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映画批評 映画評論

封切館 2007年分(2024年7月17日再出)

評価 照明 短評 鑑賞日付
ベオウルフ/呪われし勇者 40 50 監督ロバート・ゼメキス

幼児性というのか、、、

まずもって主役の顔、というものが、どうにもこうにも映画にならない。あれは脇役の、それも殆どエキストラの顔であって、映画の主役の顔ではない。
エージェントの力関係や、あらゆる契約上のパッケージ制度が、まるで動物園から連れてきたような「スター」を生み出す原因ともなっているだろう。
これならゲームにして売り出したほうがよい。
ミッドナイト・イーグル 一時間で退席

間違っても海外にだけは持ち出さないで欲しい。願いはそれだけである。
ボーン・アルティメイタム 0 4 二度目の鑑賞

おそらく、グリーングラス映画の最大の論点は、フレームと倫理の問題だと私は思っている。或いは映画の「フィクション性とドキュメンタリー性」の問題でもあり、「リアリズム」の問題であると言っても良い。もちろんそれについて、「物理的な」答えはない。ただ私は、グリーングラスのやり方は極めて問題が多過ぎると内心で「確信」するだけである。その点については、以前書いた「ユナイテッド93」を参考にして頂きたい。

その他カッティングのスピード、クローズアップ過多、照明や装置、という「画面」の問題もあるので、ここに少し付け加えておく。大切なのは、「映画とは何か」と考えることである。

エイゼンシュテインの「十月」(1928)は「ロードオブザリング」よりもさらに速い一時間1600ものショットによって成り立っている傑作である。ジャン・ルノワールの「カトリーヌ」(1924)は「ロードオブザリング」と同様の一時間1000ショットの高速スピードで編集されている。D・W・グリフィスの「イントレランス」(1916)は一時間980ショット、ジガ・ヴェルトフの「カメラを持った男」(1929)は一時間1300、成瀬巳喜男の「生さぬ仲」(1932)は一時間1000という超ハイスピードで持続してゆく。だがこれら1910~20年代サイレント期のアバンギャルド的傑作群は、その高速のリズムに決して「画面」が添え物として働いていたものではない。「画面」はまず、その決定的存在感によって主導権を握っていた。
スピードの問題ではない。「画面」の問題である。

1953年、20世紀フォックスの「聖衣」から始まるシネマスコープの横長画面の登場によって登場した「ブリガドーン」「足ながおじさん」「ショウほど素敵な商売はない」「百万長者と結婚する方法」などのシネスコ映画には、殆ど「クローズアップが存在しない。シネスコの登場は、明らかにハリウッドを惑わし、「シネスコでクローズアップは厳禁」という間違った法則を作り出していた。画面はフルショットの長回しが基本とされ、重苦しさに包まれ、そこには「接近」の意欲も禁じられ、スターたちは広角で歪曲した鮮明過ぎる横長の画面の中でただひたすらしゃべり続けるだけの苦役に甘んじていたのである。
クローズアップは、心理的なものではなく、ただひたすらの「欲望」による接近として成される限り、我々の瞳を宙吊りにする素晴らしい力を秘めた映画最大の発見ともなる。ハリウッドの「物語映画」にクローズアップが消えた日々が現実としてあったことを、我々は映画史として記憶しておくべきだろう。

だが、それが「欲望」でない動機によって多用された現在、映画はどこへ行くのか。

照明の悪い映画もまた、「続・三丁目の夕日」などのように、ただそれだけで没なのではない。だがしかし、映画とは「光」がなければフィルムが感光せず、スクリーンには何も映らない。すると「光」とは、映画にとって何なのか。

「ボーン・アルティメイタム」は、こうした要素すべてに引っかかっている危険な映画である。
何度も言うように、これらすべての要素が重なり合った作品は、現代型メディアの視覚戦略における「画面を隠す」という典型的な病理を多かれ少なかれ露呈させているからである。この映画には「画面」が存在しない。グリーングラスの趣旨そのものが画面を「隠すこと」にあるからだ。私はそう確信している。

今という時代は、「見ること」の退化によって「見せること」が堕落化し、「見せること」は、不可視の「物語」へと安直に置き換えられ、変換させられ、我々はひたすら「隠された画面」を見た気になって、凡庸な画面を受け容れさせられている

そのような中で、「ロードオブザリング」「パイレーツオブカリビアン」そしてこの「ボーン・アルティメイタム」のように、露骨に「画面を隠す」傾向を示した映画が大ヒットすることに対して、私はいつものようにもここで警鐘を鳴らすことになる。映画を作ること、作りたいと願う人は、何よりも「見て欲しい」から作るのだ。それをこのような「見えない画面」を作ろうとすること自体、そこにいかがわしさと言うものを感じざるを得ない。
厨房で逢いましょう(2006独) 50 50 ポスモダンにどっぷり浸かっている。泣きたくなるほど凡庸なのだが、今はもうこの程度の人材しかいないのは、ドイツも日本も同じということか。
サッド ヴァケイション(2007) 85 85 監督青山真治、撮影たむらまさき、照明中村裕樹、俳優浅野忠信、石田えり、中村嘉葎雄、

二回鑑賞

この映画が「女」という一つの「権威」に対して屈服した男の物語だとすれば、それはあたかもドイツ1920年代の街路映画において、多くの男たちが母や妻の膝に顔を埋めその権威に屈服したのと同様に、オダギリジョーが宮崎あおいの膝にすがった視覚が「女の権威」を表してもいるであろう。
或いは廊下を横切る浅野忠信の小津的描写や、ラストのハワード・ホークス的視線とカッティングなどに「オマージュ映画」としての側面を見出すのも一つの楽しみかもしれない。

だがこの映画のは、決してそのような「安心する物語」にだけ吸引されることはない。

そもそもが「浅野忠信」という役者の有する「二面性」、これが果たして「二面性」という単純な表と裏で割り切れるものなのかという時間の奥行きと戸惑いをこの「サッドヴァケイション」はひたすら思い出させてくれている。

恐るべき清清しさと礼儀正しさの男である浅野忠信が、「Helpless」からこの「サッドヴァケイション」まで持続するフィルムの時間の中において、時間の連続性と均質化を拒絶し、「物語」という鎖から解き放たれて生き生きとした時間そのものをフィルムの映画として露呈させている

浅野忠信を、「まじめな青年」と「キレ易い人殺し」という二元論でなく、或いは「人間」をして「正常者」と「異常者」として区別するのでなく、ひたすら持続する時間の中で、一人の人間としてそのまま投げ出す豊かさがあらゆる人物たちに露呈している。

この映画に或る時間と空間は、「理由」という理由を破壊し、ある不条理の中ですら人間は豊かに生きながらえるという力への意志である。

息子を殴る中村嘉葎雄を背後から抱き押さえる浅野忠信のあの力を加減した「押さえ方」にしても、たばこを吸う中村嘉葎雄の顔を見つめる斉藤陽一郎の「顔」にしても、或いは面会室の石田えりの後髪をまるでリリアン・ギッシュのように輝かせたたむらまさきと中村裕樹のバックライトにしても、異質の「時間」というものを生きてきた者達、ここでは敢えて「上級者」という言葉を使ってみたくなるのだが、そうした、異質の時間を生きて来た「上級者」に対する「敬意」に満ちた映画なのだ。

青山真治という「小説家」でもある映画監督は、ひたすら映画の内側で始まり内側で終わる黒沢清とは違い、映画の「内」と「外」との境界線上をひらひらと浮遊し続ける危なさの中で生きうる作家であるが、しかし最後はいつものように、映画の「内」でもって涼しげに終結出来てしまう稀有な作家であるだろう。
2007.12.10更新
ボーン・アルティメイタム 監督ポール・グリーングラス
途中退席。

「刑事コロンボ」「自爆の紐」の終盤に「人間なんて、簡単に、騙せるもんですねぇ、、」とピーター・フォークが(小池朝雄が)しみじみというシーンがあったが、この「ボーン・アルティメイタム」のような許し難き手抜き画面の連鎖に対してこうも「コロリ」と騙されてしまう現象とは、日本のテレビでイカサマ占い師やインチキ霊媒師がのさばっていのと同じ構造なのだろうし、「ロードオブザリング」のような、極めて程度の低い愚作が傑作扱いされている批評界とも実に親和的である。

実力が数字で出る世界(野球、サッカーなどのスポーツや将棋などの競技)を除いて、価値観を基にした「真・善・美」の世界において、日本人が「傑作だ、、」と騒いだものは、人、物、芸術、含めてほとんどすべてが「だめ」といって間違いのない「全滅の時代」へと突入している。

自分が傑作だと思った作品が、「~旬報」で一位になったり、みんなが「傑作だ」と騒いでいたら、まず「だめ」なのだと思って泣いたほうがよい。
バイオハザードⅢ 60 65 監督ラッセル・マルケイ

このラッセル・マルケイの映画は「○けい?」「×けい?」と聞かれれば、即座に私は「△ケイ」とお答えしたい。

「引く」という美的行為を知ってさえいれば、映画は「映画」になる、というわかり易い例であって、この映画の撮り方は、その激しい外観からは打って変わって、実に「古典的な」カッティング・イン・アクションで撮られていて、確かに途方もない脅かしの連続であるとか、アクション時の落ち着かないカッティングであるとか、厚味の出ない脚本であるとかの「現代病」を背負ってはいるものの、少なくともこの映画の画面は、「バカでも撮れるボーンアルティメイタム」の手抜き画面とは明らかに一線を画し、「映画」の枠の中へとギリギリセーフしている。

ソルトレイクシティでダンブルウィードが飛んで来て、一軒家が出て来るから「西部劇的」に行くのかと思いきや、突如ヒッチコック的になったりと、映画史的感性が強そうで弱い面もあるのだが。

「光」というものに対して欲望を持つ、という映画の当然が、「ボーン・アルティメイタム」のような映画には致命的に欠けているのであって、そうした点からして、ある程度照明の力によって世界を作らざるを得ない「ホラー」というジャンルは、平均的に「映画」になっているケースが多いのは、日活ロマンポルノ全盛の、ポルノと他ジャンルとの関係と、何かしら重なり合うのではないだろうか。

どちらにせよ、こうした感覚は、「ホラー」や「ポルノ」というものを、「ジャンル」として差別したがる権威主義的批評家諸氏には、決して理解不能なイメージだろう。
ALWAYS 続・三丁目の夕日 70 50 監督山崎貴
批評あり
照明は、大きな部分(ラストなど)はそれなりに撮れているとしても、小さな部分はまったくなっていない。泣きたくなるほどシロウト的である。

構図についてひとつ。女の子が家に来た最初の晩の食卓を俯瞰気味に捉えた構図だが、斜め右に配置された男の子の持っている茶碗が、手前の人間の陰に隠れて映っていない。これはあくまで「映画史的記憶」に過ぎないが、少なくとも私は、「善い映画」においては、こうした構図をあまり見たことがない。「飯を食う」シーンなのだから、その「飯の入った茶碗」を構図に入れない、というのは、どうも美的ではないのである。

原稿を書く時の、万年筆が紙にこすれる「音」などは、それだけで映画になるのだからもっと聞かせて欲しかった。吉岡が流し込む茶漬けの「音」もまた良かった。
陸に上った軍艦 60 60 監督山本保博、原作脚本、新藤兼人
どうもこのデジタル画面のギザギザ感が映画として面白くない。
ちなみにこれは「映画」として封切られたものであって「テレビ」ではないのだから、まずもって我々は、「映画」として評価せねばならないのであるが、そうすると、この「イメージ映像」の心理的描写はまずもって許し難く、また、不要としか言いようのない濡れ場にしても、あの下品な描写が何とも許しがたい。
「軍隊=悪」「国民=善」という簡単な二元論が映画の発展を拒絶しもしている。、

しかしそうしたものを超えて、新藤兼人という「人間」そのものの証言の「力」そのものは、確固たる力として露呈している。その部分は「映画」だ。
不完全なふたり(2005仏、日) 50 50 監督、諏訪敦彦、撮影カロリーヌ・シャンプティエ

おそらく全部でショットは50前後だと思われる、この「ワンシーン・ワンカット」の映画には、果敢に「光」に対して向かって行く姿勢が視覚的に感じられる。しかし、例えば最初から6つ目だったか7つ目だったかのショットの、アパートメントの階段のシークエンスの照明は、あれで良いとは思われない。階段のヘリに光を反射させるのは良いとしても、たった一つのヘリと右上部の光だけでは感光として弱く、美学的に面白くない。そうしたショットが少し多過ぎるのだ。ラストの駅のシーンもまた、光としてまったく面白味を欠いている。これが「カロリーヌ・シャンプティエ」だから、映画は面白いというしかない。
■追記 もう一度見てみたい作品ではある。2024.7.16
2007.11.15更新
ブレイブ・ワン 55 55 監督ニール・ジョーダン、女優ジョディ・フォスター
悪い部分と良い部分と、その格差に苦しむ。
終盤はなかなか乗ってもいける。しかし、それ以上のものではないというのはいつものこと。
インランド・エンパイア(2006米) 50 50 監督デヴィッド・リンチ
リンチは「難解な映画」というものを未だに信じているのだろうか。仮にであるが、「難解な映画を撮ろう」という動機の下に映画を撮る場合、その画面は常に「古臭さ」と「不誠実さ」によって覆い尽くされるだろう。
この映画のつまらなさは、映画の「現在性」をちっとも信じていない所にあるのだ。
キングダム/見えざる敵(2007) 40 40 ひたすら「古い」。このような古臭い撮り方を新しいと勘違いしているところに、偉大なる才能の欠如が露呈している。
映画の「現在性」を悉く拒絶し、ひたすら「ニュース映像のようなリアルな画面」という「過去の記憶」によって画面が侵食されている。その意味するところは「ユナイテッド93」の批評等を見て頂きたい。
ヘアスプレー(2007) 40 40 監督アダム・シャンクマン

批評あり「ヘアスプレー 雨に濡れた地面と映画史について」
2007.11.5更新
殯の森 0 50 監督河瀬直美
デビュー作「萌えの朱雀」を私は中々よいと感じた記憶があるが、その反面、非常に悪い面も併せ持っていて、それは一言で言うならば「自然」と「職業俳優」との「不釣合い」であった。この監督さんは、本当に「自然」というものに何かを感じているのか、と。

それは例えば「萌えの朱雀」の村会会議で、村に列車が引かれない事の知らせを受けた國村準の「心理的表情」などに現れた違和感などに代表されるのであるが、この「殯の森」は、そうした「心理的」な側面が、最早許せる範囲を遥かに逸脱し、ここでは「自然」も「村の人々」もすべては「ほんとうらしさ」を装うための道具として利用され、一見美しそうに見える山や森のショットも、ただそれだけが独立し、人間たちと何ら融合することはない。
人間たちは、「それらしい」表情で、いかにも、さも、という、少なくとも倫理的な監督であれば決して手を出さないであろうところの感傷的な訳在り顔や、それらしい演出で、見ている我々に「らしさ」や「理由」を押し付け、「共感」だとか「善意」であるとかいう、およそ映画の運動とはかけ離れたところに位置する異質の感覚を引き起こさせようとしている。
突然木が倒れてきたり、しかめっ面の大声の悲鳴、つまらない激流のモンタージュと、まるでスプラッターなみに我々を「びっくり」させることに集中しているが、その逆作用として、人間や自然そのものの露呈でもって我々を不意打ちすることはない。視点も構図も豊かさを欠いている。
図鑑に載っていない虫 10 50 これは「のり」なのだから、映画ではなく、「コント」とか「漫才」でやった方が面白いだろう。
サウス・バウンド(2007日) 50 50 監督森田芳光、製作角川映画

何というのだろう、感じとしては「革命気分」にさせてくれる映画であり、より詳しく感想を述べると、資本家が、プロレタリアートに「革命した気分」を味あわせてくれながら「はいっ、これで終わり。明日からまた搾取しますけど、どうぞよろしく」という映画である。それを象徴するが如くに、画面は極めて「保守的」であり、カッティングは「官僚的」であり、照明は「野生の照明」である。

「善良な革命」、この「善良」というものの居心地の悪さ。先日の中江裕司の「恋ごころ」でも露呈していたところの「善良さ」という、何処から見てもそれは「権力」というものと結びついている「仮面」なのだが、コメディであれ何であれ、仮にも「革命」と名の付く映画に「善良さ」というものが始終露呈するこの映画の人格は、紛れもなく「ブルジョア」のそれなのである。

映画としての「資本」という名のもとで創られる「革命」とは徹底して「B」であり、切羽詰った時間との戦いであり、テーマはすべてスリークッションの精神によって包み隠された中での、映画そのものを露呈させることで革命そのものを感じさせてしまう「映画の革命」なのだが、この映画は実に悠長にも地上における「善良な革命」を美辞麗句によって露呈させ、時間ともおおらかに戯れながら、、「善良な革命映画」としての「A」を実践している。

この映画は、表層では笑え、またギャグにもなっているのだが、深層では余り「笑えず」、あまり「シャレ」にもなっていない。「ゴダールのダイナマイト」も、逆光の山をバックに撮った「溝口的浜辺」も、この「善良な」画面の中で白けている。

一般受けはおそらくするだろうし、楽しめないこともないのだが、この「善良さ」という悪魔からの決別を出来ないところに「資本家の映画」の限界がある。

監督は途中から「中江裕司」に代わったのだろうか。

話は変わるが、小林信彦は「ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200」の中で、日活の小林旭主演の、「渡り鳥シリーズ」における所謂「無国籍映画(小林信彦はこの名称に異議を唱えている)」においては、「小林旭の行くところに必ず土地買収問題が起こる」と記し、それをして小林は、「シェーン」の設定の拝借ではないかと推測している。
さて、この「サウス・バウンド」における主人公、豊川悦史は元全共闘の左翼であり、アナーキストであり、「俺に国籍はない」と豪語する男である。その男が、家族共々石垣島へと移住し、そこで「土地買収問題」に巻き込まれる。見事に巻き込まれるのだ。無国籍と土地買収問題、、、これは偶然といってよいのか。

■追記 「表層」と「深層」が逆になっているようである。2024.7.16
パーフェクト・ストレンジャー 途中退席
こういう画面には瞳が耐えられず、35分で退席。
消えた天使(2007米) 70 70 監督アンドリュー・ラウ俳優リチャード・ギア
蓮實重彦は、ジョン・フォードの映画をして「囚われと奪還」の物語であると言っている。ここで「囚われ」とは、具体的に「捕まっている」者ではなく、何かしらの不自由さに「囚われて」いる者たちを総称する意味合いとして使われているのだが、この「消えた天使」を見た時、アンドリュー・ラウは、このジョン・フォード的「囚われと奪還」の物語を現代において反復しているのかと、熱くなってしまう。

この映画の主人公リチャード・ギアは、性的犯罪登録者の監察者であり、その無謀な職務方法から退職を18日後に迫られた者である。それはまさに、退官を数日後に控えた「黄色いリボン」のジョン・ウェインのように「期間限定型」の主人公であり、且つ「囚われた」人物でも或る。その彼が、性的異常者に拉致された少女を「奪還」しようとする物語である。

スティーヴン・スピルバーグもこうした系統を暗に受け継いでいて、「フック」はまさに「囚われと奪還」の物語そのものだし(父権喪失という『囚われの』父が息子を『奪還』する)、「カラーパープル」「太陽の帝国」「アミスタッド」「宇宙戦争」などにおいても「帰還」という、D・W・グリフィスからジョン・フォードへと繋がる「帰郷(帰還)」のテーマを忠実に実行し続けている。

但しこのジョン・フォードの「囚われと奪還」の物語には、幾通りかのパターンがあって、中でも「捜索者」のように、「奪還」に成功したジョン・ウェインには「帰る家が何処にもない」という主題を、スティーヴン・スピルバーグは「宇宙戦争」のラストで反復させている。

今回、この「消えた天使」をもう一度見直しに行ったのは、一度目の鑑賞では迂闊にも見逃していた、主人公である「囚われの」リチャード・ギアには、果たして「家」というものがあったかなかったかという事を、再度確認するため、というのが主たる動機であった。そして見てみると、リチャード・ギアは、いきなり車で、街道のある建物の駐車場へと入って行くショットがあるのだが、その看板には、さり気なく「モーテル(motel)」と書かれていた。つまり、「仮住まい」であり、彼には「家がない」のである。そんな彼は、何処で眠るかと言うと、彼の後任としてやって来た新人のクレア・デインズの部屋で、いきなりイビキをかいて寝てしまったりする始末なのであり、モーテルの描写すら、ほとんどない。
アンドリュー・ロウは、私の感覚では在るが、極めてさり気ない演出でもって、リチャード・ギアには「帰る家がない」こと、つまりこの映画は、「囚われと奪還」の物語の中の、「捜索者型」であることを、「イビキ」や「モーテル」によって密かに露呈させているように思えるのだ

さらに「捜索者」には、この「消えた天使」のクレア・デインズと同じように、ジェフリー・ハンターという若い相棒がいた。「古い男」から「新しい者」たちへ。これもまた「リバティバランスを撃った男」「我が谷は緑なりき」「黄色いリボン」「長い灰色の線」などに代表される、ジョン・フォードのテーマであっただろう。「消えた天使」でもまた、リチャード・ギアにとっての唯一の「家」である「仕事場」の彼のテーブルには、最後には彼の荷物は消えていて、「新しい者」の名前が置かれていたはずだ。

現代において、「ジョン・フォードする」という作り手の心に私は密かな期待を込めて、有難うと言いたかった、これはつまり、そういう映画である。
10.18更新
トランス・フォーマー(2007米) 75 85 監督マイケル・ベイ撮影ミッチェル・アマンドセン

典型的に、「画面が物語を先導する」タイプの映画であって、だからこそ、「映画を読む」ことで映画を消費し続ける現代型の観客には受けはしないだろう。

メイク一つ取っても「ハリーポッーターと不死鳥の騎士団」なる愚鈍なシロモノとは雲泥の差があるこの「トランスフォーマー」という作品は、本年度最高とも言うべき美しい「黒」の出たミッチェル・アマンドセンの工夫されたキャメラと、美術、照明、特殊技術とが一体となって「映画」を作り上げている。
照明は最高ではないし、映画自体ももちろん「最高」ではなく、終盤の冗長さと落ち着かないキャメラの「病気」を内包している。だがしかし、その画面の細部の豊かさを観れば、この映画が凡百のアメリカ大作映画とは明らかに一線を画した遊び心によって撮られていることが一目で判るであろうし、だがしかし、その上で「現在」というものに向き合うその「滅びの感覚」とでも言うべき潔さは、マイケル・マンやトニー・スコット等イカス「B」たちと同様に、「今」というものに身を任せながら撮ることに対して真摯であるだろう。
終盤の図書室を俯瞰で捉えた息を呑む美しいショットや、しっとりと雨に濡れたアスファルトに反射する光線の数々、トンネル空間のさり気ない色彩感覚など、こうした、誰が見ても「美しい」と思えるショットを、一瞬で切り上げてしまうその感覚こそ、「フランスのあの人」とまでは言わないまでも、それに似た「テレ」というものが見事に画面全体に露呈している。

「持続」という問題にしても、この映画は、ラストの美しい逆光シーンを始め、親がポルシェを買うと思わせてからかったシーン、オフの音で勝手に走り去った車を窓辺まで走って確認するシーンなど、持続すべきところでは良く持続し続け、それはたまたま先日見た「シムソンズ」の、ちっとも持続しないカーリングゲームにイラついていた自分を、映画の心でもって解放してくれる。これ等はただ一つの露呈に過ぎず、全体が在って、細部がある。
「シムソンズ」は「善良さ」に支配された古風で幸福な映画である。「トランスフォーマー」は「切羽詰った」現代に身を任せた不幸な映画である。「善良さ」は時として社会に媚びる。その一方で、不幸を体現しながら社会へと切れ込む映画が在る。現代の日本人は、「善良さ」に偽装された古臭い安心映画をひたすら好み、「痛い」映画を感じる感性を見事に失っている。というよりも、目を背けている。
映画研究塾は、この「痛いトランスフォーマー」を、孤独に支持したい。我々自身もまた、「切羽詰った」ギリギリの所へ身を置くべきなのだし、例えば黒沢清を支持しながら、ケン・ローチを同時に支持すると言った悠長な自己分裂に陥るようなことは断固として慎みたいと思っている。

女の一瞬の視線と、視覚そのもので笑わせてくる数々の視覚的ギャグに笑い転げた。
私は殆ど字幕をすっ飛ばし、眺めるだけに止めて見ていたが、「物語」は何の問題もなく画面そのものから入って来る。これは紛れもなく「画面の映画」である。
スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ(2007日) 30 65 監督三池崇史

フランスワールドカップで、自国の選手を、「ア~レアレ・アレ・ジャポン」と、他国の言語で応援した分裂症の国があったが、この「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」は、まさしくそんな感じの映画である

このサーポーターの応援歌の問題は、「応援すること」よりも、「フランス人に媚びを売ること」を優先させたことに尽きている。「ほんとうに応援している者」が心の底から「アレアレジャポン」などと歌う事は絶対にありえない。これは、当時のサポーターのボスが、余りにも「戦略家」であり過ぎたことから来る簡単なミステークなのだ。
それと同じように、この「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」は、「ほんとうにウエスタンが好きで撮った」という「画面」ではない。
英語でしゃべることは自体に関して何の文句もない。画面そのものの全体的な人格が、ひたすら「大衆」に対して媚びている点が問題なのである。

最初にいきなり映画の設定を「説明」をしてしまうその精神自体が既に「西部劇」でもなければ「ウエスタン」でもなく「マカロニ」でもなければ「B」でもない。ただひたすら「大衆に」媚びているに過ぎない。つまりこの映画「シネコンに来る客」に向けて撮られている「納得」と「説明」の映画なのである。そんなものが「ウエスタン」になる訳がない。そもそも「マカロニウエスタン」とは「説明しないから」→「マカロニウエスタン」なのであって、「設定」それ自体が既に「うそ」なのであって、だが彼らは、そうした「うそ」を、西部劇への愛と遊び心でもって「まこと」へと発展させてしまう、それこそが、「マカロニウエスタン」の精神であった筈だ。観ている方も決して「何故?」とは尋ねないのが「マカロニウエスタン道」であり、「西部劇道」なのであって、「何故?」と尋ねずにはいられない「納得」と「説明」を求める人々は、西部劇やマカロニウエスタンと本来的に整合しない。にも拘らずこの映画は「説明」してしまう。「回想」してしまう。つまりこの映画「マカロニウエスタンのファン」に向けて撮られていないのである。そうではなく、それとは正反対の客層へと向けて撮られている。そしてこれこそが、現代映画の抱えている根本的病理である。現代映画が「西部劇を撮らなくなった」理由の一つは、こうした「納得」と「説明」を求める客層が、「西部劇の精神」を排除しているからに他ならない。そうした「現在」というものの厳しさに対して、この「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」は切れ込んでいない。首尾よく回避し、大衆に媚びている。致命的に「B」ではないのである。

キャメラが被写体に近付き過ぎて構図が取れず、まったく映画になっていない。
桃井かおりだけを、やけに綺麗に撮っている反面、木村佳乃は最低に撮られている。木村の、あの、オフから聞こえて来る「しゃぶる音」は、それが「オフから聞こえて来る」こと故に「下品さ」へと繋がるといった簡単な映画的常識が判っていない。
サン・ジャックへの道(2005仏) 60 60 監督コリーヌ・セロー
悪くはないのだが、決してそれ以上のものでもない。簡単な「物語映画」である。
2007.9.26更新
天然コケッコー(2007日) 10 50 監督山下敦弘

こうした映画を121分で撮ってしまう「余裕」というか、少なくともあと30分は確実に削れるのだが、こうした「時間」というものに対する現代の作家たちの無神経さというものには、いつもながら軽蔑の思いを禁じ得ない。

序盤、農道で幼女がおしっこしに学校へ引き返すシーンがあったが、その前、6、7、人の農道のショットで、その幼女の体が前の人物の陰になって映っていない。あれでいいのだろうか。、見たこともない下品なショットだったので、思わず心で「お前、バカ」と呟いてしまったのだが、あの幼女は「大切な存在」ではなかったのか、、何故あの幼女を「しっかりと撮ってあげよう」としないのだろう。まさかこれが、新趣向だとでも言うのだろうか。
このシーンだけを鬼の首を取った様に批判するのではない。だが黒澤明は、ジョン・フォードの映画をして「ジョン・フォードは何処を切ってもジョン・フォードである」と言った。ジョン・フォードの映画とは、全てのショットにおいて人格の齟齬を生じていない、という、最大級の賛辞である。
この「天然コケッコー」のワンショットを、私は許すことが出来ない。これこそ、映画人格の露呈なのである。「べつにいいじゃん」という人はそれでよろしい。私はただ、このような「見たこともないショット」を、最近のシネコンでやたらと見てしまうことに傷付くだけだ。

そもそもが、かくも老成化した子供たちのエロ物語が面白くなるとでも思っているのか。極めてリズムが悪く、カッティングの視点も平凡で、例えば黄色い封筒で合格が判る、それを横から撮ることはないだろう。

「眠る映画」ではなく、「眠くなる」映画。

「山の音」が聞こえて来る時に、その「山の音」につまらない音楽を被せていたが、どうもよく判らない。我々に「山の音」を「聞いて欲しい」というわけではないようだ。随分と変わった趣向だが、音に対する感覚をどう捉えているのか。

めしの食い方だが、あのお嬢さんは映画の中でダイエットでもしているのか、「わたしはウンコしません」という感じで、スズメがつつくような少量のめしつぶを取っては「恥ずかしそうに」口へ持って行っていたが、この「恥ずかしそうに」という態度の露呈が、どれだけ映画を馬鹿にした不愉快なものか。タモリに言わせれば「うんこをしない吉永小百合」ですら、「伊豆の踊子」(1963)で、どれだけの量のめしを箸で取って「食って」いたか、まさか知らないという訳でもあるまい。君たちは「恥ずかしがり屋さんのお遊戯」を金を払って見ろとでもいうのか。ロリコンの鑑賞会ならそうとハナから言いたまえ。
フィルムはコダックだろうか、フィルムの潜在能力をまったく開花出来ていない。
怪談(2007日) 45 70 監督中田秀夫、撮影林淳一郎、照明中村裕樹

黒木瞳は序盤、随分とセリフをしゃべりにくそうにしていて、なら台詞を変えてあげることは出来ないのかな、などと無理を考えながらの鑑賞であったが、一言で言えば「ネタ」の映画になっている。照明も、努力は十分に伝わって来てはいるものの、「黒」が出ず、日本建築における外からの光の美しさを捕まえ切れてはいない。全体として強過ぎる。

序盤、オフの空間で位牌が落ちる、その「落ちる音」はあんなのでいいのだろうか。キセルを火鉢に打ち付ける、その「打ち付ける音」も、あれでいいのだろうか。

尾上菊之助の出のショットにしても、黒木瞳のそれにしても、画面の持続を停滞させるには十分過ぎるほどの大きなクローズアップであって、いくら「スター」に対するサービスショットであるにしても、そこまで大きなのクローズアップを頻繁に入れる必要があるのだろうか、などと言ってみたくもなる。構図と視点に極めて大きな問題を抱えている。台詞も弛緩し、結局のところ、行き着くところは「芸能ネタ」に向かっている。パンフレットが800円、というのもまた、何というか、もちろん買わないが、この映画の、ひとつの「現われかた」であるだろう。
2008.28更新
あしたの私の作り方(2007日) 40 70 監督市川準、撮影鈴木一博

「筋」というものから「画面」が後付けされている。筋を進行させる画面しか存在しない。シークエンスが鎖によってがんじがらめに繋がれ、解き放たれてはくれない。画面分割にしても、ただ連続するショットを分断したに過ぎず、「視点」というものの複数性をそこに散りばめる努力が何もない。終盤の暗がりをバックにした横並びのテレビ電話のシークエンスにしても、「視点」というものが不在なために、ただ、成金趣味に「手法」というものに飛びついたとしか見えて来ない。「あおげば尊し」ではキャメラをひたすら揺らしていたが、この監督さんは、「自信」というものを失っているのか、「倫理」すれすれのコードに易々と踏み込みすぎている。

結局のところ、こうした映画は「あるある」と、見ている者の納得を得ることは出来るだろう。「あの子、わたしだ、、」、、と。そうした「社会学的観点」からするならば、この映画は確かに社会学者なりいじめや自立に悩んでいる子供たちの思考に働きかけはしよう。だがこの「あの子、私だ、、」という、この「私だ、、」というのは、ただ単なる「過去との帳尻合わせ」でしかないことに作者は気付くべきだ。それに対して映画は徹頭徹尾「現在」のメディアなのである。「現在」とは「驚き」であり「未知」であり、「他者」でもある。そうしたものを、この映画はまったく描いていない。

「現代的なテーマを扱った映画」が「現在性」を帯びるというのは錯覚でしかない。「現代的なテーマを扱った映画」とは、少なくともテーマという「物語」については「描かれる瞬間」はすでに「過去」なのである。こうした「物語」というものが持っている先験的な「過去性」というものを「現在」へと引き戻す運動に、この映画は致命的に欠けているのである。たかだが「美少女」なる「子供」を、幼児的なまでに「美化」し過ぎている。
愛されるために、ここにいる(2005仏) 30 50 「本国のフランスでは半年を超えるロングランを記録し、海外の批評家から絶賛された映画」とPRされていたので、もう完全にダメだろうと確信しつつも、何処までだめなのか、見ておこうかと思って見たところ、やや予想を超えるダメっぷりで、才能がないのは25分もあれば泣きたくなるほどの明確さにおいて簡単に判るのだが、問題なのは、映画は誰でも撮れる、という開き直りっぷりの無神経ぶりなのであって、矢張りここへと現代映画の問題は行き着いてしまう。

この映画には「地面」が存在しない。それだけで批評としては十分だろう。地面を撮りたまえ。
ハリーポッターと不死鳥の騎士団(2007英米) 8 70
見て五分と経たないうちに、この映画には、映画を「どう撮るのか」という、創作物に不可欠な「視点」というものを決定的に欠いていることが簡単に見て取れる。前から、後ろから、次は上から、そして下からと、あらゆる「視点」から映画を撮っている。つまり「視点」がない。、、、最近我々が良く出会うところの現象であり、さして珍しくもないが、それはそうとして、こういう映画を製作している方々には、残りの130分をどう過ごせばいいのか、それをまず手短に教えて頂きたい。
「弁士」を付けてみてはどうか。出演者たちを連れて来て「陰ゼリフ」で盛り上げるのもいい。いっそのことチンドン屋を中に入れて一緒に踊ってみるのも楽しそうだ。間違ってもしてはならないのは、この映画を「見ること」に集中する事である。路頭に迷った瞳が腐り果て死滅してしまう。

典型的な「1.6」であり、情熱のカケラもなく、端的に言えば、携わる仕事を間違えている。一万人が監督になれば、すべての一万人が撮れてしまうような極めて凡庸なショットの羅列によって構成されている。この種の映画には、カッティングも何もすべてハナから決まっているのだから、別に誰が撮っても同じ事なのであって、「監督」など、経験さえある者なら誰でも良いのであって、寧ろその他のスタッフの力が優先されるのである。

「人間」というものがちっとも描かれていない。ハリーポッターとキスをしたあの少女、彼女は何者でもない、ただの迷子である。映画的には何一つ描かれていないのだから。「バカ、判らない所は本を買って読め」、、根本的にそういういう感じの映画である。

確かに何度か素晴しい空間が一瞬出現するが、いくら照明や美術が力を出そうとも、それを取り仕切る製作者サイドに「視点」というものがないのだから、意味を成さない。現代の映画は、視点という才能を要する座の提示が無くとも我々観客を誤魔化すことが出来る、ということを「ロードオブザリングシリーズ」が見事に証明してしまったのだから、当然ながら、商売の人たちは、それを真似る訳である。それをしっかりと批判できて始めて、次の地点へと移行できるわけだが。
2007.8.5更新
恋人たちの失われた革命(2005仏) 90 90 監督フィリップ・ガレル撮影ウィリアム・ルプシャンスキー俳優ルイ・ガレル、クロティルド・エスム

「1968.5」の真実とは何か。
階下のアジトの通路のところで、何やら話をしている二人の男を俯瞰から捉えた見事なショットがある。通路に設置されたライトが、白い光を放ちながら、二人の「輪郭を消し去って」いる。
ローキイ且つ硬質でザラザラな粒子に包まれた、ウィリアム・ルプシャンスキーという聞き慣れた名前のキャメラマンが空間を設計したこの作品では、人物たちの黒髪は、姿は、時として背後のモノクロームに融合され、その輪郭を喪失しながら映し出されている。「1968.5とは何か」。少なくともこの映画の抽象的な画面とは、「これが1968.5の真実である」という具体的な画面ではない。逆に現代の俳優たちを当時の舞台装置の中へと放り込み、その実体を消し去りながら、否定することによって再び浮かび上がらせ「立ち現われる」瞬間をフィルムに焼付け露呈させている。それによってこの映画は、「1968.5」の「現在性」を露呈させることが出来るのだ。
「黒い眼のオペラ」にしても、この「恋人たちの失われた革命」にしても、映画においておいそれと「真実」なるものを語ることの如何わしさをそれとなく熟知しながら、「真実」を否定し、そこから生じた対立によって生じる運動をひたすら露呈させることで、映画そのものの画面を「過去」から「現在」へと導く弁証法的発展において、両者は見事にその歩調を合わせている。
見てもいない事を「真実だ」と言い張らずにはいられない事件屋たちが屯するこの世界の中で、見ていることを嘘の様に描いてしまうこの感性こそが、「映画」への親近感として私を捉え続ける。

レンガの剥がれ落ちた背後の壁や地面の起伏、ギザギザを美術装置で実現し、モノクロームのグラデーションに配慮したこの作品は、時間的にもエイゼンシュテインと融合している。

冒頭の、アパートの階段の「手摺」だが、あの手摺の曲線の感じは「夜風の匂い」での冒頭の「手摺」の感じとまったく同じではないか、、、、
アドレナリン(2007米) 30 50 「チカラ技100%」の大味さはそれとして、画面はひたすら古い。久々に映画館で気持ちよく寝る。だが「アドレナリン」を見て→「寝る」というこの体験に驚き、5分ほどで慌てて起きたのだが、まさかこの映画の狙いがその「驚き」にあるのではないか、という裏読みをするほどの余裕が私にはない。
サイドカーに犬(2007日) 40 70 監督根岸吉太郎、俳優竹内結子
フィルムの感じは悪くないが、しかし、「女優」が「映画」の中へと入って来てくれない。
竹内結子が突如泣き出す持続のシーンが一つの「見せ場」となっているのだが、かくの如き「見せ場」なるものが映画に必要なのか、不要なのか。そうした事を積み重ねて行くとことで、映画の「向き」が変わりはしまいか。
「雪に願うこと」を撮ったあと、これを撮ってしまう映画の不思議。
腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(2007日) 70 75 監督、脚本吉田大八、撮影阿藤正一、藤井隆二、録音矢野正人、俳優佐藤江梨子、永瀬正敏、佐津川愛美、永作博美、山本浩司
永瀬が永作と喧嘩して外へ出るシーン。早歩きの永瀬を横移動で捉えながら、次第に光線が暗くなり、雨が降る。この「光線が暗くなる」というのをどういう方法で撮ったのだろうか。レンズを絞ったのか、それとも、、、、
山本浩司が「美人局」にしてやられた、あの瞬間の驚きというのか、男が入って来て、一瞬何が何だか判らず、間が経ってから「やられた、、」と判るあの驚きの時間空間を的確に創設するには「山本浩司でなければダメ」なのであり、なるほど、だからこそ山本浩司が起用されたのだと、この瞬間浮かび上がる「適材適所」という言葉の泣き笑いに喜劇を感じずにはいられない。
すっ呆けた省略の数々と、光に対する感覚。間違っても「感傷」などという現代型病気とは対極に身を置いたところの厳しさの中へと自然と入り込んでいる。音声も、例えば手紙を書く時の、ペンと紙のこすれる音などしっかり取っている。それにしても佐藤江梨子は、物凄い鉛筆の持ち方をしている。あれで良く書けると感心した。これは「演技指導」なのだろうか、、、、
黒い眼のオペラ(2006台) 90 90 監督、脚本ツァイ・ミンリャン、撮影リャオ・ペンロン俳優リー・カンション、チェン・シャンチー

マレーシアの「現実」が、数々の「幻想」によって打ち消され、否定されることで衝突し、それを経て「社会的問題作」などという低俗な地位から映画が自立し、自己で呼吸を始め、驚きの体験へと発展している。
音声の取り方がまずもって見事。
蚊帳によって切り取られた空間は、蚊帳が微妙に揺れるに伴って変化する光線が、人物の形をその都度変容させるその様は、まるで「新・平家物語」で溝口が、「お國と五平」で成瀬巳喜男が、「世紀は笑ふ」でマキノ雅弘がやってのけた、あらゆる伝説的「蚊帳劇」に匹敵する光の極地である。
2007.7.21更新
憑神(つきがみ)2007日 30 75 監督降旗康男、撮影木村大作、俳優、妻夫木聡

私なら台詞を三分の一に削る。殆どすべてが「説明ゼリフ」ではないか。これがプロの脚本家の仕事なのかと疑いたくなる。「判り易さ」とは「映画の放棄」とイコールではないのだし、いくら「一般受け」を狙うからと言って、ここまで低次元の「善良さ」で媚びを売るものか。典型的な「1.6」である。

ここからは一般論だが、現在の日本映画界の大手を紛れもなく支配しているこの「判り易い映画を撮る」という態度について考えてみたい。
通常こうした「判りやすいものを」という態度は「上位者」が「下位者」に対して取る態度である。つまりそれは、「私たちは難しいもの(仮に映画に難しい映画なるものが存在するとして)を撮る事が出来ます。しかし映画は大衆芸術、余りに難しいのもなんですので、、、、」というわけで、「商売」と「芸術」とをそこそこに中和して、みなさまが楽しめるものをと、これがかつて日本映画界の「判り易いものをつくりましょう」という「上位者」の態度であった。だが今は時代が違う。殆どの製作者、特に映画を作る権力を握っている人々が、映画に関して「シロウト」の域を出ていないのである。そんな人々が、つまり「上位者」でもなければ「難しいもの」を創る能力もない人々が、我々大衆を「下位者」として見下しながら撮るところの「判り易い映画」なるものを撮り始めたら、いったいどのような結果を招くのか。今の大手日本映画を見ればお判りだろう。「惨憺たる」というやつである。私はこういう映画をして「バカがバカに向けて撮った映画」と定義している。
言葉は悪くて恐縮だが、有りもしない奇麗事の物語に飼い馴らされた我々は、今こそこの「バカ」という言葉と誠実に向き合うべきだろう。今ほど人間が人間をバカにしている時代はないのであるから。他人様をバカと見下す前に、まず自分たちのバカを解決する、それが「物事の順序」というものなのだ。

さて、「憑神」に戻ると、照明にしても、明る過ぎてまったく「黒」が出ていない。
役者さんたちをしっかりと撮りたいという、「監督→役者」間における降旗監督の熱意はそのカッティング等を見ただけで十分に伝わって来る。だが、その熱意が、撮影現場から現像所を通して、我々「映画館」まで到達して来ない。
笑える部分についてだが、その「笑い」が「テレビの笑い」でなく、「映画の笑い」であると言える者が果たしているか。
絶対の愛(2006韓国) 60 60 監督キム・ギドク

所謂「韓流」と言われるつまらない現象の中ではしっかりした作家であり、だからこそこうして毎回彼の作品を見に行くわけであるが、厳しい選択として、現在の私は、キム・ギドクを否定的に捉えざるを得ない。

画面に意味があり過ぎる。断片へと解き放たれるのではなく、余りにも直接的な「比喩」で画面が重く埋め尽くされ、運動を始めてくれない。照明もよろしくない。画面には「黒」がまったく出ておらず、画面の肌触りがよろしくない。つまり、こうして見てみると、どうもキム・ギドクという人には、映画よりも大切な何かがあるように見えてならないのである。そうした事が「画面」に露呈してしまっているのだ。
ゾデイアック(2006)米 40 50 監督デーヴィッド・フィンチャー
「過去形」の映画とは、こういう作品をして言うのだろう。これなら、明らかに「小説」の方が面白いはず。照明もダメ、近景が多く、空間が窒息気味。上映時間が長過ぎる。もういい加減頼むよハリウッドさん、、、という感じである。
キトキト 40 50 監督吉田康弘
振り向いて殴る、それも判らなくもないが、だからと言ってこれだけで「映画」になる訳でもない。視覚的細部が貧しい。「亡き母からパソコンに手紙」という感傷病もまた、いやはやである。これまた「善良病」に侵されている。
処女作といものは、誰しもが多かれ少なかれ感傷的になってしまうという傾向は、フェリーニですら例外ではなく、また今回は、原作の強い縛りのようなものもあって、中々自分が出せなかったのかも知れない。だがしかし、それでも「自分」を出さなければならなかったのだし、仮にこれが「自分」なら、、、、
恋しくて(2007日) 20 60 監督中江祐司
ただ「歌っているだけ」ではないのか。石垣島の自然が、成金趣味にしか描かれていない。「善良病」に侵されている。
プレステージ(2006米) 40 75 監督クリストファー・ノーラン
現代アメリカ消費型映画の典型とも言うべき「あらすじだけ」の作品であって、キャメラマンや美術がどれだけ仕事をした所でどうにもならず。この映画には「視点と構図」がない。
ボビー(2006米) 65 75 監督脚本エミリオ・エクテヴェス
映画にならないようなクローズアップを数多く入れておきながら「映画」にしてしまうような力がある。この「グランドホテル形式」というものについては、STING大好きの部屋「洲崎パラダイス・赤信号」のレビューで少し言及したことがあるが、その効能をチャッカリ活用して中々のものに仕上げている。
監督・ばんざい!(2007日) 70 85 監督北野武、撮影柳島克己、照明高屋齋
「定年」では、木村佳乃が無意味に階段を上り、降りて来る。階段を「女の部屋への道」として神秘的に描くこの感覚は、小津的ではあるものの、どちらかと言えば蓮實的、であると言うべきだろう。
人物たちが、海だの空だの、同一方向を見たり見上げたりしている感覚も、小津的であり、また、蓮實的でもある。
「約束の日」の、山道の、夕陽の中の前進移動だとか、「コールタールの力道山」の屑屋の全景ショットなどの、驚くべき画面のさり気なさにこそ、この映画の人格が露呈している。
ただ、映画としては「大日本人」同様、見ていて疲れる。
大日本人(2007日) 50 70 監督松本人志、撮影山本英夫、照明小野晃

撮影、山本英夫と照明、小野晃、、のっけからこういう人たちを使えることは松本人志の「特権」なのか「人徳」なのか。

さて、非職業的映画監督特有の畸形性と言うのか、北野作品と同様に、私としては、職業的映画監督として「これ」が撮れるのか、或いは、お笑いタレントとしての名声なくして、いきなり「これ」が撮れたのかと、色々と考えてみたのだが、「映画は世界共通語」というチャップリン以来の映画の常識に、畸形的に割って入れる松本は、「物語」の語り手としては「才能」を示したと言えるだろうし、しかし「映画」としては、「甘さ」を露呈したとも言えるだろう。北野にしても、松本にしても「お笑い」という「日本語」が、「映画語」になり切れていないもどかしさを、ハナからそれと承知で撮っているような感覚は、本質的には「パッチギLOVE&PEIACE」の監督さんと同じような感覚を覚えるわけであるが、どちらにせよ松本はもう一本、映画を撮ってみるべきだろう。

松本の家の塀には「迷惑!」だの「バカ、死ね!」だのと言った貼り紙が何枚も貼ってあって、すると「監督・ばんざい!」のアパートにも、「金返せ!」だの「死ね!」だのという貼り紙が貼ってあって、なんというのか、この二人の感覚が非常に良く似ていて、つまりこういうことになるのは判っていたので、私は二人の映画を、二本続けて見ることを本能的に避けたのである。
2007.6.26更新
しゃべれども しゃべれども(2007日) 75 80 監督平山秀行、脚本奥寺佐渡子、原作佐藤多佳子、撮影藤澤順一、照明上田なりゆき、俳優国分太一、香里奈、伊藤四郎、八千草薫、松重豊、森永悠希

最後の隅田川の水上ボートのシーンにしても、頭上の橋を通過する瞬間にボートに橋の影が落ちるタイミングを計算して撮っていて、ドンピシャリで香里奈を走らせている点などが、実に「伝わって来る」映画であって、その瞬間、香里奈が「影の中から光の中へと」走って出て来た瞬間、ただそれだけで、ああ、やっとあの娘は光を掴んだのだと、こうして映画が「映画」になった瞬間に立ち会えた事で、涙が出て来る。映画鑑賞とは、映画という「作品」の鑑賞なのだから。

「財布をなくした女ほど美しいものはない」という趣旨のことを、以前ハワード・ホークスが何処かで言ったように記憶しているのだが、なるほど映画というものは、「困った人」がいて、その「困った人」の内面の「意識」と、外部の「環境」とのギャップとの間で繰り広げられる葛藤を描くことで、何故か「運動」になってしまったりするものなのだ、などと考えたりしながら、この「しゃべれども しゃべれども」に出て来る人たちもまた、財布をなくした女の人と同じように「困っている人」たちであって、そして映画というものにおいては何故か「困っている人たち」が美しくて、だが「困っている」彼らは決して自分たちが「困っている人」であるとは振舞わず、逆に突っ張って国分太一に突っかかって来る。ここで「困った人」の内面と、外部に露呈した行動とが齟齬を生じ、彼らが行動を展開する度に、映画が「二つの極」を得て発展を生じる。実に簡単な構成だが、そこにコミュニケーションとしての「しゃべること」というさらなる主題が付け加わる事で、映画の発展が加速度を増しているように思えるのだ。まずもって脚本なり原作の書き方が上手いのである。

冒頭、路地で、通りすがりの近所のおばさんにからかわれた国分太一が、立ち止まることなくキャメラの移動と共に女をやり過ごしながら家の中へ入って行くトラッキングのシーンなどが、凄く良い。こういう部分に「人間観察力」というものを感じる。

映画は「個」を描いてこそ。共同体が消滅し、消え入りそうな底辺の中で、だが人は生きている。人間の価値を、ただそのものを目的として描いた清清しい映画である。
ありがとう-奈緒ちゃん自立への25年(2006日、ドキュメンタリー映画) 70 80 演出伊勢真一、撮影石倉隆二、照明箕輪栄一、2007.5.25

なんかこう、「照明が凝ってるな、、」と思いながらエンドロールを見てみると、ちゃんとキャメラマンと照明さんが付いていて、例えば夜の暗い寝床での顔への光など、見事にピシャリと当たっていて、だがそれと同時にその「光源」が見えていない。同じく夜の、雪の降る公園の、鉄棒を構図に入れた空舞台(空ショット)の見事な空間等においても、「光源」が隠されている。どうやらこれは、街灯の光線ではなく、「照明機材」でしっかりと補っているのかな、と思われるし、寝室の光も、あの光の当たり方は、まず間違いなく、照明器具を使った補助光線だろう。

「ドキュメンタリー映画」の光を、「照明」で補助する姿勢と言うものが、映画が本来的に内包せざるを得ないフィクション性との戯れにおける熟練度を倫理バランスとして指し示している。それはエンドロールで自らの役割を「演出」と書いた伊勢真一の姿勢にも窺い知ることができるだろう。

最初は、障害を持つ娘(姪っ子)の自立を動機に開始されたと思われる撮影が、知らず知らずの内に「親の自立」へと視覚的に流れて行った時、それに逆らうことなく、流れるままに撮り続けるという、その「映画感覚」というものが、運動を、最初に設定した「テーマ」なるものの中へと閉じ込めることなく、自然と解き放っている。

おそらく「団塊の世代」と思われる父親の屁理屈を捏ねる「団塊の世代感」が良く出ていて、母は母で夫を掌で躍らせながら、実に良い顔を見せてくれている。今回見たシネモンドでのドキュメンタリー3作の中では、「関係性」というものの描き方において特に「視点」を感じる映画である。
松ヶ根乱射事件(2006日) 50 50 監督山下敦弘、
どうも「のり」が先行し「画面」が後退している。確かに「笑える」のだが、その「笑っている」ところの私の顔が、半分泣いているのである。

照明がダメで、まったく映画へ入って行けない。このような光で良い訳がない。前作「リンダリンダリンダ」に続き、この映画もまた今一つ支持できないもどかしさが残る。山下敦弘に、このような地点に着地してもらわれたら困るのだ。
パッチギ!Love&Piece(2007日) 50 75 監督井筒和幸、撮影山本英夫、録音・白取貢、俳優2007.5.21、2007.5.30

二度鑑賞

基本的な意見は、「映画日記」におけるぐるぐる氏との意見交換に書いてあるので、そちらを参照して頂きたい。

撮り方は、前作同様の、古典的と言えば古典的に属するデクパージュによっていて、会話以外の第三者の姿がリズム良く挿入されるのが特徴的。編集時のズリ上げ、ズリ下げを多用していて、「画面」と「音」との「ズレ」というものを豊かに実現しようとする姿勢は十分伝わってくる。カッティングのリズムは相変わらず素晴しい。キャメラは何台ですか、と思わず聞きたくなってしまう。

先日日記で指摘した「音声」についてであるが、二度目の鑑賞では修正されていて、、、だがまさかそんな「修正」なる事が公開後にされるわけはないのだから、原因は良く判らないのだが、、少なくともここでは、「音声技術」の問題ではなく、「発声」の問題であると修正しておきたい。

例えば舞台挨拶で幕が下りた後、中村ゆりが、ラサール石井を睨み付けるシーンがある。この中村ゆりの表情などは、余りにも心理的でよろしくない。全体的に、中村ゆりは、「心理」を外部に出し過ぎている。演劇の舞台の顔と、映画の顔とは違う。例えば杉村春子は、舞台では心理的に、映画では非心理的に、と見事に使い分けて演じていた。そうした点を含めて今回井筒監督は「これでよし」としたのであり、それは私の問題ではないのでここではこれ以上言及しない。

画面の肌触りは良好。ソフトで感触が良い。

■追記 「映画日記」に関しては現在捜索中。2024.7.16
2007.6.4更新
あるいは裏切りという名の犬(2004仏) 50 85 監督オリヴィエ・マルシャル撮影ドウニ・ルーダン俳優ダニエル・オートゥイユ、ジェラール・ドパルデュー

「フランス流無口なノワール」が、いつからこのような「おしゃべりノワール」になったのだろう。フランス人は昔から良くしゃべるのだから、フランス人がおしゃべりになったのではなく、映画がおしゃべりになったと言うべきだろう。口数が多く、まったくもって画面で処理できていない。視覚的細部が乏しく、クローズアップも多すぎる。フランス人は物語の語り方を忘れてしまったのだろう。何となくマイケル・マンをやりたがっているようなところがあるが、マイケル・マンの足元にも及ばない。

だがキャメラマンが凄い。冒頭の、これぞノワールと言うべき、雨に濡れた夜のアスファルトの数々。素晴しいのは、夜のフィルムの感光を、街灯ではなく、雨に濡れた地面に反射した街灯の光によって為しているというシビレル光感覚にある。縦の構図においても、遠景、近景ピッチリ光が当たっている。このキャメラマンは今後は要チェックだ。とするなら、この監督さんの映画も、少し追いかけてみたい。特定の環境下においては、監督がキャメラマンの力を発揮させる、というのが、映画史の常識でもあるからだ。
俺は、君のためにのみ死ににゆく(2007日) 50 85 監督新城卓・脚本石原慎太郎・撮影上田正治、北澤弘之、美術小澤秀高

照明、特に空間全体としての「黒」の出方などは、ここ数年の日本映画、特にこうした大作映画の中では最高である。少なくともこの映画のスタッフには、役者を含めて「手抜き」だの「いい加減」だのといった仕事は一切見受けられない。微妙な光のニュアンスなどには今一つ問題がなくはないが、実に力の入った良い仕事をしている。窓を挟んだラブシーン、手前に木の葉をナメながら、男が女を抱き上げるシーン、江守が訪れたシーンの空間全体の見事さ、、、、

こうした点について語ることを徹底的に怠り、ひたすら「外の論理」だけで「戦争」を語りしめてしまう「知識人」たちの手から「映画」を奪い取ろう。

さて、
この映画の「視点」としては、まずクローズアップの少なさが挙げられるだろう。感傷的にならざるを得ないシーンを遠景から撮る、これは「視点」であり「倫理」でもあるだろう。それを「長回し」を基本に丹念に撮り続けている。筒井墜落シーンにしても、爆撃後の悲惨なシーンにしても、視点においてアッサリと、あっけなく撮っている。これもまた「視点」であるだろう。画面の外の空間にも人々を待機させ、トラッキングと長回しとで空間を広げて行く撮り方は溝口健二的とも言うべきで、役者やスタッフの入念なリハーサル抜きにして有り得ない情熱の技である。これもまた認めよう。

だが「大きな視点」となると、窒息を始める。
映画日記でも書いたように、ある特定の人々を、「善い人」として描いたがばかりに、「悪い人」を描ききれず、自己矛盾に陥り、映画が一方の極へと押しやられ、窒息をしているのだ。
良い映画は、対立し、関連している二つのもののアンビバレンス(両極)をもたねばならない」(表現の世界265)、と、松本俊夫が語るように、映画とは人生と同じように「運動」であり、あらゆる極の衝突によって発展してゆくものなのである。

複雑化を極めた現代社会自体、これまで以上に、単純な二元論では最早把握し切れず、多様な価値観を戦わせながら共存、共生を模索する時代でありながら、日本映画の一部はそれと逆行したかのように、単純な「右」「左」の一極だけによる極めて幼稚な啓蒙(洗脳)闘争を続けている。
人は誰しもが被害者であり、同時に必ずや加害者なのであって、自らの加害性に蓋をし、ひたすら被害者的側面に自惚れる映画など、取るに足らない自己満足の偽善に過ぎない。そうした「偽善性」というものは、好むと好まざるとに関わらず「必ず画面に露呈する」のである。

「特攻隊員」たちが、「みんな揃って幽霊となって笑って出て来る」などという願望は、少なくとも私には、現代に生きる我々の、現実から逃避した思い上がりに見えてならない。そのようなものは、「倫理的に」描くべきではないのだし、私なら絶対に描かない。これは倫理の問題であって「右」や「左」の問題ではない。結局のところ、この映画は、「メッセージ」なる「過去の物語」を伝えんと躍起になるあまり、個々の人間たちの「撮られた瞬間の真実」を描くことを、致命的に欠いているのである。
チーズとうじ虫(2005日・ドキュメンタリー映画) 50 60 監督加藤治代

ツヒノスミカ」は家の取り壊し、そしてこの映画は「癌」というように、どちらもが母と祖母という「偉大な」人々たちによる「大きな物語」が生起している。だが、果たして現在、この二人の作家にとってキャメラを向けられるべき「物語」とは、そのような地点に存在するのだろうか。

「映画」には、撮ることを必要としている人種と、撮られることを必要としている人種の二種類がいる。彼らは常に、この二つの極の間を揺れ動きながら映画と関わっている。

この映画の驚きが仮に在るとするならば、それは「撮られることを必要としている人間」が、映画を撮ってしまった点ではないだろうか。この作品は、あらゆる瞬間のフィルムの流れが、「母」ではなく、痛ましいほど「加藤治代」であり過ぎているのだ。私としては、母を撮る「加藤治代」という女性を撮るキャメラがもう一台存在すれば、「映画」になったのではないかと思っている。

「ツヒノスミカ」とこの「チーズとうじ虫」とはどちらも「撮り手負け」している。見ていて、私が非常に痛ましく感じるのは、撮られた被写体の放つ光線が、その都度撮っている主体へと跳ね返って来てしまうような逆行感覚を強く覚えるからだ。「視線」が自己へと反射してしまっていのである。

「映画」とは、「公開」し、見ている者たちをして驚かせ、成長させるべきものである。そのためには、撮る者たちの、豊かで冷静な、時に冷徹な「視線」というものが不可欠ではないだろうか。色々と考えさせてくれた映画である。

今後の健闘を祈りたい。
ツヒノスミカ(2006日・ドキュメンタリー映画) 30 40 監督山本起也

この監督さんは小川伸介を見ていないのかも知れない。

「祖母の長年住んでいた家が取り壊される」という「物語」を最初に決めたあと、無理矢理映画をこじつけているような感じなのだ。悲しみの祖母、それを捉えるキャメラ、といったように。

祖母は、家が壊されるからと言って感傷に浸っているようには到底見えない。孫が一方的に感傷に浸って「終わりの物語」を作りたがっているように私には映る。

「物語」とか「テーマ」といったテレビ的な「感傷」を、撮る前から思い描いてしまって撮っているがために、今、目の前で引き起こされている「生のドラマ」をみすみす見逃してはいないだろうか。「映画」というメディアとは現在のメディアであって、現前するものへの限りなき欲求こそ、ドキュメンタリーの大きな一つの美ではないだろうか。「撮られる前の物語」ではなく、「撮られた瞬間の物語」こそ、ドキュメンタリーに相応しいのではないだろうか。
2007.5.23更新
スパイダーマン3(2007米) 30 60 監督サム・ライミ2007.5.8
この映画は「観念的すじ」を主導に書かれていると私は日記で書き、一つの例として「ブーツの中の砂」を挙げた(2007.5.8日記参照)。仮にこのシークエンスを「断片的に」描いていたとするならば、あのようなつまらないオチ(屋上で砂を出す)になる訳が無いというのがその意味合いであった。「絵」にならないのである。つまりあれは「気が利いていない」のだ。

では、「断片的に描く」とは何か。
例えばそれは、先日のNHK特集で明らかになった宮崎駿の創作過程の思考回路をいう。宮崎駿は、色々なアイデアの中から「女の子が海を疾走するシーン」を見て、「これ、いいよ、」と、ひたすらその「視覚的イメージ」への拘りから映画を作り始める。視覚的美しさ、視覚的驚きという物語から映画に入ってゆく。「美しさの物語」がまずあり、「すじの物語」は後付されてゆくに過ぎない。だからこそ、彼の映画の視覚的物語はひたすら美しく、且つ寓意に満ち溢れ、しかしその代償として「筋としての論理的物語」は「ギクシャクする」のである。私はこの「ギクシャク」の結果としてもたらされる宮崎駿映画の「難解さ」とは、「豊かさ」であると、先日の論文「「心理的ほんとうらしさと映画史・第二部」で書いた。
同時にこの「難解さ」とは、例えば「メメント」などに代表される凡庸な「辻褄合わせ」映画における「筋の難解さ」ではなく、断片を視覚的運動の流れるままに解き放った「結果」としてもたらされるところの「豊かさ」としての「難解さ」であって、視覚的部分に才能を欠きながら、ひたすら不可視の筋における「論理的驚き」でもって視覚的部分の凡庸さを埋め合わせする「辻褄合わせ」映画の「難解さ=凡庸さ」とは、次元の異なる議論であることを、ここに書いておきたい。

もちろん映画はすべてを「断片的に」と言っている訳ではない。しかし、映画の「視覚的メディア性」から首尾良く逃避し、「視覚以外の何か」によって、「視覚」の才能がうやむやにされることに関する危機感こそが映画研究塾最大の趣旨であることはここに付加えておきたい。

「スパイダーマン3」をさらに見てみよう。
レストランでマネージャーと打ち合わせ、指輪をプレゼントするシークエンスである。こ
のシークエンスは、視覚的に「うん」とも「すん」とも言おうとしない。「筋」しかないのである。喧嘩して、女が帰りました、という「筋」しかない。視覚的な驚きが一切考慮されていないのである。せめてあそこで、女がボーイの持って来た、指輪入りのシャンペンのグラスを帰り際、怒りに任せて(知らずに)飲み干して、ウォルター・ブレナンのように一回頷きでもして帰ってゆけば「絵」になるではないか(仮にである)。仮に飲んだ指輪の行方を描くのが本筋からはずれるのであれば、そこは、「ワンクッション」入れて、彼女が飲んだのは指輪入りのグラスではなかった、とオチを入れておけばよいのであって、つまりそうした、視覚的、乃至はペーソスとしての「クッション」が何一つ配備されておらず、ひたすら「筋」を進めているに過ぎないのである。

高層ビルの床が傾いて女が転落しそうになるシークエンスにおいても、女が掴んだ電話のコードは、「物理」としてのコードでしかなく、「機能」としての「電話」の側面がスッポリ抜けていて、ただの「力技」で終ってしまっている。
そもそもあの階の出来事を「モデルの撮影現場」などという気取ったものにしようとする先走りの根性がこうした体たらくを招くのであって、あそこは閉ざされたオフィス空間での社長秘書か何かが、恋人と電話で別れ話でもしていて、「もうアンタとは終わり!、二度とかけて来ないで」とか言ったところで床が傾き、床を滑り落ちてゆく女がすがるようにして電話コードを掴むと、受話器の中から「君を放したくなかった、、」とか言う男の声が聞こえて来れば「物理」と「機能」とが衝突し、「笑い」へと発展するのであるし、もちろんこれは「たとえば」の話であるにしても(余りにも凡庸で失礼)、昔のハリウッド映画ならば絶対にそうなった筈の「ペーソス」という「ワンクッション」が、この「筋で押し通すシナリオ」からは悉く欠如しているのである。「昔のハリウッド」だから「良い」のではない。「昔のハリウッド」の脚本の方が、「才能がある」だけのことなのだ。

いくら今回は「暗さ」が一つのテーマだとしても、「暗さ」を、逆に「明るさ」の中から出してやるくらいの才能が私は見たい。

こうしてこの映画の「アホシナリオ」、、!、、失礼、、「筋で押し通すシナリオ」を見た時、それが果たして彼らの「実力」なのか、それとも彼らの思考が「客がアホだから難しくすると客が判らなくなってしまう、、、」なのかは、社会学も絡んで微妙な線だろう。ハリウッドの脚本家が「アホ」になって来ているのは紛れも無い事実でみんなが知っている。だがしかし、それと同時に、彼らの、特にこの映画のような超大作の場合においては、「客はアホ」という統計的データが、作品の「直線性」に影響を与えていることだけは、まず、間違いが無いと私は見ている。何故ならば、そうでも考えない限り、幾らなんでも、ここまで「アホ」なシナリオなど、到底書けるとは思えないからである。「わざと書いた」とみるしかない。こんな世の中である。映画は。

ちなみにあの「砂男」が、貿易センタービルの瓦礫の砂である、という寓意の「深読み」も、するにはしてみたが、ここでは却下しておきたい。それを読み取るにしては、余りにも画面が拙劣に過ぎる。
クィーン(2006英仏伊) 60 70 監督スティーヴン・フリアーズ俳優ヘレン・ミラー、マイレル・シーン 2007.5.7
鹿を扱ったショット処理は視点と距離との関係において余りにも凡庸であるし、全体を通じての凡庸な近景が明らかに映画の持続を停滞させ続けている。視点も一定せず、例えばオフ空間の音の処理一つにしても極めて官僚的であって、凡庸である。「視点」に問題を抱えている。だが、昨今のシネコン映画の平均値からすれば、中々楽しめる作品ではある。

美術は確かに凝っていて、それだけを「独立して」評価をするなら別の評価にもなるだろうが、だが、光との関係に於いて、例えば「影」を作って「黒」を出すための空間作りであるとか、光の角度と強さを計算しての空間設計などの点において、果たして優れていただろうか。これは「映画」なのであって、「美術展」ではないのである。こういう映画こそ「ローキイ」で撮れたなら、と期待していたのだが。
とは言うものの、それほど悪いという訳でもなく、クローズアップが多い割には、そのクローズアップをしてギリギリ耐えうるものとして処理している点は評価したい。

例えばダイアナ妃、死の直後、宮殿に集まり始め、花束を捧げる人々がテレビのインタビューに答える映像があって、これはおそらく実写ではなく、映画用に撮り直された映像だと思われるのだが、ここでテレビのインタビューに答えている3人の女性が3人とも、耳に大きなイアリングを付けている。
さらに、葬儀を徹夜で待つ人々へのドキュメンタリー体裁でのインタビュー映像でもまた、インタビューに答える男性の横には、すべての指にキンキラの大きな指輪をはめた女性が寝転んでいてその指輪をひけらかすように弄んでいる。

表面的には中立を装っていながら、視覚的にはイギリス国民の「テレビカメラを意識した悲しみの儀式」を皮肉っている。
それは終盤、車を降りた王女に神妙に挨拶をする女たちの耳には、ほとんど宝石類が飾られていなかったことからも露骨に見てとれるのだ。

私は余りこのような露骨な画面は好きではないが、確かに間接的な表現に抑えているし、それがまた風刺好きのイギリスの国民性からして面白かったりもする。

話は少しずれるが、ドキュメンタリー映画などを見ていてる時、私はインタビューされている女性の「化粧」と「宝石類」にいつも目が行くのであるが、ドキュメンタリー映画における、「化粧」と「宝石」は、ドキュメンタリー作家の性向を見極める上で、私にとっては非常に大きなファクターとなるのである。この点については、いつしか書く機会があるだろう。

ブレア役のマイケル・シーンは、確かに「ブレア」なのだが、顔が緩むと「ジャック・ニコルソン」になってしまうのはいかがなものか、、、笑、、、
バベル(2006アメリカ) 10 50 監督アレハンドロ・ゴンザレス・イリャニトゥー
批評有り→「バベル 映画の内と外について」
2007.5.14更新
東京タワーオカンとボクと時々オトン 10 80 撮影・笠松則道、美術・原田満生、照明・水野研一
日記で書いた事を繰り返す気はないが、しかし「東アジア一帯」を支配するこの恐るべき「感傷病」という反生命的伝染病が、いったいどれだけ「人間」の姿を偽善的に覆い隠し、「善い人」しか描けない無才な輩の「商売」に貢献して来たことか。ろくに「人間」も描けず、「環境」を知りもせず、倫理さえ欠いた者なら誰でも書ける感傷的駄文でもって我々を「泣かせること」に躍起になっている不埒な連中よ去れ。君たちは携わるべき仕事を間違えている。土地でも転がしなさい。それだけはここでもう一度書いておきたい。
■照明等に関して。
例えば夜の赤ちょうちんを斜めの構図から捉えた外景、東京へ出発する前、板の間に正座をする樹木を捉えた空間、或いはぬかみそをつけている夜の土間(?)の空間等、見事な「黒」が、照明と装置と現像との連携によって創出され、我々の前に素晴しい肌触りとしてさり気なく呈示されている。当サイトの威信にかけて、この「裏方」諸氏の仕事だけは、ここに指摘しておきたい。
監督なり製作者なりは、この「視点と光(表と裏)とのアンバランス」をどう感じているのだろうか。
ハンニバル・ライジング 60 70 監督ピーター・ウェーバー
「ライジング」とか「ザ・ファイナル」とか、始まりと終わりの描写に実に忙しいハリウッドだが、そのどちらもが、「始まり」と「終わり」という「大きな物語」に囚われすぎて、中庸の繊細な出来事性の描写をおろそかにしている。そもそも「大きな物語」など存在しない現代において、無理矢理「大きな物語」を作り上げなければならないハリウッド映画の自己矛盾が露呈している。
この映画もまた、キャメラマン等は悪くなく、東京現像所のプリントも良く出来ているし、時たま驚くべきようなロングショットもまた画面の中に出て来るのだが、そうした美しいロングショットが「視点」として出て来たのではなく、ただの「顔見せ」に過ぎないという事実が、余りにも凡庸なクローズアップの数々によって推論されてしまうところに現代型ハリウッド映画の決定的虚しさがある。「視点」としての気高き地位を「マネー」へと軽々と明け渡している。
楽しんで、忘れて、明日からまた頑張って働きましょう、そういう映画である。
ロッキー・ザ・ファイナル 65 70 監督シルベスタ・スタローン
キャメラマン等は悪くなく、フィルムの肌触りも良く、映画として楽しめるレベルになっている。
物語の動かし方の殆どを、簡単なクローズアップ同士の切り返しによる言語によって処理しているのは致命的で(わざわざ言う必要もないだろうが)、息子を始めとして「成長する人」を描いている映画である割には、その成長の仕方における視覚的処理が極めて一方的で薄っぺらい。
だが結局のところ、「ロッキー」のテーマがかかってしまえば、一切合財すべてが解決する、そうした神話力みたいなもので押し切る映画なのだろう。
花道を去ってゆき、振り返り、手を振る時の、実に晴れやかな男の顔が、「ロッキー」でもあり、だが「シルベスタ・スタローン」でもあり、といった、フィクションとドキュメンタリーとの戯れが、反則的な帳尻合わせとなって、人々の涙腺を刺激している。
2007.4.30更新
善き人たちのソナタ(2007独) 70 75 監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースルク撮影ハーゲン・ボクダンスキ俳優ウルリッヒ・ミューエー、セバスチャン・コッホ、マルティナ・ゲデック 2007.4.19
少なくとも「映画」における「監視」というものには大きく二通りあって、一つは、ミッシェル・フーコーが監獄論で書いたような「見られていることを知っている被監視者」であり、もうひとつは私の主題であるところの「見られていないことを知らない被監視者」である。
前者の場合、「見られていることを知っている」受刑者(被監視者)は、視線の対象である体制側(システム)へと従順に取り入られてゆくのに対し、後者の場合、「見られていることを知らない被監視者を監視している監視者」の方が、「被監視者」に打ちのめされてゆくという、反対の傾向を有している。
何故ならば「見られていることを知らない被監視者」は、誰に媚びることもなく、生き生きと生を堪能しているからだ。私はこれを「裸の表情」と名づけて、以前、「STING大好きの部屋」の成瀬巳喜男「妻の心」の批評で書いたと記憶するが、映画においては、「見られていることを知らない被監視者」を「監視者」が監視する、という後者の設定のほうが、明らかに感動的なのである。
それは、それまで気付かなかった「美」に我々(監視者)が初めて直面し、打ちのめされる、という、「芸術」活動の本質と、見事に一致しているからである。
「デジャヴ」にしても「善き人のためのソナタ」にしても、或いは「叫」にしても「硫黄島からの手紙」にしても、みな、「監視者」が、或いは「見た者」が「泣く」、或いは「狼狽」する。平均化の中に埋没し、凡庸さの中に埋もれ、葬り去られた人間たちの発する、意外なまでに生々しい「生」を、とあるきっかけから「見ること」に遭遇した者たちが打ちのめされ、、そこで彼らは初めて向き合い、立ち上がり、そして「何かが変わる」のである。
今後もまた、このような「~後」の世界の中で、大いなる断片的アレゴリーを秘めた映画が増えてゆくことだろう。
百年恋歌(2005台 100 100 映画批評「百年恋歌」2007.4.14、4.16
監督ホウ・シャオシエン撮影リー・ピンビン俳優スー・チー、チャン・チエン
二度鑑賞

一見したところでは、一番美しさを欠く第三話。だが、私がこの映画を美しい、と感じたのは、仮に「全三話の中から一話だけ削除してくれ」、と、ホウ・シャオシエンがプロデューサーに迫られたとしたら(仮にである)、「第三話はとにかく残す」という、こういう思考回路から入るに違いない、そう確信できるだけの確かな痕跡が、このフィルムの全人格に溢れ出ているからなのだ。それがいかに重要なことか。それが「珈琲時光」でも露呈したところのホウ・シャオシエンという監督の倫理であり、自由なのだ。だからこそ人々が、この監督に惚れるのである。それを今回のホウ・シャオシエン祭を契機につくづく痛感した。ホウ・シャオシエンはつくづくカッコイイのだ。

第一話で、スーチーがポストから手紙を取り出し、戸口に寄りかかって読むシーンがある。外からのショットが、内からの、ソフトフォーカス気味のショットに切り返される。この夢のように美しいショットが、次のショットでさらに、ビリヤード場の、地面が濡れた空間へとサッと大きく引かれる。この瞬間である。私としては、これが「映画」なのだと言うしかない。あの瞬間、ただそれだけで、映画が終わってもよいのだと私は感じた。

だがこの映画は、矢張りそのような、極部の断片によって処理してはならない何かが画面に露呈している。
例えば第三話で、レズビアンのルームメイトが遺書らしきものをコンピューターに残して行くシーンがある。家に戻った女は、部屋の中を見回し、そのルームメイトを探す。あちこちと見て回るのだが、決してキャメラは、室内の「状況」を捉えないのだ。ここでは探す女の「顔」しかフレームの中に入っていない、つまり、ルームメイトの死体があるのかないのか、まったく描写されていないのである。これはどういうことかと言えば、ルームメイトが生きているか、死んでいるかは「物語」ではない、ということではないのか。
少なくとも、ホウ・シャオシエンが第三話で描きたかった「物語」は、最早そのような、サスペンスめいた良質の「物語」ではない。
1911年には「辛亥革命」という「大きな物語」が存在した。1966年にも、ひたすら男が恋した娘を追いかける、という「物語」があった。だが、少しずつ「物語」は小さくなって行く。現代の「物語」とは何か。ほとんど何もないではないか。だが私には、一番大きな愛をもってホウ・シャオシエンが描いたのは、現代編の、あの若者たちであったと確信できるのである。
それにしても、この映画の照明の凄さは一体全体何なのだろう。
夢十夜 30 30 監督十人
山下敦弘の作品くらいしか視覚的に残らない。そして全てを通じて、照明が余りにも悪過ぎる。頼むから、こんな程度の光で妥協しないで欲しい。この程度で満足するのなら、映画などやめて、土地でも転がした方がよほど「適材適所」だ。
殆どの作品が「奇抜さ」であるとか、「非日常性」の中へと埋没し、「難解さという意味」を醸し出すことに躍起になり、無意味の意味の代償として「出来事」をまったく描けていない。端的に言えばあらゆるショットに意味があり過ぎるのである。みんなが一つ覚えのように、非日常的空間を物語的に志向している。一人くらい、ホウ・シャオシエンのように、あるいは「ルイス・ブニュエルのように」、リアリストの精神でもって「夢」を「現実的に」描こうとする者がいないものだろうか。
ニキフォル(2006ポーランド) 40 40 監督クシュシュトフ・クラウゼ
映画の物語が何処にもない。近景が多く、その多い近景に対する映画的回答が不在である。
2007.4.22更新
バッテリー 50 65 監督滝田洋二郎
画面の肌触り自体は決して悪くはなく、自転車での疾走だとか、裏庭の菅原に萩原が会いに来るシーンなど、素晴しい時間空間もなくはないのだが、ここ、という部分になると、例えば終盤の病院での岸谷と天海の会話のように、画面は凡庸になり、すべて「言葉」で処理され始める。結局のところ、画面の処理によって語れないものがすべて「言葉」に代用されるという「テレビ」の側面が顔を出す。一見子供たちが瑞々しそうに見えながら、「断片」としての解放が為されていない。
何か「冷淡な」映画であって、「勝ち組」と「負け組み」とが見事に分かれていて、「負け組み」の扱いが実に冷たくハートが無い。そして何より「野球」になっていない。だからこそ「バッテリー」という「個人ゲーム」なのだろうし、それはまさにグローバリズムによる「格差」を反映した「チーム無き冷たい個人映画」である、とまで言ってしまって良いかは判らぬが、せめて主人公が丸坊主くらいになって「チーム」のエモーションを醸し出してもバチは当たらないだろうし、逆にそれが出来ないところが、いかにも弱く器量がない。つまり簡単なことだが、こんなカッコイイだけのアンチャンが主人公では「映画」にはならないのである。
投球を、持続の中で描こうとする苦心などは伝わって来るが、最後はいつものテレビがするように、実に簡単なショット構成に基づく小手先の言葉による感傷で泣かせにかかっている。民度が低いというか、こうした感傷癖は、幼稚で安易で、映画を、そして社会をダメにしている。
メーキャップは中々頑張っていて、部分部分に良い「艶」が出ている。
ブラッド・ダイヤモンド 40 60 映画批評「ブラッド・ダイヤモンド」
監督エドワード・ズウィック俳優レオナルド・デカプリオ、ジェニファー・コネリー
簡単なクローズアップとその切返しが多く、到底テクニカラーとは信じがたいフィルム(?)の肌触りも悪く「黒」も出ていない。アクションが高揚すると近景でキャメラがカチャツキ始め、画面が隠れる。セリフが多く、「画面」によっては何一つ語りしめていない。デカプリオは「顔を作る」ことに執着し、映画を信じていない。長い。疲れる。何処を取っても「映画」になっていない。
悪夢探偵(2006日) 50 70 映画批評「悪夢探偵」
監督、脚本、撮影、美術、編集、出演・塚本晋也、俳優松田龍平、hitomi
一見ぶっ飛ばしているように見せかけて、細かい部分にも気を使っている。キャメラは、ここまで大きく揺れると逆に許せてしまうから怖ろしい。
兎に角クローズアップが多く、もちろんそれは「逃げる」だの「つなぐ」などからは程遠いクローズアップだとしても、矢張り画面を停滞させているし、だがしかし、結局のところこの人は、ありきたりの「美」なるものをそのまま見せようなどと言う気はさらさらないのだろうし、ではだからといって「美」的感覚がないかと言えばその逆であって、それは水面の輝きにしても、引いた画面の美しさにしても、一瞬見せた後で、すぐに消してしまう「照れ」の中に随所に現れていて、しかし「照れ」のない映画など見たくもないし、ジョン・フォードにしても、ハワード・ホークスにしても、「照れ」が「倫理」を形成して来た歴史があるのだから、結局のところ、塚本晋也とは、極めて倫理的な作家ではないのか、ということになるのである。
イカとクジラ(2005米) 70 75 映画批評「イカとクジラ」
監督ノア・バームバック撮影ロバート・ヨーマン俳優ジェフ・ダニエルズ、ローラ・リニー、
語らなくても画面は語ることを知っていて、説明よりも人物にひたすら行動させ続けることで、自然とプロットを作り上げてゆく。進歩系夫婦の、「自由、平等、公平」を貫徹したはずの「理想離婚」の歪が、「決して分割できないもの」を通じて露呈されてゆく。それは勿論「子供」であり、より直接的には「ネコ」なのだが、子供たちに「ネコはどうするの?」と聞かれた時に、それに対して「ネコは割れないな」と必要以上に真摯に対応してしまう「インテリ夫婦」の生真面目さというか、彼等の「主義」が、彼等自身の手かせ足かせとなってゆく物語構造が非常に冴えている。
ノア・バームバックという監督、写真を見ると、「顔」が実に素晴しい。「映画向きの顔」をしているのだ。この人は、ひょっとすると面白いことになるかも知れない。
2007.4.10更新
ホリデイ(2006) 50 50 映画批評「ホリデイ」
監督ナンシー・メイヤーズ撮影ディーン・カンディ俳優キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレット、ジュード・ロウ、ジャック・ブラック、イーライ・ウォラック
あらゆる瞬間が「神話」になることをひたすら拒絶され、ただひたすら、悲しいまでに「凡庸」でしかないフィルムのあらゆる瞬間が、その瞬間瞬間に古びて消費されてゆく。ハワード・ホークスが、倫理的にも映画的にも決してやらなかったあらゆることをひたすら晴れやかに実践しながら、そのハワード・ホークスに易々とオマージュを捧げられてしまう神経だけは「凡庸」とは言い難い何かであるだろう。それを始めとして、この監督にとっての「映画」とは、ただの「映画音楽」でしかない。ディーン・カンディの作り出す画面は極めて肌触りが悪く、ソウトさを欠き、照明も、細かな部分がまったくなっていない。「運転手」の描き方も最低。殆どこの映画は「つまみ食い」でしかない。
こうした、あらゆる凡庸さと、ともすれば下品さすらを武器に代えてしまうところの「見られないこともない」程度の作品を見るにつれ、つくづく「この程度で良いのか」と自分に問いかけてしまう。
この監督は、子供や老人をスターたちのために「利用している」。首尾良く「利用」された彼らたちは、その後見事に不要の産物として忘れ去られている。イーライ・ウォラックのパーティでは、私なら最後にもう一度壇上のウォラックに切り返すだろう。誰が何と言おうと、もう一度切り返す。それが「倫理」というものだ。「人格」というものはそうしたさり気ないショットの連なりに出る。
蟲師(2006日) 33.3 50 監督大友克洋、俳優オダギリジョー、蒼井優 2007.3.26
この映画の台詞こそ、典型的な「説明ゼリフ」というものなので、脚本家志望の若者は、反面教師として見ておくべきだろう。プロットが画面なき画面を誘導し、画面は画面に先立ってすべて言葉で説明されている。、「画面」は存在せず、従って目を閉じても何の問題もない。ロベール・ブレソン「田舎司祭の日記」は、ナレーションが画面を説明しながら、画面は決して言語に従属しない。これを機会に見直してみたい。
大森南朋の演技は、典型的な「心理的演技」なので、映画俳優志望の方は、反面教師として見ておくべきだろう。それに関連した私の論文「心理的ほんとうらしさと映画史」をここに提示しておきたい。問題は、「心理的演技」をさせてしまう監督にある。それにしても「役者」という人種は、、、
どちらにせよこの映画、どうにも「割り切れない」のである。
デジャヴ(2006米) 90 80 映画批評「デジャヴ」2007.3.17、3.19
監督トニー・スコット撮影ポール・キャメロン俳優デンゼル・ワシントン、ポーラ・ハットン
二度鑑賞
「映画批評コーナー」に書く予定。
モニターを見つめながら、科学者たちが泣く。
この「科学者が泣く」という視覚的細部がひたすら美しい。
それにしても彼らは、何を「見つめて」「驚いて」「瞳を傷つけ」そして「泣いた」のだろう。
「黒」は今一つ出ていないし、照明も最高ではないだろう。しかしそれを打ち破るだけの美しさがある。
ダーウィンの悪夢(2004オーストラリア、ベルギー、フランス) 50 50 映画批評「ダーウィンの悪夢」2007.3.20
漁をして、解体をして、加工をして。仮にフレデリック・ワイズマンなら、おそらくそういったシーンを視覚的に延々と見せながら、主題へと映画的に迫って行くのだろうに、などと思いながらの鑑賞となる。
この作品は「見ること」を提示していない。
人生は奇跡の詩(2006伊) 30 40 監督ロベルト・ベニーニ2007.3.20
映画を撮っている途中に、もうこれは映画にならないとみんなで確信しながら撮っている、そんな感じのフィルムである。
3.29更新
叫(2006日) 90 80 映画批評「叫」
監督黒沢清、撮影・芦澤明子、照明・市川徳充俳優、役所広司、葉月里緒、小西真奈美、伊原剛志、中村育二、奥貫恵、オダギリジョー2007.3.10、3.12
二度鑑賞
黒沢清と言えば、いつも風で木々やカーテンなどが揺れているのだが、今回は地面そのものが揺れている。湾岸の埋立地が揺れて液晶化して海水が湧き出て来て、水溜りの水面も揺れて、、、幽霊が出て来る。男は幽霊を忘れたくて、幽霊を無視するが、気になって会いに行くと、ただそれで「あなたを許します」とか言われてしまって、幽霊は突如として消えてしまって、「いなくなってしまう」。幽霊は、ただ「会いに来てくれた」だけで、「許します」と許してくれて、突然いなくなってしまう。「許されてしまった」男は、突然幽霊が消えてしまったことにびっくりしてしまって、それまでは怖ろしくて仕方なかった幽霊に「行かないでくれ!」とすがりつく。しかし幽霊はもういなくて。この辺りはもう泣くしかないラブストーリー。まるで相米慎二の「風花」である。さて、でも結局いなくなってしまって、そこで初めて男は「何か」と向き合って、男はただひたすら丁寧に幽霊の「骨を拾う」。「あとはただひたすら骨を拾うしかない」という切ないエモーション。繰り返すが、ここはもう、「骨を拾うしかない」のである。この、一つ一つ丁寧に骨を拾う役所広司の仕草そのものに泣けてしまう。
「海」という、世界へと通じるインターナショナルがあって、「幽霊」という「過去」がある。そんな映画なのか。
無人の首都に、数多くの「新聞紙」が舞い散っている。これは「長屋紳士録」(1947)のリメイクではないのか。小津安二郎は、戦後第一作に「長屋紳士録」を撮っている。映画の最後で数多くの「新聞紙」が舞い上がっている。「長屋紳士録」では、西郷隆盛の銅像の周りに、浮浪者と化した戦争孤児たちが大勢たむろしていた。「新聞紙」とは視覚的に「浮浪者」であるだろう。「長屋紳士録」は戦争「後」の映画である。「後」でありながら、「前」との関係性が視覚的に見えている。現在の東京でも若者たちの浮浪者化が問題となっている。そして「叫」でも「新聞紙」が視覚的に舞いあがる。こうしてこの「叫」もまた、現在の映画でありながら、「視覚的に」過去へ過去へと遡って行く。そして「海」を通じて世界へと広がってゆく。
まるでドイツの1920年代に隆盛した「街路映画」のように、男たちは「女」という「権威」の元にひれ伏し、女の膝や胸に、子供のように顔を埋めている。黒沢清は「女」を何に例えているのだろう。
ゴースト・ライダー(2007) 45 50 映画批評「ゴースト・ライダー」俳優ニコラス・ケイジ
監督マーク・スティーヴン・ジョンソン
気持ちは分かるのだが、、、、、黒が出ていないし、肌触りも悪い。
上海の伯爵夫人(2005英) 60 60 映画批評「上海の伯爵夫人」
監督ジェームズ・アイヴォリー俳優レイフ・ファインズ、ナターシャ・リチャードソン、真田広之
それほと悪くはないのだが、兎にも角にもこのフジカラーと思われるフィルムの肌触りが悪く、照明もそこそこ、黒も出ておらず、撮り方も俗っぽい。
2007.3.19更新
さくらん(2007日) 20 60
映画批評「さくらん」
監督蜷川実花、俳優、土屋アンナ、木村佳乃、菅野美穂、夏木マリ
照明は、大きな部分はそれなりだが、小さな部分、そして人物が増えたり、動き出したりすると凡庸になり、黒も今一つ出ていない。当然だろう。照明が熊谷秀夫でも監督はドシロウトなのだから、スタッフが何をやろうと限度は見えている。
映画のレベルは、「本業」の実力まで疑わしくさせてしまうレベルのものだが、金を取る以上、素人だから仕方がないでは済まないのであって、こうして映画が舐められた状態を、映画人自身が加担しているという事実に、何ともいえない現状が示唆されている。
「写真」を動かしたらしいが、「映画」は動いていない。セリフはほとんどが幼稚な説明ゼリフで、よくこの程度の訓練と愛情とで映画を撮るものだ。
本当に、このような映画を愛してない欲してないドシロウトに「映画」が撮れるとでも思っているのか。
蒼き狼 地果て海尽きるまで(2007日) 45 60 映画批評「蒼き狼 地果て海尽きるまで」
監督澤井信一郎、俳優反町隆史、菊川怜、
映画が「映画館産業」ではないことを象徴している。結局のところ、監督が澤井信一郎でなくても良いわけだし、撮影が「赫い髪の女」の前田米造でなくても良いわけだ。
女たちの日常的労働風景だとか、育児だとか、家事の様子だとか、そういった、大地に生きる女たちの、そして遊牧民たちの日常的生活の細部は殆ど描かれていないにも拘わらず、「女は素晴らしい」とか言われても、「そうでございましたか?」と言い返したくなる。ここに出て来た女たちはみな「私はウンコもションベンもしたことございません」といった女ばかりではないか。
確かにこれは「映画」なのだから、「私はウンコもションベンもします」と言った感じの女ばかり出て来られても困るのだが、しかし余りにもお上品過ぎて生気がない。美化され過ぎている。
映画はひたすら大きな事を感傷的に描いている。スタッフの選び方も、何か「名前」で選んでいる。パンフレットも高く、グッズも7800円のピアスとか、8000円のペンダントとか、露骨な成金趣味で見苦しい。何が「見苦しい」かといえば、こうしたもの全てが、「映画との距離」を感じさせてくれるからだ。確かに映画は商売だが、これ等の貴金属グッズには、映画に対する愛のカケラも見出せない。そういった、あらゆる周辺部分すべてが一つの作品の人格を形作っている。
さて、映画の話だが、と断らなければ「映画」の話に中々ならない困った人格を持った作品なのだが、序盤、ロングショットへと引きまくるキャメラや、まるで70年代日活ロマンポルノを思わせるような、血が滾るメーキャップ、そこに当たるソフトな光と、見事な「活劇」として開始され、流石、やってくれた、と思わせたのも束の間、映画は次第に「説明ゼリフ」の収容所と化し「活劇」から「小説」になってしまい、テントの中を始めとした照明もおかしくなり、心理的クローズアップも多くなり、もうとっくに映画は終わっているのに終わり方を間違えて、無残に終結している。
「蔑まず、一人の人間として私を扱ってくれた族長に、私の「女」をやる」、などという白々しいセリフが典型的な角川調説明ゼリフであって、性格を描き、行動することで自然とプロットを導くのではなく、ひたすら言葉で美化、説明しようとするその根性が気に入らない。
本当に澤井信一郎や前田米造が撮ったのか、照明は矢部一男ではなくその従妹ではないのか、脚本家を始めスタッフにどれだけの自由が許されていたのか、そんな事は私の問題ではない。だが作品発表の記者会見では、監督の澤井信一郎が二段目の端っこに追いやられていて、役者たちが真ん中でデカイ顔をしていたが、つまり視覚的にはそんな映画なのだ。
ちなみにスタントマンは、「駅馬車」(1939)などの西部劇でよく使われ、アメリカでは禁止されたスタントである「ランニングW」という、ロープを引っ張って馬の前脚を掬ってもんどり転倒させるスタントを多用している。詳しくは「ジョン・フォードの旗の下に」202項参照。
パフューム ある人殺しの物語(2006) 40 70 映画批評「パフューム ある人殺しの物語」
監督トム・ティクヴァ俳優ベン・ウィショー、ダスティン・ホフマン
クローズアップ過多、落ち着かないカッティング、構図→視点のまずさ、照明はまずまずとしても、どうにもつまらないので、中途から「ヒッチコックならどうやって匂いを出すだろう、、」などと、考え始める。
この監督さんは、本当にスクリーンから匂いが出ていると思っているのではないだろうか。
この時代のパリなら、確かに売春も大きな社会問題ではあるものの、他にもサロンやカフェのコーヒーの香りだとか、印刷文化が盛んになった頃なのだから、本のインクの匂いだとか、そういった生活そのものの空気というものを取り入れたいし、確かに「体臭」が一つのテーマだとしても、それ以前にパリの悪臭と香水による救済のエピソードは絶対に入れるべきなのだが、どうもこの映画は「大きな匂い(物語に関係のある匂い)」に拘りすぎ、肝心の「パフューム(香水)」の実用面の描写が乏しい。
例えばカフェでコーヒーを飲んでいて、風が吹いて、振り向くと二階の窓から、女が香水を振りまいているのが鏡に反射して見えたりだとか、女の匂いを辿って追いかけて行くと雨が降って匂いが消えて見失うとか、「匂いを捕まえる。逃す」瞬間の視覚的聴覚的エモーションがこの映画には欠けている。
酒井家のしあわせ(2006日) 30 50 映画批評「酒井家のしあわせ」
監督呉美保・俳優ユースケ・サンタマリア
文化庁推薦である。
多分この人は「ハワード・ホークス」を見ていないだろう。
アイスクリームのシーンは、何と言うか、一言で言って趣味が悪い。
扇風機とスカートにしても、どうしてあんな安易なショットを撮ってしまうのだろう。あれではワイルダーも浮かばれない。
金魚を埋める時、土に触らないでシャベルだけを使って汚そうに埋めているが、そんな「バッチイ金魚」を何故ラストで急に美化したりするのだろう。別に「意味」が欲しいわけではないが、あそこは手で土をかけて埋めるべきではないだろうか。ハートがない。映画を欲していない。映画も欲していない。
2007.3.5更新
キング罪の王(2005米) 55 50 映画批評「キング 罪の王」
監督ジェームズ・マーシュ俳優ガエル・ガルシア・ベルナル
行動によるプロット描写の精神は貫かれていて、例えば「父と子」と「弱肉強食」という関係性の寓意などが視覚的に現れていて、それはそれなりに評価に値するのかと思ったりもするが、どうしても近景の数々が停滞を招き、フィルムの肌触りそれ自体もよろしくない。
ガエル・ガルシア・ベルナルの「椅子になりたい」、という言葉を受けたかのように、多数の椅子がカメラの前に出現するが、、、
長い散歩(2006日) 65 60

映画批評「長い散歩」
監督奥田瑛二、俳優緒形拳、高岡早紀
セリフが少なく、行動でプロットを辿って行くこの奥田瑛二は、端的に映画を欲しているのかも知れない。
例えば緒形拳と高岡早紀が初めて会ったあと、アパートの階段を高岡早紀が降りんとする瞬間、カッティングインアクションでカメラをロングに思い引く。幻想的に出現と消滅を繰り返す少女がひたすら「線」の彼方へと消えて行く(この「線」の意義については論文②参照)。かくの如き「映画」への探求は、風土水火そして最後に空が、というように、失われた日本の共同社会を、老人と自然、という神道的風土の中で治癒させんとする視覚的、聴覚的、物語細部の
現れかもしれない。
それにしても、「約束をする」という行為はいつもながら映画的だ。それは極めて個人的な関係性の下に成立した特異な行為ゆえに、例えば「泣かない事」にせよ、「笑わない事」にせよ、この映画のように「空を見せる事」にせよ、それは約束をした個人間にのみ意味を成す個人的行為ゆえに、他者の不理解を招き、だからこそ他者と個人とが対立、衝突し、それによって「約束を守る」という運動がひたすら信念のエモーションを引き起こすのである。
ただ、(コダックと思しき)フィルムの特性はまったく引き出されてはおらず、フィルムの肌触り、瞳に触れた時の感覚それ自体は、照明を含めて修正の余地が極めて大きい。

2007.2.24更新
めぐみ 60 60 映画批評「めぐみ 引き裂かれた家族の30年」
監督クリス・シェリダン、パティ・キム
以前から感じていることなのだが、「被害者」という人種の「人相」というものは、何故にああまで美しく純粋なのだろう。「私は小者のワルでございます」と告白したような、あらゆる政治家たちのどうにもならない人相と比較した時に、その差は呆れ返るほど歴然としている。北朝鮮の元工作員までもが、横田夫妻の人柄に感銘してしまっているのだから。
めぐみさんのかつてのピアノの先生などは、厚化粧にイアリングまでしてインタビューに答えているのに対して、「被害者」の人々は、身なりなど殆ど構っていない。それでいて明らかに上品で都会的だ。
さて、ドキュメンタリー映画としての評価としては難しい所だが、この作品の場合、テレビのニュースや過去のフィルムを多数使用している点から見て、「ニュース映画」ないし「記録映画」としての側面が強く出ている。私としては、横田夫妻の姿を中心にもっと追いかけて欲しかった面もある。
テーマと時期とを考えると無理からぬ事とも思われるが、ドキュメンタリー映画が本質的に持っている「嘘の部分」の露呈といったものが、なくはないものの弱いのはやや残念であった。
もちろん私が惹かれるところの「嘘」とは、「物語の嘘」なる安直かつ安易なものではない。私が「ヨコハマ・メリー」を支持しなかったのは、「ヨコハマ・メリー」の「フィクション」の出し方、「嘘」の付き方の多くが、「映画」という「メディアそのものに内在する嘘」ではなく、主として「物語上の嘘」に過ぎないことにある。私はそこに安易さを感じた。そのような「物語上の嘘」など、小手先の嘘に過ぎず、誰にでもつける簡単な嘘に過ぎないばかりか、ある種の危険性まで秘めている。私はもっと「大きな嘘」、「困難な嘘」に立ち会いたいのだ。
ドリームガールズ(2006米) 55 65 映画批評「ドリーム・ガールズ」
監督ビル・コンドン撮影トビアス・シュリースラー俳優ジェイミー・フォックス、ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィ、ダニー・グローバー、ジェニファー・ハドソン
中盤、ジェニファー・ハドソンが遅刻し、セリフを歌で歌うシーンで映画が窒息している。結局のところ、ミュージカルと言っても「踊り」という「運動」がある訳ではなく、「歌」しかないのであって、確かに歌にもまた「運動」の要素がなくはないものの、歌を映画にする時に、ひたすら「クローズアップの切り替えし」で撮るというのは極めて凡庸な解決方法ではないだろうか。その時点で映画の流れは停滞する。
ただでさえ「運動」という要素が問われる「歌う」という行為を、身体の他の部分の動きをすべて無視して「クローズアップで撮る」という感覚は私には理解できない。
最初の一時間ほどは、決して悪くはなかっただけに、この「ドリーム・ガールズ」の自滅は、仮に必然的であるにしても余計に腹立たしい。
「黒人の照明」と言う難しい作業を、このトビアス・シュリースラーというドキュメンタリー出身のカメラマンは手堅く撮り上げているし、佐藤藍子の従妹のような顔をしたビヨンセ・ノウルズにしても悪いというほどの出来でもない。序盤の三人の女の描き方など中々のものであったし、何となくアカデミー賞を取りそうなジェニファー・ハドソンの、終盤の昼の酒場のオーディションで、テーブルの上に椅子が逆様に乗せられていたのも多少なりとも「映画」を感じさせている。
結局のところ、画面そのものの才能はないのだから、脚本で勝負をするしかないタイプの監督なのだが、その脚本の書き方、特にジェニファー・ハドソンがチームを離れた後からの書き方がどうしようもなく下手糞だし、それ以前にジェイミー・フォックスの人物像が泣きたくなるほど弱い。そのためジェイミー・フォックスの「行動」というものが、彼の「性格」なり「人物像」から自然と沸き出て来るような、モーションピクチャーとしての視覚的アクション(細部)を感じさせないのである。
例えばジェイミー・フォックスをただの中古車のディーラーではなく、仮にボクサーでも歌手でもギャンブラーでも「実力の世界で挫折した男」として描いたとしよう。もちろんそれは、言葉で露骨に説明するのでなく、間接的なセリフや間接的な行動、視線等によって我々に感じさせれば充分なのだが、そうすると、ジェイミー・フォックスの「人気優先主義」という「アクション」が、「性格の発露」としての「逆方向のアクション」となり、それ自体ですでに葛藤を生ずるばかりか、そうなることでジェイミー・フォックスは何一つ言葉で説明せずとも、ただひたすら商売のために「行動」しさえすれば、それだけによってその「行動」が「プロット」としての「物語を語る」ことにもなる。
それがひいてはジェニファー・ハドソンという歌手の歌の「実力主義」とダブルで葛藤を始め、映画は発展して行くのではないだろうか。
いつも陳腐な発想で申し訳ないが、人物の「性格」というものは、はっきりさせることで、「行動」そのものが「プロット」を生み、モーションピクチャーとしての「運動」を醸し出す。この部分をすべて「言語」で解決をしようとするから、「最近の脚本家は映画を知らない」と言われてしまうのである。
この作品は「実力」としての「アメリカンドリーム」を描くに最適の題材でありながら、最早現代のアメリカは、これを「アメリカンドリーム」に仕上げることは出来ないという事実こそが、映画の社会学の問題としてみるならば、面白いのかも知れない。
但し「守護神」にしても、この「ドリームガールズ」にしても、まったく楽しめないレベルの「問題外」の映画とは言い難く、最良ではないにしても、「世界最速のインディアン」「幸福のちから」と、このところシネコンで封切られる映画には、それなりに楽しめる映画が続いている。逆に言うなら、「あと一歩」の大いなる歯痒さを噛み締めることにもなるのだが。
守護神(2006米) 60 70 映画批評「守護神」
監督アンドリュー・デイヴィス・俳優ケビン・コスナー、アシュトン・カッチャー、ニール・マクドノー
「画面の映画」でなく、典型的な「物語映画」であるものの、照明もまずまず、カッティング・イン・アクションを軽快に織り交ぜながら、「持続」の楽しみはまったく存在しないものの、古典的デクパージュで首尾よく撮っていて最後まで楽しめてしまう。
ただ、元気がない、と言うか、この「何処かで見た」物語が、過去の記憶と照らし合わせて、例えば喧嘩の仕方一つにしても、同僚、上官との絡み合いにしても、例えばトニー・スコット「トップガン」の、トム・クルーズ対バル・キルマーと言った、激しいぶつかり合いもなければ、西部劇のような酒場の大喧嘩もない。酒場の大喧嘩はなくても良いとしても、人間同士の「関係性」の描き方が今一つで、画面の中に衝突を欠いている。ニール・マクドノーの使い方も大人し過ぎる。
映画そのものが余りにも善良に過ぎ、また、何かに怯えている。
2007.2.22更新
どろろ(2007日) 50 80 映画批評「どろろ」
監督・脚本塩田明彦・撮影柴主高秀・照明豊見山明長・俳優妻夫木聡・柴崎コウ・中井貴一・原田芳雄・瑛太・原田美枝子 2007.2.8
前半40分は、ここ数年の映画の中でも最高レベルの素晴らしい展開に「事件だ、、事件が起きている」と、心の中で呟きながら、この見事なハイコントラストの漆黒の画面に釘付けとなる
居酒屋での琵琶法師の中村を、簾の手前から捉えたロングショットの息を呑む美しさ、原田の研究室の素晴らしいコントラストなどは、この「黒」なくして決して実現為しえない見事な絵画的空間であるし、踊り子たちの狂乱のダンスから、まるでヒッチコック映画のような女の悲鳴へと流れながら、蜘蛛怪獣とのカッティングインアクションを活劇的に駆使したリズム良いアクションと、柴崎とのカットバックとのバランスは、「完璧」とも言える出だしであった。
さて、中でも私が興味を惹かれるのは、この作品のハイコントラストの漆黒の画面である。押し潰されたような画面の感じからして、おそらく基本的に望遠系のレンズを使っていると推測されるのだが、その明るいレンズを目一杯絞って被写界深度を深くし、同時にそれによって画面はハイコントラストとなり、ザラザラになり、「黒」の世界が実現される。
矢倉の上から下を見下ろす柴崎コウのショットに黒澤明「用心棒」が重なって見えるのは、何よりも「用心棒」のキャメラマン、宮川一夫の、望遠レンズを絞りに絞ったパンフォーカスの記憶が、この「どろろ」の画面に重ね合わさって見えるからかも知れない。
もちろんそこには衣装や美術、現像による調整等色々な力が加わっていると推測されるが、そのように「色々な力が加わっていると推測される光空間」というものこそが素晴らしい映画の絶対条件なのであって、そうしたことを即座に感じさせてくれるこの「どろろ」の、特に序盤の照明なり光の空間は、下の「クリムト」とは対照的な、汗と労働における「映画」の光であると言えるだろう。
だがその後見事に失速。その失速の有り方を見ていると、最早それは「必然」とすら言える。
冗長な回想がそれまでの素晴らしい「活劇」に水を差し、セリフが説明調になり、感傷的になる。見ていれば判るものが何度も言葉で説明し直される。「活劇」のリズムが「感傷の説明」に毒されて行き、画面は「運動」ではなく「理由」によって支配されて行く。豊かなロングショットから心理的クローズアップへと流されてゆく。前半のような「驚くべき画面」もまた影を潜めて行く。
何故あそこまで「説明調のセリフ」を入れてしまうのだろう。明らかにそこには、いつものように、「ある一定の層」へと向けられた、「映画以外の戦略」が含まれている。まるで車のリミッターのように、自らの映画の限界を、走り出す前に既に設定してから走り始めているような、そんな感じの「もったいない」映画である。こうした150分の活劇大作を「もたせられる」作家は世界に今、マイケル・マンを始めとして何人といないのだから、企画自体に既に無理がある、と言ってしまっては身も蓋もないか。
クリムト 30 40 映画批評「クリムト」
監督ラウル・ルイス俳優ジョン・マルコヴィッチ 2007.2.6
例えばこの映画の「夜」を見た時、空間の感じはそれなりの豊かさに包まれているように見える。だが「昼」を見た時、強過ぎる光が空間を制御出来ていない。「カラーフィルム」に甘えている。
私は今、キャメラマンは「モノクロ映画」のライティングをもう一度勉強し直すべきだと思っているのだが、モノクロの場合、「黒」「白」「グレー」、この三つの「グラデーション」によって「差異」を出すしかなかった。そのためには照明、装置、美術、衣装などあらゆる協力が必要になる。壁の汚れ一つが「グレー」となり、「差異」を生み出すのだから。
しかし「カラー映画」の場合、誰がどのように撮っても「色」によって「差異」が出てしまう。そこで製作者サイドは、「差異」なり「コントラスト」なりというものに対する感性を失いつつある。この「クリムト」の明るい場面を見てみると、「差異」を生み出す労働をすべて「カラーフィルム」に委ねているように感じてならないのだ。
例えば同じカラー映画のクリント・イーストウッド「ミスティックリバー」と比較してみよう。「ミスティックリバー」は、まるでモノクロ映画を撮るようなライティングでもって、あらゆる空間に見事な「差異」を醸し出している。
この「クリムト」は差異への労働を欠き、現実主義的なカラーフィルムの特性に甘えているのではないだろうか。
それと同時にフィルムの種類、質、、現像の力もまたここに関わって来るだろう。
優秀な映画キャメラマン達は、絵画から照明法の多くを学んでいる。その「絵画」をテーマにした映画のライティングとしてこの「クリムト」は、少しかっこ悪い。
ジャック・ベッケル「モンパルナスの灯」のような一流の作家の映画には、ワンショットすら存在しなかった「美術愛好家へと向けられたサービスショット」が、ここでは多く満ち溢れているのもまた、この映画の本質を間接的ながら指し示している。
世界最速のインディアン(2005米) 70 70 映画批評「世界最速のインディアン」
監督・脚本・製作ロジャー・ドナルドソン俳優アンソニー・ホプキンス 2007.2.5
画面の存在感を消し去る「物語映画」として、下手糞ではあるものの、そしてやや長くはあるものの、作りが非常に誠実であり、職人的潔さで持って物語を語りしめている。。
中古車センターへとクレーン下降して行くショットの美しさや数々のロングショットなど画面そのものを露呈させてくれる瞬間もあり、物語は余りに善良であるにしても、また、今一つアンソニー・ホプキンスのエンジニアぶりが希薄に見えたとしても、古き良きハリウッド映画の「あの感じ」を楽しまれたい方にはお勧めの作品である。
何となく「ジョン・フォード寄り」の映画であるが、それはこの映画が「帰郷の物語」であることと同時に、レースの場となった「ソルトレイク」が、ジョン・フォードの朋友ハリー・ケリーに捧げられた「三人の名付親」で、ハリー・ケリー・ジュニアが果てたあの場所であることから来る郷愁が、そう思わせるのかも知れない。
2007.2.11更新
リトル・ミス・サンシャイン(2006米) 70 75 映画批評「リトル・ミス・サンシャイン」
監督ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファレス脚本マイケル・アーント撮影ティム・サーステッド俳優グレッグ・キニア、トニ・コレット、スティーヴ・カレル、アラン・アーキン、ポール・ダノ、アビゲイル・ブレスリン2007.2.1
共同体が崩壊し、その中での承認を得られない核家族の中の孤独な人々の中に、「祖父」と「叔父」という、異質の存在が入り込むことで、共同体復活への嗜好性を「全員で運動する」という視覚的細部で暗示しながら映画を作っている。
祖父が孫娘に繰り返し言ったこと、これは「遺言」でもあるのだが、それは「一等賞を取れ」ではなく、「楽しめ」であって、それによって祖父は家族崩壊による孤独な孫娘を「承認」してやり、同時にまたその「楽しめ」という「意味なき運動の推奨」は、映画外的、社会学的に言えば「ポスト構造主義」なり「ポストモダン」における「物語の終焉」という「つまらない世界」を意味するのだが、だがそれは、映画的には「ひたすら運動せよ」という最高のメッセージとも取れるのであって、だからこそ最後のダンスは、呆れるほどに「楽しむこと」で貫かれ、下品過ぎるまでの無邪気さでもって家族全員で手をつなぎ踊ることが出来る。
もちろんそこには、踊りの冒頭、孫娘がオマージュを捧げることで亡き祖父、アラン・アーキンも一緒に踊っているという共同体への強烈な視覚的細部があり、「車を押す」という行為にしても、「死体を運ぶ」という犯罪にしても、この「踊る」という運動にしても、ひたすら彼らは「全員で運動する」という、ある意味でブッシュ政権のグローバリズムによる「格差」を修正しましょうとばかりの政治的意図を、映画的細部に巧妙に隠しながら、楽しみ、認め合い、そして共にあるのである。
結局のところ、この映画は「社会学観点」に即しているから優れているのではなく、社会学の中のあらゆる出来事の中から、「理由など考えず、みんなで運動すること」という、極めて映画的で、且つ抽象的な視覚的細部を抽出したからこそ楽しいのである。みんなでワゴン車を押す時のあのバカバカしさ、車に飛び乗る時の爽快感、そして何より、現代文明社会において、「車は一人では走らない」ことを視覚的寓意として感じ取った時の何とも知れないエモーション、その感動は「社会学」ではなく、紛れもなく「映画」そのものの感動に他ならない。
非常に「B級的」な潔さを持った映画でもあり、こういう映画がアカデミー作品賞を撮ったら面白いだろう。
明日へのチケット(2005伊英) 60 70 映画批評「明日へのチケット」
監督エルマンノ・オルミ・アッパス・キアロスタミ・ケン・ローチ
キアロスタミの第二話が一番好きだ。第三話はケン・ローチらしく、映画の外のメッセージ性が強い。物語性が非常に強く、起伏が激しい。
第一話のエルマンノ・オルミは、「序章」としてでしゃばらず、引き立てず、バトンを渡している。
第二話のキアロスタミ。よくもこんな訳のわからない物語を思いつくものだと歓心する。あの携帯電話があの男のものではなかった、という、あんな楽しいお遊びにつき合わせて頂いてどうも有難う。ああいうのを「衝突」というのだろうか。あれを見ただけで訳が判らなくなる。
三話のケン・ローチ。この人の物語は実に判り易い。いつものように政治的意味も強く、つまり「外」の感覚が強く、ドラマチックでもあり、わかり易く、センチメンタルでもある。
ケン・ローチは「筋立て」で映画を撮り、他の二人は「出来事」で映画を撮っている。
サラバンド(2003スウェーデン) 75 85 映画批評「サラバンド」
監督イングマール・ベルイマン俳優リブ・ウルマン
ベルイマンは30年後、このまた続編を撮ろうとしているのではないか。
いつものベルイマンではあるものの、つまりクローズアップが極端に大きくて、そして多くて、役者たちは「あの顔」で統一されていて、所々に思いも寄らない俗っぽいショットが入ったりして、切返しも多いし、当然ながら演劇的な香りが漂っていて、そしてひたすらしゃべり続ける。
しかし、クローズアップはソフトで感じが良いし、広角レンズで撮った本棚に囲まれた書斎の感じだとか、森の中を走る娘の美しさだとか、窓の外の寒々とした光線の感じだとか、その窓の外で、誰かが揺らしているとしか思えない揺れ方で揺れ動く木々であるとか、美術とか衣装とか、「見ること」に退屈はしない。そして少し泣ける。
会話も俗っぽいまでのサスペンスをふんだんに取り入れている。この基となった「ある結婚の風景」は、テレビ映画であった為、フィルムの感じが今一つ面白くなく、画面の楽しみがマイナスされた作品であったと記憶するが、デジタルで撮られ、そのままデジタル・プロジェクターで上映されたこの「サラバンド」ではソフトな肌触りを堪能出来る。
マリー・アントワネット(2006米・ゾート・ロープ)
30 30 映画批評「マリー・アントワネット」
監督ソフィア・コッポラ・俳優キルステン・ダンスト
第一ショットで、キルスティン・ダンストがこちらを向き、ケーキをつまみ食いするショットで既に照明に失敗している。この無神経さは何なのだろう。せめて出のショットだけでもまともに撮ることは出来ないものか。
呆れ返る凡庸さに怒りすら沸いて来ず、逆に「何故この映画はここまでダメなのだろうか」、と興味すら沸いて来て、その理由をあれこれ考えながら、いきなりのエンディングに苦笑いする。フィルムがなくなったのか。
階段をゆっくりと上って行く遠景等は辛うじて視覚に耐えうるとしても、それ以外のあらゆるショットが見るに耐えない。それにしてもこの「照明」のまずさはいったい何なのだろうか。人物配置と構図のまずさはいったい何なのだろう。そしてこの脚本のまずさはいったい何なのだろうか。何一つ描けていない。この映画は、何も描いていないのである。
幸福のちから(2006米) 65 70 映画批評「幸福のちから」
監督ガブリエレ・ムッチーノ俳優ウィル・スミス
私は、序盤にウィル・スミスがただ乗りしたタクシーの運転手が妙に最後まで気になってしまい、つまり私の頭の中では、鑑賞序盤にして勝手に私流の映画のラストが完全に思い浮かべられてしまっていて、その想像上のラストとは、《ラスト、そのタクシーにウィル・スミスが偶然乗る→しばらくして二人が「あの時の人間である」ことに気付く→気まずい空気に戸惑うスミス→沈黙が流れる→しかめっ面の運ちゃんが、やりかけのルービック・キューブを前を向いたまま無言でウィル・スミスに手渡す→ウィル・スミス、必死になって完成させる→目的地に到着。運ちゃん振り向き、ルービック・キューブを手に取り、ルービック・キューブとスミスの顔を交互にまじまじと見つめた後、ただ乗りの料金込みでの運賃を請求する→スミス、料金を支払い、何かを言いたそうにするが運ちゃんは前を向く→スミス車を降りる→タクシー発車する→中の運ちゃんルービック・キューブを検分しながら首を振り微笑む、、、、》というような感じのもので、もう少し時間を頂けたらもっとマシなものにする自信もなくはないが、少なくともここでは二人の間に一言の会話もいらないのであるが、一昔前ならおそらくこのような感じで終わったはずの映画が、今はこのようにしては終われなくなってしまっている。この映画は「実話」であり、そうした点で融通が利かなかったのかも知れないが、私なら脚本を無理矢理にでも書き変えて何とかしたい。乗り逃げしたタクシーの運ちゃんが「ルービック・キューブ好き」であったなどという、こんなに「美味しい味付け」を、みすみす逃すなど、私には到底考えられないことなのだ。「タクシーの運ちゃん」」というものは、映画においては一発で映画を「映画」にしてしまう力を持った特別の存在であることを忘れてはならない。
とは言え、この走る映画」映画はなかなか楽しい。
教会で、消灯後、上から差し込む緩やかな光線の感じなども悪くない。このガブリエレ・ムッチーノというイタリア出身の監督に、今後も注目して見るかもしれない。
2007.2.4更新
評価 照明 短評 鑑賞日付
ディパーテッド(2006米) 60 50 映画批評「ディパーテッド」
監督マーティン・スコセッシ撮影ミヒャエル・バルハウス俳優レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン、ジャック・ニコルソン 2007.1.22
いつものスコセッシだ。まるでアカデミー賞の授賞式の彼ように落ち着きがない、、、。照明は全然駄目で、最初のニコルソンの逆光を始めとして下手糞で見ていられない。画面に良い「黒」が出ておらず、キャメラはカチャカチャ動かさないと気が済まず、視点と構図に大きな問題を抱えている。
ディカプリオが「スター」になれないのは、彼が顔を作り過ぎているからだ。「引き裂かれたカーテン」についてアルフレッド・ヒッチコックは、「ポール・ニューマンは何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった(映画術321)」と述べているが、まさに俳優という人種が、心理的なものを表面に表して「演技せ」ずにはいられないことを如実に示している。ディカプリオは、自分自身に高いハードルを科し過ぎているのだ。ジョン・ウェインはかつて自分のことを「私は反応役者(リアクター)だ」と語ったという話があるが、つまり演技とは、たかだかリアクションであっても映画の中では充分すぎるほどの演技足りうるのである。
ハリウッド全盛の脚本家は、このような脚本を映画的にスッキリと「濾過する」手腕を持っていたものだが、この映画の脚本はどうもカチャカチャしていて落ち着きがない。脚本家の数を多くして、共同脚本の持つ濾過、洗練性を優先させるとか、どちらにしても、どちらが「ハリウッド」なのか判らないような状況を呈している。確かに楽しめはするが、それは多分に物語の優位性から来るものであって、画面そのもののエモーションから来るものではない。
「スコセッシは終わったのか?、、」それは危険な問いである。「スコセッシは始まっていたのか?、、」これが正しい出発点ではないだろうか。
それでもボクはやってない(2007日) 40 50 監督周防正行・俳優加瀬亮、役所光司、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、鈴木蘭々、光石研 2007.1.22 1.27二度鑑賞
これについては「映画批評」で詳しく書くのでそちらに譲る。
パビリオン山椒魚(2006日) 20 30 監督富永昌敬・俳優オダギリ・ジョー、香椎由宇(かしいゆう)、高田純次、光石研、麻生裕末2007.1.18
「素人っぽい映画」とは、素人っぽさと同居しながら、それへの融合と反撥を繰り返し画面の中で衝突させているような映画をいうのであって、それはヌーベルバーグの短編であれ黒沢清の処女作であれ例外ではない。仮に映画がただ「素人っぽさ」に甘えただけであれば、そのような映画は、スノッブたちを喜ばすことは出来たとしても、映画を志向する者たちに満足感を与えることは不可能だろう。
さて、この映画の画面を良く見てみると、例えば路線付近での三度の会話のシークエンスでは、三度とも列車が背後に通過していたりしていて、そういった「電車待ち」をする気持ちなどは素晴らしい。
だがしかし、照明などを見てみると、全体を通じて殆ど目も当てられないような状況であって、また役者の動かし方にしても、視点にしても、カッティングにしても、例えば魚にタバコを押し付けるシーンだとか、レントゲン車のドアが開いて男が顔をぶつけるシーンだとか、まったく出来事を描写できておらず、こういうのを見てしまうと、どうしても「甘えた」部分が見え隠れして来て、つまりそれは「素人っぽさへの甘え」としか言いようのないものなのであるが、もちろん、ヌーベルバーグですら初期の照明は惨憺たるものであったとしても、彼らにはそれを打ち破るだけの映画的勢いがあったものだが、この映画の場合、ただひたすら「ネタ」しか見当たらず、運動もエモーションもまったくもって何一つ引き起こされてはいない。
2007.1.29更新
愛の流刑地(2007日) 50 60 映画批評「愛の流刑地」
監督鶴橋康夫・俳優豊川悦史、寺島しのぶ、富司純子、長谷川京子、2007.1.15
「映画」で始まり、「テレビ」で終わっている。
冒頭から、数々の東向きの部屋に差し込む朝の太陽の飛ばし気味の白光に大いに気持ちが籠もっていて、照明の感じも悪くは無く、大いに期待を抱かせてくれたのだが、次第に映画が言語的罠へと陥って行き、それは「法廷」と「回想」という設定によって止めが刺されるのであるが、それと同時に視点も曖昧化へと瞑想し、例えばレストランで「君のイニシャルを入れて本を贈る」という会話の後の、ランプシェードを手前にナメた「視点」を、すぐに寺島のクローズアップに切り返してしまったりといった、視点無き視点のカッティングも多く目に付き始め、法廷のシーンでは、装置と照明の感じがまったく悪く、さらに中村トオルの心理的な演技や、心理的なまばたきをし始めた豊川の演技が象徴するように、「画面が説明される」というテレビ的傾向が顕著になり、それはラストの豊川の独白で決定的になるだろう。
そもそもセックスシーンと言うものは、横になってするところの消極的運動であって、それだけで映画を撮るには、照明から装置から完璧さを要求される運動なのだから、映画的には、それ以外の垂直運動をもう少し取り入れて画面を活性化させて頂きたかった。仮に私なら、非常に月並みではあるが、豊川の小説家としての「書くこと」という運動を何としても取り入れ、視覚的な寓意を求めるだろう。
役者についても、富司と寺島の親子関係に頼るのも良いが、佐藤浩一みたいな「映画」に成り易い人を、もう少し上手な使えたとも思えるし、眼鏡をかけた中村トオルの姿は、どうしようもなく「映画」から遠ざかっている。
だがしかし、雨の中のラブシーンだとか、傘だとか、日差しを手で遮った仕草だとか、ひたすら振り向き続ける寺島しのぶだとか、映画の記憶が断片には配置され、鶴橋康夫の映画への思いが見られた点は付け加えておきたい。
法廷シーンで、最初は胸を露出し挑発気味だった長谷川京子の服装が、次第にシックになり、最後は首のボタンまでピッチリ止めた姿になる辺りの細かな視覚的心遣いなど、決して嫌いではないのだが。
HAZARD(2002日) 60 50 監督園子温・俳優リー・ジェイ・ウエスト、オダギリ・ジョー 2007.1.12
何というか「発作」のような映画である。確かに照明とかは全然駄目で、と言うよりも、そもそも「照明係」など存在するのか、とエンドロールを見ていたところ、「照明」はいないが、「照明助手」だけはついていて、つまりそれがこの映画の全体を象徴していたりするのだが、もちろんそれはアメリカ流のキャメラマン・照明一本主義なのかも知れないが、どうもそういう訳でもなく、では光に対してまったく気を使っていないかと言えば、そうでもなく、ラストの太陽の光の出し入れだとか、家の中のシルエットだとか、或いは夜の危険地帯を走って逃走する三人組の地面のアスファルトには、雨も降っていないのに、律儀に水が敷かれていてその反射が美しかったりだとか、そういうことをしてくる映画でもある。
映画は生々しい現実を投げかけて来るかと思えば逆に詩的でもあり、どちらかと言えば夢の感覚が全体を支配していて、登場人物たちはやたらと夢を見たり、酔いつぶれて覚えていなかったり、ドッキリカメラにはめられたり、回想したり、雨も降っていないのに傘をさしていたり、彼らがドラッグストアでホールド・アップする時のショットガンなりマシンガンなりは、結局のところ、本物なのかモデルガンなのかも良く判らなかったりして、このような日常性と非日常性との戯れが、ニューヨークの懐古趣味的なエキゾチックさと相俟って、彼らが、特に日本人のオダギリが、ニューヨークに存在している、という事実そのものが、なにやら宙に浮いたような放浪感となって、我々に存在そのものの意味を投げかけてくるような、何とも知れない感覚がある。徹底的にリー・ジェイ・ウエストのパワーに引きずられる。
2007.1.17更新
幸福のスイッチ(2006)日本 50 50 監督安田真奈 2007.1.8
この監督は、「待合室」の監督に比べた場合、幾分か「映画」を必要としてもいよう。だが、、、
例えば電気屋の経営者が「男」から「女」に変わった、この性の変化を見た時、例えば私なら、常連の男性客が、アダルトビデオのテープの絡まったビデオデッキを修理に持って来て、だが店主が若い女に変わっているのびっくりして帰ろうとするが、女は親切心で男を座らせ、お茶なんか出したりして「すぐですよ」とか言いながら修理を始め、その間の「サスペンス」をそれなりに盛り上げつつ、女はテープを取り出すと、そのタイトルに卒倒し「セクハラ~!」と大騒ぎして男を引っ叩き、、といった具合にひと悶着起こせば、それだけで映画は「映画」になるのにと思ったりするし、もちろんこれは貧弱な私のつまらない例え話であるとしても、つまり何故こういう類の場面が必要かと言えば、こうした「挿話」というものを入れることによって映画はあらすじ以外の視覚や視線だけでもって「人物」なり「出来事」なりというものを一発で描けてしまうからであって、ほとんど映画の勝負とはこうした断片的運動部分の映画的観察力で決まると行っても過言ではなく、アメリカ映画の強さというものはこうした挿話の豊かさにあると私は思っているのだが、そうした「映画的ネタ」というものがここにはこれ以外にも沢山あるにも拘わらず、この作品では「携帯に貼った写真」とか「電気餅つき機」とか「自転車で車を追い抜く」とか、物語の本質(男と女、父と娘、関係性の修復)とは無関係な部分に拘り過ぎていてはいまいか。
最近の映画は余りにもこの「ネタ」というものに拘りすぎている。「ネタ」というものは、画面との吟味によって検討すべきものであって、例え我々の実生活上どんなに面白いネタであっても、画面の処理からしてエモーションを引き起こさないようなネタは、潔く切って棄てるべき。
例えば「オデキ」なら、その「オデキ」というものをどういう場面でどういう見せ方で提示すれば「映画」になるのか、物語映画というものは、「あらすじ」からの逆算ではなく、断片的な視覚的エモーションから逆算して積み重ねて作られるべきものである。この「オデキ」というものはこの映画の主題とはややかけ離れた所にいるのが何をもっても苦しいのであるが、その「オデキ」というものを映画的エモーションによって提示するにはどうしたら良いかと言えば、ほとんどそれは上野樹里が「振り向く」ことくらいしか有り得ないのであるが、前髪を垂らした上野樹里の場合、仮に振り向いたとしてもオデコは見えず、従って彼女の場合、手で髪をたくしあげるか「風になびかせる」しかないのであって、ではどちらが「映画的か」と言えば、そんなものは聞かずもがなであるにも拘わらず、この作品ではどうやって「オデコ」を見せているか。こういうことに私はやや失望してしまうのだ。「ネタ」の出し方が甘い。この監督さんは、映画を見ていないな、と。
私が脚本家ならそもそもオデキは使わないし、仮に監督がどうしてもと言うのなら、「自転車の疾走」と「オデキ」とをワンセットで使えるように脚本を書き直す。そうした「風」との処理が撮影上、又は予算上不可能なら「オデキ」は即、ボツである。やや大袈裟かつ大いに生意気に書きはしたが、基本的に「映画的思考回路」というものは、こういうものだと私は思っている。視覚的断片の集積なのだ。
沢田研二の大きな声こそ映画を支えているものの、劇中の上野樹里にはどうにも「根気」がない。もちろん「根気のない人物」として設定されてはいるのだろうとしても、だが最後、小さな女の子が泣きそうな顔でオルゴールを持って来た時のシークエンスが象徴するように、いくら何でも「電池が逆さよ」はないだろう、、、あそこでは上野は時間をかけ汗をかいて「修理」をすべきなのだ。そもそもこの映画の主題は「修理」というものを「関係の修復」とに例えた物語の二重構造にあるのだから、上野の「修理」という労働は最後の最後に映画を決める決定的な部分であるはずではないか。別に主題などどうでも良いにしても、だがしかし、突っ立ったまま、「電池が逆さよ」はないだろう。通りがかりのお姉さんではないのだから。物語に視覚的なハートがない。あれはどうも映画的に見て、「仕事」なり「労働」をする人間の態度ではない。せめて上野はしゃがむべきだ。或いは机の上にオルゴールを置いて腰をすえるべき。そうすれば、修理が労働となり、サスペンスになる。映画とはそういうものではないだろうか。
だが最大の問題は「光」であって、停電の暗闇の中でランプシェードを回したり、ラストの窓際の光に気を使ったり、海のシーンを意図的か失敗かは知らぬが物凄い露出オーバーで飛ばしたりだとか、大きなことはやっていて、それはそれで歓迎すべきことなのかも知れないが、肝心な、残りの98%の小さな部分がほとんどなっていない。序盤、店で昔の同級生の店員が、座っている上野の前に立った時の照明など、到底金を取れる代物ではない。
とは言いつつも、これだけけなせる、ということ自体、そう悪くはないことなのかも知れない。私も考えることが出来たのだから。
待合室(2005日本) 40 40 監督板倉真琴 2006.1.8 俳優富司純子、寺島しのぶ、ダンカン
小説、工芸、絵画、映画、詩、音楽、、、あらゆる自己表現の選択肢の中で、たまたま映画が選択された、そんな感じの作品であって、ここまで画面を放棄するのならば、むしろ小説を選択した方が良いのではないかとも思ってしまう。画面ではなく、言語によってのみ物語が解決されているのだから。
例えば回想の祭りのシークエンスで、寺島しのぶが娘を見失った時、何故寺島は、持っている鍋を落とさないのだろう。こうしたものが、映画史というものから見た時に、私にはまったく理解できない。あれを「落とさない」のであるならば、鍋など絶対に持つべきではないのである。
サンキュー・スモーキング(2006米) 60 65 2006.12.27 監督ジェイソン・ライトマン
この映画の物語構造的な面白さは、タバコを吸わない人間が、ヒステリックな禁煙運動にブラックユーモアで突き刺すことで、主題を禁煙、喫煙の二元論から、もう一段上の人間論へと上昇させた点にある。、、よく言えばこうなるだろうか。だがここには個人としての喫煙への欲求が何処にも感じられない。個人に喫煙の欲求が画面にないのなら、「全面禁煙」で簡単に事は済むのではないか。この映画はその「個人」の部分を巧妙に回避している。それを描かないがために、喫煙VS禁煙という二つの極の衝突が生じず、映画が発展しない。ほとんど「言論統制的に」画面が自粛している。悪くはないが、一見重そうで、実に当たり障りのない映画である。
2007.1.9更新