)。憂慮すべきは街の者に協力を要請したり泣いたりすることではなく「初犯」的に限定された心理的な出来事にありホークスの批判もまたそうした文脈で読まれなければならない。

★リアリズム

映画史において人が「リアリズム」について思考するとき●「真昼の決闘」においての「リアリズム」とはおそらくプロの保安官が市民(初犯)の仲間を募ること、保安官が逃げ出すこと、保安官が遺書を書くこと、保安官が泣き出すこと、人々が変節すること、クエーカー教徒がガンマンを撃ち殺すこと、映画の中の時間と上映時間が一致する、などであるだろうが、これらは運動の要請からくるリアルではなく「外部」=「であること」に接近することから来る「らしさ」であり多くの場合それは「心理的ほんとうらしさ」となって映画の停滞へと直結する出来事でありながら映画史はそれを肯定し評価してきたという歴史がある。批評の典型的な錯誤とは「であること」の領域としての「外部」への接近を「リアリズム」として評価してしまうことであり、映画の中に出てくる実際の我々の生活と似通ったこと=保安官が逃げたり泣いたりすることだってあるだろう=日ごろから慣れ親しんだことをそのまま「リアル」として評価の基準に持ち込み本来映画の内部にある運動という親しみのない「すること」からは徹底して逃げ続けて来た弱さにある。「であること」の専門家である知識人に批評家適性をそのまま認めることの危機はここにあり映画史において「リアリズム」という言葉が大変胡散臭い響きを持って流通しているのは大方「リアリズム」という言葉が外部をそのまま内部へ移行させることへの賞賛として使われてきたことと無関係ではない。ある評論家は外部と似ている映画を「バカでも撮れる映画」と酷評するが、我々の慣れ親しんだことをそのまま映画に撮っているのだから、それは「バカでも撮れる」以外のなにものでもない。


★ゴダール

『私はいつも真実を伝えようとしてきたが、それは言われた事柄の真実よりはむしろ、言われた瞬間が真実なものであると思われようとしてきた』(「ゴダール映画史Ⅱ」254)というゴダールの言説は、リアリズムとは内容=「であること」ではなく瞬間=「すること」の真実だと伝えている。

→「ならず者」(1943)

ハワード・ホークスが2週間ほど撮り残りをプロデューサーのハワード・ヒューズがキャメラマンをルシアン・バラードから●「市民ケーン」のパンフォーカスで有名なグレッグ・トーランドに代えて撮りあげたとされるこの作品は、中盤ジェーン・ラッセルがジャック・ビューテルの看病をし始めたあたりから心理的になり、また看病シーンにおけるパンフォーカスの存在からしてもこのあたりからハワード・ヒューズがバトンを受けたと見るべきだが、終盤、決闘するためにドグ・ホリディ(ウォルター・ヒューストン)と向き合ったビリー・ザ・キッド(ジャック・ビューテル)が鳩時計の合図が終わっても銃を抜かず、怒ったヒューストンに両耳を撃ち抜かれてもまだ銃を抜こうとしない彼に『どうして抜かない!』と尋ねるヒューストンに『鳩時計の合図がまずかった。考える時間がありすぎた』と答えることで彼の運動が身に染みついた運動ではなく考える運動であることを告白し、それを聞いたヒューストンが『けがをさせて悪かった』と罪の意識から改心をしてビューテルと和解をし、それに焼きもちを焼いた保安官のパット・ギャレット(トーマス・ミッチェル)と向き合ったヒューストンは先に銃を抜いたにもかかわらず罪の意識から躊躇している間にトーマス・ミッチェルに撃たれることで彼の運動もまた身に染みついた運動ではなく心理的なものであることを露呈させ、さらに撃ったミッチェルがヒューストンに駆け寄り罪の意識から謝罪をし、さらにまたヒューストンの埋葬をする時ジャック・ビューテルがトーマス・ミッチェルに『悪いと思っている。俺はあんたを殺そうとした。だがあんたとドグ(ヒューストン)は親友だった。俺がいなければこんなことにはならなかっただろう』と罪の意識から謝罪をするという、ホークス的世界からすればトンマとしか言いようのない改心と謝罪と罪の意識による「初犯」的メロドラマを連発させている。この作品はプロデューサーのハワード・ヒューズが終始横槍を入れ後半部分を自分で撮ってしまった作品であり、ハワード・ヒューズには●「地獄の天使」(1930)という素晴らしい監督作もあるものの●「ならず者」」についてはホークスの撮った職業的「常習犯」を「初犯」にしてそのまま終わらせるというへまをしでかしている(ホークスがそのまま撮り上げていた場合主人公を「初犯」のまま終わらせることはありえない)。主人公のポール・ムニが罪の意識を有し最後は命乞いをする●「暗黒街の顔役」は当時のヘイズコードとの関係でギャングを「常習犯」として終わらせることができなかったという事情があり、また悪党のゲーリー・クーパーが映画途中に改心し人格を変貌させる●「ヨーク軍曹」にしても実話であること、また戦争という「外部」=「であること」の力が横やりとしてかかっているが、ここにもまたプロデューサーによる横やりという「外部」の力がメロドラマへの接近を許している。

→「三つ数えろ」(1946)とミステリー

「三つ数えろ」は探偵が隠されている事件の真相を探ってゆくことにおいて基本的にはミステリー映画だが映画の中の人物は複雑なまでに錯綜し何度見直しても真相がよくわからない。だがそもそもこの作品の主人公は「起源」を喪失し罪の意識のない「常習犯」ハンフリー・ボガードであり「常習犯」とはまず行動があり真実は「あと」から来るのだから、そんな「常習犯」を主人公にしたミステリーに物語的整合性などもたらされるわけがなく、従って「前科6犯」のホークスによって撮られたこの作品が「難解」なのは運動の性質上必然的な出来事であり驚くべきことではない。ミステリーとは真実へと遡ってゆくジャンルであるから主人公を「初犯」寄りの人物にせざるを得ず、回想などを交えながら「であること」へと遡った心理的メロドラマへと流れてゆく運命にあることから「常習犯」を撮るホークス、マイケル・マン、そしてジョン・フォード等はミステリーとは基本的に相容れず、仮にそれを「常習犯」として撮ると●「三つ数えろ」のように「難解な」職業映画になる。

→ヒッチコックとミステリー

ヒッチコック映画において観客に知らされていない真相を解決することが目的になっているかそれが作品を左右する重要な要素になっている作品(ミステリー)は●「暗殺者の家」(1934)以降では●「レベッカ」●「白い恐怖」●「パラダイン夫人の恋」●「舞台恐怖症」●「泥棒成金」●「ハリーの災難」●「マーニー」であり、ジョーン・フォンテインの巻き込まれ運動が撮られている●「レベッカ」を除けばすべて「であること」へと向けられた作品に集中しており、これらの作品でヒッチコックは「初犯」の映画=「真実へとめがける映画」=を撮ってしまうがために運動の複雑性が物語的明確性に後れをとることになる。確かにヒッチコック的巻き込まれ映画においても国家機密等の「真実」が映画の中で明らかになる作品が多いが、ここまでヒッチコック的巻き込まれ運動における幾重にも配置された「巻き込まれること」の細部を検討したように「巻き込まれること」とは運動を余儀なくされること=運動の発端(さき)に理由を欠くこと=であり、「さき」に理由のない行動が遡って「真実」へとめがけられることはない。「巻き込まれ型」の4作品における国家機密という「真実」はマクガフィンであり、その「真実」が極めて曖昧な形で取ってつけられたように提示されているのは「常習犯」によるミステリーと同じように巻き込まれ運動の「真実」は運動の「あと」から来ることの帰結としてある。●「疑惑の影」と●「裏窓」には過去の殺人のシーンは撮られておらずそこで提示される「過去の真実」はジョセフ・コットンやレイモンド・バーの現在の行動を「見ること」の結果として「あと」から現れるだけで最後まで殺人の直接的な証拠は出されずじまいであり●「めまい」では映画の中盤「真実」の直接的な証拠を提示しているが「真実」が「めがけられた」のはそこだけでその前後は「巻き込まれること」のサスペンスによって満たされているのであり、●「サイコ」にしても我々観客は序盤から「真犯人」が誰かを知らされており仮にそれが真犯人ではなかったとしても映画は「真犯人」を前提に撮られていて「女を殺した真犯人は誰か」を探すミステリーとして撮られてはいない。「巻き込まれること」の細部が配置されているヒッチコック的巻き込まれ運動において「真実」は「あと」からやって来る。

■ジョン・フォードと職業運動。

ジョン・フォードの映画には●「俺は善人だ」(1935)のように鉄工会社の勤勉なサラリーマンが指名手配中のギャングと顔が瓜二つであることからギャングに利用されるという作品が存在するが、サラリーマンとしてのスキルとは何の関係もない環境に放り込まれた主人公のエドワード・G・ロビンソンの運動はまさにヒッチコック的巻き込まれ運動と同質のこととしてあるものの私の見たジョン・フォードの作品で巻き込まれ映画はこれ一本しか存在せず、ジョン・フォードの映画とはホークス同様その多くはガンマンが人を撃ち、船乗りが船に乗り、兵士が戦い、抗夫が炭鉱を掘り、弁護士が弁護をし、といった職業的スキル運動によって占められている。

★ジョン・フォードを起動させる

映画開始時点で既に運動が起動している作品は27本、映画開始後に任務が開始される作品は26本と拮抗しており、マイケル・マン111、ハワード・ホークス298に比べて「常習性」が弱いことが見えてくる。→「ジョン・フォードを起動させる」参照。

★初犯

ジョン・フォード的運動は「常習犯」であるもののマイケル・マン、ハワード・ホークスに比して「起源」へと接近した「前科4犯」であることからその作品には主人公ですら「初犯」的人物が多く登場する。●「若き日のリンカーン」(1939)では弁護士になりたてのリンカーン(ヘンリー・フォンダ)が初めての依頼人を弁護するというまさに「初犯」の仕事が撮られ、●「長い灰色の線」(1954)では士官学校の給仕として入ってきた「初犯」のタイロン・パワーがその後教官になり経験を積んで「常習犯」へと成長し(と言っても彼はボクシングの教官として教え子にノックアウトされたり泳げないのに水泳の教官になったりしている)、●「アイアン・ホース」では測量技師である主人公ジョージ・オブライエンの幼少時の「起源」=「初犯」が撮られたあと成年に達した「常習犯」としての彼の描写へと移行し、●「人類の戦士」(1931)では医者のロナルド・コールマンの幼少時から始まり医師になった後の初めての診察で手術を躊躇したことから子供を死なせて罪の意識に苛まれたりしながらも最後はワクチンを発見して大勢の原住民を救う「常習犯」になるまでの一代記が撮られている。●「男の敵」(1935)で親友を密告して死に至らせたヴィクター・マクラグレンにしてもおそらくそれは初めての密告(初犯)であり、みずからの職業的運動を幾度か映画の中で反復させている●「騎兵隊」(1959)の大佐ジョン・ウェインですらコンスタンス・タワーズに『職業軍人でしょう?』と聞かれて『いえ、私は鉄道技師でした』と答えているように、あるいは●「周遊する蒸気船」(1935)のウィル・ロジャースは蒸気船を自由に操り最後はレースで見事に優勝を飾ってしまうものの本人曰く『長年薬売り一筋に生きてきた』のであり、●「三人の名付親」(1948)では銀行強盗で逃亡中の三人の男たちが途中で出くわした幌馬車の中にいた妊婦の出産を手助けしたり、また亡くなった母親の代わりに赤ん坊を養育したりという「初めて」のことを遂行し続け、●「幌馬車」(1950)のベン・ジョンソンとハリー・ケリー・Jrは牛追いとしての本業のスキルを活かしてモルモン教徒の幌馬車隊のガイド(ワゴン・マスター)を遂行するものの『一度も人を殺したことがなない』『俺たちはガンマンではない』と自認する彼らが最後は幌馬車隊を乗っ取ったギャング一味を銃撃戦で皆殺しにしたように、ジョン・フォード的主人公には非常に多くの場合「初犯」性が垣間見られ、さらにその新米の「初犯」の者たちを「常習犯」の強者たちが育てていくという作品が多く撮られている。●「リオ・グランデの砦」(1950)では騎兵隊中佐のジョン・ウェインの息子で「初犯」の新兵クロード・ジャーマン・Jrが戦友との決闘→父親への伝令→教会への潜入による子供たち救出→父親に刺さった矢を抜く→父親に肩を貸す、といった手順を踏んで「常習犯」への成長への道のりが撮られ、●「サブマリン爆撃隊」(1938)では海軍少将によると『乗員の大半は補充兵。未経験の新米水兵だ』とされるリチャード・グリーン等の「初犯」の水兵たちを「常習犯」の艦長プレストン・フォスターと古参兵のJ・ファレル・マクドナルド等が教育して「常習犯」へと育ててゆき、●「アパッチ砦」(1948)では新米中尉のジョン・エイガーが父親でベテラン曹長のウォード・ボンドと叔父の鬼軍曹ヴィクター・マクラグレンに何かにつけて助けられ、またハンク・ウォーデンら新米の補充兵たちもベテラン兵士たちに鍛えられ、●「三人の名付親」では銀行強盗をするにあたり「常習犯」のジョン・ウェインが「初犯」のハリー・ケリー・Jrに対して『考え直した方がいい、牛泥棒よりも銀行強盗は危険なんだ』と諭したように、また●「黄色いリボン」(1949)では危険な任務を新米中尉のジョン・エイガーと少尉ハリー・ケリー・Jrに任せると命じた少佐ジョージ・オブライエンに退官間近のジョン・ウェインが『あいつらは未熟すぎる、自分にやらせてくれ』と激しく抵抗したのに対して『中尉(ジョン・エイガー)が命令すると兵士たちはみな君(ジョン・ウェイン)の顔を見る。彼の命令が果たして正しいかどうかと疑っているんだ。君は彼をだめな士官にしたいのか?』と返答すると『まさかそんな、、君の言うとおりだ』とジョン・ウェインはひとたまりもなく引き下がり「初犯」の二人に経験を積ませることに同意している。また●「栄光何するものぞ」(1952)における市民兵の補充兵たち●「長い灰色の線」の士官学校の候補生たち、そして●「わが谷は緑なりき」のロディ・マクドウォールが子供から大人へと成長してゆく姿を幼少時から撮り続ける作品のように、また●「リバティ・バランスを射った男」では「常習犯」のジョン・ウェインが「新しい者」=「初犯」のジェームズ・スチュワートを陰で助けて去って行き、●「河上の別荘」(1930)では正義感が強いがもろくて突発的な「初犯」的人物であるハンフリー・ボガードが彼の母親を騙して財産を騙し取ろうとした男に対して銃を持ち出した時、刑務所仲間の「常習犯」スペンサー・トレイシーがボガードをたしなめ相棒のウォーレン・ハイマーと共に財産を取り返してから刑務所に戻っていったように、あるいは●「捜索者」(1956)の「常習犯」ジョン・ウェインは馬を休ませずに救援に向かったり水筒の水を飲みすぎてしまったりインディアンへの銃撃を躊躇してしまう「初犯」のジェフリー・ハンターと絶えず帯同し、●「モホークの太鼓」(1939)では農家の嫁になった都会の娘クローデット・コルベールがインディアンに恐れおののいて泣き叫び夫のヘンリー・フォンダに平手打ちをされつつも、次第に「常習犯」となって夫を支えたように、また脚を怪我したアメリカの将軍ロジャー・イムホフが足の切断するにあたって軍医のチャールズ・タンネンが『私は足を切断するのは初めてです』と告白したのに対して『何事にもはじめはある。今でも覚えている。初めて鹿を仕留めた感激を、』と述べたあと出血多量で死んでいるように、また●「騎兵隊」では北軍の騎兵隊が南軍の16歳の「初犯」の少年兵たちに攻撃されると反撃をせずに逃亡するというシーンが撮られ●「シャイアン」では父親をインディアンに殺された過去からインディアンに対して憎しみを持つ新米少尉のパトリック・ウェインが無謀な作戦で部隊を危険に晒しながらもみずからの怪我をおして部隊に戻って来た時、上官のリチャード・ウィドマークに『いい兵隊になったな』と認められているように、ジョン・フォードの運動には「初犯」の者たちを慈しみながら育ててゆくという要素が強く表れていて、ホークス的「前科6犯」には見出すことのできない「初犯」に対する肯定的要素に満たされている。

→「長い灰色の線」(1954)

ジョン・フォード作品で「初犯」を鍛えるのは男ばかりではない。●「長い灰色の線」では士官学校の教官であるタイロン・パワーは上官のウォード・ボンドから『お前は未だ一人前じゃない、訓練不足で反抗的、短気位で悪知恵が働く』と「初犯」特有の特徴を挙げられて非難され、何かにつけて故郷に帰りたい、弟の事業を一緒にやりたい、転属したいと不平を言う彼を支え続けたのは妻のモーリン・オハラであり、彼女は学校を辞めて故郷へ帰りたいと嘆く夫に士官学校の夢を説き、アイルランドから夫の父親(ドナルド・クリスプ)と弟(ショーン・マクローリ)を呼び寄せて夫を癒し、出産した息子が死んで子供を産めない体になったあと悲嘆にくれる夫に『士官学校の候補生はまるで息子みたい、』と夫の行く道を開き、親友のベッツィ・パルマーとともに彼を励まし続けた彼女はその最期をしめやかなロングショットに包み込まれ、ラストシーンでは義父のドナルド・クリスプとともにパレードに参列している。●「長い灰色の線」は、何事も長続きしない男が周りの人々のお陰でここまできました、それを是非とも大統領にお伝えしたかったのです、という物語であり、だからこそ彼は定年にも関わらず大統領にさらなる職務を願い出るのであり、そんな夫を支え続けたモーリン・オハラの女の記憶は花をちりばめた麦色の帽子を携えながらジョン・フォード的「軍曹」の現在を刻み続けている。

→「初犯」を看取ること

●「海の底」(1931)では島に上陸した若い少尉のスティーブ・ペンドルトンが敵スパイの女マリオン・レッシングに騙されて酒を飲まされて情報を奪われた挙句に自国の艦船に乗り遅れて取り残され最後は敵ドイツ補給艦に潜入して一泡吹かせるも撃ち殺されてしまうという「初犯」的失態を演じながら、敵ドイツ兵全員が彼を敬礼と共に看取っている。●「肉弾鬼中隊」(1934)では『まだ半人前です』と自ら告白したあと任務に失敗して殺され馬を盗まれた19歳の新兵をみんなで埋葬し、●「騎兵隊」(1959)ではジョン・ウェインが新兵の最期を看取り●「栄光何するものぞ」では海兵隊の大尉ジェームズ・ギャグニーがはしかから退院したばかりの新兵ロバート・ワグナーの最期を看取り号泣しているが、こうしたシーンはホークス的職業運動には見出すことはできない。ハワード・ホークスの作品にも人々が看取られたり埋葬されたりするシーンが撮られているが、それらは「常習犯」に限られており、●「虎鮫」ではエドワード・G・ロビンソンが親友のリチャード・アーレンと()恋人のジタ・ヨハンに看取られ●「空軍」では大尉のジョン・リジリーが仲間たちに看取られ●「永遠の戦場」では軍曹のグレゴリー・ラトフが上官のワーナー・バクスター等に看取られ●「コンドル」でもその後退出をするものの瀕死のトーマス・ミッチェルをケーリー・グラント等仲間たちがみなで取り囲んでいるが、ここには任務においてミスをしでかした「初犯」の死者は一人もいない (●「虎鮫」のエドワード・G・ロビンソンはリチャード・アーレンを海に突き落として鮫に食わせて殺そうとして自分が転落して鮫にやられているので微妙ではある)。●「リオ・ロボ」で南軍に襲撃されて金塊を汽車ごと奪われてしまったジョン・ウェインの親友は最期を看取られておらず、●「エル・ドラド」で居眠りをしてジョン・ウェインに腹を撃たれて死んだ少年もまた看取られることも埋葬されることもなく、●「赤い河」のジョン・ウェインに至ってはへまを犯した「初犯」の牧童を鞭打ち反撃されると殺そうとし、契約を破って脱走した「初犯」の者たちを絞首刑にしようとするような残酷さを際立たせており、ここには「初犯」を慈しみ成長させるジョン・フォードに対するホークスの「初犯」に対する冷遇を見出すことができる。

→「怒りの葡萄」(1940)~心理的クローズアップと「初犯」について

家族が農場を捨てて車で西部へと旅立とうというとき、身の回りのものを燃やして処分している母ジェーン・ダーウェルがイヤリングをつけた自分の姿を鏡で見るクローズアップが撮られているが、これが「心理的クローズアップ」であり「私は悲しい目に遭っています」と顔に書いてあるこのクローズアップは、仮に蓮實重彦のいう●「リオ・グランデの砦」のラストシーンで日傘をクルクル回してルンルンしたモーリン・オハラが「最悪のフォード」ならば(「ジョン・フォード論176)、このジェーン・ダーウェルは「最最悪のジョン・フォード」とでもなるのであり、ガソリンスタンドの食堂の意地悪な女が一瞬にして「善人」へと改心したり、道々遭遇する「悪人」たちに対して「正しさ」によって行動するヘンリー・フォンダがその都度反抗的な態度で臨んでいたり(「正しさ」ゆえに怒りっぽい)、農務省の経営する農場ではどこから見ても「善人」にしか見えないグラント・ミッチェルが責任者としてそこにいたりと、あらゆるところで善と悪を対峙させ「常習犯」が一人もいないこの作品はアカデミー賞をもらうに相応しい「初犯」の映画として撮られている。

★反復性

ジョン・フォード的運動はホークス●「ハタリ!」のようにハンター役の俳優たちが現実に危険極まりない狩りを反復させていくのを撮るのではなく、同じくハンターを主人公に撮られた●「モガンボ」でもハンティングは黒豹、サイ、ゴリラと三回の狩りが撮られただけでかつそれらはスタジオ撮影と現地の猛獣のショットとを切り返しのモンタージュでつないだものが殆どであり、エヴァ・ガードナーが部屋の中でとぐろを巻いているヘビを見て驚くシーンでは、ランプを手前に舐めたガードナーの、物語の流れからは明らかに亀裂したクローズアップが入ったあと、驚いたガードナーがゲーブルに抱きついてラブシーンが生まれたように、ハンティングや猛獣はホークスのようにそれ自体が目的化されて撮られているのではなくむしろ男と女たちの関係を起動させるマクガフィとして撮られている。サイレント映画の●「三悪人」(1926)においては銀行強盗や馬泥棒の3人の「悪人」たち(トム・サンチ、J・ファレル・マクドナルド、フランク・カンポー)が可憐な娘オリーヴ・ボーデンに出会って彼女の亭主探しに奔走し最後は彼女とその恋人を守って死んでいくものの彼らの悪事は序盤のオリーヴ・ボーデンの馬を奪おうとして中止した未遂の一度だけであったように、同じくサイレント映画の●「血涙の志士」(1928)にしても首吊り判事と名高い判事ホバード・ボズワースの法廷シーンは1ショットも撮られておらずまたアイルランド独立戦争の闘士でアルジェリア独立戦争の外人部隊の司令官でもある主人公のヴィクター・マクラグレンは妹を自殺に追いやった男への私的な復讐をするだけで独立へ向けられた闘争シーンはまったく撮られていない。またギャング映画●「悪に咲く華」(1930)では主人公のエドマンド・ロウのギャングとしての運動は冒頭の宝石泥棒とラストシーンの銃撃戦くらいしかなく、映画が始まって間もなく彼は戦地へ送られるがそこでも女を口説いたり野球をしたりするだけで彼の戦士としての戦闘シーンは1ショットも撮られてはおらず、帰還後はギャングから足を洗ってナイトクラブのオーナーになって上流階級の仲間入りをしており、ホークス●「暗黒街の顔役」のようにギャングがギャングとしての行動を禁欲的に続けていく姿はまったく撮られていない。●「駅馬車」におけるトーマス・ミッチェルの「医者をすること」の運動は僅か一回しか撮られておらず、●「果てなき船路」(1940)の船乗りたちは酒を飲んで喧嘩をしたり船から脱走したりスパイを尋問したりしているものの船乗りの仕事は暴風雨を凌ぐことくらいであり●「わが谷は緑なりき」の抗夫たちにしても子供のロディ・マクドウォールが坑道で働くシーンしか撮られておらず●「タバコ・ロード」の農夫チャーリー・グレープウィンに至っては農夫としての仕事が1ショットも撮られていないように、また●「荒野の決闘」(1946)のヘンリー・フォンダは弟を殺した犯人を捜すために保安官になっておきながらポーカーをしたり逃げ出した舞台俳優を連れ戻したり美人(キャシー・ダウンズ)に入れ込み香水をつけたりダンスをしたりするばかりでちっとも復讐の職務を遂行しようとはせず、さらにまた●「三人の名付親」では銀行強盗が赤ん坊の世話をし●「逃亡者」(1947)のヘンリー・フォンダは神父として赤ん坊への洗礼をし、また少年の母親の最期を看取ったくらいでその運動の多くは神父としてのそれでなく逃亡することであり●「プリースト判事」(1934)ではウィル・ロジャースの判事としての職務行為が撮られたのはオープニングのステッピン・フェチットを被告とした裁判だけでその後彼は判事から弁護士へと鞍替えして法廷で弁護活動をしている。そのリメイク●「太陽は光り輝く」(1953)の判事チャールズ・ウィニンガーは酒を飲んだり選挙活動をしたり在郷軍人会の議長をしたり集団リンチを阻止したり葬式で説教したりしているものの判事の仕事は遅刻した法廷での1シークエンスしか撮られておらず、さらにその法廷では審議そっちのけで元ラッパ手の判事が召使ステッピン・フェチットのハーモニカに合わせてディキシーを奏でて盛り上がっているし、●「静かなる男」(1952)のジョン・ウェインは生まれ故郷のアイルランドへ帰ってきたもののアメリカで稼いだ金で暮らしていけるらしく生業を稼ぐための職業的運動は撮られておらず、せいぜい元ボクサーとしてヴィクター・マクラグレンと殴り合ったくらいであり、●「ミスタア・ロバーツ」(1955)では貨物船の洗濯風紀士官でありながら洗濯などただの一度もしないジャック・レモンが爆竹で洗濯室を爆破して船を泡だらけにしたり看護婦をナンパしたりすることに明け暮れる始末でヘンリー・フォンダに言わせれば彼は『何一つやり遂げたことのない男』であるばかりか他の船員たちも出世欲にまみれた艦長のジェームズ・ギャグニーに嫌気が差し任務を放り出して上陸許可を待ち続ける有様であり●「荒鷲の翼」(1956)の海軍中佐ジョン・ウェインはパイロットらしいものの飛行機を飛ばすシーンはオープニングの一回しかなくあとは陸軍の兵士と喧嘩をしたり妻と喧嘩別れをしたり階段から転げ落ちて半身不随になってリハビリをしたり映画の脚本を書いたりと見たところ何が専門なのかよくわからず●「虎鮫島脱獄」(1936)の医師ワーナー・バクスターはリンカーン暗殺の共犯にされて孤島の刑務所に捕えられ職務そのものを長らく停止させられ●「ドノバン珊瑚礁」(1963)では海運業者のジョン・ウェインが「ドノバン珊瑚礁」という酒場も経営して色々なことをやったりし●「馬上の二人」(1961)のジェームズ・スチュワートは友人のリチャード・ウィドマークが彼を上官のジョン・マッキンタイアに紹介する時『保安官、法の番人で外交官、冒険家、、』と指摘しているように、ジョン・フォード的「前科4犯的常習犯」にはホークス的「前科6犯」に見出すことのできる職務における反復性、専門性が著しく後退している。

★職務の不明確性

●「海の底」では米軍偽装船が目的地不明、作戦任務は極秘で乗務員にも知らされない状態から映画が始まり、●「肉弾鬼中隊」は原題の「THE  LOST  PATROL=迷子の偵察隊」が指し示すように、砂漠におけるイギリス軍の偵察隊で唯一司令を知っている隊長が撃たれて死ぬところから始まるこの作品は、司令書も残されていない現場で軍曹のヴィクター・マクラグレンが『個々の場所も目的も本隊の所在すら知らない』と嘆くように兵士たちはアラブの兵隊たちの格好の的となって危うく全滅しかけるのであり、また●「サブマリン爆撃隊」において駆潜艦の乗組員たちは出航後も目的地を知らされていないように、ジョン・フォードの作品にはハワード・ホークス的運動にはあり得ない、主人公が何をしていいいのかわからないという職務の不明確性がつきまとっている。

★転属願い 

こうした傾向はジョン・フォード作品にしばしば現れる「転属(退官)願い」という出来事にもよく表れている。●「サブマリン爆撃隊」では駆潜艦の機関長であるリチャード・グリーンが上官に退官を申し入れ●「アパッチ砦」では後任のヘンリー・フォンダによって任務を解かれた騎兵隊の副官ジョージ・オブライエンが転属通知を待ち続け、そのフォンダにしても転任願いは出していないものの左遷されて赴任した砦の司令官の職に『ここに骨を埋めるつもりはない』と不満を述べており●「ハリケーン」(1937)と●「ドノバン珊瑚礁」では孤島に赴任している医者のトーマス・ミッチェルと男爵のシーザー・ロメロはそれぞれ本国のフランスに向けて転属願いを書き送り●「黄色いリボン」では少尉になりたてのハリー・ケリー・Jrが退任願を提出し●「ミスタア・ロバーツ」では第二次大戦時の貨物輸送船の貨物士官を務めるヘンリー・フォンダが戦艦への転任願いを出し続け●「栄光何するものぞ」の海軍曹長ダン・デイリーは配置早々転属希望を提出し、部下のウィリアム・デマレストに至っては除隊希望を提出し、大尉のジェームズ・ギャグニーも『敵将校を捉えれば転属できる』と転属を希望し、それが叶わなかった後も『戦争はうんざりだ。新兵ばかりで戦い方も知らない』と出動を一度は拒絶をしており、●「コレヒドール戦記」(1945)では魚雷艇の艦長のジョン・ウェインが駆逐艦への転属願いを書き●「長い灰色の線」の士官学校の教官タイロン・パワーにしても教え子たちの度重なる死に耐えられずに何度も退役を試みたり転属願いを書いたりしている。実際に転属願いが書かれたり提出されてはいない作品でも●「果てなき船路」の船員たちは今乗っている船主の横暴に耐えられず転属を希望し、さらにジョン・ウェインは船乗りを辞め田舎へ帰って牧場をやることになり、イアン・ハンターは上陸禁止の船から脱走したりしており●「駅馬車」の医者トーマス・ミッチェル●「わが谷は緑なりき」の牧師のウォルター・ピジョンにおいては街の者たちの差別と偏見から転属や街を出ることを余儀なくされ●「アパッチ砦」の騎兵隊中佐ヘンリー・フォンダは僻地へ左遷された自分の現状に満足できず功を焦って無謀な作戦を選択して隊を全滅させ●「リオ・グランデの砦」の騎兵隊中佐ジョン・ウェインの任務は将軍のJ・キャロル・ナイシュによると「軍で一番の汚れ役」であり、そこへ士官学校を退学になって入隊してきた息子のクロード・ジャーマン・Jrを母親のモーリン・オハラがわざわざ除隊させるために砦までやって来たりしており●「ミスタア・ロバーツ」における貨物船の船長ジェームズ・ギャグニーもまた現状に満足しておらず海軍中佐になりたい野望から部下の不信を買い続け、ジョン・フォード的主人公の中では珍しく職業的運動を何度も反復し続ける●「ドクター・ブル」の医者ウィル・ロジャースもまた度重なる医療行為を「常習犯」的に反復させることが却って睡眠時間もままならない疲労を蓄積させ街の者たちの差別と偏見も相俟って『早く仕事を辞めてここ(未亡人の家)に入り浸りたい』と弱音を吐き、その後医者の資格を剥奪されそうになると『仕事にも飽きた。釣りにでも行ってのんびりしたい』とこれまた辞職を希望するに至っているように、彼らの多くはみずからの職務に誇りを有してはいるもののその具体的な職務の現場に不満を抱いたり葛藤を抱えたりしており、それが如実に示されるのが戦争映画の海軍における水兵たちの所属艦への不満であり●「海の底」の主人公たちの職場はオトリとなってドイツのUボートに魚雷を撃たせることが任務の偽装艦で花形からは程遠い艦隊であり●「コレヒドール戦記」はその原題『THEY  WERE  EXPENDABLE(彼らは消耗品だった)』が示すように彼らの任務は隠れて攻撃する魚雷艇であって駆逐艦のように日の目を見る任務ではなくそれに不満を持つジョン・ウェインが既にみたように転属願いを書いており●「ミスタア・ロバーツ」に至っては水兵たちが「リラクタント号(いやいやながら号・しぶしぶ号)」と呼ぶオンボロ貨物船のデッキで中尉のヘンリー・フォンダが海を行く戦艦や空母と行った花形の艦船を羨ましそうに双眼鏡で見つめているショットから映画が始まり●「サブマリン爆撃隊」においては水兵たちの乗る駆潜艇が『海軍でもっとも小さい船』であり乗組員で富豪の息子リチャード・グリーンによると『父のヨットより小さい』と形容される始末で、船長のプレストン・フォスターにしても駆逐艦の華々しい舞台でヘマをして降格になってやってきた船長であるように、花形からは程遠い補助的任務に就かされるのがジョン・フォード的職業人の常態であり、こうした傾向はハワード・ホークス●「空軍」における爆撃機が空軍一の大きさであり、大尉のジョン・エイガーがみんなから尊敬されるエリートである反面、空軍からの退役希望を表明している砲手のジョン・ガーフィールドが同僚たちから軽蔑されていたのとは決定的に異なっている。ひとつの職業のひとつの任務に誇りを持ちながら首尾一貫して遂行し続けるホークス的主人公において「転属」という出来事が惹き起こされたのはおそらく●「暁の偵察」におけるニール・ハミルトンただ一人であり、英国陸軍飛行中隊司令官の彼は上官からの命令によって出撃させた若い「初犯」の補充兵たちが次から次へと戦死してゆくのに耐えられずその職を後任のリチャード・バーセルメスに譲って喜んで去ってゆくのだが、ホークスの禁欲的な職業遂行運動に比べてジョン・フォード的主人公には職業に対するある種の葛藤が常につきまとっている。

★ストライキ

転属願いからさらに進んでジョン・フォード的主人公は●「怒りの葡萄」の労働者ジョン・キャラダイン、あるいは●「わが谷は緑なりき」における抗夫たちのようにみずからの職務を自主的に停止させるストライキという出来事へと進むことになる。確かにストライキも労働者の職業的運動であるとすることは可能だが、ハワード・ホークス的主人公がしばしばジャムセッションという余暇によって任務を一時的に中断させるのと違ってみずからの職務=天職を完全に停止させることになるストライキという出来事はホークス的禁欲的職業人間たちとは大きく異なっている。

★罪の意識、改心

ホークス的「常習犯」より「初犯」寄りの性格を指し示すジョン・フォード的主人公たちはしばし罪の意識に悩まされたり改心したりすることになる。サイレント映画の●「誉の名手」(1917)ではお尋ね者のガンマンであるハリー・ケリーの仲間のガンマンが対立する牧場の青年を背中から撃ち殺したことに罪の意識を感じて改心し殺された青年の牧場の仲間になり●「人類の戦士」では医者のロナルド・コールマンが初めての診察で手術を躊躇したことから子供を死なせて罪の意識に苛まれ、●「肉弾鬼中隊」では第一次大戦時の英軍のメソポタミア偵察隊が見えざる敵に次々と殺されることで兵士のボリス・カーロフは精神を病んでしまい、また隊長のヴィクター・マクラグレンはみずからの指揮のあり方を後悔し●「男の敵」ではヴィクター・マクラグレンが密告者としての罪の意識に耐えられず最後は教会で懺悔をし●「ハリケーン」では南太平洋のフランス植民地の孤島に赴任した冷徹な行政官のレイモンド・マッセイが最後は改心して脱走犯のジョン・ホールを見逃し●「モホークの太鼓」(1939)では王党派のインディアンを殺したヘンリー・フォンダと、その後インディアンに焼き殺されそうになっている味方のフランシス・フォードを苦しませないようにと射殺したアーサー・シールズがそれぞれ罪の意識を告白し●「逃亡者」では革命政権下でのカトリック禁止令によって逃亡する神父ヘンリー・フォンダが自らの身代わりとなって殺された村人の死に対する罪の意識に苛まれ、またメキシコ兵ペドロ・アルメンダリスもまたヘンリー・フォンダを処刑することに罪の意識を有し、フォンダを密告したJ・キャロル・ナイシュもその後フォンダに懺悔をしたりと罪の意識にまみれており●「アパッチ砦」ではアパッチに囲まれ絶体絶命となったヘンリー・フォンダが自らの指揮について部下のウォード・ボンドとジョージ・オブライエンに謝罪をし、●「リオ・グランデの砦」では騎兵隊中佐のジョン・ウェインとその部下のヴィクター・マクラグレンがジョン・ウェインの妻(モーリン・オハラ)に先祖代々伝わる農園を職務命令によって焼き払ったことに罪の意識を有し●「栄光何するものぞ」では海兵隊の大尉ジェームズ・ギャグニーが若い兵隊を死なせて号泣し『戦争はうんざりだ』と葛藤に悩み●「長い灰色の線」では陸軍士官学校の教官タイロン・パワーが教え子の戦死による罪の意識から職務からの離脱を試み●「騎兵隊」では南北戦争における北軍大佐のジョン・ウェインが強制的に軍に同行させた南部の女性(コンスタンス・タワーズ)の召使い(アルシア・ギブソン)を死なせてしまったことに罪の意識を感じて謝罪をし●「シャイアン」では陸軍大尉のリチャード・ウィドマークが飢えながらも帰郷を目指すシャイアン一行と闘うことに罪の意識を持ち続け、、というように、ジョン・フォード的主人公はホークス的主人公とは比較にならないほど多くの出来事においてみずからの職業的運動に関しての罪の意識を有している。

★起源

職業的運動=「すること」へと特化されてゆく「前科6犯」のホークス的主人公に比べて職業から離れて「であること」=「初犯」へと傾倒してゆくジョン・フォード的主人公には当然ながら「起源」についてのショットや言及が多く撮られることになる。●「アイアン・ホース」では測量技師のジョージ・オブライエンの幼少時の「起源」がそのまま映画に撮られ ●「河上の別荘」では銃で人を殺そうとしているハンフリー・ボガードをスペンサー・トレイシーが『人を殺せば死刑だ。自分は死刑囚だった。電気椅子のモーターの音にずっと怯えていたんだ』とみずからの「起源」を語ってボガードの犯行を思いとどまらせ(ただ、死刑囚がどうして今生きているのかは不明)、●「長い灰色の線」においてもまた食堂の給仕として士官学校にやって来たタイロン・パワーが割った皿の代金を給料から引かれて文無しになりやむなく士官学校に入って教師になったという「起源」そのものが映画に撮られている。●「果てなき船路」のジョン・ウェインには『スウェーデンのストックホルムの農場に母と兄がいて父は死んだ。16まで農場で働きその後故郷を出て船乗りになった』という本人による「起源」の言及があり、船乗り仲間のイアン・ハンターについてもまたその手紙によってアル中で家族から逃げるようにして船員になった「起源」が読まれている。●「肉弾鬼中隊」のヴィクター・マクラグレンは『妻は息子を生んで死んだ。しばらく息子を憎んでいたが情にほだされ軍で昇進しながら息子の学費を払ってきた。今では息子がすべて。息子のために戦う』とみずからが戦う「起源」について言及し、●「メアリー・オブ・スコットランド」(1936)ではキャサリン・ヘップバーンが『フランスで16歳で結婚、国王が殺されると夫が王位を継ぎフランス女王になったが夫も亡くなり一人残された私はスコットランドに返ってきた』と自らの生い立ちをフレデリック・マーチに語り●「ミスタア・ロバーツ」のヘンリー・フォンダもまた『医大を中退して入隊した。戦う者が人命を救うからだ、』とみずからが戦う「起源」について語り●「ドノバン珊瑚礁」のジョン・ウェインは『大学二年でフットボールで負傷し海軍に入った。駆逐船が被弾して日本軍の基地のある島へ漂流し、山の洞窟に隠れて日本軍と戦った』と孤島で生活をしている現在の「起源」について細かに語っている。また●「バファロー大隊」の黒人の騎兵隊曹長ウディ・ストロードは黒人奴隷としての「起源」が所持品の手紙によって読み上げられ、●「騎兵隊」の大佐ジョン・ウェインは泥酔しながら『軍に入る前は鉄道技師だった。俺も昔はまともだったが妻が医師たちの医療ミスで死んでから私は変わった』といった現在の彼の「冷酷な常習犯」的行動の「起源」と受け取れる趣旨のことを語り●「リオ・グランデの砦」のジョン・ウェインにしても15年前の南北戦争の時の命令によって妻(モーリン・オハラ)の農園を焼き払ったことで妻に家を追い出されて今に至るという「起源」めいた事実が語られており、また●「静かなる男」ではボクサー時代に試合で相手を殺してしまった「起源」がジョン・ウェインの回想によって撮られているように、ジョン・フォードの作品にはホークス的禁欲的職業人たちが多くの場合既に喪失している「起源」についての記憶を有している者たちが多く撮られている。

→「荒野の決闘」(1946)~起源を忘れたヘンリー・フォンダ

●「荒野の決闘」でヘンリー・フォンダが町の保安官になったのは弟のドン・ガーナーをウォルター・ブレナン一味に殺されたからという「起源」が映画の中で撮られている。これまで「起源」についてともすれば否定的な検討を重ねてきたが「職業」型のスキル運動において「起源」の存在は必須であり仮にマイケル・マン的「前科10犯」であっても完全に「起源」は忘れ去られているのではなく、あくまでも記憶の彼方に存在するがそれがあまりに遠いためその都度「起源」を参照せずとも自然と行動してしまう、それが「常習犯」であり、「常習犯」の行動の根底には必ずや「起源」による行動様式がつきまとうことになるのだが、この作品のヘンリー・フォンダはほんの数日前の「起源」をきれいさっぱり忘れたかのように町で出会った娘キャシー・ダウンズに入れ込み、床屋へ行って鏡で自分の姿を確認し、香水をつけ、女とダンスをするヘンリー・フォンダの行動には●「捜索者」のジョン・ウェイン、●「太陽は光り輝く」のチャールズ・ウィニンガー等「常習犯」の行動に付きまとっている「起源」の片鱗すら露呈しておらず、リンダ・ダーネルのつけていた弟のペンダントを見てそれまで完全に忘却していた「起源」を突如想起したかのようなフォンダの行動は軽薄さに満ち溢れている。仮にこの作品を弟の死をマクガフィンとしたフォンダとダウンズとのラブストーリーだとしても、みずからの意志で床屋へ行き、みずからの意志で女に近づき、女もまたみずからの意志で男を礼拝に誘い、男がみずからの意志で女にダンスを申し込み、ラストシーンではみずからの意志で馬から降り、面と向かって語り合うという行動は●「駅馬車」で馬車に乗ることを「余儀なくされた」ジョン・ウェインがそこにいたクレア・トレヴァーと偶然巡り合い、●「静かなる男」では雷雨による雨宿りによって二人きりの密室でジョン・ウェインとモーリン・オハラがキスをしたような「余儀なくされる」というジョン・フォード的「前科4犯」の「巻き込まれること」によるエモーションとはかけ離れた、考えてから行動するという「初犯」的行動に満たされており、みずからの余命という「起源」を直視して終始しかめっ面で怒りっぽいヴィクター・マチュアと善悪で人を判断する焼きもち焼きのリンダ・ダーネルによって●「荒野の決闘」は「初犯」のトライアングルを形成している。リンダ・ダーネルの手術が終わり付き添っていた女ジェーン・ダーウェルが突如『彼女を看病したい』と申し出た時のヘンリー・フォンダとヴィクター・マチュアの笑顔こそ「善意」に満ちた「初犯」特有の顔として撮られている。

★回想 

「起源」へと接近するジョン・フォード的運動には回想も撮られることになる。●「わが谷は緑なりき」はロディ・マクドウォール(声は別人)の回想形式で語られ、ラストシーンでもまた家族の食卓の回想シーンが撮られており(これはフランシス・コッポラ●「ゴッドファーザーPART II(1974)のラストシーンへと受け継がれている)、●「シャイアン」もまた主人公のリチャード・ウィドマークによるナレーション形式の回想によって語られ●「ハリケーン」は船上のトーマス・ミッチェルによる回想で始まり●「長い灰色の線」●「リバティ・バランスを射った男」では主人公のタイロン・パワー、ジェームズ・スチュワートがそれぞれ実際に回想するシーンを撮りながら進められ、法廷での裁判が撮られた●「プリースト判事」ではヘンリー・B・ウォルソールの証言が回想形式で撮られ●「バファロー大隊」では裁判を通じて映画そのものが回想形式で進められている。●「怒りの葡萄」ではジョン・クォーレンが農場をブルジョアに取られるシーンがやや長い二回の回想によって挿入され●「静かなる男」でもまたジョン・ウェインがボクシングの試合で相手を殺してしまうシーンが回想で撮られている。短い回想については●「アイアン・ホース」で主人公のジョージ・オブライエンが幼少時彼の父親が鉄道を敷くための谷の近道を発見するシーンを回想し●「長い灰色の線」ではラストシーンで死者たちを回想形式で登場させ●「三人の名付親」では死んだハリー・ケリー・Jrとペドロ・アルメンダリスの声だけが回想で聞こえて来たりしており●「栄光何するものぞ」においてもフランスで知り合い恋に落ちた娘の歌声が戦場のロバート・ワグナーに聞こえてくるというショットが撮られている。ホークス作品において回想は●「ヨーク軍曹」において戦地から帰還したゲーリー・クーパーが裏山の崖で少佐スタンリー・リッジスやウォルター・ブレナンの声だけを回想で想起するという1シーンしか存在せず、それについても実際に映画の中で流れた声を脚色したもので現実の回想とは言い難く、マイケル・マンにおいても●「ALI アリ」の1シーンしか存在しないのと比べてジョン・フォードにおける回想の多さは彼の作品の主人公がホークス・マイケル・マンのそれと比べて「起源」へと接近していることを指し示している。

★葛藤~ジョン・フォードは巻き込まれている

ジョン・フォード的運動はホークスに比してより「起源」へと接近させ運動を職業的に特化させた動物的な「すること」から人間的な「であること」付近へと引き戻し葛藤というエモーションを産み出している。だが葛藤を産み出す一つの要因は「であること」の領域における人間的要素でありそれは人間であるからこそ直面する心理=メロドラマへの接近でもあることからジョン・フォード的運動は常に心理的に停滞する危険との隣り合わせになりそれが高じると●「逃亡者」の神父ヘンリー・フォンダのようにみずからの神父としての適性に疑問を持ち続けるあまり運動が停滞し、儀式のために必要なワインを悪党たちに飲まれてしまってもひたすらうろたえるだけで戦うどころか逃げることすらできない有り様に陥ってしまう。しかしジョン・フォードは●「若き日のリンカーン」でヘンリー・フォンダのような「初犯」を撮ったとしてもどうして弁護士になったかという「起源」については木の枝が倒れた方角で決めるという極めて反理性的な方法でなされているように、また●「タバコ・ロード」の主人公の農夫チャーリー・グレープウィンが盗みを働いたことに罪の意識を感じながらもちっとも心理的にならずに相も変らぬ「常習犯」的運動をし続けているように、また●「静かなる男」では殴られて失神し回想で「起源」を想起したはずのジョン・ウェインがその後ちっとも心理的にならないように、ジョン・フォードの撮る「であること」へと向けられた主人公の多くはまったき「初犯」としてのメロドラマに陥る手前の「葛藤」というレヴェルに運動をキープしておりホークスの「前科6犯」に対して「前科4犯」あたりのそれなりに「起源」から遠ざかった者たちによる「常習犯」的運動を維持している。それを可能にしていることのひとつがあらゆる瞬間に配置された膨大なマクガフィンであり(ジョン・フォード機能・運動連関表)、例えばフォードの映画において数限りなく使用されている帽子という小道具はフリスビーのように遠くに投げたり合図や挨拶のために振られたり脱いだり服の埃をはたいたり、帽子を脱いだその手で頭を搔いたり、またその中にコインやチップや手紙を入れたりするためにあるのであって決して日差しをよけるためにかぶるのではなく、日差しをよけるときには●「三人の名付親」のハリー・ケリー・Jrが死ぬシーンでジョン・ウェインが脱いだ帽子でハリー・ケリー・Jrの顔を太陽光線から遮ったように「帽子をかぶって日差しをよける」という機能からは悉くかけ離れて使われており、後述するバスター・キートンにおけるスラップスティックコメディ的荒唐無稽さに到達している。ホークスは「であること」を機能的に志向しつつも「起源」への接近性を回避しながら「すること」のマクガフィンをぶつけ続けることでまったき「すること」へと接近してゆくのに対してジョン・フォードは運動を敢えて「であること」へ接近させながらその一方でその都度マクガフィンをぶつけ続けることで運動の起点から動機を排除して生成させ葛藤を産み出すという離れ業を演じている。ジョン・フォードの映画がハワード・ホークスのそれに比べて泣けるのは「すること」のうごめきに「であること」の人間性をより濃くミックスさせたことから生じる任務の停滞=葛藤によるエモーションに依るところが大きい。「起源」に接近するほど「常習性」が弱くなることからジョン・フォード的「前科4犯」を起動させるにはマクガフィンで外部から弾くことになり、その結果彼らの運動は外部の力で「余儀なく開始された」=「巻き込まれている」性質が強くなり、その運動には葛藤が生じ、時として停滞しまた不平不満が耐えないことになる。対してホークス的「前科6犯」とマイケル・マン的「前科10犯」は強い「常習性」によって運動が内発的に開始されることから同じ巻き込まれるにしても自分自身に巻き込まれているのであり「外部から余儀なくされた」ことによって生ずる葛藤というエモーショナルな出来事が見えにくくなる。

★傘 

●「四人の息子」(1928)では戦時中の配給所で女が雨をしのぐために傘を差し(その後、傘は子供たちが大きな傘の中に隠れるためにさされたりもしている)●「虎鮫島脱獄」では絞首台へと向かう受刑者の女に付き添っている神父が女に傘をさしかけ、●「ミスタア・ロバーツ」では夜、船に帰還した水兵たちが傘を差してはいるものの主人公については女たちが頻繁に日傘をさす光景以外に傘で雨をしのぐ光景はまったく存在せず、仮にあっても●「ドノバン珊瑚礁」の雨漏りをした教会でジョン・ウェインがエリザベス・アレンとの相合傘の中にあの巨体を隠すという極めて異様な光景として存在するのみであり、ジョン・フォードにおいてはヒッチコック同様、降りそそぐ雨をしのぐための傘が機能的にさされることはなく、より機能性に接近しているハワード・ホークス作品においても雨が降って主人公が傘をさすシーンは1ショットも撮られてはおらず(●「奇傑パンチョ」の最後のシークエンスで車を運転しているウォーレス・ビアリーが助手席の男のさしている傘に収まるショットが撮られているがこれはおそらくホークスから監督を引き継いだジャック・コンウェイによって撮られている)、さらに機能的であるはずのマイケル・マンの主人公たちさえ●「インサイダー」でラッセル・クロウが雨に傘をさした以外一度も傘をさしていないのは、機能性など無縁の巻き込まれ運動のみならず、機能的であるはずのスキル運動ですらその機能性は「ありもしない」荒唐無稽さとなって内部へと反映されるショット史が強く存在することを示唆している。

■「であること」とマクガフィン

ヒッチコック的巻き込まれ運動は「すること」の運動ゆえに「であること」を剥ぎ落されなければならず、そうしてスキルを喪失して「柔らかく」なった者たちだからこそマクガフィンによって弾かれるのだ、という検討をしてきたが、「であること」へと向けられたスキルに満たされた主人公にマクガフィンをぶつけてもスキルによって否定されて効果がないのではという疑問がある。確かにスキルとは「であること」に向けて付着するのだから「すること」オンリーの映画にスキルが付着すると運動の自殺を惹き起こすことになるのに対して「であること」へと向けられた職業的スキル運動を撮る場合それが「起源」へと参照されてゆく「初犯」であるならば、既に心理によって運動に動機が付着し複雑性が限定されているのでそこへマクガフィンという異質の出来事をぶつけても効果がなくヒッチコックの機能・運動連関表を見ても基本的に「初犯」の映画にはマクガフィンが極端に減少するという傾向を示すのに対し(マクガフィン的志向が少ないから心理的になるとも言える)「常習犯」的スキルに満たされた職業的スキル運動は知的であるかのように装いながら「起源」から遠ざかることにおいて病的であり「ありもしない機能性」によって理由もなく突き上げられるように運動を起動させる彼らは理由のないマクガフィンをぶつけられることでさらなる強度をもって「すること」へと加速することができる。運動を否定したり停止させたりするのは心理という硬質の内部であってスキルではない。「常習性」をジョン・フォード的「前科4犯」あたりまで積み重ねてゆくと「起源」を忘れはじめてその運動も柔軟になってマクガフィンに弾かれ易くなり、さらに煮詰めてマイケル・マン的「前科10犯」にでもなれば運動は自己目的化されマクガフィンは不要となる。だが自己目的化されているはずのマイケル・マンの映画にもマクガフィンが配置されているように、機能から運動だけを取り出すマクガフィン的現象は映画が「心理的ほんとうらしさ」に満たされることを防止しながら運動を加速させることに寄与することにおいて万能性を有しており、ただ「前科10犯」のマイケル・マンの場合は「心理的ほんとうらしさ」からの距離は「起源」から遠く離れた「常習性」によって既に保たれているのに対して「前科10犯」に至っていないジョン・フォード的「前科4犯」、あるいはハワード・ホークス的「前科6犯」における「心理的ほんとうらしさ」からの距離は「起源」からの距離と併せてマクガフィン的回路によっても保たれており、ヒッチコックを凌駕するその余りにも膨大なマクガフィンによって彼らの運動には常に荒唐無稽な運動性が露呈することになる。

→「幌馬車」(1950)~歌うことの意味

●「幌馬車」にはカウボーイのベン・ジョンソンとハリー・ケリー・Jrのコンビがモルモン教徒の幌馬車隊のガイド(ワゴン・マスター)を頼まれ一度は断ったもののその後引き受ける、というシーンが撮られている。この「引き受ける」という契約は二人が幌馬車隊を追いかけて行きウォード・ボンドと会話することによって成立しているが、引き受ける動機についてはなにも撮られていない。あるのはハリー・ケリー・Jrが出発する幌馬車隊を見送りながら柵の上で歌を口ずさみ、横にいるベン・ジョンソンがそれに呼応して歌うというシーンだけであり、この歌に「モルモン教徒たちへのコミットメントと『主の御心』への盲従を示唆している」という意味づけを試みる批評も存在するらしいが(「ジョン・フォード論167以下」。そもそもこの歌は「引き受ける」という行動から心理的な動機付けを排除するために歌われたマクガフィンであり、マクガフィンは運動を起動させるきっかけなのだから意味はなく(意味がないからこそ露呈する)、せっかく「引き受ける」という行動から心理的な動機を取り去るために口ずさまれた歌に「『主の御心』への盲従」などというありもしない不可視で心理的な意味を無理やり見出す精神は、批評の存在価値を運動を否定することに見出す弱さにほかならない。●「タバコ・ロード」では町の役所に結婚を申請して却下されたマージョリー・ランボーとウィリアム・トレイシーの恋人たちが「朝に種をまこう」と歌いだすとそれを聞いた人々が呼応して歌い始めそれたけで結婚許可がおりたように、また●「プリースト判事」においては法廷の外から「ディキシー」が演奏されそれに呼応するように法廷が鼓舞されると被告人の無罪がそれだけで決まってしまったように、歌や音楽は、それに呼応し、また歌い継がれるとき、そこにエモーションが生じ何かが惹き起こされる。●「幌馬車」はハリー・ケリー・Jrが口ずさんだ歌にベン・ジョンソンが呼応して歌い継いだとき「契約」は既に成立しているのである。

★「退出の映画史」~ジョン・フォード

ジョン・フォードの●「果てなき船路」に興味深いシーンがある。西インド諸島からアメリカを経由しイギリスへと向かう貨物船の船乗りたちを撮ったこの作品では中盤、船乗りのイアン・ハンターがドイツのスパイではないかと疑われて仲間の船員たちに拘束され、検査のため彼の黒い箱の中に入っていた手紙がトーマス・ミッチェルによって読み上げられるというシーンが撮られている(イアン・ハンターはヒッチコックのイギリス時代のサイレント映画●「下り坂」(1927)●「ふしだらな女」(1927)●「リング」(1927)3本続けて出演している)。だが手紙が読まれるにつれそれがイアン・ハンターの妻からのプライベートで悲痛な手紙であることが分かったとき『こんなのを俺に読ませやがって』と呟いたトーマス・ミッチェルが『出てけ!』とやじ馬を追い出した後、イアン・ハンターと同室の乗組員たちは無言で電球を消し、無言でイアン・ハンターを開放し、そのまま無言でベッドの中に入ってしまい、謝罪の言葉はない。確かにここには罪の意識やばつの悪さからその場にいるのがいたたまれずに立ち去ったという見方もあるだろうが、仮にこれが「罪の意識」から来るものならばそれは「善悪」に基づく「初犯」の行動であり考えてから行動することによる停滞が現れるはずが、なんら心理的なよどみもなくイアン・ハンターを開放し、ランプを消し、ベッドの中に入るという彼らの行動は、妻からの手紙というプライベートな領域に誤って踏み込んでしまった者たちが速やかに立ち去ろうとする身に染みついた行動として撮られているのであり、だからこそジョン・フォードは「謝罪」という善悪の言葉を誰かに言わせようとはしていない。●「周遊する蒸気船」においても獄中のジョン・マクガイアに窓の鉄格子の外から婚約者のアン・シャーリーが呼びかけた瞬間、同房の囚人たちがためらうことなく席をはずすシーンが撮られており、あるいはジョン・マクガイアとアン・シャーリーとの獄中結婚式で2人がキスをする瞬間、獄中ゆえに「退出」というわけにはいかないにしてもウィル・ロジャース、ユージン・パレットなど参列者の全員が即座に目を背け、背を向けて二人の間にひとときの「密室」を授けるというシーンが撮られている。サイレント映画の●「UPSTREAM」(1927)にはナイフの使い手グラント・ウィザースとヒロインのナンシー・ナッシュがキスをしている部屋に大勢の役者仲間が入ってきてそのまま退出せずに2人を祝福するというシーンも撮られているし●「静かなる男」でもまたジョン・ウェインが牧師のアーサー・シールズに相談に来た時、話し好きの妻アイリーン・クロウが夫に催促されて初めて退席をするということもありはするものの、●「アイアン・ホース」では後の大統領リンカーンがそっと背を向けることで離れ離れになる少年と少女の別れの抱擁を手助けし、●「アパッチ砦」では久方ぶりに帰宅した息子のジョン・エイガーが母のアイリーン・リッチと向き合って話し始めるや父親のウォード・ボンドが即座に帽子掛けから帽子を取り上着を羽織って退出しようとしたように、また●「黄色いリボン」ではジョージ・オブライエンとミルドレッド・ナトウィック夫婦が別れのキスをし始めるや否や同席していたジョン・ウェインが即座に背中を向け、●「リオ・グランデの砦」においてもテントの中にクロード・ジャーマン・Jrの母親であるモーリン・オハラが入って来ると同席していたベン・ジョンソン、ハリー・ケリー・Jr、ケン・カーティス等兵士たちが次々とテントから出て行き、また●「長い灰色の線」では妻モーリン・オハラの妊娠を知ったタイロン・パワーが妻のもとへ駆け寄るや否や父親のドナルド・クリスプが息子のシーン・マックローリーを促しながら走って退出し、さらに●「栄光何するものぞ」では終盤、やってきたフランス娘マリサ・パヴァンにジェームズ・ギャグニーが彼女の恋人(ロバート・ワグナー)の死を告げるとき、ギャグニーが同席していたコリンヌ・カルヴェに退出を促すや否や彼女は即座に『わかったわ』と画面の外に消えて行き(オフ空間から聞こえてくる彼女の足音から彼女は走って退出している)、さらにその後、恋人の死を告げられ『それでも彼は君に会えた』というギャグニーの言葉を聞いたマリサ・パヴァンが『サンキュー』と言うや否や即座にまた退席したように、さらに●「静かなる男」でもまた序盤、神父のウォード・ボンドに『彼(バリー・フィッツジェラルド)と話したいんだ』と言われたジョン・ウェインは即座に馬車から降りて席をはずし、●「捜索者」では結婚式の最中に帰郷したジョン・ウェインが『二人とも話がありそうだ』とヴェラ・マイルズとジェフリー・ハンターの2人を残して席を外し、ラストシーンでは帰郷したナタリー・ウッドと彼女を抱擁する家族たちの輪の中に入ることなく静かに去って行ったように、あるいはサイレント映画●「四人の息子」では息子たちの戦争への出征を見送った母親を部屋の中に一人残してポストマンのアルバート・グランが静かに部屋を出て行き、さらにギャング映画の●「悪に咲く華」においてもまた妹とその恋人が2人でいる部屋に入ってきてしばらく談笑していたエドマンド・ロウがレコードをかけたあとふたりが手をつなぐのを見て退出している。そして時には●「河上の別荘」の刑務所長ロバート・エメット・オコナーのように、仮釈放の挨拶をするために所長室にやってきたハンフリー・ボガードから恋人の女囚クレア・ルースへの伝言を頼まれるや、ちょうど家庭教師に所長室にやってきていたクレア・ルースと二人きりにさせてやろうと、ペンを探すふりをしてみずから即座に退出するどころか『パパ、私ペン持ってるよ!』とペンを父親に渡そうとする幼い娘までも引き連れてそろって即座に退出してしまうという離れ業を演じている者すらいる。これらに共通するのは他者のプライベートな空間から即座に身を引くという身に染みついた行動であり、ジョン・フォード的運動が「起源」へと接近する細部に満たされていながらもそれを「前科4犯」的「常習犯」の領域に留めていられるのは主人公たちの身に染みついた行動(常習性)における運動力にあり、ジョン・フォード的運動は外部的に巻き込まれながらも内からの身に染みついた衝動に突き上げられるようにして行動するという、外と内との極めて微妙なバランスの上に成り立っている。

→「コレヒドール戦記」(1945)ドナ・リードと退出の映画史

●「コレヒドール戦記」では中盤、バターン半島に駐留している兵士たちが従軍看護婦のドナ・リードを招待してパーティを開くシーンが撮られている。物資の限られた戦場の中の薄汚れたバンガローで開かれたこのパーティに兵士たちは正装で臨み、負傷したジョン・ウェインを看護してくれたドナ・リードを直立不動の姿勢でもって迎えると、それを見たドナ・リードははたと驚き、自己紹介をしようとするロバート・モンゴメリーに許しを求め、今、勤務から直行してきたのだろう、帽子を脱いで乱れ気味の髪を壁に掛かっている鏡に向かってブラシできれいにとかし、ネックレスを付けてから改めて兵士たちとの自己紹介に臨んでいる。椅子すら満足に揃わないテーブルに腰を掛け、海軍付きのベテランのコックによってスープが注がれビスケットとジャムがテーブルを飾り、床下から聞こえてくる兵隊たちのラブソングが食卓を盛り上げたあと、『仕事があるから、』とロバート・モンゴメリーがテーブルを後にすると、ひとり、またひとりと兵士たちは消えて行き、最後にコックがローソクを消して奥の厨房へ消えてゆき、テーブルには思いを寄せ合うジョン・ウェインとドナ・リードが残されている。ここでドナ・リードが髪をとかし、兵士たちが退出する行動には何ら心理的停滞もよどみもためらいもなく身に染みついた運動としてしなやかに流れている。敬意とは身に染みついた運動によって醸し出されるエモーションであり、気品とは内から突き上げられる衝動に漂うのであることをジョン・フォードは撮り続けている。物資が乏しく、みすぼらしいパーティ会場の中でなされたプライベートな空間は身に染みついた行為によってこそ想い出となって記憶に留められる。ただフォード的退席はここでの退席がひとり、またひとり、であったように、ホークスやマイケル・マン的瞬時のそれに比べてその反応が一般的に一瞬遅く(早いのが●「悪に咲く華」●「周遊する蒸気船」●「果てなき船路」)、それが両者における「前科10犯」「前科6犯」と「前科4犯」の差異となって現れている。

★帽子を脱ぐ

「退出の映画史」は「常習犯」の映画史であり数多くの「退出の映画史」をフィルムに刻んだジョン・フォードの運動はホークス、マイケル・マン同様、身に染みついた運動としての内から突き上げられる衝動であり、決してまったき「初犯」としての「心理的ほんとうらしさ」に絡め取られているのではない。●「駅馬車」で検討したように彼らにはまず運動が「さき」にあり善悪は「あと」から来るのであり、その性質としてはあくまでも「常習犯」としてある。●「わが谷は緑なりき」で映画が始まってすぐのお菓子屋の帰り道、石の階段を歩いてやって来るアンナ・リーに出会うや否やすぐに帽子を脱いだロディ・マクドウォールの運動は、考えてから脱ぐのではなく脱いでから考える(考えない)「常習犯」特有の身に染みついた運動として殊更意図的に演出されており、それはガンマン、医者、保安官といった具体的な「職業」を超えた人間性そのものの「常習性」としての性格を色濃く露呈させている。●「サブマリン爆撃隊」ではみずから撃沈したドイツの潜水艦に対してアメリカ人兵士たちが咄嗟に帽子を脱ぎ●「若き日のリンカーン」ではパレードをする独立戦争の軍人たちに観衆が一斉に帽子を脱ぎ●「果てなき船路」では船員たちが今は亡きイアン・ハンターのためにみんなで帽子を脱ぎ、その後酒場で歌われたアイルランドの子守歌に対してもまたみんなが帽子を取ったように、また●「わが谷は緑なりき」では病気から快復したサラ・オールグッドの前で労働者たちがそろって帽子を脱ぎ●「三人の名付親」では息絶えたハリー・ケリー・Jrの横でペドロ・アルメンダリスがソンブレロを脱ぎ、サイレント映画の●「三悪人」でも三人の「悪人」たちを雇うことにした娘オリーヴ・ボーデンが『私がボスね?』と宣言したのに対して3人の「悪人」たちが揃って帽子を脱いでおり、それが高じたとき●「四人の息子」●「太陽は光り輝く」のようにあらゆる人々があらゆる瞬間に帽子を脱ぐことになる。時に●「ドクター・ブル」では先に席についたウィル・ロジャースが、テーブルに就こうとする未亡人ベラ・アレンに『昔のあなたなら椅子を引いてくれたのに、、』と咎められて慌てて椅子を引きに戻ったり●「アパッチ砦」ではヘンリー・フォンダが訪問したウォード・ボンド家の者たちに『帽子を脱がずに失礼』と謝罪をし●「長い灰色の線」では帽子をかぶったまま部屋に入って来た息子のショーン・マクローリが父親のドナルド・クリスプに『頭が寒いのか?』とたしなめられ、●「捜索者」では終盤、帽子を脱ぐのを忘れた若い中尉がウォード・ボンドに咎められ●「騎兵隊」では北部の騎兵隊の兵士ジョン・ウェインが帽子を脱がなかったことの非礼を南部の淑女コンスタンス・タワーズに思いきり皮肉られているように、帽子を脱ぐ、椅子を引く、あるいはあらゆるジョン・フォード映画に見出すことのできる「席から立ち上がる」等の運動は悉く身に染みついた運動としての「常習犯」的細部であり「常習性」を極めたホークス的身に染みついた運動が「職業」へと特化されていくのに対してそれよりもやや「起源」寄りのフォード的運動は「人間性」へと幅広く拡散し、人を守ったり助けたりすること、故郷へ帰ること、探し続けること、紳士・淑女をすること、アイルランド人をすること、約束を守ること、愛すること、といった、より人間的な出来事へと広がっている。「起源」から遠ざかるほど運動は動物化を増して自己目的化を強め具体的な職業(天職)へと特化されることになることから「帽子を脱ぐこと」「退出すること」という人間的運動はハワード・ホークス→マイケル・マンと「常習性」を強めて人々が動物化=「すること」への特化するにつれて減少することになり、極限まで職業的運動へ特化されたマイケル・マン的運動においてはそもそも帽子をかぶっている主人公は●「パブリック・エネミーズ」のジョニー・デップくらいしか存在せずそこでも女性の前などで帽子を脱ぐことは決してせず、「退出の映画史」は●「ラスト・オブ・モヒカン」におけるジョディ・メイのただ一度しか存在しない。そのどちらもが第二章で検討したように、時代と時代の「あいだ」を撮ることで「常習性」を引き下げた作品であり、●「ラスト・オブ・モヒカン」は原題『THE LAST OF THE MOHICANSの通り最後のモヒカン族という時代と時代の「あいだ」を撮った作品であり、ここで英国紳士ティーヴン・ウォディントンがみずからの命を投げ打って淑女を助け、淑女のジョディ・メイがみずから死を選ぶという紳士、淑女の人間的な運動が撮られているのはマイケル・マンがここでは人々の「常習性」を「起源」へと接近させて撮っているからでありそこにマイケル・マン唯一の「退出の映画史」という職業的運動から逸脱した人間的な出来事が出現するのは偶然ではない。

→身に染みついた運動~●「三悪人」(1926)と「三人の名付親」(1948)

お尋ね者のガンマンたちが可憐な娘を守るために命を捧げる●「三悪人」と、銀行強盗が砂漠で拾った赤ん坊を命がけで保護して歩く●「三人の名付親」は、悪党のガンマンたちが映画途中から改心して善人になっているように思われがちだが、改心とは心理的な出来事であり●「ハリケーン」でレイモンド・マッセイがラストシーンで逃亡者のジョン・ホールを見逃したように、みずからの行動なり主義を善悪の判断によって転換させる「初犯」特有の出来事であるが、●「三悪人」●「三人の名付親」の主人公たちの行動の起点には「転換」なり「改心」を指し示す心理的なショットや表情、言葉は一切撮られてはおらず、彼らはただ人間性の赴くままに銀行強盗を人助けに交替させただけであり、彼らの行動は終始身に染みついた運動によって貫かれている。●「捜索者」でナタリー・ウッドを撃ち殺そうとしたジョン・ウェインと、ナタリー・ウッドを抱き上げて家に帰したジョン・ウェインとのあいだには「改心」なり「変節」を指示する心理的なショットは何一つ撮られていないように、運動の起点に心理的な動機があるか否かを見極めることはその映画の運動の質を見極めるうえで極めて重要である。ジョン・フォードはホークス●「赤ちゃん教育」のような「すること」オンリーの映画を撮る器用さまで待ち合せてはいないものの「であること」へと向けられた映画についてはホークスよりも少しだけ「起源」へと運動を接近させることでその運動を具体的職業から解き放ち「転属」「宗旨替え」といったホークス、マイケル・マン的「常習犯」には撮ることのできない運動を人間の運動という幅広い領域から撮ることを可能にしている。

★ホークス的巻き込まれ運動と帽子を脱ぐこと

ヒッチコック的巻き込まれ運動の主人公がそもそも帽子をかぶらずまたかぶっていても女性の前などで脱ぐことはないことを検討したがハワード・ホークスの作品にしても●「赤ちゃん教育」●「僕は戦争花嫁」●「男性の好きなスポーツ」といった「すること」オンリーの動物的作品(これらについては最終章で検討する)における主人公たちは仮に帽子を持っていても女性に敬意を払って脱いだり家に入って帽子を脱いだりすることは決してなく、ホークスの作品の大部分を占める職業的運動を撮った作品における主人公たちがそれなりに頻繁に帽子を脱いでいるのと違うのは、彼らの運動が職業的身に染みついた運動とは異質の「動物的」なものであることを指し示している(動物は帽子を脱がない)

★残虐の映画史~ジョン・フォード

映画の運動における「常習性」を感得するためには「退出の映画史」のみならず「残虐の映画史」に向き合わなければならない。ジョン・フォードの作品の中でもインディアンに連れ去られた娘を何度も探しに出かけることでとりわけ「常習性」の強い●「捜索者」では「コマンチと聞くと目の色が変わる」と言われるジョン・ウェインが埋葬されているインディアンの両目を薄ら笑いを浮かべながら撃ち抜き、負傷したインディアンを狙い撃ちして仲間から糾弾され、さらに仲間のジェフリー・ハンターをおとりにして交易商たちに彼を撃たせたあと背中から交易商たちを撃ち殺し(西部劇では背中からの射撃は卑怯者の印としてある)、連れ去られた従妹のナタリー・ウッドをインディアン化しているという理由で撃ち殺そうとし、兄夫婦の家族を殺したインディアンの酋長の頭の皮を剥いで持ち帰ったように、彼の運動は残虐さを極めている。コマンチをひたすら追いつめてゆくジョン・ウェインにはなぜコマンチをそこまで憎むかの理由など一切撮られておらず罪の意識のカケラもない彼の運動はまさしく「常習犯」そのものの「すること」運動へと集約されており、南北戦争に敗れた傷跡を無意識的に背負っているのか『まだ銃を鋤に代えていない』と豪語する彼の「起源」は闇の中へ葬られている。西部劇の主人公たちが何人もの敵を撃ち殺しながら平然とハッピーエンドで終えることができるのは彼らが「常習犯」として善悪の領域から遠い領域にいるからであり(●「真昼の決闘」のリアリズムとは主人公が「初犯」であることを「リアル」だと感じる弱い精神にほかならない)、特に●「捜索者」のような作品は主人公を「常習犯」に、それもジョン・フォード的「前科4犯」以上に「常習性」を強めた者に設定しない限り決して撮ることはできない「残虐さ」に支配されており、だからこそジョン・ウェインはインディアンを追い続ける行動を反復し続けるのであり、そうした点でこの作品はジョン・フォード作品の中でも運動論的に特異な位置を占めている。同じようにジョン・フォードの作品の中でも「常習性」の強い●「馬上の二人」においてインディアンに連れ去られた子供たちを取り戻しに行く任務を与えられるジェームズ・スチュワートは保安官でありながら街のすべての店から1割のかすりを取りあげる「悪徳保安官」であり、一人取り戻せば55ドルよこせと依頼主の陸軍に要求し、さらに子供を連れ去られた親たちにも報酬を約束させる強欲な男であり、依頼主のアメリカ陸軍と対立するインディアンに人質交換のために最新式のライフルを贈呈してしまうような死の商人でもある。だが彼を嫌っている少佐のジョン・マッキンタイアは中尉のリチャード・ウィドマークに『君は善人だが善意は時として人を傷つけることがある。だから彼(スチュワート)を選んだ。彼なら君に教えられるかもしれないと思ったからだ』と語り、ジェームズ・スチュワートに善悪を超えた働きを期待していることを匂わせている。それは彼が悪人という「であること」の領域の心理的人間ではなく善悪を超えた「常習犯」だからであり、だからこそスチュワートには「すること」=任務の遂行(インディアンからの救出)が期待できるのであって、ここで彼が金に汚い人間として撮られているのは彼が善悪を超えていることを指し示す細部であって決して彼が悪人だからではない。むしろ悪人として撮られているのは連れ帰った娘(リンダ・クリスタル)を偏見の目で見る町の者たちであり彼らは善悪で物事を判断する「初犯」だからこそ偏見を持ちうるのであって善悪を超えた「常習犯」には偏見などという出来事は起こりようがない(仮に差別主義者の「常習犯」がいるとしても彼は「善悪」で差別しているのではない)。●「荒野の女たち」のアン・バンクロフトは疫病の阻止、高齢出産の立ち合いなど医者としての任務を反復し続け最後はみなを解放する身代わりに一人残ってモンゴル族のマイク・マズルキに毒を盛り自らも毒を飲んで自害するという「無残な」結末で終わるのだが(彼女の「人助け」が「おおやけ」か否かは彼女の運動が身に染みついているか否かによる)、カトリックの女たちの前でタバコを吸い酒を飲んで酔っ払ってひんしゅくを買い園長のマーガレット・レイトンに『悪魔!』とののしらなから心理的なクローズアップも決意も動機もすべて閉ざされたままの彼女の運動はその「常習性」の強さによって善悪を超えて「残虐な」結果を伴うことになる。ジャンル映画が「悪人」を撮る傾向を有しているのは彼らが悪人だからではなく善悪の彼岸=「すること」の領域におけるしなやかな運動によって過酷で「残虐な」任務をこなすことができるからであり、その結果として彼らの運動は「あと」から「残虐」に「読める」ことから、仮にどこからともなくやって来たガンマンが村を襲った野党たちを皆殺しにして村を救ったとしても、善悪の領域で生きている村の者たちによってその「残虐な」行為は受け容れられることはなく、ガンマンは厄介者として村を追われどこへとなく消えてゆくことになる。マイケル・マン●「コラテラル」でタクシー運転手のジェイミー・フォックスは平然と人を殺し続ける殺し屋のトム・クルーズを『お前には人間には誰にも備わっている基本的な何かが欠けている』と非難しているのはまさに当たっており、善悪の領域における運動を停滞させる出来事を欠いている主人公を撮り続けているからこそマイケル・マンはギャング、泥棒などを主人公としてしなやかな運動を撮り続けることができるのであり、それは彼がジャンル映画を撮り続けていることを端的に指し示している。「常習犯」は●「市民ケーン」のオーソン・ウェルズのように「起源」を想起して映画的な死に至るか、あるいはジャック・ベッケル●「偽れる装い」(1944)で女(フランソワーズ・リュガーニュ)を自殺に追いやっても罪の意識のカケラも見せずにみずからの仕事と恋に没頭するデザイナーのレイモン・ルーローのように「常習性」の彼方へ突き抜けて発狂するかの危うい線上を生きる者としてあり、死と狂気とのあいだのぼんやりとした境界線上を浮遊する彼らの運動こそが「残虐の映画史」を産み出すことになる。

→ジョン・フォードとミステリー

ハワード・ホークスの撮ったミステリー●「三つ数えろ」は「常習性」の強さによって「真実」があやふやになる結果として難解となる、という検討をしたが、そこまで「常習性」の強くないジョン・フォードの撮ったミステリーは運動を停滞させる「真実」という出来事をどう撮るかによって違った様相を呈して来る。●「バファロー大隊」は黒人兵のウディ・ストロードが殺人容疑で軍法会議の法廷で裁かれるミステリーだが、逮捕されたあと脱走したストロードが味方を救うために戻ってきたことを検事が『気高い行為だ』と言うとストロードは即座に『違う』と否定し『ではなぜ戻った』という問いに『わからない、、』と答えた後『戻りなさい、、と何かが私に語りかけたのです』と答えている。これは内からの衝動によって突き動かされる「常習犯」的特徴であり、この作品はストロードだけでなく黒人兵がみな「常習犯」として撮られており、だからこそストロードが黒人兵を看取ったあと馬で脱走するシーンと、黒人兵たちが月夜に歌を歌うシーンが何よりもエモーショナルに撮られているのであり、その反面、弁護人のジェフリー・ハンターがストロードに対して『それでも君を信じる』と語りかけているところの『信じる』とは『無実を信じる』であり、この作品はクレジットの上位を占める白人たちが法廷での「真実」という「起源」へと遡る「初犯」の役割を演じながらクレジットの下位をさまよう黒人たちを「常習犯」に撮ることでミステリーがまったき「起源」へと停滞することを回避している。●「四人の復讐」(1938)は不名誉な死に方をした父親の汚名を晴らすために四人の息子たちが真犯人を探すミステリーであり、弁護士、大使館員、飛行機乗り、大学生といった、探偵行為のスキルを有しない者たちの探偵行為は一見巻き込まれ運動であるように見えながら、「父親の名誉を回復する」という確固たる意志によって起動する彼らの探偵行為は「初犯」の者たちによる「職業」運動としての探偵行為として撮られることになり、だからこそ主人公のリチャード・グリーンとデヴィッド・ニーヴンは善悪によってロレッタ・ヤングを信じたり信じなかったりする「初犯」特有の態度を示し、ロレッタ・ヤングの父親で「悪い」武器商人であるはずのバートン・チャーチルが実は「善人」だったという善悪の転換もあるこの作品は、ミステリーという「起源」へと遡るジャンルがあらゆる細部に「初犯」性をもたらす危険に満ちていることを指し示している。

→「プリースト判事」(1934)「若き日のリンカーン」(1939)

●「プリースト判事」と●「若き日のリンカーン」は判事と弁護士の主人公が法廷によって真実を探求する「ミステリー」であることにおいて共通している。●「若き日のリンカーン」は弁護士のリンカーン(ヘンリー・フォンダ)が独立記念日のお祭りで起きた殺人事件の被告人の兄弟を弁護するのだが、犯行のシーンは撮られているものの映画を見ている我々にも真相が隠されるように撮られているため、法廷での関心ごとは誰が真犯人なのかという「真実」へと向けられることとなる。ただここにおける「真実」は、法廷で勝利することで主人公の弁護士が「リンカーン」へと変貌してゆくためのマクガフィンという面が強くあり、真犯人の犯行の動機も方法も実にあやふやなものとして現れているように「真実」それ自体が探求されるべき目的とはされていないことから裁判が即、運動の停滞を招くようには撮られていない。だがすでに述べたようにここでのリンカーンはまったき「初犯」としての初めての弁護であり、なおかつ雑貨屋の主人から代議士となり弁護士となったリンカーンが「あのリンカーン」になるという「起源」そのものの瞬間が撮られ、さらにまた「実話」ゆえの窮屈さからジョン・フォードがその場で即興的なコメディを挿入することもできず、かといって実在する大統領の「残虐の映画史」などもってのほかであり、その細部は少しずつジョン・フォード的「常習犯」からは乖離しながら「正しさ」「正義」「善人」といった細部へと波及することになる。同じく法廷によって「真実」が問題となる●「プリースト判事」のウィル・ロジャースは実在する人物ではなく、判事としてはベテランであり彼の「起源」はローソクに照らし出された亡き家族の写真に語りかけるという極めて間接的なものでしかなく、それによって南北戦争の傷跡と一人暮らしをしている判事の現在の「起源」をおぼろげながら知ることはできるにしても、本人による「起源」への言及は頑なに避けられている。こうした「実話」「初犯」「起源」といった出来事から自由でいるウィル・ロジャースは、法廷で漫画を見たり釣りをしたり判事から弁護士に鞍替えしたりというようにジョン・フォード的「前科4犯」を実践しながら、唯一の身内で法律学校を出たばかりの弁護士の甥トム・ブラウンと、その恋人で母を亡くし父親の知れない私生児アニタ・ルイズとの関係を陰で見守りながら、判事の職を辞して弁護士となり「初犯」である甥の弁護を助けるのだが、そんな彼が法廷で弁護するのはアニタ・ルイズの隠れた父親デヴィッド・ランドーで、彼は自分の娘を陰で中傷している床屋の息子フランク・メルトンを殴って裁判となり、ここでも●「若き日のリンカーン」と同じように犯行の決定的シーンは隠されていることから法廷での関心は「真実」へと向けられることとなる。そして多くの証人尋問がなされて被告人が有罪になりかけたとき、被告人の南北戦争当時の上官(ヘンリー・B・ウォルソール)が証言を始めると法廷の外からステッピン・フェチットら黒人たちの奏でる「ディキシー」が聞こえてきてそれを「伴奏」としながら被告人の戦争時における英雄的活躍が証言されると狂喜乱舞した法廷によって判決もなしに被告人は無罪となりそのままディキシーのパレードへと流れ込んでハッピーエンドとなってしまう。これは法廷でジェーン・ラッセルがマリリン・モンローになって歌い踊り出したハワード・ホークス●「紳士は金髪がお好き」を凌ぐほどのばかばかしさであり、それによって「真実」なる心理的な出来事を一瞬にしてエモーションへとすり替えてしまうこの法廷シーンは、真面目な映画監督が逆立ちしても撮ることのできないジョン・フォードの曲芸というしかない。

→フランシス・フォード

二つの作品で興味深いのがジョン・フォードの実の兄であるフランシス・フォードであり、蓮實重彦が「老齢の酔漢」と呼ぶこの俳優は(「ジョン・フォード論205)、まるでハーポ・マルクスのようにほとんどしゃべることもなく他愛のない笑顔を振りまきながら見ている者たちの倫理をどん底に突き落とすキャラクターであり、間違っても善悪、道徳などといった領域とは接することのない俳優でありながら(とは言え●「男の敵」ではレジスタンスの審問におけるいたってまともな判事を務め●「虎鮫島脱獄」では敵方の軍曹としてよくしゃべったりもしているが)、●「若き日のリンカーン」においては、陪審員の適性質問において『嘘をついたことはあるか』というヘンリー・フォンダの問いに対して可愛げに首を縦に振り、フォンダによると『正直者であるから』という理由で陪審員に採用されている。実はこの前にも幾つかの質問がヘンリー・フォンダによってなされているが、その答えの異常性に気付かなければならない。その問答は以下のとおりである。

『酒は飲むか?』『うん(首を縦に振る)』、

『悪口を言うか?』『うん』、

『教会へ行くか?』『ううん(首を横に振る)』、

『縛り首は好きか』『うん』。

『仕事は?』『ううん』、

『遊んでいたいか?』『うん』、、

内容だけを読めばフランシス・フォードは酒飲みで人の悪口が好きで教会へは行かず仕事もしないで遊んでばかりいる正直者だ、ということになり、それはジョン・フォード映画のフランシス・フォードというキャラクターに適合するかも知れない。だが形式から見るならば、彼が陪審員に選ばれたのは「正直に答えた」という「善悪」の評価によるものであり「初犯」としての「善良性」から彼は陪審員に採用されているのであり●「荒野の決闘」でもフランシス・フォードには役者のアラン・モーブレイと別れの握手をした後、まばたきをしてうつむくという心理的クローズアップが撮られているが、「初犯」「起源」「実話」といった出来事がこうした細部へと心理的に波及することを●「若き日のリンカーン」は示唆している。それとは逆に「初犯」「起源」「実話」といった外部への誘惑から自由に撮られた●「プリースト判事」のフランシス・フォードは、法廷に置かれた痰壺に三度、陪審員席から噛み煙草を吐き飛ばして検事のバートン・チャーチルの弁論をその都度中断させ、その三度目にはたん壺がご丁寧に主観ショットで撮られているという周到ぶりで、さぞかしそのショットに映画館は湧いたであろうことは想像に難くないが、そのまま雪崩れ込んだラストシーンのフランシス・フォードは、ふらふらと千鳥足で南軍在郷軍人のパレードに加わったあと、沿道のバートン・チャーチルが行進に敬意を払って脱いだ山高帽が彼の巨体のお腹の前に逆さにしてしつらえられたのを見た時、フランシス・フォードは即座にそれは帽子でなく「たん壺」であると「正直に」判断したのであり、躊躇することなく「たん壺」に噛み煙草を吐いて見せたフランシス・フォードの反射的行動力こそジョン・フォード的「常習犯」のお手本にほかならない。

→うまいダンス~「快楽の園」(1925)~「ヒット・パレード」(1948) ~「荒野の決闘」(1946)のシェークスピアの朗読まで。

第一章で●「引き裂かれたカーテン」の丘の上の告白シーンにおけるジュリー・アンドリュースと●「トパーズ」における賄賂交渉でのロスコー・リーのそれぞれ「読める表情」について検討したように、画面は見せるだけで音声を聞かせなくともその表情や仕草、画面のサイズなどによって「読むこと」へ移行する危険に満たされている。「読める画面」とは「読める音声」同様見ているだけで出来事の良し悪し、善悪が読み取れる画面をいう。ヒッチコックは処女作●「快楽の園」で田舎から出て来た娘カメリータ・ゲラーティがダンスのオーディションを受ける時、舞台の上で彼女がチャールストンを踊り始めるとそれを見ていた舞台監督や関係者たちが「これはいいぞ(うまいぞ)」という顔をするのだがその表情にはまさに「うまい」という善悪によって「読めて」しまうのであり、ヒッチコックはその後こうした演出から遠ざかって行ったことからしてこれは記念すべき出来事として記憶に留めておくべき事態なのだが(あるとすると●「山羊座のもとに」でバーグマンが総督主催のパーティ会場に入ってきた時に招待客たちがさも「美しい、」といった顔をするくらい)、そうした点で興味深いのはハワード・ホークスの●「ヒット・パレード」(1948)で、ホークスが1942年に撮った●「教授と美女」をセルフリメイクしたこの作品にはベニー・グッドマンが即興でクラリネットを演奏し始めるとソファーに座って聞いていたルイ・アームストロング、トミー・ドーシー等が身を乗り出し「これはすごいぞ、」という顔で聞き入るというショットが撮られている。この作品においてベニー・グッドマン、ルイ・アームストロング、トミー・ドーシーその他多くの人物は●「教授と美女」における教授たちとは違って実生活のミュージシャンとしてのスキルをそのまま映画に持ち込んで出演しており、実生活と同質の役柄をそのままこなし、常に実生活という「外部」=「であること」とかかわり続けて存在している彼らによってなされた「これはすごいぞ、、」という表情は●「引き裂かれたカーテン」の丘の上でポール・ニューマンの告白を聞いている時のジュリー・アンドリュースのあの表情と同じように「外部性」=「であること」の領域に関わることで心理的に分節化され、誰が見ても「これはいいぞ、、」と「読めて」しまうのであり、ホークスにしては珍しく稚拙なショットとして撮られていて、それは●「モンキー・ビジネス」のジンジャー・ロジャースのダンスシーンがあのジンジャー・ロジャース「であること」を彷彿させるダンスではないただの普通のダンスであるのとは異なっている。同じハワード・ホークスの●「リオ・ブラボー」ではディーン・マーティンとリッキー・ネルソン、ウォルター・ブレナンがジャムセッションをしているところでコーヒーカップを持ってやって来たジョン・ウェインが笑うシーンが撮られているが、この表情は「これはいいぞ、」という客観的な上手下手の価値判断ではなく咄嗟にこみ上げてきたエモーションとして決して分節化を許すことのない笑顔として撮られておりそれは●「ハタリ!」におけるエルザ・マルティネリとレッド・バトンズ等によってなされたジャムセッションにふとやってきて微笑んだジョン・ウェインの笑顔と質的に重なり合っているのに対して●「ヒット・パレード」における「これはいいぞ、」というショットは「であること」の領域において現れる分節化現象=「心理的ほんとうらしさ」の領域として現れるがゆえに、それはまさしく歌の上手下手=善悪という「であること」に絡め捕られて停滞している。既に検討したように「恋人であること」、そしてこの「ベニー・グッドマンであること」等が前面に押し出される時、得てして映画からは「すること」のパワーが後退し「であること」=「外部」へと依存したショットが撮られることになり、そうした現象は映画のあらゆる出来事に波及していくことになる。●「引き裂かれたカーテン」では終盤バスでの逃走の時、レジスタンスの男がタバコをつけるふりをしてポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースの姿を検問の警察官の視線から隠したり、また追いはぎ強盗からニューマンが金を奪い返した時、乗客を演じていたレジスタンスたちが一斉に拍手をして称えるというシーンが撮られているが、大して気の利いたシーンでないにもかかわらずこれもまた「よくやった」という「よく=善」へと無理やり波及させる分節化されたショットであり、それはこの作品の運動が善悪というまったき「であること」へと向けて撮られていることの証としてある。ジョン・フォード●「荒野の決闘」ではテーブルの上に立ってシェークスピアを演じている役者アラン・モーブレイが途中で忘れたセリフをそこに居合わせたヴィクター・マチュアが語り継ぐというシーンが撮られているが、何の変哲もないクローズアップで撮られたこの語り継ぐシーンには、セリフを「正しく」言い続けることしか撮られておらず、それはシェークスピアという「外部」との辻褄が合っただけの「読める」シーンであって映画的なエモーションを惹き起こすものではまったくない。

→「アパッチ砦」(1948)~ジョン・ウェインは嘘をついたのか

●「アパッチ砦」は辺境の砦へ左遷された陸軍中佐ヘンリー・フォンダが本人曰く『必ず手柄を立ててここを出る』と功を焦り部下のジョン・ウェインの進言を無視してインディアンに戦いを挑み多くの兵士たちもろとも全滅して果てた「騎兵隊三部作」の第一作である。この作品にはラストシーンの記者たちとの懇談のシーンにおけるジョン・ウェインの言動について多くの議論がある。蓮實重彦「ジョン・フォード論」15以下に詳しく書かれおり、私自身ここで引用されている幾つかの文献を読んでいないので間接引用になることをお許しいただいて私なりに解釈すると、フォンダの無謀な作戦が部隊の全滅を招いたことを知らない記者たちが彼を果敢にインディアンに戦いを挑んだ英雄と賞賛し、それに対して『まさしくその通りでした』と答えたジョン・ウェインの賞賛は、フォンダを英雄とする偽りの伝説をウェインが「軍隊という組織の一員である自分自身に対する深い諦念」から渋々肯定したものであり、この場面はハッピーエンドによる「軍国主義」の賞賛などではなく、嘘の伝説を嘘によって肯定した悲惨な事態の推移であり、それは「ブレヒト的」ですらあり()、それまで知性的にノー天気な監督だと思われ否定的に捉えられていたジョン・フォードもなかなかやるじゃないか、と研究者たちの評価の変化をもたらした、と、そんな感じの議論である。詳しくは「ジョン・フォード論」を読んでいただかなければならない。ここでの焦点は戦いを自分の目で見ていない記者たちによる偽りの英雄伝説を肯定したジョン・ウェインが嘘をついたかどうかに尽きている。無謀な作戦を命令した指揮官でありながら『英雄でした』と言ったのは嘘なのか。ヘンリー・フォンダを指揮官とする連隊がまさに出発しようとする時、シャーリー・テンプル、アンナ・リー、アイリーン・ダンの三人の女たちが、恋人や父親を、あるいは夫たちを見送るために二階のバルコニーに姿を現す。空も薄暗い早朝のバルコニーの女たちは、次のショットでは出発する連隊をじっと見つめている。さらなるショットではアンナ・リーの夫ジョージ・オブライエンが待ち望んでいた転任許可の通知が届くが周囲の歓喜をよそに妻のアンナ・リーは『彼は臆病者ではないわ』と夫を呼び戻すことを拒絶し、見かねて『連れ戻してきてちょうだい』と兵士に促すアイリーン・ダンを重ねて制したあと、出発する連隊をまるで魅入られたようにふたたび見つめ始めると、呼応するように横にいる女たちもまた彼らを見つめ始める。さらなるショットで『もう見えない、、見えるのは旗だけ』とまでアンナ・リーに語らしめるほど女たちは見えなくなった男たちをじっと見つめ続けている。ここまで5つものショットで撮られたこの薄暗いバルコニーにおける見つめ続ける女たちは、出征した男たちにどういう運命が待ち受けているかなど知る由もなく、ひたすら戦地へと向かう夫や恋人の姿を瞳に焼き付けている。心理的なショットは存在せず、肯定的、否定的な価値判断は一切含まれていない。その後、ウェインの交渉で友好的に解決するはずだったアパッチとの交渉が指揮官ヘンリー・フォンダの一存で決裂し、連隊は全面対決を選択することになる。ウェインは『無謀すぎる作戦だ』と馬の上から手袋を地面に叩きつけて抗議し、フォンダはそんなウェインを『臆病者』となじり後方の安全な尾根での補給隊への降格を命じる。既にハワード・ホークス●「赤い河」(1946)でスタータームにのし上がりこの作品のオープニングのタイトルでもヘンリー・フォンダを押しのけ第一位のクレジットで紹介されているジョン・ウェインが、戦いに参加することのない補給隊での後方待機を命じられ、事実ウェインは最後まで戦闘には加わらずフォンダらの戦いを望遠鏡や瞳で遠巻きに見つめることに終始している。ウェインは何度も望遠鏡で隊の様子を確認し、同じくフォンダによって後方待機を命じられた新米中尉のジョン・エイガーも望遠鏡で父親ウォード・ボンドと叔父ヴィクター・マクラグレンの戦いを見つめている。その後ウェインは、アパッチの一斉攻撃によって落馬し負傷したフォンダの所まで馬を駆け、額に大きな傷を負いもうろうとしているフォンダを助け起こし、自分の乗って来た馬に彼を乗せ安全な場所まで退避させようとするが、フォンダは『君のサーベルをよこせ』と隊へ戻る意志を表示し『隊は壊滅しました』というウェインを遮りサーベルを受け取ると『なにか質問はあるか』とウェインに聞くや返事を聞かぬ間に馬で走り去ってしまい、その後ろ姿に向かってジョン・ウェインは『ノークエスチョンズ』、、とつぶやいている、、、この作品ではこの『なにか質問はあるか』というセリフが8回出て来る。

①最初の会議でフォンダが一方的に持論を進めた後『質問は?』と皆に尋ね、ウェインを含めた一同は無言で部屋を出ていく(何も答えないのは異議なしを意味している)

  その直後にウェインが部下たちに『質問はあるか』と尋ねるが誰も答えない。

  殺された兵士たちの遺体を回収するために出した命令に対してフォンダが『質問は』とジョン・エイガーに尋ねるとエイガーは無言で敬礼して周り右をする。

  その後、新たな命令を出したフォンダが『反論はないのか』とジョン・ウェインに尋ねるとウェインは『反論ありません』と答えた後『ノークエスチョンズ(質問はありません』と言いながら部屋を出ている。

  居留地を離れたインディアンを連れ戻す任務ではジョン・ウェインがペドロ・アルメンダリスを推薦し『質問はありますか』と今度は逆にウェインがフォンダに尋ね『ノークエスチョンズ』とフォンダは答えている。

  フォンダがウェインを補給隊へ降格させた後、フォンダがジョージ・オブライエンに『質問は』と聞くとオブライエンは『ノークエスチョンズ』と答えている。

  上に紹介したケース

  記者との懇談を終えた後にウェインが記者たちに『質問は』と尋ねるが応答は様々で聞き取れない。

何度も開かれる作戦会議と8度も言われる『質問はあるか』という言葉は、⑤と⑧を除けば部下たちの意見を聞き入れないヘンリー・フォンダの専横ぶりを際立たせており、その都度不満そうなジョン・ウェインも軍隊による上意下達という命令系統に背くことは許されず、そこで発せられた『ノークエスチョンズ』という言葉には「軍隊という組織の一員である自分自身に対する深い諦念」があったとしても不思議ではない。だがそれはあくまでヘンリー・フォンダが同一の空間にいた場合の話である。フォンダと部下たちとの上意下達が問題となる①②③④⑥はすべてフォンダと部下たちが同一の空間に位置している出来事だが⑦に限ってはフォンダの『質問はあるか?』という問いにジョン・ウェインが『ノークエスチョンズ』と答えたのはヘンリー・フォンダが馬に乗って駆け去ってしまったあとである。するとここには指揮系統における上意下達の抑圧関係は働かないことになる。本人の前ですら手袋を叩きつけて抗議をしたジョン・ウェインが本人不在のこの空間で『ノークエスチョンズ』とつぶやいたその言葉は極めて重い。ウェインが『ノークエスチョンズ』と答えたのは馬で走り去るフォンダの後ろ姿をじっと見つめた後の出来事でありフォンダの一連の行動をじっと「見ること」によって咄嗟に生じたものであり、考えてから吐かれた言葉ではない。そのフォンダの行動とは、重傷を負ったにもかかわらず壊滅するとわかっている隊に向かって何ら心理的な思惑も表情も言葉もなく速やかに馬を駆って走り去る身に染みついた行動にほかならない。それを見つめるウェインのやや近景から撮られた6秒余りのショットの最後につぶやかれた『ノークエスチョンズ』は、じっと見つめたままのウェインによってまるで内からの何かに突き上げられるようにして吐かれた言葉として撮られており、その前のショットと合わせて8秒余りに亘ってフォンダの後ろ姿を黙って見つめ続けるこのショットは、出発する男たちをバルコニーから無言で見つめ続けた女たちの5つものショットと「黙って見ること」において呼応し、●「駅馬車」でジョン・ウェインがジョン・キャラダインを看取ったあの無言の「8秒ショット」とも呼応している。「見ること」とは価値の挿入を拒絶する無色透明な出来事であり見る者たちはひたすら「黙って見ること」をし続けてゆくしかない。ここでジョン・フォードの演出について検討してみる。取り立てて「おかしな」出来事こそが演出に絡んでくる。①なぜジョン・ウェインは手袋を地面に叩きつけて抗議したのか。→補給係へと降格させられるため。そしてまた、ジョン・ウェインがヘンリー・フォンダに対して否定的な見方をしていることを際立たせるため。②なぜヘンリー・フォンダはジョン・ウェインとジョン・エイガーを降格させたのか。→補給係という戦場から離れた安全な場所へ彼らを移動させるため。③なぜヘンリー・フォンダは落馬をして隊から取り残されたのか。→救出に来たジョン・ウェインの馬を奪い一人で隊へ戻るため。④なぜジョン・ウェインはヘンリー・フォンダを救出に向かうとき2頭ではなく1頭の馬で向かったのか。→ジョン・ウェインがフォンダに馬を奪われて戦場へは行けないようにさせるためである。これら①②④の「おかしな」演出(マクガフィン)はジョン・ウェインとジョン・エイガーを戦場から遠く離れた安全な場所へと退避させるという出来事に集中し、さらに「おかしな」③④は馬で隊へと駆け戻るヘンリー・フォンダの後ろ姿をジョン・ウェインに見つめさせるためにもなされている。この安全な尾根でジョン・ウェインは何度も望遠鏡で戦況を見つめその望遠鏡でジョン・エイガーもまた戦況を見つめ、補給隊の大部分を占める無名兵士や新米兵士たちも全滅する部隊を見つめ続けている。①~④はすべてが「見ること」へと集約されているのであり、彼らが遠く見つめているのは円形の窪地に立て籠もった連隊長のヘンリー・フォンダと彼の部下であるジョン・エイガーの父親ウォード・ボンド、叔父ヴィクター・マクラグレンら飛び切りの強者「常習犯」たちであり、フォンダを除けば記者がその名前を間違えるような無名兵士たちであるだろう。見ていない新聞記者たちが称えるフォンダとは『国中の子供たちの英雄』のフォンダであり「悪」のアパッチに戦いを挑んで死んだ「善」の英雄であり、まさにそれは大衆によって活字化された伝説のフォンダとしてある。だがここでウェインが記者たちの前で恐ろしいまでの顔でその功績を「称えた」フォンダとは、彼がみずからの眼差しで見つめた「無名の」フォンダであり、全滅すると分かっている隊になんのためらいもなく戻っていく彼の身に染みついた運動にほかならない。「見ること」とは無色透明な出来事でありそこに「称える」あるいは「嘘をつく」という価値の挿入はいささかも含まれてはいない。見届けた者たちはただ「見たこと」を生き続けてゆくしかない。

→「リバティ・バランスを射った男」(1962)~カクタス・ローズの余韻

●「リバティ・バランスを射った男」はこれから鉄道が通り学校やダムができようとしている西部の小さな町の出来事を撮った作品である。東部からやってきた法律学校を出たばかりの新米弁護士ジェームズ・スチュワートは銃ではなく法によって事件を解決しようとする「新しい者」であり、西部への道中で乗っていた駅馬車をリー・マーヴィン率いる強盗団に襲われ重傷を負ったところをガンマンのジョン・ウェインに助けられ町の食堂で働くことになる。ジョン・ウェインはガンベルトを腰に巻いたガンマン(「常習犯」)でありスチュワートから見れば強盗のリー・マーヴィンもジョン・ウェインも銃の力によって解決を図る男である点で同じであり、ことあるごとにウェインと対立するスチュワートは学校を作り、投票を取り仕切り、議員へと立候補する。だが荒くれ者の残存する銃社会の西部では「初犯」の弁護士が「正しさ」だけで生き抜いてゆくことはできず『銃で(弁護士の)看板を守ることになるぞ』とジョン・ウェインに忠告された彼はジョン・ウェインから銃を習うも身につくはずもなく、町はリー・マーヴィン達によって荒らされてゆく。ある日スチュワートはリー・マーヴィンと決闘して彼を撃ち殺してしまいその罪の意識から議員への立候補を断念する。それをジョン・ウェインに伝えると『あんたはいつも考えすぎるんだよ』とウェインにたしなめられ『リバティ・バランス(リー・マーヴィン)を撃ったのは俺だ』と真相を聞かされる。それを聞いたスチュワートは立ち直り、意気揚々と立候補し直すのだが、そのあり方は「真実」によって立候補をしなかったりしたりするという「初犯」特有のあり方であり、ジェームズ・スチュワートの行動は常に「正しさ」に基づいている。これについては第二章で検討したが、彼がジョン・ウェインと対立し、声を張り上げて罵り、殴ったりするのは彼の行動が「正しさ」に依っているからであり、「正しさ」を基準に行動する限り「正しさ」からはずれた言動はすべて「悪」と見做され否定される。この「怒りっぽい」という性格は「善悪」を基準に行動する「初犯」の典型であり、フランク・キャプラの映画の主人公ばりの善良さと正しさを醸し出しているスチュワートをジョン・フォードは慈しみながら撮り続けているもののあくまでもその眼差しは「常習犯」のジョン・ウェインへと向けられている。数十年ぶりにウェインの葬式のために町へ戻ってきたチュワートは「正しさ」だけで歴史は変わらないと身をもって知っている「常習犯」であり、そんな彼は棺の中のウェインに即座にブーツとガンベルトを付けるように葬儀屋に命じ、昔の彼とは打って変わった落ち着いた物腰で記者たちとの面談に応じながら過去について回想している。スチュワートがこの町に初めてやって来た頃、ジョン・ウェインが大衆食堂の厨房におめかしをして入ってきて看板娘のヴェラ・マイルズにカクタス・ローズ(砂漠の花)を贈る。彼女と結婚するために増築中のウェインの家の庭に咲いたその花は、サボテンに咲いた殺風景な花であり、本物のバラのような可憐さは携えてはいないものの水が不自由な土地で咲くその花はウェインにとっては自慢の花のようで『君はカクタス・ローズ顔負けの美しさだ』とウェインに言われたマイルズは『まぁ、お世辞が上手ね』と恥ずかしそうに受け答えている。このみすぼらしい花をめぐる余りにも無邪気で「無学」ともとれる会話を皿洗いをしながら黙って聞いていたスチュワートはウェインの手にあるカクタス・ローズを見て怪訝そうに顔をしかめた後、裏庭に植えられた花を見ているマイルズに『あんな綺麗な花、見たことある?』と尋ねられると『本物のバラを見たことないの?』と聞き返している。その後スチュワートとマイルズは惹かれ合い結婚するのだが、ウェインの埋葬に立ち会うために数十年隔てて町へ帰ってきたヴェラ・マイルズの前にはガンベルトを腰に巻いている者も飲んだくれの記者もおらず、当時の名残と言えば元保安官のアンディ・ディバインとウェインの従者だったウディ・ストロード、そして展示された埃まみれの駅馬車と、、、映画が始まり駅に汽車が到着したとき、駅員のウィリス・ボーシェイが大きな帽子箱を抱えて汽車から降りて来る。その帽子箱はスチュワートとマイルズを迎えに来たアンディ・ディバインの手に渡され、馬車に乗る時にはディバインからマイルズの手に渡されている。ここでジェームズ・スチュワートと別行動をとり馬車に乗ったディバインとマイルズの会話が始まってゆく。『この町は変わったわね』とマイルズがつぶやくとキャメラがゆっくりと二人へ接近してゆき『砂漠は昔のままでさぁ、』とディバインもまたつぶやいている。『カクタス・ローズは咲いているかしら』とマイルズの問いにディバインは砂漠の方へと馬車を走らせる。馬車がジョン・ウェインの旧家の前で止まると『どこに行きたいか知ってたの?』とマイルズが尋ね、カクタス・ローズを摘むために馬車を降りていったアンディ・ディバインの座っていたところへ置かれた帽子箱をマイルズは大切そうに引き寄せている。スチュワートが記者との懇談をしている時、窓の外に2人を乗せた馬車が入ってくる。馬車から降りるとき、帽子箱はマイルズによってディバインに預けられる。そのまま一行は葬儀屋に入っていきジョン・ウェインの棺の横のベンチに座ったアンディ・ディバイン、ヴェラ・マイルズ、ウディ・ストロードの3人にキャメラはすっと寄っていく。横に座っているディバインから帽子箱を大事そうに受け取ったマイルズは、大きく手を廻してその蓋をいざ開けようとすると、画面はここでカットされている。帽子箱が撮られたのは以上である。その後、棺の上にカクタス・ローズが置かれていることからそれは帽子箱から取り出されたとするのが物語の流れだが、ジョン・フォードはこの帽子箱についてオープニングから一切の言説を排除し、アンディ・ディバインがカクタス・ローズを摘むショットも、摘んだカクタス・ローズを帽子箱の中に入れるショットも、それを中から取り出すショットも、そしてそれを棺の上に置くショットも撮られていない。あの帽子箱の中にカクタス・ローズが入っていたのだと間接的に思えるだけでカクタス・ローズと帽子箱との関係は徹底して隠されている。まさかあの帽子箱の中に入っていたのは帽子ではないだろうし、おそらくあの帽子箱はヴェラ・マイルズのかぶっている黒い帽子が入っていたのであろうと想像がつくものの、空っぽの帽子箱がこうして何度も人の手を行き来しているのは異様というしかない。だがその隠された部分を補って見れば、アンディ・ディバインがジョン・ウェインの旧家の庭で摘んだカクタス・ローズをあの帽子箱の中に入れ、それをヴェラ・マイルズが出して棺の上に置いた、という以外にはあり得ず、そうするとあの帽子箱はオープニングでヴェラ・マイルズが駅に到着した時点で既に「帽子箱」ではなく「カクタス・ローズを入れるための箱」であったことになる。ラストシーンの汽車の中で『カクタス・ローズを棺の上に置いたのは誰?』と尋ねたスチュワートに妻のヴェラ・マイルズが『私よ、』と答える。その後スチュワートは雑談をした駅員に『なんていってもあなたはリバティ・バランスを射った男ですから』と言われると、パイプにつけようとした火をふと止めている。このスチュワートの「火を止める」という行動は、あれだけ非難したジョン・ウェインが自分の恩人であることを改めて思い知らされたことからくるのか、、カクタス・ローズをめぐるあの厨房でのやり取りをここで想起した驚きなのか、、この「火を止める」画面は非常に複雑で「読むこと」の分節化を拒絶している。ただあの若き日の厨房で『本物のバラを見たことないの?』とマイルズに尋ねたスチュワートにはカクタス・ローズを巡るマイルズとウェインとのプライベートな関係の中に入ってゆくことはできない。オープニングとラストシーンを飾った駅員は既にジョン・フォード●「バファロー大隊」(1960)でユーモラスな判事を演じたウィリス・ボーシェイであり、端役を演じるには少々大きすぎる俳優がオープニングとラストシーンの駅員を演じているこの作品は、カクタス・ローズに始まり、カクタス・ローズに終わっている。ブーツを取り上げられたまま棺桶の中に納まっているこのガンマンは元保安官のアンディ・ディバインに言わせると『この数年ガンベルトを着けることもなかった』のであり●「アパッチ砦」で窪地の中へ消えて行った「常習犯」たちとは違って誰にも看取られる(見られる)ことすらなしに陰となって消えて行ったこのガンマンは●「捜索者」(1956)あたりからから顕著となり●「騎兵隊」(1959)●「馬上の二人」(1961)●「荒野の女たち」(1965)へと続いてゆく「残虐の映画史」の系譜の中に密かに名を連ねている。まるで小津安二郎のラストシーンと見紛うようなメロディと汽車の疾走で終わるこの●「リバティ・バランスを射った男(THE MAN WHO SHOT LIBERTY VALANCE)は『君はカクタス・ローズ顔負けの美しさだ』と女を愛した無名の(THE MAN)と、その花を『綺麗ね』とつぶやいた田舎娘との無知で無邪気なふたりきりの時間が決して他者に踏み入る余地を与えることのないラブストーリーの余韻を残して終わっている。

→ジョン・フォード~「太陽は光り輝く」(1953)

●「プリースト判事」(1934)をセルフリメイクしたこの作品は、前作と違って法廷シーンは序盤の1シークエンスしか撮られておらず、かつそれが「真実」へ向けられたものではないことから「ミステリー」としての側面はなく、町の者から差別される私生児の娘アニタ・ルイズはそのまま私生児のアーリーン・ウェランに受け継がれているものの、前作では娘の父親の裁判に焦点が当てられていたのに対して、今回は娘の母親である娼婦のドロシー・ジョーダンと、彼女と関係を持った男の父親が、南北戦争において判事が従事した将軍であり、判事を含めて戦争から生き残った在郷軍人たちが、アーリーン・ウェランを将軍の孫と知ったうえで「養女」として養っているという点が大きく異なっている。だからといってこの作品はここで書かれたような「起源」が理路整然と撮られているわけではなく、極めて断片的な言葉や運動によってそれとなく撮られているに過ぎない。●「プリースト判事」はウィル・ロジャースがローソクに照らし出された家族の写真に話しかける言葉の節々からおぼろげながらその「起源」が提示されているのに対して●「太陽は光り輝く」の判事チャールズ・ウィニンガーは南北戦争時にラッパ手であり、10数人しか生存者のいない在郷軍人会の集まりからその過酷な戦争体験を推し量ることも可能だが、彼がなぜ一人暮らしをしているのか、なぜ家族がいないのかについてはまったく撮られても語られてもおらず、傍にいるのは黒人の召使のステッピン・フェチットだけであり、彼は軍旗衛兵という、軍旗を守る兵士であったらしくその話しぶりから判事と戦争を共にしたようであるものの、前作には存在したところの甥、義妹、といった親類の存在もまた撮られていない。こうして隠された「起源」と共に生きる判事が軍旗を返しに北軍の軍人会へ行き快活に演説をして部屋を出たあと、薄暗い廊下でがっくりと肩を落とし、判事を慰めるようなメロディに包まれながら、背後から廊下に刺してくる夕陽の逆光の中に消えてゆくとき、判事がただならぬ「起源」によって現在を揺さぶられていることが露呈するのであるが、断片的にしか撮られず決して語られることもない「起源」が現在の運動によっておぼろげながら炙り出されるというその様は●「捜索者」のジョン・ウェインや●「荒野の女たち」のアン・バンクロフトにも通じる強い「常習性」に支配されており、だからこそこの作品はそれら「残虐の映画史」に名を連ねる作品と共にジョン・フォードのフィルモグラフィーの中に密かな位置を占めることとなる。映画は次期判事の選挙運動を絡めて進められるが、将軍の孫娘の母親が亡くなり、娼婦だった彼女の葬儀に参列すれば町の者たちからの支持を失い投票にも影響が出ることからして、選挙の存在は判事の葛藤を生み出すマクガフィンということになり、映画の運動は選挙ではなく違った出来事へ目指されることになる。終盤に差し掛かり、対抗馬の候補者が街頭演説をしている時、彼がふと目をやるとそこには二頭の白い馬に引かれた霊柩車と、そのあとを歩いて来る判事と、黒い馬に引かれて娼婦たちを乗せた馬車の葬列が街角を曲がってやってくる。そこからはこの葬列の無言のショットが続くのだが、『その間も、白い霊柩馬車と判事と黒い馬車とは、ゆっくりとした歩調を変えることがない。あたりに聞こえているのは、判事の足音と、二台の馬車の回転する車輪が土の道路の砂利に触れる音ばかりである』と蓮實重彦はこの沈黙の行進について詳細な検討をしているが、町の者たちの嘲笑をよそに、ひとり、またひとりと葬列に加わってゆく者たちは誰一人として決意したように顔をしかめることもなく、帽子を脱いだり、あるいはかぶり直したりしながら列へと加わりそのまま淡々と歩き続けていく。蓮實は『ここにもクローズアップは、たったの一つも挿入されていない』ことを強調し、『葬列の参加者たちはいっさい無言を貫いたまま、沈黙の行進を続ける』と書き続けている(以上「ジョン・フォード論132以下)。淡々と歩き続け、歩調を変えることなく、クローズアップもなく、無言のまま歩き続けているこのショットの連なりには「はしっこ」が存在しない。行進は既に歩いている「最中」から撮られていて「行進の始まり」が撮られておらず、クローズアップもないことから葬列者の、或いは葬列に加わる者たちの「行列を作って行進を始める」時の、また「行列に加わる」時の心理を読むことはできず、変わることのない歩調からその後の心理の移ろいを推し量ることも不可能である。遠く離れたロングショットは目を凝らして「見ること」しかできず、沈黙の行進は耳をそばだて「聞くこと」しかできない。それが「現在」に生きる「常習犯」の時間であり、その捉えがたくも誘惑されるうごめきの世界には善悪も正しさも存在しない。「起源」から離れる、あるいは「起源」が撮られていない、とは人物の成り立ちの説明がないことであり、必然的にその映画は「読むこと」ができず「見ること」「聞くこと」の誘惑へと惹きつけられてゆく。目を凝らせ耳をそばだてるとそこには考えてからではなく考える前に行動する者たちの姿が現れてくる。我々にできることはその存在に触れることそれだけである。

→「許されざる者」(1992) イーストウッド~残虐さと気品のあいだ

女子供を容赦なく殺した名高き悪党(クリント・イーストウッド)が女に恋をして改心し、結婚して農夫となって牧場を営みながら二人の子供をもうけたあと妻は死に、子供を一人で育てていたものの貧困で将来の見通しの立たない男のところに若造が訪れて賞金首を一緒に始末しようと持ち掛けられるというこの映画は、男が「初犯」から「常習犯」へと回帰してゆく作品として撮られている。イーストウッドの昔の仲間で同じく改心した黒人(モーガン・フリーマン)はイーストウッドと同行しつつもいざ賞金首を始末する時になって罪の意識から怖気づいて仲間から抜けて帰ってしまい、イーストウッドを誘った駆け出しの若者(ジェームズ・ウールヴェット)はみずから『五人殺した』と豪語しているものの賞金首を目前で射殺したあと『実は殺しは初めてだった』と「初犯」であったことを告白して酒を飲んで泣いており、またイーストウッドにしても映画の冒頭豚を追いかけては転んで泥だらけになり馬に振り落されて転倒する彼の姿が殊更撮られているのは彼がこの時点で「初犯」であることが強調されているのであり、その後谷の上から賞金首の男の腹を撃った時も苦しむ男の姿を直視できず彼に水筒の水を飲む猶予を与える姿が殊更撮られているのもまたこの時点のイーストウッドが「残虐の映画史」における「常習犯」ではなく罪の意識から敵に情けをかける「初犯」的人物であることが殊更撮られている。イーストウッドは保安官のジーン・ハックマンに殴られて負傷したあと過去の殺人の悪夢にうなされ死の恐怖に怯え罪の意識に苛まれているように、この作品は主人公側の3人をすべて「初犯」としてフィルムに収めることに細部の多くが費やされている。だが「退出の映画史」に顔を出しみずからホークスへの賛辞を惜しまないイーストウッドは●「荒野のストレンジャー」(1972)●「ペイルライダー」(1985)等に見られるように人を殺しても罪の意識の微塵も見せないまったき「常習犯」を撮り続けてきた監督であり「常習性」は自身の俳優としてのキャラクターとしても確立している。『()人を殺した時ビビッていたか?』とジェームズ・ウールヴェットに聞かれて『覚えていない、大抵酔っていたから』と答えているように●「許されざる者」のイーストウッドは酒を飲んで「起源」を忘却し「常習犯」になって罪の意識を感じることなく女子供を殺していたのであり、それを妻が酒をやめさせて立ち直らせてくれてこの10年酒を飲んでいないとジェームズ・ウールヴェットに語っていたことからして、禁酒によって「初犯」へ回帰していた彼はモーガン・フリーマンが保安官に拷問を受けて殺されたことを娼婦から聞いたとき、なによりもまずウイスキーを飲むことを始めている。ここでウイスキーのボトルを3回という、映画的運動回数としてはいささか過剰な回数に及んで口元へ運んだイーストウッドの運動は「起源」の記憶を喪失させ「常習犯」へと回帰してゆくところの細部として過剰に撮られているのであり、だからこそ彼は丸腰のバーテンを惨殺し『俺に刃向うやつはその女房も友人も皆殺しにしてやる』などという罪の意識のカケラもない残虐なセリフを口にするのであって、ここで彼は●「荒野のストレンジャー」●「ガントレット」(1977)●「ブロンコ・ビリー」(1980)●「ペイルライダー」等の罪の意識をまったき欠いた「常習犯」の彼に戻っており、結局のところこの作品は「常習犯」(映画開始前の残虐な人殺しの彼)→「初犯」→「常習犯」と流れてゆくことで「初犯」→「常習犯」→「初犯」と撮られた●「市民ケーン」とは逆の流れの映画となっている。

→「アウトロー」(1976)

イーストウッドは●「許されざる者」の外にも●「アウトロー」においてかつて「常習犯」であったガンマンが結婚によって農民となり「初犯」へと回帰したものの妻子を北軍に殺されると封印されていた銃を取り出し復讐鬼の「常習犯」へと転化してゆく作品を撮っている。この男がかつてガンマンの「常習犯」であったことは映像の間接的な接続によって暗示されるにすぎないものの、一度は「常習犯」であった男が結婚やリタイアによって「初犯」へと変化し再び「常習犯」へと回帰してゆく様をイーストウッドは●「アウトロー」●「許されざる者」のみならず、ベトナム戦でベトナムの少女が死ぬのを見たトラウマから軍隊をリタイアしその後復帰したもののみずから「経験がない」というスパイ活動を遂行する過程で何度も「起源(トラウマ)」を想起しては罪の意識から運動を停滞させていた兵士(イーストウッド)がロシアの戦闘機を強奪する段になって「常習犯」へと回帰する●「ファイヤーフォックス」(1982)、リタイアした元空軍兵士の老人たちが訓練によって「常習性」を取り戻し宇宙を探索する●「スペース・カウボーイ」(2000)といった作品によっても反復させ、また●「ルーキー」(1990)では赴任したての「初犯」の刑事チャーリー・シーンがベテラン刑事イーストウッドの相棒となることで「常習犯」へと成長してゆく姿が撮られているように、イーストウッドは「初犯」と「常習犯」を巧みに使い分けながらその間を浮遊することのできる作家であり、そうした点においてイーストウッドはホークス的「前科6犯的常習犯」よりもジョン・フォード的「前科4犯的常習犯」に接近している。だがこれらの作品でめがけられているのはあくまでも「常習性」の領域であって、そこでは罪の意識を欠く運動が映画後半に徹底して撮られることで「初犯」から「常習犯」への変化が強調されているのであり、その象徴として死体の額に何度も唾を吐き続けた●「アウトロー」のイーストウッドのような、あるいは民間人のバーを平然と焼き払った●「ルーキー」のチャーリー・シーンのような、あるいは金の採掘場をダイナマイトで木端微塵にした●「ペイルライダー」のイーストウッドのような残虐な行為が反復されることになり、残虐さは「常習犯」の映画を撮るときのひとつの証として映画史に刻まれ続けている。

★狂気と気品のあいだ

●「許されざる者」はイーストウッド映画にしては珍しくアカデミー賞をはじめ多くの賞を獲得しているが、そうした批評家が反応しているのはあくまで人物たちの「初犯」性の部分であり、罪の意識・善悪といった「初犯」性の人間的な部分があるがゆえに彼らは評価し得るのであり決して「常習犯」=「すること」をそのまま肯定できているわけではなく、だからこそ●「荒野のストレンジャー」●「ガントレット」●「ブロンコ・ビリー」●「ペイルライダー」といったまったき「常習犯」の作品を彼らは無視するしかない。弱さとは外部=「であること」=善悪・理性の参照へと常に逃避する精神であり身に染みついた運動を知性の不在から幼稚さと看做し「であること」への領域に付着した「復讐すること」あるいは「銃規制への反発」等「あと」からやってくる「ありもしないであること」を「さき」に読み込みあらゆるエモーションを理性的に分節化することで摘み取ろうとするひ弱な精神である。「常習犯」とは善悪の彼岸にある狂気であり、それが時として人間の運動に気品を醸し出すこともあれば狂気を露呈させることもある。この狂気と気品のあいだに境界を引かない強さこそ批評家に求められる資質である

→「裸の拍車」(1953)~アンソニー・マン~「許されざる者」(1992)

賞金稼ぎのジェームズ・スチュワートが賞金首のロバート・ライアンを捕えて護送してゆくこの作品は中盤、インディアンに脚を撃たれたスチュワートが眠っている時のうわごとで、かつて恋人に裏切られて牧場を手放しそれを今度の懸賞金で買い戻すという「起源」にうなされるシーンが撮られているが、その姿は生死の境をさまよい寝言で過去の殺人の罪の意識に苛まれるイーストウッド●「許されざる者」による「起源」への回帰によって反復されているが、●「裸の拍車」と●「許されざる者」の連動はこれだけに留まらない。『こいつはただの札束なんだ。失望してかまわない。これが俺なんだ』と賞金首のロバート・ライアンの死体を馬に乗せるスチュワートを見るやジャネット・リーはそれを非難するどころか『私は覚悟を決めたわ。あなたの妻になって牧場で暮らします』と彼に近づき『なぜだ!俺は死体を運んで金にする男だぞ!』と聞き返すスチュワートの顔をじっと見つめ続けるジャネット・リーの髪を風になびかせた異次元のクローズアップが入ると、スチュワートは泣きながら死体を馬から降ろし、埋葬をし、女と2人で去って行って映画は終わる。ここでジャネット・リーは通常の心理的因果からはまったく理解不能な流れによってスチュワートを肯定し結婚を決意している。これをあらすじに書くと『ケムプ(スチュワート)は今こそ5千ドルを一人占めできると、喜んでベン(ロバート・ライアン)の死体を馬に積んだが、泣き崩れるリナ(ジャネット・リー)を見て思い直し、死体を埋葬した。2人は過去のすべてと決別し、新しい生活を求めてカリフォルニアに向かった。』となってしまうのだが(インターネットサイト『Movie  Worker』「裸の拍車」参照。このサイトのあらすじに賭ける情熱には敬服する)、「泣き崩れた」のはジェームズ・スチュワートであって映画の中にはジャネット・リーが泣き崩れるショットはどこにも撮られておらず従ってまたスチュワートも「それを見て思い直し」たのではない。あらすじとは理由なき運動に「ありもしないであること」=理由をあるかのようにくっつけることで成立する非映画的な理屈であり、そもそもが「心理的ほんとうらしさ」=理由を拒絶しながら進んでいく映画的運動の解釈には向いていない。ジャネット・リーは善悪を超えて端的にジェームズ・スチュワートを肯定したのであり仮にここに因果をくっつけるのならば「ジェームズ・スチュワートは死体を札束のように馬にくくりつけ持ち帰ろうとした。だからジャネット・リーは彼と結婚する覚悟を決めた」と支離滅裂になるのであり、国民国家的道徳と因果によって作られていく「あらすじ批評」にこのシーンを書くことはできない。知識と道徳で映画を読み解いていく限り映画のエモーションは消え去って行く。因果から自由な領域に存するジャネット・リーのこの端的な肯定行為は、色彩、構図、角度等、それまでの画面の因果の流れから明らかに逸脱(超越)した彼女の2つの「ずれ」たクローズアップと呼応することでフィルム的にも肯定されているのであり、このラストシーンは運動がショットとの連動(非連動)によって「残虐さ」を肯定するエモーションをフィルムに焼き付けた映画史として記憶されることになる。

→「許されざる者」(1992)~残虐な男と娘

●「許されざる者」のラストシーンのオレンジの夕陽の丘の画面の左には『その後母親が娘の墓を訪れた。だが娘がなぜ名高い人殺しの大悪党に嫁いだのか、墓標には何も書いてなかった』とテロップが入りそのまま終了している。映画の中にはその答えは何も撮られてはおらず語られてもいない。しかし善悪という「初犯」の領域における基準では女子供を平気で殺す「悪党」に娘が惚れた理由について答えることはできない。そもそも●「許されざる者」において事件の発端となったのは顔を切られた娼婦(アンナ・レヴィン)が客の一物が小さいのを笑ったという無神経な話であり、ここでイーストウッドはこの女にも落ち度があることをさり気なく示してこの映画が善悪の映画ではないことをはっきりさせているだけでなく、「悪」の保安官のように見えるジーン・ハックマンが好漢よろしく家づくりに精を出し、また女の顔に傷をつけた男(クイック・マイク)の相棒ロブ・キャンベルがベビーフェイスの風貌(善人の顔)をしているばかりかそもそも彼は相棒の娼婦への暴行を止めているのであり、その後謝罪にやってきた彼はさもすまなそうに賠償とは別に馬を連れて来たから受け取ってくれと娼婦たちに申して出て泥を投げつけられて帰っていくのだが、なぜここでわざわざ当の実行犯のさも「悪漢」らしい顔をした乱暴そうな男ではなく殆ど彼に巻き込まれてとばっちりを食った「優しそうな」青年が泥を投げつけられるのか、加えてそのベビーフェイスの青年はその後イーストウッドに腹を撃たれてもなかなか死ねずにもだえ苦しむという演出がなされておりこれは「相棒をちゃんと止めなかったお前も責任を持つべきだ」などという道徳的な答えを遥かに超えた出来事としてありそれは端的にこの映画が善悪の彼岸にあることを指し示している。だからこそ映画は「稀代の大悪党」になぜ娘が惚れたのかわからなかった、、で終わるのであるが、善悪では意味不明のこの出来事は善悪=「であること」を超えた領域に求めるしかない。おそらくイーストウッドの妻になった娘は●「裸の拍車」のジャネット・リーのようにして「残虐な男」の運動に現れた「常習性」に恋をしたのであり、この二つの作品は決定的な細部を暗に共有させながら、そこには善悪を超え出た者にのみになしうる「端的に肯定すること」という彼岸の領域があり、道徳を超えた領域にあって初めて出現する超越的エモーションを分かち合っている。娘は狂気の中に気品を感じ取る強さを身に着けていた。二人は似た者同士であり、だからこそ彼女は男を「改心」させることができたのである。

→「ライムライト」(1952)~チャップリン

脚を悪くして自殺未遂を図ったダンサーの娘(クレア・ブルーム)を自宅のアパートに招き入れて介抱しているコメディアン(チャップリン)がベッドの上の彼女と会話するシーンがある。

チャップリン『幼い時、私がオモチャをねだると父が頭を差して言った。これ(頭=知能)がこれまで作られた最高のオモチャだ。すべての幸福の秘密がここにある』

クレア・ブルーム『あなたはコメディアンには思えないわ、、』。

チャップリン『私もそれが分かってきた、、仕事がない理由だ』、、~『人間は年を取ると深刻に考え過ぎる。それはコメディアンには致命的だ。それが私を観客から遠ざけることになった。酒を飲まないと舞台に立てなくなった。酒を飲むと芸に活気が出たが心臓をやられて死にかかった』。

クレア・ブルーム『笑わせるって悲しいことね』

コメディアンには大きく2通りある。この映画のチャップリンのように「常習犯」として生きるか、キートンのように「モノ」となるか(後述)。そこに悲しみが宿るのは「起源」を喪失することでしか人を笑わせる事の出来ない者たちの醸し出す気品にある。「悪党」の露呈させる「狂気」とコメディアンの醸し出す「気品」とのあいだに明確な境界線は引かれていない。


→「黒い罠」(1957)~オーソン・ウェルズ

オーソン・ウェルズの撮る人物に「悪党」が多いのは、オーソン・ウェルズ自身が彼らを善悪の観点から見ていないことの帰結としてある。証拠をねつ造しては容疑者を投獄させている警部をみずから演じた●「黒い罠」のラストシーンでマレーネ・デートリッヒは彼(オーソン・ウェルズ)をして『「lousy cop(下劣な警官)」と言ったあと続けて『He was some kind of a man. What does it matter what you say about people?(彼はちょっと変わっていただけよ、人が何と言おうと関係ないわ、)』と言わしめているようにウェルズは「起源」を喪失し罪の意識のカケラもない「常習犯」としてひたすら「ありもしないであること」を「すること」をしているにすぎず、善も悪もない彼の運動に悪意なるものは存在しないにも関わらず多くの場合「常習犯」の運動は善悪の不在ゆえにイコール→悪として読まれる傾向から人は自由になれず、善も悪もない結果としてそれがたまたま我々の世界の道徳なり法律に反するに過ぎない=善悪は「あと」からやってくる=という事態に人は耐えることができない。実際彼はギャングのボスを絞殺し、また爆破犯の証拠をねつ造していながら真犯人を捕まえているのであり、その根底においては法を無視して犯人を退治する●「ダーティハリー」(1971)等の暴力刑事の「常習犯」と質的には同等であり、ただギャングのエイキム・タミロフをユーモラスに演じさせ容疑者の靴屋の男をひ弱な人間に仕立て上げながら殊更自らを「醜悪に」演じていることからそれが「悪」に読まれてしまうのだが、それは彼自身が醜悪ではないものを殊更醜悪に演じることで善悪の彼岸としての「常習犯」的運動を際立たせているからであり、終始「であること」の領域=「心理的ほんとうらしさ」を欠く彼の運動に見出される「醜悪さ」はフェイクでしかない。●「駅馬車」でインディアンに対して差別という善悪の領域の行いをしたのは決して飲んだくれの医者やガンマン、娼婦、紳士、淑女といった「古い者」たちではなくピーコックという名のセールスマンのドナルド・ミークと銀行家のバートン・チャーチルという「新しい者」たちであったという事実は決して偶然ではない。「新しい者」とは「初犯」であり、善悪の領域に接近した道徳者としての彼らの善悪は常に「さき」から来ることから、それが「あと」から来る「残虐の映画史」の主人公として彼らの名が映画史に刻まれることはない。

★「起源」への回帰を操作する

●「黒い罠」では 『新米刑事の時、妻が混血の男に絞殺されたが犯人を取り逃がした』という過去がオーソン・ウェルズ自身によって語られており、かつ『俺が逃した殺人犯は奴だけだ』という彼の言葉からして、これが証拠をねつ造してまで犯人逮捕に執着する彼の「常習犯」としての「起源」としてあり、それを想起した瞬間●「市民ケーン」のウェルズ同様彼は運動を停止して「初犯」へと回帰する=「死ぬ」=はずのところを、ここでオーソン・ウェルズは12年に及ぶ禁酒を破って泥酔することによって「起源」の到来をラストシーンまで先送りしている。●「許されざる者」のクリント・イーストウッドのように「酒を飲む」という行為は「常習犯」的記憶喪失へのひとつの通路であるが、12年にも及ぶ禁酒を続けてきた刑事オーソン・ウェルズはバーで酒を飲んで泥酔した後、彼自身『妻のことはしらふでは話さない』と語るように、酒を飲んでからみずからの「起源」について語り始めているのであり、ここでは「泥酔」→「起源」の喪失という●「許されざる者」と同様の運動がなされているばかりか、警部に「起源」を語らせる場合、泥酔して「起源」を喪失しなければ「起源」について語れない、という運動論的な逆転が見えるのであり、元来「常習犯」的人物である彼が、さらに飲酒をすることで「常習性」を強めながら、妻が殺されたのと同じ「絞殺」という方法でギャングのエイキム・タミロフを殺害し、デートリッヒのバーでさらに飲酒を深めたあと、ウェルズとの同性愛をほのめかされている部下のジョセフ・カレイヤに連れ出され、隠しマイクを仕込んだカレイヤにそれまでの証拠ねつ造行為を「自白」させられたウェルズはカレイヤを撃ち殺すのだが、カレイヤの死を認識していないのかウェルズは『お前がピート(ジョセフ・カレイヤ)を殺した』とチャールトン・ヘストンにカレイヤ殺害の罪をなすりつけたあと、橋の上からしたたり落ちるカレイヤの血を手に受け、まるでなにかを想起したような驚きの表情で後ずさりしながらどぶ川の中へダイブし果ててゆくその姿は、何かを想起した瞬間に突如運動が停止するということにおいて●「市民ケーン」と通底しており、その時想起された「起源」がカレイヤの死なのか、絞殺された妻の記憶なのか、それともカレイアとのホモセクシャル的関係なのかは●「市民ケーン」同様ぼかされているが「起源」がおぼろげであるからこそ彼の現在の運動はより「常習性」を強めて「醜悪」になるというオーソン・ウェルズ的「醜悪の映画史」は「残虐の映画史」と共鳴しながら映画史に刻まれている。

→「男の敵」(1935)

オーソン・ウェルズは『自分は●「駅馬車」を40回見た』と豪語し●「市民ケーン」では直前にジョン・フォード●「果てなき船路」を撮ったキャメラマンのグレッグ・トーランドを起用している等ジョン・フォードとの関係は浅からぬものがある。アイルランドを舞台にしたジョン・フォードの●「男の敵」は貧困にあえぐ男ヴィクター・マクラグレンが金欲しさからレジスタンス運動の親友ウォーレス・フォードを裏切って密告し死なせてしまった一夜の出来事を現実の時間と上映時間を接近させて撮った作品であり、ヴィクター・マクラグレンは密告の賞金でもらった金で大酒を飲んで泥酔し密告したことをも忘却して夜の街を豪遊し、夜半に差し掛かったころ金の出所を同志に疑われて追求され逮捕されたあたりから少しずつ記憶を取り戻し、その後脱走して恋人マーゴット・グレアムの部屋に逃げ込み彼女の膝枕で眠って酔いが醒めた後、密告した男の母親ウナ・オコナーに対して罪の意識から懺悔をして死んでゆく、、という物語だが、彼は密告をする時にじっと考え、悩み、罪の意識に苛まれながらも損得勘定から密告をしておりこの時点の彼は典型的な「初犯」的人物として撮られているものの、その後泥酔によって「起源」を喪失し「常習犯」となって大暴れした後、酔いがさめるにつれて「起源」を取り戻し、罪の意識にさいなまれて懺悔したあと死んでゆく、という流れは「常習犯」が「起源」へと到達した時点で運動が停止することにおいて●「市民ケーン」●「黒い罠」に、また飲酒によって「常習性」を持続させながら酔いが醒めたあと「起源」へと到達して運動が停止するという構造が●「黒い罠」に、そして「酔いが醒める」ことを前提とした一夜の短い出来事を撮ったという時間性において、夜に始まり夜に終わる一日を撮った●「黒い罠」に通底しており、だからこそマクラグレンが大酒を飲み歩いたあと恋人の膝の上で眠るという細部は●「黒い罠」における12年にも及ぶ禁酒後の飲酒による泥酔と酔いからの覚醒という細部同様に重要な意味合いをもたらすのだが、オーソン・ウェルズは●「黒い罠」において自らが禁酒を破って酒を飲む瞬間をギャングのエイキム・タミロフが電話で呼ばれてひとりテーブルに残されたウェルズが自分でも気づかない内に無意識に酒を飲み、しばらくしてから酒を飲んだことに気づいて驚くという実に綿密な演出によって「酒を飲むこと」という運動が本人の意志に依らずになされたように撮りながら、最後のシークエンスでは泥酔していたオーソン・ウェルズが落下してくるタミロフの血を見て驚いたように後ずさりをしたように、「起源」を想起するについてもまた心理的な動機を排除したように撮られており、オーソン・ウェルズにとって「常習犯」と「起源」との関係は運動論としての非常に重要な細部として撮られている。●「許されざる者」のイーストウッドはかつて女子供を平気で殺した悪党であったのが妻と出会って改心し、以降は善良な農民=初犯=へと回帰していたところが、親友のモーガン・フリーマンを無残に殺されたことを娼婦から聞いたとき、にわかに酒を飲み始めるのだが、この酒は人を殺して取り乱しているジェームズ・ウールヴェットが飲んでいたボトルをイーストウッドが飲み継いだものであり、さらにその酒は、イーストウッドが実は残虐な殺人犯だと保安官から聞かされたと馬上の娼婦が話している時に飲んでいるのであり、ここでイーストウッドは彼が自ら主体的に酒を飲み始めたのではないという細部を、酒はイーストウッドの自前ではなく飲み継いだこと、また飲んでいる最中も娼婦の話に聞き入っていることにして●「黒い罠」のオーソン・ウェルズが禁酒を破る時の演出と同じように「気づいたら酒を飲んでいた(あるいは酒を飲んだことに気付いていない)」という演出をしているのであり、おそらくこの時のイーストウッドには●「黒い罠」のシーンが頭にあったように見えてならないのだが、オーソン・ウェルズとここでのイーストウッドは「起源」と「常習犯」との関係についての演出に最新の注意を払って撮っていることにおいて共鳴しており、また上映時間と現実の時間との接近性等ヨーロッパ的「リアリズム」の影響の見受けられる●「男の敵」がオーソン・ウェルズに何かしらの影響を与えていることもまた多くの細部が指し示している。●「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942)では滅びゆく「古い者」である貴族の最後の瞬間をフィルムに焼き付けたオーソン・ウェルズは●「黒い罠」でもまた「常習犯」でしかあり得ない「古い者」を題材にしており、生涯にわたって「悪役」を撮り続けまた演じ続けることで「醜悪の映画史」を演じ突けた彼にとって「常習犯」的運動は極めて重要な主題としてあり続けている。

→「ゲームの規則」(1939)~ジャン・ルノワール~「古い者」と「常習犯」

『惚れっぽい方も貞淑なお方も、誰が浮気心をとがめよう。切ない嘆きが何になろう。心変りが罪とでも?恋には翼があるものを。浮気な鳥は飛ぶばかり。』とボーマルシェ「フィガロの結婚」を引用して始まるジャン・ルノワールのこの作品は第二次大戦前夜のフランスで貴族の別荘に招待された貴族、軍人、飛行士、小間使い、森の番人、といった者たちが恋のゲームに明け暮れながら『心変りが罪とでも?』と問われるように恋の相手を次々と変えながらその『心変り』は決して心理的な改心や宗旨替えなどではなく、殴り合ったかと思えばはすぐに紳士的に謝罪してからまた喧嘩を始め(当主のマルセル・ダリオと飛行士ローラン・トゥータン)、恋敵を殺そうとしたかと思えば慰め合い(森番ガストン・モドと召使いジュリアン・カレット)、恋する人を親友に譲ったかと思えばまたすぐ取り返してからまた譲り直し(ジャン・ルノワールがノラ・グレゴールを飛行士のローラン・トゥータンに)といったように貴族、召使い、猟師、紳士、淑女、恋すること、そして人間そのもの等あらゆる「常習性」を総動員しながら心理も善悪も何もない衝動的に身に染みついた運動の徹底した反復で繰り広げられるこの作品は公開当時、運動の理由を知りたがる批評家たちから不評を買うことになるのだが、映画は最後、嫉妬に狂った森番ガストン・モドが恋敵と間違えて飛行士ローラン・トゥータンを射殺した顛末を当主のマルセル・ダリオが事故死であったと招待客に説明したあと将軍ピエール・マニエのこの一言で終わる。

『ラ・ジュネ(マルセル・ダリオ)は階級を守った。次第に減ってゆく階級だ。お目にかかれなくなる人種だ』。

時代と時代の「あいだ」において失われてゆく者たちが「常習犯」的運動を反復し続けた時、そこにはもはや『お目にかかれなくなる人種』=「古い者」の最後の瞬間がエモーションとしてフィルムに刻み込まれることになる。

→「東京物語」(1953 小津安二郎)~原節子~『とんでもない!』

尾道から東京へやって来た老夫婦(笠知衆・東山千栄子)が忙しい息子や娘たちに冷遇される中、亡くなった次男の嫁(原節子)に手厚くもてなされて帰郷した直後に東山千栄子が急死するというこの小津安二郎の作品において、長男の山村聡と長女の杉村春子の運動(とくに後者)が原節子に比べて何かしら冷たく感じるのは、彼らの行動が考えてからなされているからにほかならない。山村聡は両親を観光へ案内する朝、急病の患者の報を聞いたあと両親に断ってから往診に出かけているのであり、杉村春子は両親へのお土産にあんこではなくおせんべいにすること、浪花節に連れて行くか否かで夫の中村伸郎に相談し、嫁の原節子には両親を東京見物に連れて行ってほしいと電話で相談し、また両親を熱海の旅館へ行かせることを山村聡と夫の中村伸郎に相談し、母危篤の報に尾道に帰るか否か、帰るなら何時経つか、喪服を持って行くか否かをいちいち山村聡と相談し、葬式の後には『兄さんいつ帰る?』と山村聡に相談している。まず考えてからなされる彼らの行動は身に染みついていないことから簡単にひっくり返ってしまう冷たさが常に付きまとうのであり、彼らは仮に両親から礼を言われれば喜んで応ずるであろう反面、否定的な判断をされようものなら一気に彼らの善意は悪意へと転換し親子の仲は冷え切り骨肉の争いへと発展していくこと想像に難くない。序盤、山村聡が両親を東京見物に連れて行こうという朝、急患の知らせがあって往診に行かなければならない、その時、その報を聞いた山村聡が取る物も取り敢えず家から飛び出して行ったとしたらならば映画はまったく違った映画なる。小津は●「一人息子」(1936)で東京へ出て来た息子(日守新一)に田舎から会いに来た母親(飯田蝶子)が、息子が女(坪内美子)と所帯を持ち市役所を辞めて貧乏暮らしをしていることを知って不満に思い失意のもとにいる終盤、近所の貧しい家の子供 (突貫小僧)が馬に蹴られて大怪我をして入院した折、病院の廊下で息子が怪我をした子供の母親(吉川満子)にさり気なくお金を持たせたところを陰で見ていた母親は、家に帰ってから『かーやんはな、おめぇのような倅を持てて今日は本当に鼻が高かっただよ。おめぇ今日一日どんなにええとこへ連れてってもらってもあんなええ目にゃきっと会えなかっただ』と絞り上げるように喜びを口にして田舎へ帰っていくのだが、その感動は息子の日守新一がポケットの中からお札を出して女に持たせるその運動が身に染みついていたからにほかならず、妻の坪内美子共々彼らの醸し出す運動のエモーションは彼らが考える前に行動する「常習犯」であることに尽きている。ところが●「東京物語」の山村聡と杉村春子は行動する前に考えるのであり、それに対して原節子の運動には会社を休んで義父母に東京を案内すること、義父母をアパートに接待して隣の部屋からお酒をもらうこと、義母をアパートに泊らせること、義母にお小遣いをあげること、駅に見送りに行くこと、危篤の報に尾道に駆け付ける事、そして葬式後もしばらく尾道の家に残ること等において誰にも相談しておらず、何らの心理的葛藤もなくなされるその運動はまさに身に染みついた「常習犯」の運動として終始撮られていて、唯一原節子が決断したであろうシーンが撮られているのが杉村春子からの電話で最初の東京案内を頼まれるシーンだがそこでも原節子が言ったであろう『わかりました。お引き受けします』の瞬間は電話相手の杉村春子のショットが撮られ原節子の承諾なり決断の言葉は電話口からさえも聞こえて来ることはない。そうすることで小津は「考えてから行動する兄妹」と「考える前に行動する原節子」とに違った演出をすることで「初犯」対「常習犯」を対比させながら撮っている。この作品には終盤、原節子が尾道から帰る前、笠知衆のねぎらいの言葉に対して原節子が『とんでもない!』と叫ぶシーンがある。ここで原節子に対して発せられた笠知衆の言葉はこうなっている。

『やっぱりあんたはええ人じゃよ、、正直で、、』

ここには「いい人」「正直」という善悪・道徳の領域に関する評価がなされ、それに対して原節子は『とんでもない!』と即答している。原節子の運動が「善」に見えるのは上京した老夫婦を会社を休んで東京見物に連れて行き薄汚れたアパートで酒を振る舞い義母を泊めたばかりかお小遣いまで与え尾道に喪服を忘れて行った等から来るとしても、そこにはあるのは原節子の身に染みついている運動であり、善悪は「あと」から来る(実はあとからも来ない)のであり、「あと」からすら来ない善意を「さき」に読み込まれて賞賛された時「常習犯」は咄嗟に『とんでもない!』と答えるしかない。失われつつある家族制度の最後の生き残りとしての「古い者」である原節子によって発せられる『とんでもない!』という振動のエモーションは決して善悪などという領域では語りしめることのできない怖さに満たされている。

→「麦秋」(1951小津安二郎) 原節子~ありません!

28歳になっても独身の原節子のもとへ上司の佐野周二を介して縁談が持ち掛けられ、同居の兄夫婦と両親は大いにそれを喜んでいたところへいきなり原節子が亡くなった兄の親友で3年前に妻を亡くした子持ちの二本柳寛の元へ嫁ぐと言い出し家は右往左往の大騒ぎ、とうとう家族会議と相成ったその会話を紹介する前に、まずもって原節子が二本柳寛の母、杉村春子との会話において結婚の「承諾をする」シーンを検討しなければならない。明日秋田へ転勤で発つ二本柳寛の家へ原節子が餞別を持ってきたところが彼は留守で同居する母親の杉村春子が出迎え会話を始めたその過程でふと杉村春子が『あんたのような方に謙吉(二本柳寛)のお嫁さんになって頂けたらどんなにいいだろうねって、、思ったりしてね、』とそれは実現するはずのないことで『そんなことを話しちゃって怒らないでね、』と自嘲気味にみずからの言葉を撃ち消そうとする杉村春子に対して原節子は『ほんと?、おばさん』『ほんとにそう思ってらして?』『ねぇおばさん、、私みたいな売れ残りでいい?』と立て続けに返答し、驚く杉村春子に『あたしでよかったら、』と返答し『よかったよかった、、』と杉村春子を号泣させてしまうのだが、杉村春子がここでびっくりして大喜びしたのは原節子の返答がまったく予期せぬ出来事であったからに他ならない。この作品では原節子と二本柳寛の2人が細部において絡むのは朝の出勤時の鎌倉駅のホーム、家出した笠知衆の2人の息子を原節子と二本柳寛が2人で探すこと(ただし探すところも見つけた所も撮られていない)、原節子が二本柳寛から亡くなった兄の手紙をもらうこと(その前にニコライ堂の尖塔を2人で見つめるという意味ありげなショットも入っている)だけで、互いに恋心をいだいていると見られるショットは1つも撮られておらず、また杉村春子との会話中に原節子が考えたり決断したりするショットも撮られていない。だからこそ唐突の原節子の返答に杉村春子のみならず見ている我々もまた驚いてしまうのだが、ここでその後、原節子の家でなされた家族会議の様子を見ていきたい。

東山千栄子()『だって謙吉さん(二本柳寛)、明日お発ちになるんじゃないの?』

原節子『だから私、お話してきたの』

東山『だってそんな大事なお話、あなたよく考えたの?』

笠知衆()『どうしてお父さんお母さんだけにでも相談しなかったんだ!。お前よく考えたのか?』

原節子『、、、、』

笠知衆『軽率じゃないか!お父さんお母さんなんておっしゃるか知らんけれど俺は不賛成じゃね!』

原節子『だけど私、おばさん(杉村春子)にそう言われた時、ほんと素直にその気持ちになれたの、、なんだか急に幸福になれるような気がしたの、、だからいいんだと思ったの、』

東山『だけどあなた先行って後悔しないかい?』

原節子『しないと思います、、』

笠知衆『きっとしないんだな!。あとでしまった!って思うようなことはないんだな!』

原節子『ありません、、』

笠知衆『ないな!、きっとないんだな!』

原節子『ありません!』

ここで一同静まり返ってこうべを垂れ、、ふと東山千栄子が

『お父さん、、お寒くありません?、お休みになったら?』

菅井一郎『うん、、寝ようか、、、』

両親は退出し、下に残った笠知衆は妻の三宅邦子に

『そんなやつだよ、、あいつは、、』と突き放したようにつぶやいている。

実に分かり易く「常習犯」対「初犯」の対決を説明してくれている。「常習犯」は考えてから行動するのではない。行動してから考えるのであり(実は行動した後も考えない)

笠知衆()『どうしてお父さんお母さんだけにでも相談しなかったんだ!。お前よく考えたのか?』

原節子『、、、、』

となるのは当然の流れであって、それは考えてから行動する「初犯」にとっては不気味な行動以外の何物でもないものの行動したあとからも考えない原節子にとってみれば家族会議などという考える場所を開催した笠知衆のほうがまったくもっておかしいのであって『きっとしないんだな!。あとでしまった!って思うようなことはないんだな!』と聞かれたところで(この聞き方も実に笑える)、そもそも善悪は「あと」からも来ないのだから『しまった!』も何もあるわけがなく→原節子『ありません、、』笠知衆『ないな!、きっとないんだな!』→原節子『ありません!』、、と答えるしかない。善悪の領域に関する言説に対して「常習犯」は『とんでもない』『ありません!』、、こう即答して静かにひとり去って行くしかない。「常習犯」の言動は因果の流れから自由であるがゆえに因果的道徳によって既になにかを諦めかけていた人たちに時として大きな夢を与えることになる。『よかったよかった、、』と杉村春子を驚かせて号泣させてしまい、続けて突如発せられた『紀子さん!、パン食べない?アンパン!』というなんの脈絡のない言説は、因果の流れから解き放たれた彼女の叫びであり、意味もないところに湧き出す感動であり、そのようなエモーションを授けることのできる「古い者」をヒーローと呼ぶ。

→「おかあさん」(1952 成瀬己喜男)~瞳の成長物語

成瀬巳喜男の論文において●「おかあさん」は「物語窃視」しかできない香川京子が「裸の窃視」をすることのできる身体へと成長する物語であることを検討したが(論文成瀬巳喜男第二部参照・後日投稿)、「物語窃視」とは「であること」における分節化された領域であり対象の表情を「読むこと」によって成立する「初犯」的盗み見なのに対して「裸の窃視」とは「すること」における非分節化された領域であり対象をありのままに「見ること」によってそのまま肯定する「常習犯」的盗み見に他ならず、結局のところ映画における成長物語とは「であること」の領域から「すること」の領域への転換を画面に焼き付けることの過程としてある。ジャン・ルノワールは●「河」(1951)において娘(パトリシア・ウォルターズ)の初恋の人で義足のアメリカ人(トーマス・E・ブリーン)が他の娘(エイドリアン・コリ)とキスをしているのを盗み見し(意味を読んでいるので物語窃視)、顔をしかめて嫉妬したあと、弟の死、みずからの自殺未遂、そして恋するアメリカ人との和解を体験しながらラストシーンでは自分の母親(ノーラ・スィンバーン)が出産した赤ん坊の産声を聞いたとき、初恋の人から来たばかりの手紙をしなやかに(無意識に)舞い落としながら産声の聞こえる方へと走り出し、男の子が生まれることを皆が願う土地で女の子が生まれたと聞いた瞬間、父親(エスモンド・ナイト)や他の思春期の娘たちと一緒にこみ上げるように笑い出してしまう、ただそれだけのショットで娘たちが善悪を超え人が生まれ死んでゆくことだだそれだけをそのまま肯定することのできる「常習犯」へと成長しつつあることをフィルムに焼き付け映画は終わっている。クリント・イーストウッド●「ペイルライダー」のラストシーンで見えなくなったイーストウッドの背中へ向けて少女(シドニー・ペニー)が決して●「シェーン」(1953)の少年のように『カンバック!』などという言葉を発することなくWe all Love YouI Love YouThank YouGood Bye!、』と別れを告げて馬車に乗り反対方向へと去って行ったのは、少女には決してあのガンマンが帰ってくることはないと身に染みて知っていたからであり、その声の振動と振り向きもせずに去って行く彼女のしなやかな運動そのものによって映画は少女の成長の跡を静かに画面に焼き付け終わっている。成長するにつれ人は何かを失うというほろ苦い体験は「起源」というノスタルジーを喪失することでしか現在を生き抜いてゆくことのできない人間の悲しみをあらわしている。


→「晩春」(1949小津安二郎)~壺

母を亡くし父親(笠知衆)と2人で暮らしている原節子は、再婚する叔父(三島雅夫)を『不潔できたならしい』と嫌悪し、また三宅邦子との再婚話の持ち上がった父親に対しても同様の感情を持ち続けている。父と能を鑑賞に行った時、原節子は右隣の父親の顔を鏡にしてやや離れた桟敷席に座っている三宅邦子に気づくと軽く会釈をしてからゆっくりと2回ずつ、笠知衆と三宅邦子を盗み見している。その見つめる原節子の心理的な表情からして彼女は2人に対して否定的な評価をしており(嫌悪を感じており)これは成瀬巳喜男論文で検討したところの物語窃視=対象を「読むこと」の窃視として撮られている。「読むこと」=メロドラマ的「初犯」であり、能鑑賞は原節子が「読むこと」をすることのために存在するマクガフィンのように見える。映画は進んで結婚の決まった原節子が父と最後の旅行に出かけた京都の清水の舞台で原節子は遠巻きに三島雅夫の妻になる坪内美子を確認しており、寝床の中で父親の笠知衆に『小母様(坪内美子)ってとってもいい方だわ、、小父様ともお似合いだし、、きたならしいなんてあたし言うんじゃなかった、』と述べていることから、実際に原節子は坪内美子に会って食事でもして話をしたと思われるがそのショットは省略されており、あの清水の舞台で原節子が坪内美子を遠くから見つめたショットは原節子が「読むこと」をしたのか「見ること」をしたのか確認できないが、小津はそうしたシーンを意図的に略し旅館で2人布団を並べて寝ているあの「有名な」シーンへと続けているように見える。ここでは原節子と笠知衆との近親相姦的愛憎についての侃侃諤諤の議論が今もってなされているが、映画論として重要なのは何時、いかなるショットによって原節子における「読むこと」の身体性が「見ること」の身体性へと変貌したか、あるいは変貌したことを露呈させたかであり、それは原節子が眠っている父親を窃視したあのショットを置いて他にない。『ねぇ、お父さん、お父さんのこと、とても嫌だったんだけど、』と言った後、ふと父親の方に顔を向けるとそこには寝静まった父親の寝顔があり、それを原節子は能の桟敷席でしたようなあの心理的な表情とはまったく異質の透き通った顔でもって窃視しているのであり(裸の窃視)、父と娘が同じ部屋で眠るというエロス的な解釈は運動論的には窃視のためのマクガフィンとして解消されている。原節子の「見ること」に意味はないのであり、仮にそこに蓮實重彦が指摘する「性の露呈」のようなことがあるにしても(「監督小津安二郎」)、それは「見ること」の「あと」から来る出来事に過ぎず、重要なのはそのことをそのこととして「見ること」それ自体であり、続く壺のショットにしてもそこに意味を見出すことになると小津の撮ったあらゆる事物には意味があることになりかねない。

→「シェーン」(1953)

ジョージ・スティーヴンス●「シェーン」はフロンティアも終わりに近づいた時代を撮った作品であり、もはや時代の遺物であるガンマンのアラン・ラッドが同じくガンマンのジャック・パランスや悪党たち「古い者」を一掃して去ってゆくありかたはジョン・ウェインの遺作となったドン・シーゲル●「ラスト・シューティスト」(1976)等によって踏襲されているが、この作品のアラン・ラッドは決闘へと向かう前『私のために?』と尋ねるジーン・アーサーに対して『あなたのために、そしてジョー(ヴァン・ヘフリン)とジョーイのため、』と「善意(おおやけ)」の動機を説明し、最後に土地を離れる時にも、これからの時代にガンマンの自分はもう要なしだ、といった理由を少年に対してちゃんと話してから去っているのであり、敵であったはずの「悪党」のベン・ジョンソンが突然改心してアラン・ラッドと握手をして「善人」へと豹変したり、恐怖から土地を離れようとする開拓者たちを何度も説得して思い留まらせたりというように、この作品は●「真昼の決闘」(1952)同様、行動する前に考えて説得するメロドラマ的現象があらゆる細部へ波及している。ラストシーンで少年が『シェーン!、カンバック!』とシェーンに向かって『帰って来て!』と叫んだのは、その前にシェーンが少年に「何故出ていくか」の理由をちゃんと話しているからであり、理由があると聞いたからこそ少年はその理由に対して『カンバック!』と叫べるのであり、理由もなく去って行った●「ペイルライダー」のイーストウッドに別れを告げて去って行ったあの少女と違い「理由」を知ってしまった少年は残念ながら成長することなく「初犯」のまま映画を終了している。「初犯」を「成長」させることができるのは「常習犯」以外にあり得ない。

★ヒッチコックと「残虐の映画史」

「であること」へと煙られた作品で「初犯」を撮り、あとは「すること」オンリーの巻き込まれ運動を撮るヒッチコックの主人公に「常習犯」の露呈させる「残虐の映画史」は存在しない。悪役においてなら●「サイコ」のアンソニー・パーキンス●「見知らぬ乗客」のロバート・ウォーカーなど精神疾患の者たちがその残虐性を画面の上に焼き付け●「汚名」のクロード・レインズ●「裏窓」のレイモンド・バーなどは罪の意識のない「常習犯」特有の得体のしれない残虐さを醸し出しているものの、●「映画術」でのトリュフォーとの対談で幾度も言及されていたように観客の感情移入を非常に重要視しながら映画を撮っているヒッチコックは犯罪者を主人公にして撮る時●「ロープ」のファーリー・グレンジャー、ジョン・ドール●「ダイヤルMを廻せ!」のレイ・ミランドのように主人公たちを人間的で感情移入し易い「初犯」として撮っているのであり「常習犯」の主人公が不可欠な西部劇もギャング映画もヒッチコックは撮ってはいない。既に検討したように巻き込まれ映画の主人公たちの犯罪の大部分は正当防衛であったり不可抗力であったりという動物的な運動であり「常習犯」における粗暴犯=故意犯とは異なっている。「常習犯」を主人公にして撮ることのできないヒッチコック映画に「残虐の映画史」は存在しない。

★ジャンル映画とマクガフィン

「ありもしないであること」へと向けられて「常習犯」的禁欲運動を遂げてゆくのがジャンル映画であるとして、そこには「であること」という運動を起動させてくれる仮想があるのだから、ジャンル映画においてマクガフィンの数は減少する傾向を示すはずである。だからこそジャンル映画は大量生産に向いているのであるが、大量に生産されては消えてゆく多くのB級ジャンル映画のある種の味気なさは「常習性」の弱さとそれに伴うマクガフィンの減少から来るメロドラマ的傾向に起因している。マクガフィンを配置せずにハリウッド的物語映画を撮るためにはマイケル・マンのように徹底的に「起源」から離れた領域で運動をさせる必要があるが、人々が耐えうる「常習性」の限界はせいぜいが「前科4犯」前後の「人間的な」人物であり、実際大部分のジャンル映画の主人公たちは大方「前科4犯」以前で撮られていることから彼らを「すること」の領域に留まらせるためには脚本家によって練られたマクガフィンを配置する必要があるが、安上がりの大量生産を前提とするジャンル映画にはそれができず、多くの場合ジャンル映画は常に「起源」へと接近するメロドラマ的傾向となって運動を停滞させることになる(ジャンル映画機能・運動連関表)。●「ギルダ」(1946)のようなノワールも例外ではなく、グレン・フォードが刑事のジョセフ・カレイアからリタ・ヘイワースの「潔白」を知らされ彼女が「悪女」ではないことがわかるや否や「改心」して詫びハッピーエンドで終わるこの作品は限りなく善悪の領域=メロドラマに接近している。脚本家によって練られたマクガフィンを多数配置するジョン・フォード、ホークス的運動は大量生産には向いてはおらず、物語的にジャンル映画を先導することはあり得ても運動論的にはジャンル映画を主導することはない。さらに「ありもしない起源」に徹底的に牽引されるマイケル・マン的運動はマクガフィンへの依存度が弱いことからヒッチコック=ホークス等古典的ハリウッド映画に比べて運動が起動し易くジャンル映画に必要な大量生産の適正を有している。時として3時間弱にも及ぶ映画を撮ってしまうマイケル・マンをB級ジャンル映画と結びつけることは一見飛躍としているように見えるものの、起動性の観点からしてマイケル・マン的運動はジャンル映画の理想形として君臨している(「前科10犯」が大衆に受け容れられるかはまた別の話である)

★スクリューボールコメディ

コメディのジャンルに関してはスラップスティックコメディ、スクリューボールコメディ、ソフィスティケイテッド・コメディなどがあるとされているが、そもそも何をしてこれらを分かつかについて曖昧であり運動の観点からの再検討が必要になる。

→「或る夜の出来事」(1934)と「赤ちゃん教育」(1938)

フランク・キャプラの●「或る夜の出来事」は一般にスクリューボールコメディの「起源」だと言われているが、その運動は新聞記者のクラーク・ゲーブルがひたすら密着取材をして記事を書き上げ、富豪の娘クローデット・コルベールがバスを待たせたり無駄遣いをしたりシャワーの行列に割り込んだりと、ひたすらわがままを反復させることで富豪の娘を「常習犯」的に演じたりというようにその運動はみずからの本来持っている性向=「であること」へと向けられた職業的・人間的スキル運動としてある。同じようにスクリューボールコメディに分類されるジョージ・キューカー●「素晴らしき休日」(1938)では主人公のケーリー・グラントは『190826日生まれの30歳。ボルチモア出身。父は食料品店を経営し借金だらけで死ぬ。母が働いて借金を返し自分が16の時死んだ。10歳から仕事を始める。自力でハーバードを卒業。皿洗い、鉄鋼所、自動車工場、ごみ回収業等何でもやった。ここ数年は金融関係。仕事はできる。就職した会社を立て直した。コネはなく、金に執着しない。』と詳細な「起源」が語られるばかりか『人生の目的を探すために自らの意志で婚約を解消する』という極めて人間的な運動を続けてゆく人物であり、キャサリン・ヘプバーンもまたみずからの理想のために家を出てゆくという「であること」へと向けられた人間的な運動を続けてゆくのであり、それはラストシーンの船の通路でケーリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンがキスをする瞬間、船室から顔を出していたエドワード・エヴェレット・ホートンとジーン・ディクソンの夫婦が咄嗟にドアを閉めて船室へ消えていった「退出の映画史」によっても彩られている。同じくジョージ・キューカー●「フィラデルフィア物語」(1940)にしても主人公のケーリー・グラントは図書館の創設者の孫で妻のキャサリン・ヘップバーンと幼馴染であるという「起源」が語られつつ、映画はケーリー・グラントがキャサリン・ヘプバーンに家から追い出されるという「起源」そのものから始まり、彼を含めてジェームズ・スチュワート、ルース・ハッセイは記者という職業的運動をさらに超えて「恋人は恋をする」という人間的な運動をし続けており、富豪の娘キャサリン・ヘプバーンもまた富豪の娘らしい勝気で奔放な運動をし続けながらそれを父親(ジョン・ハリディ)に咎められると浮気をしている父親に涙を浮かべて抗議をし、終盤その父親に対して『私は人間だって感じてるわ』と告白しているようにこの作品もまた「であること」へと向けられた人間的運動の撮られた作品としてあり、だからこそ終盤、キャサリン・ヘップバーンが婚約者(ジョン・ハワード)からの手紙を読み始めるや否や同席していたケーリー・グラントとルース・ハッセイが即座に席をはずそうとしたのをヘップバーンが『居てちょうだい』とわざわざ断って同席させるシーンが撮られているように、これらの作品は退出の映画史が指し示す身に染みついた運動=「常習犯」の映画としてある。同じくジョージ・キューカー●「アダム氏とマダム」(1949)は弁護士(キャサリン・ヘップバーン)と検事(スペンサー・トレイシー)の夫婦が、浮気した夫(トム・イーウェル)の浮気現場に踏み込み銃を発砲して夫を負傷させた妻(ジュディ・ホリディ)を被告とする裁判でそれぞれ弁護士と検事を担当しながら法廷を介して自分たちの夫婦喧嘩を繰り広げていく作品であり、ここでも主人公たちは弁護士、検事、あるいは男と女という「であること」へと向けられた職業的、人間的運動を繰り広げている。レオ・マッケリー●「新婚道記」(1936)は浮気をしたのではないかという疑念=善悪=から離婚をすることになった夫婦(アイリーン・ダン・ケーリー・グラント)がおよそ善悪からは程遠い夫婦喧嘩(じゃれ合い)に明け暮れながら終盤、2人の初めての出会いを想い出しシャンパンで乾杯した時のケーリー・グラントの真剣な表情は決してヒッチコック的動物のそれではなく夫、妻、女、男といった「であること」のめがけられた人間的運動としてあり、この作品はその「常習性」において●「素晴らしき休日」●「フィラデルフィア物語」等よりも強力な「前科6犯」前後の「常習犯」に接近しつつも人間「であること」へと向けられた運動であることで共通している。こうした人間的作品に対して同じくスクリューボールコメディとされる作品でもハワード・ホークス●「赤ちゃん教育」は考古学者のケーリー・グラントがゴルフをする、弁護士を探す、女の破れたドレスを背後から隠しながら歩く、犬が埋めた骨を犬を追いかけて探す、豹を椅子で追い込んで牢屋に入れる、、というように考古学者という職業的スキルとはかけ離れた反スキルの動物的運動に集約されていて考古学者として恐竜の骨組みを完成させるという任務は何一つなされておらず、仮にキャサリン・ヘプバーンの運動を●「或る夜の出来事」のクローデット・コルベール同様、富豪の娘にありがちな「わががまであること」へ向けられた「常習犯」のそれだとしても、キャサリン・ヘプバーンに対して『もうこれ以上僕を巻き込まないでくれ!』とケーリー・グラントが叫んだように●「赤ちゃん教育」は「であること」に牽引されて人間的運動を遂行する他の「スクリューボールコメディ」とは運動の質が決定的に異なりひたすら人間的なるものを削ぎ剥がされた動物的人間が膨大なマクガフィンによって弾き飛ばされていく巻き込まれ運動の典型としてあり、余りにも人間的なるものからかけ離れたこの作品を●「或る夜の出来事」等人間的な「常習犯」を撮った作品と同じジャンルと即断することはできず、むしろ●「或る夜の出来事」等は新聞記者がひたすら記者の仕事に明け暮れるハワード・ホークスのスキル運動●「ヒズ・ガール・フライデー」と通底していると見るべきである。ジャンルは主題や物語の内容だけによって分類されるのではなく運動の質を踏まえた検討がなされなければならずホークスの●「赤ちゃん教育」と●「ヒズ・ガール・フライデー」とはその運動性においてまったく異質のジャンルを形成していることを知らなければならない。

★「常習犯」によるコメディの撮り方

「常習犯」を撮ったコメディには多くの場合「初犯」の人間が間の抜けた人間として撮られるのが常であり●「ヒズ・ガール・フライデー」のラルフ・ベラミー、●「モンキー・ビジネス」のヒュー・マーロウ●「紳士は金髪がお好き」(1953)のトミー・ヌーナンについては善悪で行動する「初犯」ゆえに「常習犯」の主人公たちに間抜け人間としてあしらわれていることを検討したが●「或る夜の出来事」(1934)ではクローデット・コルベールの父親ウォルター・コノリーによると『金でどうにでもなる男だ』と評された「初犯」のジェームソン・トーマスが結婚式でクローデット・コルベールに逃げられているし、●「新婚道中記」もまた道徳的「初犯」のラルフ・ベラミーが「常習犯」のケーリー・グラントとアイリーン・ダンにいいようにあしらわられ、●「素晴らしき休日」では損得勘定で人生を生きる知的で冷たい「初犯」の妹ドリス・ノーランが、その夫ケーリー・グラント、姉のキャサリン・ヘプバーン、そしてその弟でピアニストになりたかったリュー・エアーズ、はたまたエドワード・エヴェレット・ホートン・ジーン・ディクソン夫妻といった損得勘定を抜きにした粗暴犯的「常習犯」のアクロバット集団に対比され●「フィラデルフィア物語」でもまたケーリー・グラントとその元妻のヘップバーン、ジェームズ・スチュワートとルース・ハッセイを加えた「常習犯の共同体」に対して、婚約者の浮気を善悪の視点から非難する「初犯」のジョン・ハワードが対峙させられており、リメイクでは題名『上流社会=HIGH SOCIETY(1956)にもなった「上流」とは出自や身分を超えた「常習犯」を指し示しているのであり、だからこそ無一文から苦労して這い上がっても善悪で行動するジョン・ハワードは「初犯」であることから軽蔑され、生活のために小説や画家を諦めて記者をしているジェームズ・スチュワート、ルース・ハッセイは決して善悪を口にしない者たち=「常習犯」であるがゆえにケーリー・グラント等の仲間入りを果たしているのであり、善悪の人ジョン・ハワードに対してヘップバーンが『あなたは私の100倍も立派だわ』と評したその「立派」とは彼が善悪の領域における住人であることのさり気ない映画的けなし言葉にほかならない。